多摩街歩き

GPSの付いたカメラを持って多摩の街を歩いています。

多摩の秋(多摩市関戸付近)

2012年10月28日 | 街歩き

10月27日、午後から青空になったので、秋の雰囲気を探して多摩市関戸付近を歩いてきた。

今回の地図はこちら。(新しいウインドウが開きます)
(kmlファイルはこちら。ダウンロードしてGoogle Earthで開いてください)
例によって黄色いマーカの足元がカメラの位置で、赤の扇形がカメラの向きだ。

まずは春に「昔の風景」として紹介した場所から。

写真1

丘陵の林と谷戸の畑。50年前の多摩丘陵のあちこちで見られた風景に違いない。

写真2

春は梅が迎えてくれたが、今は落ち着いた緑に満ちている。

写真3

コスモスが鮮やかだ。

写真4

谷戸の下の方は今でもお米を作っていた。

乞田川の流域に出て歩いた。

写真5

乞田川の旧河床にも秋の気配が漂う。この場所も以前「昔の乞田川」で紹介している。

写真6

この公園も乞田川の旧河床だったはず。東の空にもう月が昇っている。もしや、と調べると今夜は十三夜。

どのルートで帰ろうかと鎌倉街道(旧道)に出て京王線の聖蹟桜ヶ丘駅方面に向かった。

写真7

地蔵堂があり、「関戸古戦場跡」の碑。かたわらの細い道に入ってみることにした。

写真8

こんな坂道だった。上ってみる。うまくいけば、桜ヶ丘の住宅街に出ることができるだろう。

写真9

突然小さなお寺が現れた。延命寺という。境内をぬけて桜ヶ丘を目指そう。

写真10

桜ヶ丘の丘陵を上る道に出て、東を振り返ると見覚えのある建物がかすかに見える。都庁だと思うのだがちょっと変だ。双子のビルの間に何かが立っている。拡大してコントラストを上げてみた。


都庁の向こうに東京スカイツリーが見えていたのだ。

桜ヶ丘の住宅街をぬけて自宅に着くと、頭の上からケケケケケ…と鋭い鳥の声。お隣のテレビアンテナに声の主がいた。


まるっこい姿で、尻尾をくるくる回している。どうやらモズらしい。

今回はここまで。 


昔の道(もうひとつの鎌倉街道)

2012年06月02日 | 街歩き

終わった話で恐縮だが、パルテノン多摩の歴史ミュージアムで今年の3月まで『「消えた寺」が語るもの』という企画展を行っていた。その中にめずらしい展示があった。『寿徳寺の周辺 ~寺方村ともうひとつの鎌倉街道~』というもの。パネルの説明文を書き写しておく。

――パネルの説明文はここから――
 寺方村の「寺方」という名称は、周囲に多くの寺があるために名付けられたという説のほか、寿徳寺の存在によって名付けられたという説もあります。寺方区域の人々の信仰を集める山神社も、もとは寿徳寺境内に祀られていた祠といわれています。寺方村は、寿徳寺をはじめとした寺院の影響を受け、ともにあゆんできた地域といえるでしょう。
 それでは、なぜこの寺方村に寿徳寺が建てられたのでしょうか。そのためには寺方村の周辺地域や街道を見ていく必要があります。
 寺方村から落川、乞田にかけては、関戸を通る鎌倉街道とは異なる「もうひとつの鎌倉街道」が通っていました。多摩川から寺方へ至る「もうひとつの鎌倉街道」の途中には、後北条時代の有力者・有山氏の屋敷跡や、塩沢氏による創建伝承を持つ宝泉院もありました。宝泉院のすぐ北側には真慈悲寺跡と目される百草園松連寺がそびえています。また、寿徳寺自体、関戸の関所の番人を務めたとも伝えられる佐伯氏を開基としており、裏山を越えるとすぐに関戸に出ることができました。
 寺方村周辺は、関戸の関所や鎌倉街道を支える人物たちの、住まいや拠点となる地域だったといえるでしょう。
――パネルの説明文はここまで――

