Life: 廻りの空気と同期する

リズムとか、空気感をkey wordに心地よい生活空間をみつけていく旅のblog

夏の木漏れ日、そして風

2009-02-11 15:16:32 | Weblog
きょうは、心地よい夏の日の一枚を思い出そう。

この想い出の情景は、昨年の夏、勤め先の会社の用でベルギーを訪れたときのものである。

欧州の夏はほんとうにすがすがしい。街路樹の木々の色が、パリでも、ベルギーでも、日本でみられるよりも葉の色が一層、明るくて、すきとおっている。
 
心地いい夏の風が、はるかに強調されて肌身をなでてくれる。

そんな夏のヨーロッパを訪れるのが好きだ。

2008年7月。このとき、ほんとうにずいぶん長いあいだ、遠ざかっていたパリを訪れて、特急列車・TGVに揺られて、一路 ブリュッセルに来た。

この一枚は、あのとき夢にでてくるくらい憧れていた、仕事場オフィスで後ろの席に腰かけている女の子のことが思われて、そばで心地いい彼女の声をきくことができずに、一人で仕事をこなさなければならない身のうえを切なくおもっていた、そんな一日のランチのひとときにカメラ・シャッターの窓枠からのぞいてみた景色だ。



次回は、前回の記事にその感想を載せさせていただいた、人生の原点再訪の写真を掲載したい。

きょう 掲載しなかったのは、ある頃合いの時間がたったあとに眺めるのが、写真を楽しむうえでの秘訣であることに気づいたからである。

 




来歴―来し方;わたしにとっての、生きている感覚

2009-02-01 23:14:46 | Weblog
きょう、ある場所を訪れた。

そこは、私が周囲の世界と初めて絆をむすび、互いに相手が自分にとって、どのような質感を以て自分にふれてくるのか、その感触をはじめて見出した場所である。

(*「自分にとって」というあたりは、わたしの現段階での未熟さがあらわれている。 なぜならば、成熟した人間であるならば、まず第一に、「相手にとって」自分の存在がいかなる重力場を形成しているか、を自問し、かつ有効に立ち振る舞わなければならないはずだから、である)

一部の人たちのあいだで共有された言葉遣いに、この感覚を表現する術を求めるとするならば、こんな語り口になるだろうか。

 Maulice Merleau=Ponty氏の語る意味合いにおいて、

 わたしと世界との肉のまさぐりあいから、わたしと世界にとっての、この場、このときの手触りの感覚が分泌され、つむぎだされてくる、そのstyle(スティル)=筆致=リズム が、おたがいのあいだではじめて、生じてきて、流れはじめた場所、ひとことで言うと、誕生の揺りかご 

 という一名詞節

である。

ここで、氏の言葉づかいにみずからの感慨を託してひとつらなりの字句に落としこんでみた取り組みは、安易な引用でもなければ、衒学気どりでいい気になっているのでもない。

 Merleau=Ponty氏自身の文章にあらわれる、氏と世界とのまさぐりあいの質感が、その陽気さ、幸福感、肯定されるべき生の体験であるという根っこの気分 という点において、わたしの生のなかでわたしに感じられてくる生活の質感と、おなじ系統の色であったり、同じ性質の旋律であるように感じられてならならいからだ。

 そして、彼も、わたしも、この水色=青色の感覚(ときたま、明るくて淡い黄色)のなかで呼吸しはじめている自分を感じはじめたのは、物ごころついて間もない、幼稚園生年少組から、小学校1年生の時期にかけてのことである。

 二人のあいだには、ずいぶんとちがいもある。

 Merleau=Ponty氏は父親を早くに亡くした母子家庭であったし、それもあまりにも親密なあまり、温かい家庭のなかにくるまれて、外の世界からは、かなりの間(ま)をおいて隔てられた、繭にくるまれた揺り籠のなかの幼少期であったという。

 それと比べてみると、

 わたしの場合は、気の合ったクラス・メイトといつも3、4人で登下校の前後の行動をともにして、いつも自分たち仲間内だけの<今日の出来事>のなかを生きて、生きていた。しかし、明るく、幸福であり、日があがってから落ちるまでの一日が、いつも完結して安心して眠りに落ちる、満ち足りた気分であった。

