詩:草野心平
曲:多田武彦
やっとのお出ましです。
まぁ、世間一般的には「タダタケ」っていう愛称で親しまれているよね。
一部では「日本のマイケル」とか、呼ばれていませんよ。
かすってもいない
さて、曲に関しても作曲者に関しても
ここで私が語れることなんてほとんどゼロですから、
より正確で詳細な情報を求めている人は
ググるなりヤフるなり、知恵ぶくろったりしてくださいね。
さすがにそんなスラングは通用しません
____
取り上げといて何ですが、
私はこの曲だいだいだいっきらいです!!
世間的には「日本人にとって古代から心の基盤であり象徴的存在である富士山、
その美しさ雄大さその他諸々をダイナミックなスケールで描いた歴史的名作」
ってな感じでとらえられている気がしますが
単なる「作曲家多田武彦のSっぷりが遺憾なく発揮された歴史的迷作」です。
その根拠はいろいろありましょうが
何と言っても、五線なんて簡単に越えていく音域の広さでしょうね。
特にトップテノールというパートは鬼でして、
「富士山」の演奏では面白いように彼らが倒れていく様を観察することができます。
早い人は2曲目の途中でリタイアし、以下次々と。
組曲ラストの「だいーしゅうーう~」を歌うころには
パートの1割が生存していれば御の字ですね。
そういう仕組みだから、規模の小さい団体がこれを取り上げるのは止めたほうがいい。
歌い手と客席のためです。
高いといってもファルセットで処理すればそんなに難しくないと思うが、
表現としていまいち。
そのため、無理して喉に負担をかけてAにチャレンジ→ピッチがグダグダ、
というパターンに落ち着いてしまうんですね、はい。
もうこの曲に関してはピッチとかそういうちっこいことはどうでもよくて、
何十人もの野郎共が悶え苦しみながらも、
最終的に歌いきることができればいいんじゃないか、
むしろそのことで得られる一体感とか達成感みたいなもののほうが大事なんじゃないか、
それも含めてこの作品なんじゃないかとか思ったりしなくもないですね。はい。
___
しかし、ただ難しい、キツイ、酷い、というだけの曲なら別に嫌いにならないのです。
この作品の性質の悪いのは
それでも思わず「久しぶりに歌ってみようかな!、今度の演奏会で取り上げてみようかな!」
と思わせてしまうとこにあると思うんですよ。
そういうとこには作品の底力を感じてしまいますね。
ただね、実際の富士山も似たようなもんで
遠くから眺める分にはとてもよろしいのです。
ただしいざ登山だ!となると
もうタダのゴミ山でしかないんですね。そのくせやたら高さはあると。
高尾山のほうが断然、コストパフォーマンスに優れています。
ただ残念なことに私の知る限り「高尾山」という曲は無いんですね。
誰か委託してください。
_____
Ⅰ.作品第壹
―ああ 夢みるわたくしの 富士の祭典―
(草野心平は生涯を通じて富士山を詩に詠み、
「作品第ほにゃらら」とナンバリングしているんだそうです。)
ここでは富士山麓の春の景色に、遥か古代の華やかな春の宴の様子を思い浮かべています。
曲調がわりかしころころ変わり見せ場が多い。
初っ端から飛ばすなぁ、といった感じ(?)
Ⅱ.作品第肆
―川面に春の光はまぶしく溢れ
そよ風が吹けば光たちの鬼ごっこ
葦の葉のささやき
行行子は鳴く
行行子の舌にも春のひかり―
同じく穏やかな春の景色。
まさに春の光のような暖かい長調かと思えば、
どうやら詩人さんの心は「却って物憂く」なっていたようで激しい短調に。
かと思えば少女達が縄跳びをするのを眺めて、
再び穏やかな長調に落ち着いたりしています。
何だ、そういうことだったのか。
違います。たぶん。
Ⅲ.作品第拾陸
―<存在を超えた無限なもの>
<存在に還へる無限なもの>―
副題「黒富士」
難しいです。
これは純正で決まれば本当に格好いい曲だと思う
Ⅳ.作品第拾捌
―どこからか そして湧き上がる
天の楽音―
個人的にはトラウマ曲だったりする。
え、そこでポルタメント?!みたいな
Ⅴ.作品第弐拾壱
―降りそそぐそそぐ
翠藍ガラスの
大驟雨―
副題「宇宙線富士」
冒頭は意外なほど、現代的な臨時記号ばっかりの譜面。
どうせこれがパァーッと盛大になるんだろうなぁと思っていると
「いきなりガッと」その通りになる。
後の展開はもう拍子抜けするほどベッタベタ。
この曲を歌いたがるトップを見ると
「Mなんだなぁ」とつくづく思う。
______
1956年、多田武彦氏26歳の時の作品で、氏の第2作目ということです。
何でも前作「柳河風俗詩」について
師である清水脩氏に
「ダイナミックさに欠ける、声域にとらわれすぎ」
とダメだしをくらったとかで
こういう作品になったそうです。
黒幕ここにあり。
今日は本当に適当だ。
病みあがりだから許してください