この展示には「もうひとつの鎌倉街道」を今の地図に書き写したものが添えられていた。この地図を頼りに昔の道を歩いてきた。
今回の地図はこちら。(新しいウインドウが開きます)
(kmlファイルはこちら。ダウンロードしてGoogle Earthで開いてください)
青の線で示したのが、展示にあった「もうひとつの鎌倉街道」だ。聖蹟桜ヶ丘駅の南、多摩市東寺方1丁目にある観蔵院というお寺から、多摩市乞田の第三小学校の近くに通じている。この道を南から北へ歩いてみた。
例によって、黄色のマーカの足元がカメラの位置で、赤の扇形がカメラの向きだ。

乞田から歩き始めるといきなり愛宕の山を越えて団地の中を通るのだが、この部分は多摩ニュータウン開発の影響を受けて昔の雰囲気がほとんど残っていなかった。写真での紹介は団地を抜けたところからにしよう。

写真1

団地のそばで急に地面が平らになり、ゆったりと曲がる道が始まる。この道は1947年の空中写真でも確認できる。もっとも、写真の当時は畑の中の細道だったのだろうが。

写真2

道はゆったりと曲がりながら続いていく。

写真3

道はまだ続いている。この付近は小さな起伏のある地形なのだが、道はほとんど水平のようだ。

写真4

新しくできた幹線道路を渡った。まっすぐに伸びる道路がある。この道は1947年の写真でもはっきりとした道路として写っている。今は都道らしい。

写真5

都道は正面やや左に延びていて、展示にあった「もうひとつの鎌倉街道」もこの道として書かれているのだが、1947年の時点ではまだ道がない。1947年当時の道は正面やや右から奥に延びる細い道らしい。そちらへ進んでみる。

写真6

道の左は雑木交じりの竹やぶで、右は古くからの宅地のようだ。ゆったりと曲がっていて、いかにも昔からの道の雰囲気がある。どうやら、この部分の「もうひとつの鎌倉街道」はこちらの方が正しそうだ。1947年当時の道は少し先で左に曲がり、先ほどまでの道筋にもどっていた。都道は近年の道路整備で直線的に作りなおされたものだろう。今回の地図には、この部分を赤の線(A)として書き加えてある。

写真7

都道の脇のバス停前に立派な門のある家があった。古くからの邸宅なのだろうか。

写真8

都道を離れて右に下っていく道がある。こちらが「もうひとつの鎌倉街道」らしい。正面奥にはパネルの説明にもあった宝泉院がある。

写真9

道は大きくうねりながら下っていく。河岸段丘の段丘面から、大栗川が作った谷底平野に下りていく道だ。この付近は大栗川段丘と和田崖線で書いた段丘崖の端に当る。

写真10

坂を下り終わった。昔は建築中の家の前あたりを大栗川が流れていて、「もうひとつの鎌倉街道」はここで川を越えていたにちがいない。この付近の昔の大栗川の流れについては別の記事に書いた。

この先、「もうひとつの鎌倉街道」は今の大栗川を斜めに横切るように延びていたはずなのだが、宅地化が進んで昔の道はしばらくの間残っていないらしい。今回の地図に青の線で描いたように、パルテノン多摩の展示では現在の大栗川に沿うように道が延びていたと推定したようだ。しかしこの部分には1947年の時点で道がないし、この道では観蔵院に裏側から入るようになってしまう。そこで、この部分ついてはもっと多摩川寄りの部分を通る昔の道が本来の「もうひとつの鎌倉街道」だと推定し、今回の地図に赤の線(B)で描いておいた。こちらの道の風景を紹介しよう。

写真11

この道もゆったりと曲がりながら続いていく。道路の右端は暗渠になっているようだ。昔の空中写真を見ると、このあたりは水路が引かれて水田として使われていたらしい。正面に見える薄緑色の建物の手前で道は少し左に曲がっている。

