
8月14日(日)の午前中。
土日のデーゲームともなると、朝9時前から並ばなければ外野下段応援席に座れないという定め。
球団公式チェックが朝8時半にあるので、それ以降は一旦並んでも列から出ることは出来ます。
そういうことで、一旦チェックを終えると日陰で11時の開門まで、本を読んだり携帯をいじったりするものですが、
先日の“Legend of Bs”近鉄復刻ユニフォーム着用試合の日には午前10時から近鉄OBのトークショーがあるので、ちょっと行ってみました。
このときのトークショーは・・

近鉄のレジェンドともいえる「草魂」鈴木啓示さん。
なかなかの迫力ある姿です。
そして、現役選手よりも、このユニフォームが似合っている・・
主に活躍されたのが1970年とあって、私は草魂の全盛期を知らず、
むしろ1990年代に近鉄の監督をやっていたときの印象の方が強いくらいです。
ただ、いろいろファンからの質問にも丁寧にはっきりと答え、スポーツマンらしい方だという印象を受けました。

司会はもちろん、大前アナウンサー。
覚えている範囲で、トークショーの模様をお伝えできればと思います。
当初、鈴木啓示さんというと、自我が強いというか、悪く言えばわがままな方だという話は金村義明さんの本なんかで読んだ覚えがありますが、
鈴木さんの言葉は力強くも飾らない言葉で正直に話してくれて、非常に面白いトークショーでした。
・・まず、このユニフォームを久々に着られた感想は如何でしょうか?
「身が引き締まる思いです。やはりユニフォームは我々にとって戦闘服ですから」
「このわがままな僕を長い間置いてくれたこの近鉄というチームには本当に感謝しています」
「そして、このイベントで、今はオリックス・バファローズというチームではありますけど、
近鉄というチームを懐古できる機会を作ってくれたことは嬉しく思います」
・・高校生の鈴木少年が近鉄に入団された経緯も色々エピソードがあるんですよね?
「そうですね。僕は高校2年生のときから阪神タイガースのスカウトの人から声をかけていただいてました。
高校を中退してプロに入らないか?とも言われましたが、卒業することを選んだんですね。どうせ卒業したら入れるだろうと。
それが、僕が高校を卒業する年にドラフト制度が始まり、縁あって近鉄に入団したわけです。
ただし、やっぱり入ったところで尽くす、これに尽きます。僕は入団した近鉄だからこそ、長く現役でいさせてもらったような気がします。」
「ただね、親戚などに『近鉄』に入団したと話をしたところ、みんな近鉄=キンテツと言わずに、チカ鉄って言うんですよね。
これは一旦地下に潜ると潜りっぱなし(最下位に低迷)のチームだったからみたいですが。最初は何を言ってるかわからなかったんですよ」
・・鈴木さんといえば、背番号1ですよね?投手としては珍しい番号でもあります。
「入団時にわがままを言いまして、たまたま前任の方がトレードで移籍したこともあって、僕が付けることができました。
ただ、ルーキーの頃は制球も悪く、いい成績が残せずに、背番号1をつけてる投手なものですから
『こら!高校野球か!高校生は帰れ』等という厳しい言葉をよくスタンドから頂いたものですよ。」
・・制球難と仰いましたが、後に無四球完投記録を作ることになるんですよね。
「いや、もう悔しい思いは何度もしましたけど、それが僕を変えてくれたのかもしれません」
・・そして背番号1はパリーグで唯一の永久欠番に。今では後藤選手が背番号1を付けていますが・・
「オリックスさんから永久欠番となった番号を付けてもいいのでしょうか?という打診はありました。
私は、もうオリックスは統合球団であり、近鉄ではないということで構いませんというやり取りがありました」
(ギャラリーからの質問コーナー)
・・今、現役だとすると、対戦してみたいバッターっておられますか?
「んー難しいな。いい打者だなと思うバッターは沢山いますが、自分がユニフォームを着てマウンドに立って、という状況を想像してまで見ていませんでした。
ユニフォームを着るということは、それだけ覚悟を決めた状態でしたので、一旦ユニフォームを脱いでしまうとなかなかマウンドにいる立場になれないものです。」
「現役当時で印象深い対戦というと、やっぱり野村(克也)さんや長池さんですかね。」
・・現役時代で長く続けてこれた秘訣は何でしょうか?
