『愛』は、必ずしも快い感覚を呼び覚ますものとは限っておりません。
親が子に対するしつけを考えても、それは容易に理解可能でしょう。
子供が必ずしも喜ばないことでも、親は子を愛しているが故に為すことがよくあり
ます。
その例のように、もっと広い人間関係の中でも、そういった『愛』の形が存在する
のを、あまり人は認めたがりません。
ある人の気づきを促すような事柄を生じさせるために、多くの人が裏で協力してい
るのをご存知ないのは、当然と言えば当然なのですが、
それをも含めて『愛』なのだ、と申し上げたいのです。
気づきや学びを生じさせるには、時には辛いこと、悲しいこと、苦しいことに接し
なければならないことが少なくありません。
その辛いことを体験するために、何人もの人が本当は動いて協力しているのをご本
人は自覚していないことがほとんどです。
あの人が気に障る・・・、あの人が本当に憎い・・・、あの人さえ変わってくれたら・・・、と思いがちです。
でも本当は、その「あの人」は、あなたのために「あの人」の役割を買って出ている
のをご存知でしょうか。
何で自分に苦しみを与える人が、自分を愛している訳があるか・・・、と人は思うで
しょう。でもそれは、本当なのです。
人の世の中の仕組みを知れば、容易に理解・納得できることではありますが、残念
なことに、そういう風には、創られてはいないのです。
創造主は、そっと分からないように、仕組まれるように創られたのです。舞台裏を
見せずに観客を楽しませるように、そっと気づかれぬように後ろで工作なさってい
るのです。
その工作を、助けている人、その工作に協力するのも、れっきとした『愛』から出
たものであることを思いやってください。
「汝の敵を愛せよ」というのは、そのことを意味します。