写真12

道は曲がりながらまだ続いている。この付近も道の片側の歩道は暗渠のようだ。正面左に見えるビルの向こう側は聖蹟桜ヶ丘駅前の「桜通り」だ。桜通りを右に少し進むと、観蔵院の正面への入口がある。

今回はここまで。 


昔の道(多摩市連光寺3丁目~4丁目)

2012年05月06日 | 街歩き

散歩によい道はないかと1947年の空中写真と現在の地図や空中写真を見比べていた。多摩市連光寺の3丁目と4丁目を結ぶ道3本が今も昔も同じような場所にあるではないか。

1本はもちろん川崎街道。あとの2本は丘陵を通って連光寺3丁目から旧聖蹟記念館の近くに延びている。ようやく雨が上がったので、その内の1本を歩いてきた。

今回の地図はこちら。(新しいウインドウが開きます)
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丘陵を通る昔の道は2本ある。今回の地図の赤と青だ。地形図を見ると、赤の方は丘陵の尾根を通っているので「尾根の道」と呼んでおこう。これに対し、青の方は沢を下っているようなので「沢の道」としよう。今回はこの沢の道をたどってみることにした。
いつものように、黄色のマーカの足元がカメラの位置で、赤の扇形がカメラの向きを示している。

写真1

旧聖蹟記念館に向かう道がある。この交差点を右に進むと、今回の地図の尾根の道(赤)だ。この一帯は都立桜ヶ丘公園として整備が進められているらしい。

写真2

沢の道の入口があった。想像していたよりもずっと細い。遠くに見えるのは日野市百草の団地だろうか。

写真3

道は林に入っていく。右の急な崖の上は宅地になっているようだ。

写真4

急な下り坂になって、道が階段になった。緑が濃い。鳥の声がする。

写真5

だいぶ下ってきた。緑の濃さに圧倒されそうだ。

写真6

道の左(南)側。10メートルほど先は急な斜面になっている。道の右(北)側はさきほどからずっと急な斜面だ。水の流れがこの沢を作ったのだろう。

写真7

左から来るわき道がある。3メートルほど先を鳥が歩いて横切っていく。1羽、そしてもう1羽。慌ててシャッターを切った。
こんな鳥だ。

 

コジュケイの番(つがい)だろう。人を見ても慌てる様子がない。自分たちのテリトリーにときどきやってくる、害のない動物とでも見ているのだろうか。水の流れる雑木林は最高の住処に違いない。

写真8

木の種類は様々だ。崖下には小さな流れがある。

写真9

見上げれば緑の洪水。 

写真10

広場に出た。農業者大学校のグラウンドらしい。道は右に続いているが、下りは終わりのようだ。

写真11

林野庁の関係施設の敷地らしい。ウグイスの声がする。

写真12

林野庁の宿舎の敷地に出た。

写真13

棚田がある。谷戸(やと)の棚田を保存したものらしい。カエルの声がする。

写真14

ゆったりと曲がる道がある。地面はすっかり平らだ。

写真15

少し先で下り坂が始まっている。台地の端に来たらしい。

写真16

尾根の道との合流地点だ。

今回はここまで。沢下りでは昔のままの雑木林を堪能できた。 


大谷戸川緑地

2012年05月01日 | 街歩き

前回歩いた大谷戸川(おおやとがわ)の上流、川崎街道(旧道)の南に「大谷戸川緑地」という公園がある。地図を1947年の空中写真と見比べてみると、どうやら川を埋め立てた跡地を公園にしたらしい。大谷戸川緑地の南にも流れの痕跡が残っているようなので、出かけることにした。

場所はこのあたり。

1947年の空中写真ではこんな風に写っている。

空中写真1

この写真は国土地理院の国土変遷アーカイブの空中写真(写真名USA-R556-No1-184)の一部を切り出したものである。

写真上部の太い道路は当時の川崎街道。中央を下(南)から上(北)に向けて大谷戸川が蛇行して流れている。

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いつものように、黄色いマーカの足元がカメラの位置で、赤い扇形がカメラの向きだ。地図上のマーカか、左のペインのマーカをクリックすると写真が表示される。左のペインのチェックボックスでマーカを消すこともできる。