 哲学者の木田 元氏は、著書『メルロ=ポンティの思想』(岩波書店/ハード・カバー判)の冒頭で、ポンティ氏の生きた生活の明るさを、どこか物哀しげな陽気さ、という言葉で以ていいあらわしていた。それも、木田氏の人生の友であったという旧友の面影を、瞼のうらに映じつつ、そのような言葉になって口をついてきたのだと告白されている。

 わたしの場合は、どうだろうか。

 わたしの生活の感触のなかには、いままでわたしが体験してきたどの意味においても、哀愁とか、物悲しさといった音色は響いていない。

 そこには、ポンティ氏の身がいつもそのなかに半身、浸かっていたかもしれない
物悲しさもなければ、西田幾多郎の胸中、奥底にひと知れずしずしずと(つらつらと)流るる、細くか細い、一条の白い滝の如き 哀愁の涙の情感でもない。

 このように、私と氏とのあいだには、少なくともひとつの大きな違いがある。

 しかし、どうだろう。

 二人とも、幼な子の追憶のかなたの生活の感情の旋律の鳴り渡りのなかで、いまもその日の生活のリズムを響かせているあたりは、共通するようである。

 これは、過去へのとじこもり・繭のなかに自分をかくまっているのか。

 それとも、自分にとって、世界が、

 世界という、自分の足が立っているここから周りへと開け、ひろがっている世界という場所――行動と選択の可能性のひろがりの空間――確率の全事象(数字の「1」で表現される全体確率空間)――が、
 
 最初からそのように体験されていた、そのそもそもの始まりの相貌をきょうも維持されたまま、きょうまでのところ 一貫した、一本筋のとおったまっすぐとぶれない路を、歩んでいると捉えるべきなのだろうか。

 生きていることの感触がその質感において変わらずにきた、とりあえずここまで歩んできた。

 このことがわたしの人生にとって、かなる意味を帯びてくることになるのか――その(人生の)結末において。

 その意味合いを、いまのわたしはまだ知ることはない。

 さて。

 わたしはこのような感触のただなかで世界という行動の可能性の空間のなかを両手両脚でかきわけ、息き継ぎして、前へ前へと泳いでいくなかで、

 世界がわたしの体=身体(corps)=肉(chairs)にふれてくる、ある種、水圧のような直観的な圧力の感覚をもって自分の体にむかってくる、水流としてわたしに触れてくる水中のなかで、

 水を掻くわたしの指先や間接と、そこに押し当る水流とのはざまにおいて、無数に―無限に豊かな可能性のなかから、ある特定の色とかたちを帯びた/身にまとった、意味や 感覚;左から右へ、右から左へ、という幅の間隔、同様に、上下、上等―下等、好き(好ましい)-嫌い(好ましくない)、近い―遠い、こちら(こっちのほう)―あちら(あっちのほう) といったもろもろの方向=意味(sens)が、そのような特定の意味・価値(感)の現実感覚、しっくりくる感覚、納得感、了解感をもって、ある範囲の形象の結晶(個体)のなかに収束してくるできごとが、とても不思議な心持ちでかんじられてきた。

 この感触は、いまでもはっきりと覚えている。

 小学校1年生の下校の帰り道、学校正門をでて、右にまがって、学校敷地の角をもういちど右に折れたときに左手下側にみえた、壊れて、粗大ごみとして、コンクリ―トの階段のうえにうずくまるように無造作に打ち捨てられて、ころがっていた、赤と黒のブラウン管テレビがあることに気がついたときのことだった。

 (きょう、そのコンクリートの階段がいまも、その場所にちゃんと位置(場)を占め、形をとどめていることを確認した(ところだ))

 ここから、意味=方向とはなんなのか? そこにともなうしっくり感、実感の質感とはなんなのか? そして、そもそもわたしが、いまこうして、いまというときと、場の広がりという3次元の次元軸という座標概念(ルネ・デカルト空間=ガウス座標空間)をかんじているという出来事そのことが、いったい、どこから、どのようにして、いかなる来歴をたどって、このわたしの意識という出来事のなかで実感として体得されてくるのだろうか?

