例えば、
三角柱をまん前から見て、
それは三角形ですね。
と、言いきってしまうのと、
三角柱を見て、
それは前から見れば三角形ですが、
下から見れば底面で、
上から見れば点かもしれないですねぃ。
と思うのとでは、
その二つの間には、全く違う世界が広がっていると思うわけで。
人の心も、
上から読んでも山本山。
下から読んでも山本山。
とは、どうやらならないようであり。
人が人を想う気持というものは、
その人の心の選択というものに基づいているわけで、
そしてそこに、「好き」という「形」を決めてしまう
「定義」なんていうものは、
存在していないのだと思うわけであり。
人それぞれの「好き」があり、
人それぞれの「好き」の形があって当然でありますだ。
そしてそこに介在していく「好き」の意見も異見もあって至極当然だし、
それがあるからこそ、様々な「好き」の形へと、自分の気持ちも変えて
いけるわけで。
それが「好き」であるということの
「柔軟さ」であり「多様さ」であり「複雑さ」
であるのかもしれないですね。
しかし、そういった人の好きの選択型に、
自分の好きの形の「定義」や「規約」でバタッと上から蓋で
覆い被せてしまうのは、それは余りにも「閉塞的」であって
「排他的」なのではないのだろうか、悲しいぞ、とも思ってしまうわけで。。。
「好き」の気持ちは、もちろん「心」から派生してくるものだから、
それはやはり、あやふやでつかみにくいものでありますばい。
しかしあやふやでつかみにくいものだから「心」なのであって、
だからこそ常に、
雲みたいに、その形を変えているし、
空みたいに、その色を日々刻々と変えているわけで。
しかしそれは誰でもが持つ心の在り様だと思うし、
同じ揺らぎという共通点を持っているものだと思うからこそ、
尊重しあえるものなのではないのだろうか、
とも思ったりするわけで。。。
寅さんは、その昔、こう言っていたであります。
「いくら物知りの先生だって、
江戸川の鰻の面と、浜名湖の鰻の面と、
見分けがつく訳がねぇもんな。」と。
江戸川だろうが、浜名湖だろうが、
もとは同じ鰻なだけでありますだ、おいちゃん。
人の人生は、大河の上を流れる筏のようであり、
その大河には、流されていく途上で、
色々なものがどんぶらこと流されてきたり、流されていったり、
底に沈んでいったりするわけで。
そこから何を拾うのか、流していくのか、沈めていくのかは、
やはりそれは自分の選択なのであって、即ちそれが
現在の自分自身の在り様なのではないのかと。
人生という筏を漕ぐ竿は自分の心であり、
だからしっかりと竿を握って漕いでいかないと、
筏はどんどんと大河の上を流されて、気付いた時には、
思いもしなかった場所へと漂流していってしまうものなのかも
しれないとですね。
最後に行き着くのは一体どんな海なのか、
それは誰にもわからないことだけれど、
けれども、自分の行き着きたい先の海原を、
大きく遥かに思い描き、そしてそれを目指すことは
誰にでも出来ることだと思うし、そしてそうすることが
「生きる」ということの醍醐味の一つになるのかもしれないとですね。
「好き」という気持ちも、
「生きる」うえでの醍醐味の一つでありますですばい。
それは人生に陽だまりを作ったり、雨を降らせたり、風を吹かせたりする
一つの大きなエネルギーであって、そしてそのエネルギーは誰のものでもなく、
自分の心で感じて、自分の心で持ち続けていくものですたい。
風立ちぬ、いざ生きめやもう。
「好き」という気持ちは、
一つの大きな宇宙みたいなものなのかもしれんですね。
などと、思ったりしている今日この頃の私でありまする。
戯言であります、すんません。
秋だわ・・・。