「やはり準備ですね。練習。特に下半身の強化を大切にしていました。そして何クソといえる気持ちの持ち方ですね。
僕がプロとして誇れるのは、いい思いをしたという記憶があまり無いんですよ。やっぱり打たれたことの印象ばかりが残っています。
僕は恥ずかしいことに被本塁打の記録を持っているんです。
投手として最も屈辱を味わう瞬間というのがホームランを打たれること、逆に最も興奮する瞬間というのは三振を奪ったときです。
僕はその屈辱をプロの選手でも誰よりも味わってきたことになります。
ただ、その悔しさをバネにするからこそ、プロとして続いたんじゃないのかなとも思うわけです。
やはりアマチュアは良い思い出が残って終わるのがいいのでしょうが、プロはそういうわけにいきません」
・・若い選手達にも「ミスを恐れずに」(悔しい思いを噛み締めながらも)思い切ったプレーをして欲しいですね。
「そうですね。プロとして長く活躍できる選手が育って欲しいですね」
・・当時近鉄には有田さんと梨田さん(いわゆるアリナシコンビと言われた)2名のレギュラーキャッチャーがいましたが、
鈴木さんは有田さんとよくバッテリーを組まれてました。これはご自身の指名でしょうか?それとも西本監督からの指名なのでしょうか?
「有田君と梨田君はそれぞれ性格が違いまして、そこを見抜いてなのか西本監督が僕と有田君をよくコンビに指名していました。」
「有田君の場合、次のボールを何投げるかで呼吸が合わないとき、有田君から敢えて『この球を投げろ』とサインを出すんですよ。
そして私は首を振る、それでも有田君は同じサインを出す、僕は首を振る、そうすると、『もう知らんわ』とばかりに
僕が要求した球のサインに変えるんですよ。それで打たれると、『ほれ見たことか!だからオレの言うこと聞け』って。」
「逆に梨田君の場合、僕が梨田君の要求を無視して首を振ると、僕の要求どおりにサインをすぐに変えるんですよね。
そして打たれても、『鈴木さんすみません』って頭を下げるんですよ。打たれた僕が悪いのに。
そういう、他人の責任も受け入れることができる懐の広さがあるからこそ、梨田君はその後監督としても成功し、今も活躍してるわけですね。
僕はその点反省しなきゃいけないところがありました。」
「僕が監督に就任したときは、逆に有田君を組閣から外してしまいました。そういうところも不味かったのかもしれませんね。」
(有田さんの性格だからこそ、あの鈴木啓示を旨くコントロールしていたのかもしれません)
・・西本監督との思い出などがあれば教えてください。
「西本さんは、今はご自宅で療養されています。85歳にもなり、少し体が不自由なところもありますが、
頭はしっかりされて、朝からメジャーリーグ、高校野球、そして夜はプロ野球と、本当に野球を好んで見られています。」
「僕と西本さんとの出会った頃というと、最初は嫌いでしたね。
いきなり僕に向かって『エースとは認めん!20勝しても負け数を一桁に減らせ』っていう怒られたことから始まりました。
僕にとって、常勝チームならまだしも、負けてばかりのチームの中で20勝しているんだし、これ以上負け数を減らすのは難しいって
最初は反発し口も利きたくなかったものです。それが、西本さんは何時でもどこでも練習についてくるし、とにかくしつこい。
その根気に負けたというか、次第にこの人についていこうっていう気になりました。」
「就任2年目、阪急とのプレーオフのとき、僕は優勝がかかった場面で先発だったんですが、山田投手との投げあいに負けたんですよね。
それで優勝を逃し、西本監督は『もうワシやめる』って辞任するって言い出しましてね。
僕が打たれて負けたのに、それで西本さんが辞めるなんてとんでもない、と猛反対したことがあります。
西本さんも当時は辞めると固辞してましたが、結局辞めずにすんだんですが」
・・お二方には少し不器用な印象を受けますが、それが逆に分かり合えたのかもしれないですね。
「その後、西本さんとは長いお付き合いができるようになりましたし、僕が監督をさせていただく話を頂いた時も相談に行きました。
今もよくご自宅にも伺わせてもらっています。お年は召されましたが、これからもお元気でいてもらいたいです」
・・今は本拠地だった日生球場も藤井寺球場もありませんが、そのときの思い出などは?
