最近、ネタが尽きたら近藤のところへ行ってないかい?と思わせるスポーツ紙の話題ですが・・
本業でない私だって、ネタが尽きたら自分で動くに限ります。
と、いうことで・・。
先日23日での阿部野橋での募金活動の様子についてお伝えしましたが、そこから近鉄南大阪線に乗ってみました。
時間もあるので各停で・・
準急に抜かれ、急行に抜かれ、特急に抜かれ、再び準急に抜かれて、ようやく終着駅へ。
下車した駅は・・
15年前は全国区の知名度を持っていたはず。
関東在住時は西武鉄道に乗ってレオライナーに乗り換えて、
狭い車内で大半が「あの」旗のポールを持った西武ファンに囲まれ、
ポールに刺さらないように気をつけながら西武ドームに向かったりしましたが、
もし今も藤井寺があったら、そんな雰囲気だったんでしょうか。
都心から外れた地域だからこその魅力がありましたよね。
住宅地だっただけに尚更、近所に住んでる、活躍してるプロ野球選手たちって感じで。
それが、あの藤井寺の地名が全国で毎日放送されるという親近感。
その点、西神戸のグリーンスタジアムや、所沢の西武ライオンズ球場も似たような境遇だったような気がします。
90年代をともに争ったライバルとしては似た者同士だったのかな。
とりあえず駅周辺を散策。
さすがに2005年1月に閉鎖して、建替えられて、跡形もなくなった昨今。
5年も経過すると、その名残はあっという間になくなってしまうようなものです。
駅前の案内表示板なども、綺麗に書き換えられてましたし。
その中で「球場があった」名残を見つけました。
今じゃ逆に「どこ?」って不親切な表示かもしれませんが。
こうして、球場の跡地へ。
綺麗な学校になってました。
電車に乗ってると、沿線の各グラウンドで少年野球の試合や練習が行われていましたが、
こちらの学校ではグラウンドで動く少年達の姿は見られず。
少年野球、ここでやればいいのにって思ったりします。
球場があったことを象徴するものとして、近鉄がブロンズ像を建てていました。
歩道からこうやって見られるものですが、学校の敷地内に建てたそうです。
近鉄があったという証拠としては・・
こちらのロゴが、あの礒部にボコボコ打たれたライバル「大阪近鉄」を思い起こさせてくれます。
5点差を同点にされた、ってザラにあったような。
欲を言えば、この少年には三色帽を被せてほしかったし、どこかに岡本太郎のマークが残っていれば・・というところ。
あの三色帽をかぶってる少年が、かつてはこの周辺にゴロゴロいたでしょうしね。
そんなかつての少年を象徴する像なのかな、と思ったものでして。
(そんな少年の1人が新井二軍監督であり、前田祐二投手だったと言えます)
また、一度テレビで笑い飯の哲夫が被ってたのを見たことがありますが、「さすが奈良人・・」っていうシュールさと、
こいつも少年時代ここで野球を見てたのかな、と思えるものでした。
今となっては、関東在住時は西武ドームと千葉マリスタの双方に足を運ぶほどアクティブになりましたけど、
さすがに学生の頃は藤井寺に野球を見に行くという発想がありませんでした。
そもそも、野球を見に行く事自体、特別なイベントでしたので。
1988、1989年というとまだ少年野球を始めた小学校3,4年生の頃で、松永が大好きで西宮球場に連れて行けと親にせがんだ頃。
当時のシーズン最終戦まで盛り上がったあの熱パの頃は、さすがに関西人たちも盛り上がったものです。
(在阪セリーグ球団が6月に撃沈していたこともあって)
ほんと、今となってはウエスタンリーグでも一度ここでの試合を行っておけば良かった・・と後悔しています。
(後悔しないために、今後も神戸での試合に足を運ぶつもり)
その熱パの中心だった藤球があった証拠として、今後も大事に残ってほしいと思います。
(京都四条烏丸の居酒屋「ぴん」にて)
で。やっぱりバファローズの原点は、オリックスの原点ではないわけで。
もちろん、今のオリックスとしては、「Bs=Braves+Buffaloes+Blue Wave」であり、
今の「バファローズ」は「Bs」の一員が看板になった、というような感覚でいます。
お互い、それぞれのファンとして、真紅と蒼はいつまでもそれぞれの球団があるような感覚を持って
応援を続けていければいいな、という気持ちは変わってません。
Bsになってからのファンの方も沢山増えましたが、それはそれで三者三様で一緒にやっていければと。
ただし、お互いを理解する気持ちも持ち合わせないと、一緒にひとつの目標に向かって応援などできないわけで。
その配慮が出来てここまで来れたのが、オリックス・バファローズのファンの良さじゃないかな、と思います。
そんな西神戸の人間として、今だかつて足を踏み入れたことがなかったバファローズの原点、南大阪の地でした。
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お時間とお気持ちに余裕がありましたら・・。
本業でない私だって、ネタが尽きたら自分で動くに限ります。
と、いうことで・・。
先日23日での阿部野橋での募金活動の様子についてお伝えしましたが、そこから近鉄南大阪線に乗ってみました。
時間もあるので各停で・・
準急に抜かれ、急行に抜かれ、特急に抜かれ、再び準急に抜かれて、ようやく終着駅へ。
下車した駅は・・
15年前は全国区の知名度を持っていたはず。
関東在住時は西武鉄道に乗ってレオライナーに乗り換えて、
