沼奈宣破比売(ぬながわひめ)が、憂生のかじっていることに
すべてに関与してくるということであるが、
どうも、こういう事を巧くまとめる才能がないので、
実にたどたどしくなるという言い訳を先にしておく。
以前、歴史を齧ってみる(その1)の中で
美穂崎神社を取り上げた。
千木の様子も天津神・国津神の併合で、おそらく
他に類をみない、形式で、ここに祀られるみほすすみ(御穂須々美)が、
天津神としてまつられているのか、はたまた、事代主が天津神としてまつられているのか、
出雲を主軸に考えると、事代主が天津神の系譜とも、考えられる。
日御碕神社においては、スサノオが天津神の位置になっていて、
後年、アマテラスが国津神の位置に拝殿を建立されている。
ここからも、出雲においては、出雲族が天津神の位置に居る事があってもおかしくない。
と、思われる。
出雲大社の作りは国津神の造作であるが、これは、
大和朝廷側が建立したのだから、当然国津神(地方豪族)扱いになる。
出雲大社の建立というのは、ひとえに、
あの出雲族を大和朝廷の属国にしたてあげたというパフォーマンスであり、
故に国津神の形態の建物をつくっているとも考えられる。
と、話がずれすぎた。
では、事代主が天津神の位置なのか?と、
考えてしまうと、ひっかかるのが、美穂崎・美穂などの地名の由来である。
通常、古くから居るもの、あるいはなにかしら、象徴的な権威をもっているものの名前をとるのではないだろうか?
だから、この地の名前を事代崎とせず、美穂崎としたということから、
すでに、美穂須々美(みほすすみ)のほうが位がうえだったとかんがえたほうが納得できる。
だが、美穂須々美(みほすすみ)が地名になるほどに、重要な存在であったのだろうか?
事代主のほうにスポットをあてると、この神社は
国譲りの中心的位置にある。
諸手(田だったかな?)船神事などは、その様相からも、
平伏?の印になるような鏡や剣を積んだのではないかと思うし
この神社に、ニギハヤヒが駆けつけている文献をほかで読んだ事がある。
以前にもかいたが、羅馬船などの存在も降伏を表すかとも思えるのだが、
この神社に伊予の河野氏の紋をみつけて、驚いた。
ニギハヤヒの関連もあるが当時貴重であったと思われる
野生馬が伊予あたりにはいた。
こんなことからも、考えても美穂須々美の名前が地名になるほうが、先で
そういう歴史的な国譲りがあったにかかわらず、その名前が美穂崎のままである。
これは、どういうことであろうか?
美穂須々美とはだれじゃあああああ?
と、いうのが、最初であった。
最新の画像[もっと見る]
- 大三島から帰途・・ん?ヘリコプター 9年前
- 大三島から帰途・・ん?ヘリコプター 9年前
- 大三島から帰途・・ん?ヘリコプター 9年前
- 大三島から帰途・・ん?ヘリコプター 9年前
- 大三島へ・・海事博物館(葉山丸記念館) 9年前
- 大三島へ・・海事博物館(葉山丸記念館) 9年前
- 大三島へ・・海事博物館(葉山丸記念館) 9年前
- 大三島へ・・海事博物館(葉山丸記念館) 9年前
- 大三島へ・・海事博物館(葉山丸記念館) 9年前
- 大三島へ・・大山祇神社・・お田植神事をやっていたが撮影断念 9年前