「当時の野球場は西宮球場も平和台(福岡)も川崎も後楽園も無くなり、パリーグ6球団すべてなくなったのは寂しくなりましたね。」
・・今の球場は、(テレビ解説をされるので)放送席はよくご存知ですよね(笑)。
「そうですねぇ。ただマウンドは知らないですね。」
「日生球場や藤井寺球場は、狭くてホームランが出やすい球場でしたね。
逆に、だからこそ勝負に出ても打たれない力を磨かせてもらった良い球場でした。
やっぱり本拠地の球場、マウンドは好きにならなくちゃ。最も沢山投げるマウンドなんですから。」
・・それが、鈴木さんがお持ちの通算78無四球完投というプロ野球記録があり、
これはあの狭い球場でも逃げずに勝負に出たからこその結果ですね。
・・最後に今のチームへ。
「今のオリックス・バファローズというチームは、阪急・オリックス、そして近鉄の統合球団ということで、あの近鉄という球団は無いわけですが、
こういう企画で当時近鉄という球団があったことを振り返られる機会が設けられたことは、近鉄OBとして非常に嬉しいです。
ぜひオリックスには関西を盛り上げて欲しいし、今ではクライマックス・シリーズがあるわけですから、最後まで諦めずに戦って欲しいですね。
3位までに入れば、去年のロッテのような結果もあるわけですから。」

多少の記憶違いや言葉の違いはあるでしょうが、だいたいこんな感じのやりとりでした。
プロ中のプロの言葉でした。やはり、今の各選手も見習うべきところはあります。
ただ、チームとして機能するには、仰木さんのような柔軟な発想、梨田さんのような懐の広さのある将も必要なわけで、
その点を鈴木さんが監督されていたときに上手くできなかったことを今でも悔やんいるんじゃないかと思われるところも垣間見えました。
それは、これだけの伝説的な大物ピッチャーも人間らしさがあるからこそ、プロ野球は面白いのかもしれません。
また、ギャラリーもこの近鉄復刻を楽しみにしていた日生・藤井寺の頃からの近鉄ファンの方が多く、
鈴木さんへの質問も、当時を思い返して話に花が咲くような内容でした。
このステージで、観客とともに作った40年前の空間に浸らせてもらいました。
そして、こういった形で近鉄OBを代表する方から、オリックス・バファローズが暖かく見守られていることは
本当心強く、ありがたいことだと思っています。
今のチームも、シーズン最後まで投げたら(投げ出したら)アカンで。
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お時間とお気持ちに余裕がありましたら・・。
土日のデーゲームともなると、朝9時前から並ばなければ外野下段応援席に座れないという定め。
球団公式チェックが朝8時半にあるので、それ以降は一旦並んでも列から出ることは出来ます。
そういうことで、一旦チェックを終えると日陰で11時の開門まで、本を読んだり携帯をいじったりするものですが、
先日の“Legend of Bs”近鉄復刻ユニフォーム着用試合の日には午前10時から近鉄OBのトークショーがあるので、ちょっと行ってみました。
このときのトークショーは・・

近鉄のレジェンドともいえる「草魂」鈴木啓示さん。
なかなかの迫力ある姿です。
そして、現役選手よりも、このユニフォームが似合っている・・
主に活躍されたのが1970年とあって、私は草魂の全盛期を知らず、
むしろ1990年代に近鉄の監督をやっていたときの印象の方が強いくらいです。
ただ、いろいろファンからの質問にも丁寧にはっきりと答え、スポーツマンらしい方だという印象を受けました。

司会はもちろん、大前アナウンサー。
覚えている範囲で、トークショーの模様をお伝えできればと思います。
当初、鈴木啓示さんというと、自我が強いというか、悪く言えばわがままな方だという話は金村義明さんの本なんかで読んだ覚えがありますが、
鈴木さんの言葉は力強くも飾らない言葉で正直に話してくれて、非常に面白いトークショーでした。
・・まず、このユニフォームを久々に着られた感想は如何でしょうか?
「身が引き締まる思いです。やはりユニフォームは我々にとって戦闘服ですから」
「このわがままな僕を長い間置いてくれたこの近鉄というチームには本当に感謝しています」
「そして、このイベントで、今はオリックス・バファローズというチームではありますけど、
近鉄というチームを懐古できる機会を作ってくれたことは嬉しく思います」
・・高校生の鈴木少年が近鉄に入団された経緯も色々エピソードがあるんですよね?
