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月のカケラと君の声

大好きな役者さん吉岡秀隆さんのこと、
日々の出来事などを綴っています。

晴れ、ときどき雨の糸

2012年10月25日 | 思うコト




夜空に無数の星が瞬くように、この地上には謎が満ちておりまする。
幼き頃に抱えていた謎の一つに、演歌「北の宿から」のミステリー、
というのがありまして、どうしてあの歌に出てくる女の人は、
着てはもらえないと分かっているセーターを涙堪えて編んでいるのだろうか。
しかも極寒の中。毛糸を買うお金でストーブの灯油が買えるのではないのか?
どうして都のはるみちゃんは斜め45度を遥か遠目に指差しながら歌うのか?
寝違えたの?いや北緯45度ということなのかもしれないけど、謎だ。謎なのだ。
一旦考え出すと地下鉄の電車はどこから入れたのか考える春日三球さんの
ように夜眠れなくなっちゃうし、これは昭和最大のミステリーかもしれない。
「それはね、大人になるにつれ自然と分かってくる女心というものなのよ」
悶々と悩む私に母は当時そう諭したけれど、母さん、確かにそうです。
今わたしは涙堪えながらセーターを編んでいるわけで、というか、
堪えきれずに声を出して泣いちゃうわけなので、
己のあまりの不器用さに。

こんなセーター(←らしきもの。希望的観測)は、実の父親だって着るのを躊躇し
処理に困った挙げ句に愛犬ラブラドールの防寒着にしてしまうかもしれない。
ごめんよ、愛犬君、こらえてつかぁ~さい。いやでもまてよ、
パンクな人だったら大小穴空きだらけロッケンロールなセーターとして
斬新に着こなしてくれるかもしれない。しかし残念なことに私にはパンクなお友達はいないわけで、
うぅ、泣ける・・・泣けるのだ、泣いちゃうぞう、ぶひぃ、んもうっ、これはね、
大好きな、大好きな、吉岡君に編んでいるセーターなのよぅ~~~~~~~~~~~~~~~~っ、
ってそりゃぁ着ては貰えないであろうぞなもし。それは確実に云えちゃってよ、
自慢じゃないけどぉ。寒いわぁ~心がぁ。というかですね、
今年の二月から編み始めたというのに、まだ前身ごろ、いや正確に書くと
未だに裾の部分を編んでいるというこの有様は平成最大のミステリーかもしれない。
 
編んでは間違えて解き、絡まった糸を無理矢理解いて余計に絡まり、
んがぁあ~~~~もうっ、どないしてくれるんやぁっとなりながら、
落ち着いて落ち着いてぇ糸を解いてまた初めから編み始めてぇ、あ、
また間違ってぇ、もういちど解いて編み直してぇ~~~~~~~~~ってもう、

ッハッ!!!!!

人生への悟りがひらけたような気がする。
きっと気のせいだ。

深まる秋
女心と不器用に
茄子の季節はなすすべもなし

北緯45度を見上げながら一句詠んでしまった。
なんか無性に虚しい。
不器用である、
というその事実で人をぞっこんに惚れさせてしまえるなんていう人は、
この世に高倉健さんしかいないのだ。どうぞよろしく。シビレルゼェ~。

しかしよくよく考えても考えなくてもそもそも女心云々という以前に、
恋に対する理解力に問題があるのかもしれず。
前述した「北の宿から」にしてもそうだけど、
これまた昭和の名曲小山明子さんの「あなた」にしたって、それは、
大工さんの乙女な心情を綴った歌であり、設計、外装内装施行、そして、
レースのカーテンまで編んでしまうというあっぱれなオールマイティーさ、
そうか、これからの女の人はこうあるべきなのだなと、
そう思い込んでいたわけであり。これはもうですね、
恋の理解能力というよりも遥か以前に、
この生き様に問題があるのかもしれない。思えばちっさいころから、
可愛げがなかった気がする。小学校四年生の時、町の夏祭り盆踊り大会に、
サイン会にやってきてくれたウルトラマンさんに、
「どうして今日は三分間以上地球にいられるのですか?」
と質問しようとして、ふと目に入ったウルトラマンさんの、
背中のチャック。
かねてからの疑惑の真相を掴むべく背後に回って手を伸ばしかけた瞬間、
ジョワッ! 
スけン。
と振り向きざまのウルトラチョップを頭に食らわされてしまったことは、
それはそれで良い思い出であるのかもしれない。ラッキーといえるかもしれない。
実際に見たウルトラマンさんは、テレビで観るより小柄に見えたけど、
でもそれはきっと、忍法ウルトラ縮小の術を使っていたからに違いなく、
いつ何時でもウルトラであるそのウルトラ魂になんか感動してしまったのだった。
だけどだけどできることなら、もう一つウルトラマンさんに聞いておきたかった、
背中のチャックはYKKですか、と(←変なこだわり)。

って一体、何を書こうとしていたのだろうか、あたすは? 