写真1

川崎街道(旧道)から緑地の中に入ると、突然林が始まった。年を経た木がある。別世界に入ってしまうような不思議な感覚があった。

写真2

少し入ると公園らしくなってきた。生えている木は様々で、まるで昔の雑木林のようだ。小道が緩やかにカーブして続いていく。この小道が大谷戸川の流れの跡なのだろうか。

写真3

水路があるが、水は流れていない。これは公園として整備したときに作ったもののようだ。もっと進んでみよう。

写真4

水路と小道が続いていく。

写真5

林の小道が続く。落ち着いた雰囲気だ。マンホールの蓋が無粋だが、これは小道の下が暗渠になっていて、現在も下水道として使われている証拠だ。

写真6

公園はここで終わりらしい。手入れが行き届いているとは言えないが、昔の雑木林の雰囲気が残っていて好ましかった。
右に続く道路が昔の大谷戸川に重なるようなので、そちらへ進んでみる。

写真7

保育園の横が空き地になっていて、通路として使われている。このカーブも昔の大谷戸川の写真と一致するようだ。

写真8

空き地が続いている。道路の側溝のような水路もある。写真奥の階段のあたりで空き地は右に曲がっている。

写真9

右に曲がったあと、空き地は西に続いている。写真奥の崖の手前で今度は左(南)に向かっている。

写真10

水色の柵の向こうが先ほどの空き地の続きだ。ぐいっと南に向きを変えたところで空き地は終わっている。

昔の空中写真を見ると、大谷戸川の上流(南)にはその名のとおり大きな谷戸(沢)があって、耕作地として使われていた。現在は公園(大谷戸公園)や学校になっているが、昔の雰囲気を残す場所が他にもあるかもしれない。また歩いてみよう。

今回はここまで。

 


大谷戸川

2012年04月30日 | 街歩き

多摩市連光寺にくねくね蛇行する川がある。この場所だ。

春日神社を起点に歩いてきた。
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いつものとおり、黄色のマーカの足元がカメラの位置で、赤の扇形がカメラの向きだ。 

写真1

春日神社のケヤキ。多摩市の天然記念物になっている。

写真2

川崎街道(旧道)から少し入ると、道路からだいぶ下がった一角が公園になっている。地図にもある清水渓緑地だ。下りてみよう。

写真3

水辺に子供が遊んでいる。ザリガニがいるらしい。いかにも昔の小川という風情なのだが、なぜか水はほとんど流れていない。写真の中央にあるのは手押しポンプの井戸だ。
こういう物。東京ではめったに見なくなった。
 

写真4

清水渓緑地の下流側に出て、謎が解けた。暗渠の出口があり、ここから地上の川が始まっている。緑地の水は昔の川で、現在の本流はこの暗渠なのだろう。

写真5

地上に現れた川は住宅の間を流れていく。

写真6

蛇行しながら流れは続いていく。

写真7

宅地の間を流れがすり抜けていく。奥は新しい建物だ。大規模マンションだろうか。

写真8

流れがアパートの間を抜けてくる。八重桜が満開だ。
実はここまで、この川の名前がわかっていなかったのだが、この場所に多摩市の掲示があった。大谷戸川(おおやとがわ)という川らしい。そういえばこの川の上流(南)の方にある大きな公園は「大谷戸公園」だ。

写真9

突然視界が開けた。すぐそこは乞田川だ。川は道路の下をくぐって乞田川に合流している。

この大谷戸川だが、今は乞田川の支流になっている。ところが昔の空中写真を見るとちょっと面白い。
このブログの「昔の乞田川」の空中写真1だ。もう一度載せておこう。

空中写真1

この写真は国土地理院の国土変遷アーカイブの空中写真(写真名USA-R556-No1-184)の一部を切り出したものである。

この空中写真は1947年の撮影。上端に見える太い川が整備された大栗川で、そこからU字型にぶら下がったように見えるのが昔の大栗川の河床らしい。下(南)から蛇行しながら流れてきて、昔の大栗川に左(西)から合流しているのが、昔の乞田川。そしてU字型の右辺(東側)に南から合流しているのが昔の大谷戸川だ。