「そうですね。僕は高校2年生のときから阪神タイガースのスカウトの人から声をかけていただいてました。
高校を中退してプロに入らないか?とも言われましたが、卒業することを選んだんですね。どうせ卒業したら入れるだろうと。
それが、僕が高校を卒業する年にドラフト制度が始まり、縁あって近鉄に入団したわけです。
ただし、やっぱり入ったところで尽くす、これに尽きます。僕は入団した近鉄だからこそ、長く現役でいさせてもらったような気がします。」
「ただね、親戚などに『近鉄』に入団したと話をしたところ、みんな近鉄=キンテツと言わずに、チカ鉄って言うんですよね。
これは一旦地下に潜ると潜りっぱなし(最下位に低迷)のチームだったからみたいですが。最初は何を言ってるかわからなかったんですよ」
・・鈴木さんといえば、背番号1ですよね?投手としては珍しい番号でもあります。
「入団時にわがままを言いまして、たまたま前任の方がトレードで移籍したこともあって、僕が付けることができました。
ただ、ルーキーの頃は制球も悪く、いい成績が残せずに、背番号1をつけてる投手なものですから
『こら!高校野球か!高校生は帰れ』等という厳しい言葉をよくスタンドから頂いたものですよ。」
・・制球難と仰いましたが、後に無四球完投記録を作ることになるんですよね。
「いや、もう悔しい思いは何度もしましたけど、それが僕を変えてくれたのかもしれません」
・・そして背番号1はパリーグで唯一の永久欠番に。今では後藤選手が背番号1を付けていますが・・
「オリックスさんから永久欠番となった番号を付けてもいいのでしょうか?という打診はありました。
私は、もうオリックスは統合球団であり、近鉄ではないということで構いませんというやり取りがありました」
(ギャラリーからの質問コーナー)
・・今、現役だとすると、対戦してみたいバッターっておられますか?
「んー難しいな。いい打者だなと思うバッターは沢山いますが、自分がユニフォームを着てマウンドに立って、という状況を想像してまで見ていませんでした。
ユニフォームを着るということは、それだけ覚悟を決めた状態でしたので、一旦ユニフォームを脱いでしまうとなかなかマウンドにいる立場になれないものです。」
「現役当時で印象深い対戦というと、やっぱり野村(克也)さんや長池さんですかね。」
・・現役時代で長く続けてこれた秘訣は何でしょうか?
「やはり準備ですね。練習。特に下半身の強化を大切にしていました。そして何クソといえる気持ちの持ち方ですね。
僕がプロとして誇れるのは、いい思いをしたという記憶があまり無いんですよ。やっぱり打たれたことの印象ばかりが残っています。
僕は恥ずかしいことに被本塁打の記録を持っているんです。
投手として最も屈辱を味わう瞬間というのがホームランを打たれること、逆に最も興奮する瞬間というのは三振を奪ったときです。
僕はその屈辱をプロの選手でも誰よりも味わってきたことになります。
ただ、その悔しさをバネにするからこそ、プロとして続いたんじゃないのかなとも思うわけです。
やはりアマチュアは良い思い出が残って終わるのがいいのでしょうが、プロはそういうわけにいきません」
・・若い選手達にも「ミスを恐れずに」(悔しい思いを噛み締めながらも)思い切ったプレーをして欲しいですね。
「そうですね。プロとして長く活躍できる選手が育って欲しいですね」
・・当時近鉄には有田さんと梨田さん(いわゆるアリナシコンビと言われた)2名のレギュラーキャッチャーがいましたが、
鈴木さんは有田さんとよくバッテリーを組まれてました。これはご自身の指名でしょうか?それとも西本監督からの指名なのでしょうか?
「有田君と梨田君はそれぞれ性格が違いまして、そこを見抜いてなのか西本監督が僕と有田君をよくコンビに指名していました。」
「有田君の場合、次のボールを何投げるかで呼吸が合わないとき、有田君から敢えて『この球を投げろ』とサインを出すんですよ。
そして私は首を振る、それでも有田君は同じサインを出す、僕は首を振る、そうすると、『もう知らんわ』とばかりに
僕が要求した球のサインに変えるんですよ。それで打たれると、『ほれ見たことか!だからオレの言うこと聞け』って。」
「逆に梨田君の場合、僕が梨田君の要求を無視して首を振ると、僕の要求どおりにサインをすぐに変えるんですよね。
そして打たれても、『鈴木さんすみません』って頭を下げるんですよ。打たれた僕が悪いのに。
そういう、他人の責任も受け入れることができる懐の広さがあるからこそ、梨田君はその後監督としても成功し、今も活躍してるわけですね。
僕はその点反省しなきゃいけないところがありました。」
「僕が監督に就任したときは、逆に有田君を組閣から外してしまいました。そういうところも不味かったのかもしれませんね。」