これは性格云々というより以前に、思考回路に問題ありなのかもしれない。
そういえば昔から理路整然となぞなぞを解くのも苦手だったしぃ。
「最初四本、次に二本、最後に三本、これなぁに?」と問われて、
「育毛に成功したオバケのQちゃんの髪の毛」と答えたら、
惜しくも間違いだったことがあった。正解はなんだったっけかぁ~・・・・・
う~~~~~~~~ん・・・・・・・・・・・・・・わからない。謎でございます。
謎なのだ、謎なのでありますよって、謎ですのん、なぞ、なぞ、なぞな~ぞ、
五年三組まほ~うぐ~み♪ って意味なく言葉を伸ばしてしまったけど、
そうだ思い出したぞう、あたすは、これを書きたかったのだ、この世の中には、
謎が満ちておるわけで、最近、その謎の最先端を突っ走り続けているのが、
猫弁の吉岡君でありもうす。

天才謎解きである、猫弁ことにゃんこ先生。
ベリーマッチにワンダホーで、とれびあ~ん、うぃ~♪
やはり笑わせてくれる吉岡君が一番好きだよう。
いや泣かせてくれる吉岡君も一番好きなんだけど、
でもきゅんとさせてくれる吉岡君も一番好きなのであって、
喜怒哀楽起承転結東西南北全てにおいてかっとび一番大好き大使なのだ、ああもう、
どうしてくれるだ吉岡君っ、好きじゃないかぁ、大が付くほどぉ、むはぁ 
と冷静に言うとこういうことなのですが、もとい、このにゃんこ先生、
最初にそのお姿を拝見した時には、



とサル地蔵の如くに固まってしまいもうした。吉岡君よ、どうしてなのだろう、
どうしてなのか、どうしてなのなの、何故なの何故なの、何故なのだ、吉岡君、
顔が違う。
オートマチックフェイスチェンジャーシステムをその皮膚下に48768枚くらい
搭載しているのでしか? 因みにハイブリット仕様でしょうか?いやとにかく、
大魔神もビックリ顔変化。

確かに猫弁先生の彼はマルちゃん大盛りやきそばのような、いや見ようによっては、
モッズヘアならず早採れ太もっずくヘアに変えてはいるけれど、顔だけというより、
その細胞全体がにゃんこ先生に入れ替わっているように見えるのでありまして、
そのキャラクターが全然違うとはいえ、はやぶさの森内氏を演じた同一人物だとは、
どうしても起点の点と点が繋がっていかないのですのん。別人種ずらよ~。
それが役者の仕事だよと言えばそうなのだろうけれど、
それが吉岡君の成せる業ということなのでありまっせう。
さすがだ、
びっくりするくらいに、
底力の人。
土台が違うぜ。
キラン


吉岡君の演じる人物たちからは、いつも、ある種の自由を感じるとです。
自由というと語弊が生まれるかもしれないけど、
でもそこから感じ取れるものにはやはり、
自由という言葉が感覚的に一番しっくりとするというか。

彼の演じる人物たちには、窮屈な私物的「枠」の影がなくて。

そこまでの感情に行き着くまでには、
様々な葛藤が、様々な行間に介在するのかもしれないけれど。

何度も重複して書いてしまうけれど、
あくまでも鑑賞者からの立場から言わせてもらえば、
吉岡くんは、そこにある物語の世界から、
にょぃ~ん、と一人ではみ出ていかない役者さんだと思うです。

伝えるべきこと、そこから自分は何を伝えられるのか。
自分の立つべく場所から、その存在意義を深め、演じる役の背中を押しながら、
伝えるべき物語の核心へと貫徹していく底力。

それはもしかしたら、小さな頃から接してきた名優さんたちから受けてきた、
公私に渡る影響が大きいのかもしれないですばい。幸運な星の下に生まれたよね、
とそれは言われてしまうことなのかもしれないけれど、でも、そこからどんな影響を受け、
そうしてそこからどのように成長していくのかは、受け取る本人の側の皿の大きさ、
その受け皿の角度の正しさに、全てはかかっていたのだと、いるのだと、そう思うです。


そんな想いに心を馳せていると、柄にもなくわたしも、
己の人生に思いを馳せて、自省したり、思い悩んだりするわけで。

今ある人生。そこにある満足。幸せ。ありきたりの人生。
今を生き、そしてそこにこそ幸福はあるのだよと、人は言うけれど。
それはもっともなことなのだと、確かにそうは思うのだけれど、だけれど、
そう思う気持ちの泉に、疑問を投げかけている心情の石も、一方にはある訳で。
今ある人生に満足しないのは、今ある幸せに対する傲慢だよという気持ちと、
今ある人生の満足は、今ある疑問に勇気を出せないままに踏みとどまっている、
妥協の世界なんだよと、そんな二つの感情が心の河底で拮抗していたりして。

あたりまえの幸せ、というけれど、
あたりまえの幸せって、それは、何なのだろう・・・。

そん想いにふと心が翳るとき、
吉岡君は、どう思っているのだろう。
どう思いながら、日々を生きているのだろうかと、
そんな想いに心の通り道を探してしまうわけで。


吉岡君のことを、まっさらさらな聖者なのだと思っているわけではなくて、
日々の生活には、様々な苦悩が生まれてくるでござんす。
このご時世の中、インドの山奥にでも篭ったりしない限り、
まっさらな聖者になるなんてことは、極めて難しいことなのだと思うです。


彼の話す言葉や仕草、
与えてくれる役柄を通して伝わってくる、
まっすぐな一途さ。
決して大袈裟な形ではなく、
でも確かな響きとして、
こちらに伝わってくる人としての質感。

意志という竿を離さず、己の河を漕ぎ続けていく吉岡君のその姿勢に、
その視線の行き先に、人として、まず人として、向上していこうという、
その意志の強さの在り方に、深い感銘を受けるわけであって、そんな彼が、
そんな心意気を持ち続ける彼のことが、大好きなのであって。



佇む樹は、何も言わないけれど、
そこに確かな実を花を咲かせ続け、
そこに自ずと、
道は出来ていくのだと。

迷いながらも、
その日一日を精一杯に生きていれば、
希望の種が植わった草原は、
いつでも君に懐を広げているよと。




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