ぎゃあぎゃあと騒ぎながら終わらせた文書は、きちんと提出し既に私の手を離れた。
肩の荷を降ろして昨日、ゆったり飲み会を楽しみ(幹事がゆったりってどうかととも思うけど)
心置きなく朝寝坊した今日。
身内が大喧嘩しているらしいという話を聞いた。
2月に結婚した二人は、まあほんとによく喧嘩する一対ではあったけれど
またかい、と周囲は半ば呆れつつ苦笑しているけれど
本人達は無論真剣で、離婚騒動に発展しているらしい。
何故そんなところへ至ったのか、原因も経緯もさっぱり分からないので
(彼女のほうが掛けてきた電話は、横からがちゃんと彼により切られてしまったそうで、其れの繰り返しで話が見えなかったとか)
ましてやのんびり飲み呆けていた私が又聞きで把握できるはずもなく
またかいと苦笑して成り行きを眺めているしかやることはない。
喧嘩の最中というのはどんな助言もあんまり聞き入れられないものだ。
熱が下り坂になるのを待つしかない位置にいる私。
達観とも言う(ほんとかい)。
自分以外の人間と一緒に生活するということは、自分のリズムを崩すということだ。
それは血の繋がっている家族であっても同じこと。ぴたりと重なるリズムを持った他者など存在しまい。
家族というコミュニティに属し、そこで培ってきたリズムに自分のリズムを滑り込ませて家族の生活は成立する。
そこからそのまま別旋律(=結婚生活)を始めると
なんで?どうして?こうしかやったことないのに(其れでずっと過ごしてきたのに)何故こんなにもリズムが重ならないんだ??ということになるわけだ。
そうして大喧嘩になる。
一人暮らしをしたことのある人は、家族でさえ別々のリズムで成り立っていると
はっきり或いはなんとなく知っているから
そして一人暮らしが長い人ほど、どうすれば波風が立たないか学んでいるものだから
何かあっても結構裁いていけるみたいに見える。
私の周囲の人々はそんな感じだ。
押すところと、引くところ。
互いに押すばかりで事が成るわけもない。
もちろん引いてばかりでは身が削られていくばかりだ。
削り過ぎれば影もなくなってしまうだろうし、いやはや、難しいやね。