きょうは、一日じゅう 雲をみながら仕事をした一日だった。
そして、その日の朝の空の色合いや、雲の切れ方、たなびき方が、いまよりずっと、自分の気分や気持ちと 大きなかかわりあいをしていた 小学校1年生の夏の日の記憶を、想い出の大海原 海中深くから、掬いあげ、手にとっていた。
朝、学校に通じる下り坂を興奮にみちた子供ごころで 小走りにかけ下りていったときに、体をあったかくつつみこんでくれていた、おひさま。
空高いところから降り注ぐ朝の陽の光は、厚ぼったく広がる灰色の雲に落ちて、その雲にやわらかく濾過されてやさしい表情が目をさましたところで、僕の頭のところへとひらひらと舞い降りてきていた。
そして、学校の最後の授業。 5時間目の書道の時間になったとき、気をぬくと重い瞼が目におおいかぶさってしまったとき。
あかね色の夕空がどこまでも広くうすく、すきとおって広がる空間の開けのなかを、悠然と、どっしりとしたおももちで、きれぎれになった鰯雲の一群がゆっくりと家に帰ろうとしていた。
きょう、一面総ガラス張りのオフィスのガラス壁からくっきりとみえるのは、眼前にそびえたつ六本木ヒルズの頭上の大空を我が物顔でとおりすぎていく灰色の鰯雲だ。
ヒルズの住人たちは、数秒を争う資本マーケットの仕事に頭と手を総動員して仕事を進めながらも、すこしでもこの冬空をみやる瞬間を体験しているのだろうか。。。
蛍光灯の明かりに照らされたオフィスのなかの空間は、朝・昼・夜の移りかわりや、季節、それに天気の移りかわりがながれていることにぼくたちの関心が向くのを嫉妬しているかのように、いつも変わらずに、決められた一定光量の人工太陽を注いでくれる。
時間や、場所、それに場や気分の文脈によって起伏があるはずの生活空間を、均質に、のっぺらぼうに馴らしていく静かな力を行使している近代生活のスタイル・インフラたち。
そこには、世界のどの街にいても、直線的・計画管理の意思をかたちにした近代スカイクレイパー・ビルがひしめきあう同じ風景だけがひろがる現代の世界に、安心感と、寂寥感を同時に感じてしまう、2009年の20代後半の自分の日常生活感覚の混乱と困惑をかいまることができるのかもしれない。
かつて、<<生きられる時間・生きられる空間>>という言葉に思いを傾けた一人のロシア系フランス人 精神科医がいた。E.Minkowskiというおじいちゃん その人だ。
自分の気分と、身の廻り・辺り一面をとりかこむ場の雰囲気との界面から、そのときどきの僕たちの体感する、いきているうえで、呼吸しながら身をどっぷりと浸して、水中に浸(つ)かっている、ときの流れの脈拍・鼓動と、場の広がりの現実感覚というもの。
この脈拍こそが、僕たちがいま・こうして、ここに場を占めて何か新しいことに身を乗り出そうとしている、生活しているという現実を構成しまた、その現実感を気分や情動として、場の広がり感(覚)や、ときの流れ感(覚)という2方向のベクトル感覚(はたして、<とき>は、方向をもたないスカラー量とみなすべきだろうか?)をともなって、わたしたちに体感させている当の本体なのかもしれない。
つまり、この脈拍、律動こそが、
<なぜ、この世には何も「ない」のではなく、何かが「ある」のか?>
そして、
いまここに、このようなありようで、わたしとあなたとが、おなじ場所に居合わせて、それぞれの情動や世界観をともないながら隣り合って呼吸している現実は、どのようにして引き起こされているのか(Wie geschen Es als etwas ?)
