節足動物門>昆虫綱>有翅昆虫亜綱>ハエ目(双翅目)>ハエ亜目(短角亜目)>ハナアブ科
紅冬至梅(Prunus mume 'Koutouji')の蜜や香りに夢中のホソヒラタアブ(体長10ミリ)。虫媒花の送粉者、アブラムシを捕食する天敵としても大事な訪花昆虫。こんなハナアブの活発な動きにも、春の兆しが感じられます。
節足動物門>昆虫綱>有翅昆虫亜綱>ハエ目(双翅目)>ハエ亜目(短角亜目)>ハナアブ科
紅冬至梅(Prunus mume 'Koutouji')の蜜や香りに夢中のホソヒラタアブ(体長10ミリ)。虫媒花の送粉者、アブラムシを捕食する天敵としても大事な訪花昆虫。こんなハナアブの活発な動きにも、春の兆しが感じられます。
カマキリ目 カマキリ科
全世界では2000種ほどいるといわれるカマキリの仲間、日本にはオオカマキリ・コカマキリ・チョウセンカマキリ・ハラビロカマキリ・ヒメカマキリなど、カマキリ科ヒメカマキリ科に属する2科9種が生息していますが、「ホワイトゲーブルの庭」で私が確認しているものは、日本最大のオオカマキリのみ。体色は緑色のものと褐色の二種類あり、いずれも成虫は90mm前後になります。
アブラムシなど他の昆虫、ときにはカエルやトカゲといった小動物を捕食することさえあるといわれる肉食性のカマキリは、共食いすることでも知られていますが、これは捕食昆虫が少なくなった季節や人工的な飼育環境などに限られ、自然状態で積極的に共食いするというようなことではありません。このようなことは昆虫世界では珍しいことではなく、カマキリを特徴づけるほどのことではなかろうと思われます。
カマキリは不完全変態をする昆虫で、メスは交尾後に数百個の卵を卵鞘(らんしょう)に産みつけます。卵は卵鞘内では多数の気泡によって外部から守られ、孵化すると薄い皮をかぶった幼虫は外に出て最初の脱皮をします。体長が数mm程度しかないことと、翅がないこと以外は成虫とよく似た形態をしており、数回の脱皮ののち羽化して、わずか数匹程度が成虫になるといわれています。その成虫の寿命も数ヶ月程度。こんなことを知ると、あのいかめしいカマキリもいとおしくなってきます。
私なんぞ常々、我が身すべてにおける力量の無さを「蟷螂(とうろう)の斧」のごとくに思っておりますので、こんなカマキリにも共感を禁じえないでおります。
葉を落とした冬枯れの庭では、とりわけバラの枝のいたるところにいくつもの卵鞘が見られます。春になるとここから小さな幼虫がいっぱい出てくるかと思うと、幼虫が孵化する4月~5月が楽しみになります。その頃にはバラの蕾もたくさんのアブラムシをつけて、かわいいカマキリの誕生を歓迎してくれることでしょう。
クモ綱クモ目アシナガグモ科
(お断り:ご承知のようにクモは節足動物ですが、このブログでは便宜的に昆虫のカテゴリーで扱います。)
春から夏の間は、あれほどいたのに一体どこに行ってしまったのだろうと思っていたジョロウグモ。10月を過ぎて気温が低くなると、再び庭中の木という木の樹間に円網を張り、色鮮やかな腹部を大きく膨らませて跋扈し始めました。これは産卵を控えたメス(体長25mmほど)のジョロウグモで、小さいのはきまってオス(7mmほど)になります。枝先に上り、尻から糸を長く出して大きくスイング。風に乗りながらいつのまにか見事な巣を張っていくのです。(これをバルーニング ballooning といいます。)
ところでジョロウグモのジョロウとは、その「妖艶」な姿から遊女の「女郎」と思えるのですが、身分の高い女官を意味する「上臈(ジョウロウ)」に似ていることから「上臈蜘蛛」とされ、そこから「女郎蜘蛛」に転訛したという説が有力のようです。もっとも「上臈」にも遊女の意味がありますけどね。