ということは、このU字型が大栗川の本流だったころは、大谷戸川は乞田川ではなく、大栗川に直接合流していた。つまり大谷戸川は大栗川の支流だったのだ。

今回はここまで。 


桜の大栗川

2012年04月16日 | 街歩き

乞田川の桜は載せて、大栗川の桜を載せないのはやっぱり片手落ち。
一週間遅れで行ってきた。実は前の週に歩いたのだけど、まだ3分咲きだったので写真を撮らなかった。今週はどうだったか?

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写真1

大栗川の左岸から和田公園を望む。

写真2

和田公園のそば。遊歩道が桜の絨毯になっていた。

写真3

これも和田公園のそば。

写真4

左岸の公園から和田中学校を望む。

写真5

和田中学校の横。

写真6

大栗川を離れて、稲荷塚古墳の隣の公園。

散り始めた桜は風情がある。
今回はここまで。 


桜の乞田川

2012年04月09日 | 街歩き

遅れていた桜がようやく咲いた。多摩市で桜と言えば乞田川だ。昔の流路の痕跡探しを兼ねて桜を見て歩いてきた。
歩き始めたのは、多摩第三小学校の校庭の脇のこの場所だ。ここから現在の乞田川を下って行く。

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例によって黄色いマークの足元がカメラの位置で、赤い扇型がカメラの向きだ。

写真1

多摩第三小学校の側にある小橋の上から。見事に満開だ。
小橋は人だけが通れる細いもので、人が歩くと揺れる。ちょっと恐かった。

写真2

右岸の遊歩道。桜のトンネルになっている。

写真3

少し下った橋の上から。川岸が遊び場になっている。

写真4

乞田新大橋から。右岸の桜並木はまだ続く。

写真5

川岸に下りてみる。

写真6

右岸の桜並木にようやく終わりが見えてきた。

写真7

ここも桜のトンネルだ。

写真8

桜並木の終わりが近い。もう少し歩くと熊野橋だ。

写真9

風がちょっと冷たかったが、暖かい陽射しと青空が心を和ませてくれた。

今回はここまで。 


昔の風景(多摩市関戸)

2012年03月31日 | 街歩き

春の陽気に誘われて、多摩の昔の風景を探して歩いてきた。この場所だ。

北も西も桜ヶ丘団地として造成されて住宅地になっているのだが、この付近だけはまだ畑が残っている。1947年の空中写真と比べると、当時のあぜ道がそのまま現在の道路になっているようだ。

空中写真1

この写真は国土地理院の国土変遷アーカイブの空中写真(写真名USA-R556-No1-184)の一部を切り出したものである。 

今回のカメラの位置と向きはこちら。(新しいウインドウが開きます)
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いつものように、黄色のマークの足元がカメラの位置で、赤い扇型がカメラの向きだ。

写真1

少し上(北側)の道路からの眺め。桜ヶ丘の丘陵から乞田川に下って行く沢になっている。

写真2

西からの眺め。自動車の通れる道路はここで行き止まりだが、車止めの先は下り階段になっている。よく晴れて気持ちがいい。

写真3

階段を下りると満開の梅が迎えてくれた。

写真4

畑の間に道がある。1947年の空中写真に写っていたあぜ道に違いない。今でも自動車がやっと1台通れるだけの幅しかない。

写真5

右手(南側)の畑の先は斜面になっている。この斜面が沢の端なのだろう。

写真6

左手(北側)の眺め。畑があり、丘陵は林になっている。この一角だけはまるで時の流れから取り残されているようだ。

この日(3月25日)は、この春初めてと言っていい穏やかな1日で、歩いた場所も期待どおりだった。
街歩きをする身には、このまま春の陽気が続くとうれしいのだが…

今回はここまで。
この日は昔の乞田川の流れの跡も訪ねたのだが、それは別の記事で。