この問いに答える、それを「引き起こしている」当の本体、実態、なのかもしれない。
この律動を、命の鼓動となづけたい。
直感的に、感覚的に、その方が自分の足のしたにひかえて、自分をささえ返している大地の感覚に素直な表現だからだ。
Actualityをもたらす<メタ・ノエシス流>(木村敏・精神科医)、
ひたすら静かに、そして忍耐強くその声に耳を傾けるべき<存在の声・響き・轟
き・しなり>(ハイデッゲル・思索の旅人)
人によって、その感じ方は、さまざまだ。
この命の鼓動に注意の矛先をむけることで、人々にとって、あくまでも現代の生活者の感覚の現状にとって、ここちよい・親しめる・適切な かかわりあいの仕方が保たれている状態が担保される?(制度的に? or 人々の自律的な生活の緊張感・節度によって?)ような、生活の空間の場づくり、建築思想、都市論、田舎論、等々が、うみだされてくるのかもしれない。
中村雄二郎、上田閑照、鷲田清一、オギュスタン・ベルク、イー・フー・トゥアン、ゲルノルト・ベーメ、そして、ポール・ヴィリリオ、和田伸一郎・・・
この問いをまじめに問うべき問題として、自分の意識のなかで設定している人は、同時代をいきている人たちのなかには、すでに何人かいるようだ。
直に、お互いの空気感・存在の手触りを確かめながら対話したり、ベンチに隣り合って腰かけて無言の対話をしたことはまだなく、彼らが物した文章、という活字という媒介物(media)を受け取ったレベルにとどまるものの、彼らの存在は、とても感慨ぶかいもの。
どういきていきたいのか = どういう場に身を浸して、いきていきたいのか?
この問いを、生活の場づくりの実践というささやかな行動の積み重ねのなかで、問い深め、行動によって、自分の生き方を切り出していこう。
きょうのような鰯雲とわたしとのあいだ・界面につむぎだされてくる・分泌されてくる今日という日の僕の情動・雰囲気・気分に耳を傾けながら。
2009/1/22 01:49
~時間が、情動という、「空」から、方向=意味(sens)/時間+空間がこみあがってくる泉の湧き出しの過程で生じてくることで、数字という離散情報によって、表現される結果がもたらされる~
=時間は、微積分可能な連続量ではないのだ。そうではなく、むしろ時空は、マックス・プランク量で表現される飛び飛びの非連続量だ。
このことに注目することでそこから、その時間とともに生きているわたしたちの生活=人生にとって、どのような大切な意義・意味を汲みとることができるだろうか?=
そして、その日の朝の空の色合いや、雲の切れ方、たなびき方が、いまよりずっと、自分の気分や気持ちと 大きなかかわりあいをしていた 小学校1年生の夏の日の記憶を、想い出の大海原 海中深くから、掬いあげ、手にとっていた。
朝、学校に通じる下り坂を興奮にみちた子供ごころで 小走りにかけ下りていったときに、体をあったかくつつみこんでくれていた、おひさま。
空高いところから降り注ぐ朝の陽の光は、厚ぼったく広がる灰色の雲に落ちて、その雲にやわらかく濾過されてやさしい表情が目をさましたところで、僕の頭のところへとひらひらと舞い降りてきていた。
そして、学校の最後の授業。 5時間目の書道の時間になったとき、気をぬくと重い瞼が目におおいかぶさってしまったとき。
あかね色の夕空がどこまでも広くうすく、すきとおって広がる空間の開けのなかを、悠然と、どっしりとしたおももちで、きれぎれになった鰯雲の一群がゆっくりと家に帰ろうとしていた。
きょう、一面総ガラス張りのオフィスのガラス壁からくっきりとみえるのは、眼前にそびえたつ六本木ヒルズの頭上の大空を我が物顔でとおりすぎていく灰色の鰯雲だ。
ヒルズの住人たちは、数秒を争う資本マーケットの仕事に頭と手を総動員して仕事を進めながらも、すこしでもこの冬空をみやる瞬間を体験しているのだろうか。。。
蛍光灯の明かりに照らされたオフィスのなかの空間は、朝・昼・夜の移りかわりや、季節、それに天気の移りかわりがながれていることにぼくたちの関心が向くのを嫉妬しているかのように、いつも変わらずに、決められた一定光量の人工太陽を注いでくれる。
時間や、場所、それに場や気分の文脈によって起伏があるはずの生活空間を、均質に、のっぺらぼうに馴らしていく静かな力を行使している近代生活のスタイル・インフラたち。