狭い車内で大半が「あの」旗のポールを持った西武ファンに囲まれ、
ポールに刺さらないように気をつけながら西武ドームに向かったりしましたが、
もし今も藤井寺があったら、そんな雰囲気だったんでしょうか。
都心から外れた地域だからこその魅力がありましたよね。
住宅地だっただけに尚更、近所に住んでる、活躍してるプロ野球選手たちって感じで。
それが、あの藤井寺の地名が全国で毎日放送されるという親近感。
その点、西神戸のグリーンスタジアムや、所沢の西武ライオンズ球場も似たような境遇だったような気がします。
90年代をともに争ったライバルとしては似た者同士だったのかな。
とりあえず駅周辺を散策。
さすがに2005年1月に閉鎖して、建替えられて、跡形もなくなった昨今。
5年も経過すると、その名残はあっという間になくなってしまうようなものです。
駅前の案内表示板なども、綺麗に書き換えられてましたし。
その中で「球場があった」名残を見つけました。
今じゃ逆に「どこ?」って不親切な表示かもしれませんが。
こうして、球場の跡地へ。
綺麗な学校になってました。
電車に乗ってると、沿線の各グラウンドで少年野球の試合や練習が行われていましたが、
こちらの学校ではグラウンドで動く少年達の姿は見られず。
少年野球、ここでやればいいのにって思ったりします。
球場があったことを象徴するものとして、近鉄がブロンズ像を建てていました。
歩道からこうやって見られるものですが、学校の敷地内に建てたそうです。
近鉄があったという証拠としては・・
こちらのロゴが、あの礒部にボコボコ打たれたライバル「大阪近鉄」を思い起こさせてくれます。
5点差を同点にされた、ってザラにあったような。
欲を言えば、この少年には三色帽を被せてほしかったし、どこかに岡本太郎のマークが残っていれば・・というところ。
あの三色帽をかぶってる少年が、かつてはこの周辺にゴロゴロいたでしょうしね。
そんなかつての少年を象徴する像なのかな、と思ったものでして。
(そんな少年の1人が新井二軍監督であり、前田祐二投手だったと言えます)
また、一度テレビで笑い飯の哲夫が被ってたのを見たことがありますが、「さすが奈良人・・」っていうシュールさと、
こいつも少年時代ここで野球を見てたのかな、と思えるものでした。
今となっては、関東在住時は西武ドームと千葉マリスタの双方に足を運ぶほどアクティブになりましたけど、
さすがに学生の頃は藤井寺に野球を見に行くという発想がありませんでした。
そもそも、野球を見に行く事自体、特別なイベントでしたので。
1988、1989年というとまだ少年野球を始めた小学校3,4年生の頃で、松永が大好きで西宮球場に連れて行けと親にせがんだ頃。
当時のシーズン最終戦まで盛り上がったあの熱パの頃は、さすがに関西人たちも盛り上がったものです。
(在阪セリーグ球団が6月に撃沈していたこともあって)
ほんと、今となってはウエスタンリーグでも一度ここでの試合を行っておけば良かった・・と後悔しています。
(後悔しないために、今後も神戸での試合に足を運ぶつもり)
その熱パの中心だった藤球があった証拠として、今後も大事に残ってほしいと思います。
(京都四条烏丸の居酒屋「ぴん」にて)
で。やっぱりバファローズの原点は、オリックスの原点ではないわけで。
もちろん、今のオリックスとしては、「Bs=Braves+Buffaloes+Blue Wave」であり、
今の「バファローズ」は「Bs」の一員が看板になった、というような感覚でいます。
お互い、それぞれのファンとして、真紅と蒼はいつまでもそれぞれの球団があるような感覚を持って
応援を続けていければいいな、という気持ちは変わってません。
Bsになってからのファンの方も沢山増えましたが、それはそれで三者三様で一緒にやっていければと。
ただし、お互いを理解する気持ちも持ち合わせないと、一緒にひとつの目標に向かって応援などできないわけで。
その配慮が出来てここまで来れたのが、オリックス・バファローズのファンの良さじゃないかな、と思います。
そんな西神戸の人間として、今だかつて足を踏み入れたことがなかったバファローズの原点、南大阪の地でした。
にほんブログ村
お時間とお気持ちに余裕がありましたら・・。
あと濃いヤジ(笑)中学生のため1回も行けませんでしたが・・・。TVで見た生駒の山々が印象に残っています。
もちろん僕は行ったことありませんが、
お父さんは行ったことがあると話を聞いたことがありますね。
現在は、四天王寺学園が立ってますね。
私が訪れたときは、あの辺りに外野入口やったとか、スコアボードがあの辺やとか思い巡らしていました。
西宮ガーデンズやなんばパークスに比べると、
我がBuを残すシンボルとしは寂しい気がします。
あっ!!「ぴん」ここで登場ですね!
行きたいなぁ(笑)
逆に神宮やハム主催の東京ドームでは太鼓が禁止でしたが、リズムを取るのが難しかったものです。
ですので、太鼓すらないアカペラ応援は、応援団も苦労されたんだろうなぁと思います。
その雰囲気を一度味わってみたかったです。
西宮球場もそんな感じでしたし、日生球場や大阪球場だって同じようなものかもしれませんね。
当時の話もたまに聞いてみてください。
バファローズとしての資料館は、交流戦アレでの資金で何とかする、みたいなことも言われてましたので、
せめてもの京セラドームでの実現を期待したいですね。
ぴんの件はお世話になりました。
また第2次忘年会でも新年会でも行きましょ。