 こうした、もろもろの疑問が、まだ幼な心のわたしの頭or 胸のなかでは はっきりとした問いのかたちにまとめあげられることもなく、ただ判然としない鬱々とした感情だけを胸に漂わせていた(頭ではない。胸のなかに、それはうすい雲のようにたなびいていた)。

 のちに―――高校2年生から大学1年の冬までのあいだに、

 わたしは、

 ”意味は項と項とのあいだ/はざま/すきまの差異から分泌されてくる”
 (フェルディナント=ソシュール)

 や、

 アンリ・ベルクソンの『哲学的直観』のとあるページに紙面から浮き上がったインクのなかに刻印された、メロディーのリズム、というイメージ、

 それに、

 木村 敏(”アクチュアリティ”、”メタ=ノエシス”の”ノエマ面”(意識の自覚面=水面)への(水底からの)沸き起こりの運動・噴き上げ)、

 ハイデッガー(”存在の場の開け”/”隔たりの奪取”と”方向の伐り開き”、”響き・しなり・轟”(『哲学への「寄与」論考』(発表のためにかかれたのではない、覚書きの類の紙葉の束?)、

 西田(”於いて有る場所”、”行為的直観”・・・)

 さらに、

 無限の可能性から、有限の可能性へと物事のこの世界へのたちあらわれ=出現せしめられる際のその形象の輪郭のあてがわれ方=の収束  
 
 や、
 
 いま、わたしにとっての存在の開けのただなかに、あなたや、彼や、彼女や、これこれの物が一緒になって居合わせ、邂逅しているということ(互いが場をしめる、そこにおいてあるところの場の開けが、相互にかさなりあっている/食い込みあっている?)ことの偶然性の驚きとその必然性・・・

 という意味=文脈での、

 可能性と偶然性

 の正体については、

 九鬼周三(『偶然性の問題』)
 と
 木村敏(『偶然性の精神病理』)

 これら2冊が、決定的な導き/助け となった。

 これらの問題のとらえかた、設問のたてかたと、それに回答を見出すための問題への切り込み方(アプローチの仕方)とについての考えが、自分の頭(今度は、頭、だ)のなかでなにがしかの輪郭を帯びはじめたのは、大学院修士課程の全過程を終えなくてはならなくなっていた、23歳の冬である( とくに、上智大学市ヶ谷キャンパスのちいさなかわいらしいpetit図書館; その2階の一席においてである )

 このとき、わたしは外交史を専攻していた。

 大学1年生のとき、韓国(大韓民国)をおとずれた経緯があり、このときに、狭い海――しかし波荒く、険しい海――を隔てた日本列島と、韓半島(むこうの人たちの呼び名)とのこちら側と、あちら側とでは、おなじ物理量で表現される時間と、空間のなかで、おなじ物理事象の展開のなかで呼吸をしながらも、それぞれ、色合い/色調のことなる文脈――歴史的来歴・文脈――の意味の布置(configuration)のなかから、それぞれの情感的価値をあてがいながら、その事象がときとともにつみかさなっていく光景をながめ、もてる手段を万般に動員して、自分の希望する方角へといざなおうとしている。


 このとき、わたしは強烈に感じていた。

 やはり、存在の場の開けのなかで、意味=価値の産出が、ひとびとのあいだで各々自分の価値「観」=世界「観」=正義「観」を分泌させて、編み上げさせている。
 
 そして、そうして編み上げられた世界観と世界観とが、偶偶(たまたま)同じ時代に生き合わせた、同時代人の身体(corps)のあいだで、あいまで、交錯し、時代の歴史、時代の空気、時代の思潮・趨勢/傾向/勢い/方向性/心性/パラダイム=モメンタム(momentum)を、つむいでいくのだと。

 ここでも、ポンティ氏の歴史=社会理論(身体=制度の布置の変容過程の記述)の運動が、たしかに、はたらいている。

 それでは、意味なり、価値(観)がぶつかりあう舞台であるところの、於いて有るこの世界のただなかに、数々の同時代人たちが居合わせて、出現してくるところの、その存在論的(ontrogisch)な構造のダイナミズムと、その存在論上の、そして人間の人生上の、意義・その構造のなかを生きることの価値 とは、いったい、いかなるものなのか?