そこには、世界のどの街にいても、直線的・計画管理の意思をかたちにした近代スカイクレイパー・ビルがひしめきあう同じ風景だけがひろがる現代の世界に、安心感と、寂寥感を同時に感じてしまう、2009年の20代後半の自分の日常生活感覚の混乱と困惑をかいまることができるのかもしれない。
かつて、<<生きられる時間・生きられる空間>>という言葉に思いを傾けた一人のロシア系フランス人 精神科医がいた。E.Minkowskiというおじいちゃん その人だ。
自分の気分と、身の廻り・辺り一面をとりかこむ場の雰囲気との界面から、そのときどきの僕たちの体感する、いきているうえで、呼吸しながら身をどっぷりと浸して、水中に浸(つ)かっている、ときの流れの脈拍・鼓動と、場の広がりの現実感覚というもの。
この脈拍こそが、僕たちがいま・こうして、ここに場を占めて何か新しいことに身を乗り出そうとしている、生活しているという現実を構成しまた、その現実感を気分や情動として、場の広がり感(覚)や、ときの流れ感(覚)という2方向のベクトル感覚(はたして、<とき>は、方向をもたないスカラー量とみなすべきだろうか?)をともなって、わたしたちに体感させている当の本体なのかもしれない。
つまり、この脈拍、律動こそが、
<なぜ、この世には何も「ない」のではなく、何かが「ある」のか?>
そして、
いまここに、このようなありようで、わたしとあなたとが、おなじ場所に居合わせて、それぞれの情動や世界観をともないながら隣り合って呼吸している現実は、どのようにして引き起こされているのか(Wie geschen Es als etwas ?)
この問いに答える、それを「引き起こしている」当の本体、実態、なのかもしれない。
この律動を、命の鼓動となづけたい。
直感的に、感覚的に、その方が自分の足のしたにひかえて、自分をささえ返している大地の感覚に素直な表現だからだ。
Actualityをもたらす<メタ・ノエシス流>(木村敏・精神科医)、
ひたすら静かに、そして忍耐強くその声に耳を傾けるべき<存在の声・響き・轟
き・しなり>(ハイデッゲル・思索の旅人)
人によって、その感じ方は、さまざまだ。
この命の鼓動に注意の矛先をむけることで、人々にとって、あくまでも現代の生活者の感覚の現状にとって、ここちよい・親しめる・適切な かかわりあいの仕方が保たれている状態が担保される?(制度的に? or 人々の自律的な生活の緊張感・節度によって?)ような、生活の空間の場づくり、建築思想、都市論、田舎論、等々が、うみだされてくるのかもしれない。
中村雄二郎、上田閑照、鷲田清一、オギュスタン・ベルク、イー・フー・トゥアン、ゲルノルト・ベーメ、そして、ポール・ヴィリリオ、和田伸一郎・・・
この問いをまじめに問うべき問題として、自分の意識のなかで設定している人は、同時代をいきている人たちのなかには、すでに何人かいるようだ。
直に、お互いの空気感・存在の手触りを確かめながら対話したり、ベンチに隣り合って腰かけて無言の対話をしたことはまだなく、彼らが物した文章、という活字という媒介物(media)を受け取ったレベルにとどまるものの、彼らの存在は、とても感慨ぶかいもの。
どういきていきたいのか = どういう場に身を浸して、いきていきたいのか?
この問いを、生活の場づくりの実践というささやかな行動の積み重ねのなかで、問い深め、行動によって、自分の生き方を切り出していこう。
きょうのような鰯雲とわたしとのあいだ・界面につむぎだされてくる・分泌されてくる今日という日の僕の情動・雰囲気・気分に耳を傾けながら。
2009/1/22 01:49
~時間が、情動という、「空」から、方向=意味(sens)/時間+空間がこみあがってくる泉の湧き出しの過程で生じてくることで、数字という離散情報によって、表現される結果がもたらされる~
=時間は、微積分可能な連続量ではないのだ。そうではなく、むしろ時空は、マックス・プランク量で表現される飛び飛びの非連続量だ。
このことに注目することでそこから、その時間とともに生きているわたしたちの生活=人生にとって、どのような大切な意義・意味を汲みとることができるだろうか?=