いずれにせよジョロウグモの紋様は、美しい女性が背中に女郎蜘蛛の刺青を彫られることで、男を滅ぼす妖女に変身するという、いかにも谷崎文学の耽美的な世界を想起させるではありませんか。
この季節になるといつも庭で、そのあまりにも鮮やかで妖艶な姿に見とれてしまうのです。
いつかのブログでも取り上げたように――2009-08-16「アブラセミ」――、さほど広くはない「ホワイトゲーブルの庭」でもセミにとっては、三本のケヤキを取り巻く落葉・常緑さまざまな雑木は恰好の棲み家となっているようです。
そして夏の終わる頃ともなれば、庭のここかしこに無事羽化を終えたセミの抜け殻を発見します。この月桂樹の葉裏にも、飛び立った後の抜け殻がしっかり爪を立てて残っておりました。
夕方地上に現れ、日没後に羽化を始めますが、これは夜の間に羽を伸ばし、スズメバチやアリなど敵の現れる朝までに飛翔できる状態にするためなのですね。背が割れて上体を殻から出し、足を全部抜き出した後、逆さ吊り状態で翅を伸ばします。すると翌朝には外骨格が固まり、体色がついた成虫となります。
地上に出ると短期間で死んでいくセミは、私ども日本人には古来より無常観を呼び起こさせ、「もののあはれ」を感じさせる代表でもありました。セミの抜け殻を空蝉(うつせみ)と呼ぶのも、現人(うつしおみ→うつせみ)の当て字と使われ、はかなくこの世に生きる人間の世界を想起させる言葉となりました。「うつせみは殻を見つつも慰めつ」(古今和歌集)、「うつせみの声聞くからに物ぞ思ふ」(後撰和歌集)などと。
セミの抜け殻は中国で古くから蝉蛻(せんたい)という生薬として使われており、止痒、解熱作用などがあるとされます。ちなみに日本でも、蝉蛻配合の消風散という漢方薬が使われています。
もっとも中国や東南アジア、アメリカ合衆国、沖縄などではセミを食べる習慣があるようですが・・・
さかしまに残る力や蝉のから 正岡子規
ジー、ジリジリ、ジーィ、ジーィ・・・・・
エル・ニーニョによる今夏の異常気象で、セミもいつ地上に出るべきか、そのタイミングを推し量りかねている様子。それでもこのところの暑さで、アブラゼミの大合唱も少しづつ力強さを増してきたように思われます。
都会でのセミの鳴き声は、セミが樹液しか摂らないことを考えれば、「自然度」―緑被率と言うべきかも―を示すバロメーターかもしれません。その点からも多くの樹木におおわれた私の庭は、彼らにとって天国といえるでしょう。蚊のように刺すことも咬むこともしないセミは、毛虫のように葉を食い荒らし糞をまきちらすこともしないので、私にとっても平和で友好的な関係を保てる数少ない昆虫の一つです。ケヤキの緑陰下ハンモックでの昼寝タイムには、もう少しボリュームを下げてくれたらなぁ、と思うときもあるのですが、一週間足らずのはかない命を思えば、それは私のわがままでしかありません。こちらが目障りになっているのでしょうから。
でもね、こんな小唄だか都々逸(七七七五調)だかがあったことを、つい思い浮かべてしまうんですよ。
「あんた恋しと 鳴く蝉よりも 鳴かぬ蛍が 身を焦がす」
解釈するのも野暮ですが、ミンミンジージーうるさく鳴く蝉よりも、何ひとつ声を出して叫ばない蛍の方が、もっともっと恋に身を焼いている、ほら、あの蛍の光を見てごらん、ということにでもなりますか。
オスが次なる世代に自分の命を託すべく、あらん限りの情報を発信してメスを求める行動。このような命を賭けた配偶行動にも、感情の噴出を抑えたものをよしとする、いわば抑制されたものへの美学。これは欧米では決してみられない、日本人独特の精神構造に由来するものなんでしょうね。
「粋」とか「艶」とか、あるいは「風流」とかいうものも、おそらくは日本の暑い夏があってこそ生まれた精神文化ではないか、とふと思う盆休みではあります。
(樹木:ケヤキ、 葉:ノウゼンカズラ)