(有田さんの性格だからこそ、あの鈴木啓示を旨くコントロールしていたのかもしれません)
・・西本監督との思い出などがあれば教えてください。
「西本さんは、今はご自宅で療養されています。85歳にもなり、少し体が不自由なところもありますが、
頭はしっかりされて、朝からメジャーリーグ、高校野球、そして夜はプロ野球と、本当に野球を好んで見られています。」
「僕と西本さんとの出会った頃というと、最初は嫌いでしたね。
いきなり僕に向かって『エースとは認めん!20勝しても負け数を一桁に減らせ』っていう怒られたことから始まりました。
僕にとって、常勝チームならまだしも、負けてばかりのチームの中で20勝しているんだし、これ以上負け数を減らすのは難しいって
最初は反発し口も利きたくなかったものです。それが、西本さんは何時でもどこでも練習についてくるし、とにかくしつこい。
その根気に負けたというか、次第にこの人についていこうっていう気になりました。」
「就任2年目、阪急とのプレーオフのとき、僕は優勝がかかった場面で先発だったんですが、山田投手との投げあいに負けたんですよね。
それで優勝を逃し、西本監督は『もうワシやめる』って辞任するって言い出しましてね。
僕が打たれて負けたのに、それで西本さんが辞めるなんてとんでもない、と猛反対したことがあります。
西本さんも当時は辞めると固辞してましたが、結局辞めずにすんだんですが」
・・お二方には少し不器用な印象を受けますが、それが逆に分かり合えたのかもしれないですね。
「その後、西本さんとは長いお付き合いができるようになりましたし、僕が監督をさせていただく話を頂いた時も相談に行きました。
今もよくご自宅にも伺わせてもらっています。お年は召されましたが、これからもお元気でいてもらいたいです」
・・今は本拠地だった日生球場も藤井寺球場もありませんが、そのときの思い出などは?
「当時の野球場は西宮球場も平和台(福岡)も川崎も後楽園も無くなり、パリーグ6球団すべてなくなったのは寂しくなりましたね。」
・・今の球場は、(テレビ解説をされるので)放送席はよくご存知ですよね(笑)。
「そうですねぇ。ただマウンドは知らないですね。」
「日生球場や藤井寺球場は、狭くてホームランが出やすい球場でしたね。
逆に、だからこそ勝負に出ても打たれない力を磨かせてもらった良い球場でした。
やっぱり本拠地の球場、マウンドは好きにならなくちゃ。最も沢山投げるマウンドなんですから。」
・・それが、鈴木さんがお持ちの通算78無四球完投というプロ野球記録があり、
これはあの狭い球場でも逃げずに勝負に出たからこその結果ですね。
・・最後に今のチームへ。
「今のオリックス・バファローズというチームは、阪急・オリックス、そして近鉄の統合球団ということで、あの近鉄という球団は無いわけですが、
こういう企画で当時近鉄という球団があったことを振り返られる機会が設けられたことは、近鉄OBとして非常に嬉しいです。
ぜひオリックスには関西を盛り上げて欲しいし、今ではクライマックス・シリーズがあるわけですから、最後まで諦めずに戦って欲しいですね。
3位までに入れば、去年のロッテのような結果もあるわけですから。」

多少の記憶違いや言葉の違いはあるでしょうが、だいたいこんな感じのやりとりでした。
プロ中のプロの言葉でした。やはり、今の各選手も見習うべきところはあります。
ただ、チームとして機能するには、仰木さんのような柔軟な発想、梨田さんのような懐の広さのある将も必要なわけで、
その点を鈴木さんが監督されていたときに上手くできなかったことを今でも悔やんいるんじゃないかと思われるところも垣間見えました。
それは、これだけの伝説的な大物ピッチャーも人間らしさがあるからこそ、プロ野球は面白いのかもしれません。
また、ギャラリーもこの近鉄復刻を楽しみにしていた日生・藤井寺の頃からの近鉄ファンの方が多く、
鈴木さんへの質問も、当時を思い返して話に花が咲くような内容でした。
このステージで、観客とともに作った40年前の空間に浸らせてもらいました。
そして、こういった形で近鉄OBを代表する方から、オリックス・バファローズが暖かく見守られていることは
本当心強く、ありがたいことだと思っています。
今のチームも、シーズン最後まで投げたら(投げ出したら)アカンで。

お時間とお気持ちに余裕がありましたら・・。
しかもスター選手にありがちな頑固さが裏目に出たんでしょう。最新の技術を持った立花コンディショングコーチをクビにしたあたりから孤立しちゃいました。あと細かいところですが「草魂」です。
やっぱり臨機応変が利く現場経験がものを言うものかもしれませんね。
あとは人間関係。
ご指摘ありがとうございます。訂正しときます。