 このことに得心のゆく回答を得るためには、存在論という問いと思索の圏域のなかで歩まねばならない。

 そう感じたのである。

 ところで、韓国をおとずれたのは、日本国内で出会うことのできた 外交問題評議会という米国の研究機関で上席研究員日本人第1号をされていた尊敬する先輩からの紹介状があったで、実現したものである。

 その紹介状を懐にして、現地の別の先輩のいきとどいたエスコートを受けて、かの国の与野党2党の党本部と、一方の党の敷設の国家戦略研究所をおとずれたていたのである。

 本部のテレビにうつしだされていたのは、生放送の「サンデー・プロジェクト」であった。電波が日本からここまで届いていたのだ。しかも、その電波をうける受動機をとりかこみ、画面をくいいるように見つめているのは、日本語を解する志の熱い、韓国の国士たち――年齢は80代から20代まで――であった。

 みな、肯定の感情も、否定の感情も両面、幾恵にも、幾襞にもおりかさなった日韓両国のかかわりあいの来歴のふりつもった地層の厚さ――心ある人であれば、じぶんは右だ、左だからといって、ひとことで白黒つけられない、人間どおしのまさぐりあいの集積の総体の歴史――に、それぞれの専門領域――立ち位置――から立ち入り、それぞれの想いを内に秘め、人知れず静かに燃えたぎらせている。そんな、思慮深い眼(まなこ)に光を宿らせながら、テレビ画面を見守っていた。
 
 わたしは、日本人としての歴史の降り積もり=過去の日本に生を享けた先輩たちが立って、活動した立ち位置=の地点から、

 日本人が過去の韓国の人々との係わり合いにおいてえらびとってきた無数の行動の数かす

 ――アジア主義者(対等連帯論者から、日本による指導論まで)から、欧米一等国の一角としての日本vs日本以外のアジアという私圏で同時代の進運をみつめ、行動した人たちまで、実にさまざまな思想と価値観と方向をめざした日本人――

 の論理と情念をくみとって、共感・同意はしないでも、その立ち位置を鑑みて、理解はしてほしい――了解はしないでも――と述べれば、

 相手も、韓半島の人々の立ち位置で以て、また実にさまざまな方向の動機と行動をとったひとたちのパッションを、熱くぶつけてきた。

 たがいに、相手の立場に身をおきかえてみれば、感情のうえで相手を抱擁できるケースが多かった(過去の個々の人々の行動それぞれについて)。

 しかし、おたがいに、受け継ぐべき、立場がある。

 国際政治学におけるConstractivism(e)(*社会構成主義の国際政治理論版)におけるひとつの重要な概念であるところの、立場、起ち位置("where he/she stands on"= his/her "role(s)")を背負っているのだ。

 そうだ。

 およそ、ひとは、この 於いてある世界のただなかに出現しはじめたそのときから、(量子論のかたり出すように)ある一定の不確定性量の許す範囲内で、世界のなかで場を占める立ち位置の座標点と、そこから目指そうとする方向と速さ=速度ベクトル(V or P)とは、その範囲内へと収束してしまうのだ。

 U-topia = Ubiquitas 汎神論者のとく神のように、

 わたしたちは、ここにもいて、あそこにもいる = この立場でもあるし、あの立場でもある、という芸当は残念ながら、まことに残念ながら、できないのだ。

 では、互いの立場の違いを、どうのりこえたらいいのか?

 はたして、その違いとは、なにか乗り越えるべき 間隙 なのだろうか?

 問いはどこまでも、つづいていく。


 ・・・(閑話休題)

 この問いは、またそのような問いとして、今後とも自問自答していくつもりだ。

 しかし、同時に、いま考えているのは、他の日の記事にかいて披瀝させていただいているとおりだ。

 存在のリズムを快適=自然あらしめる/ならしめるために、

 われわれは意図してどのような生活の空間を用意していくことができるのか?

 ---もしもわれわれが十分 思慮深く、賢明であり、なおかつ、いまもって、

 次の問いを自問しつづけるのならば、ということだ。

  「汝、善く生きるとはいかなることぞ」

 2009年2月2日月曜日 午前1時29分

 冗長にすぎた。わたしは思慮深さに欠けているようだ。

プロフィール変更

2009-02-01 09:20:57 | Weblog
プロフィールの写真・・・

ミニ・ミィー(オースティン・パワーズより)から、自画像に差し替えました!


美の感情

2009-01-23 01:19:28 | Weblog
 ある音の調べが流れはじめたとき、

 ある素晴らしい建築作品のきりひらく場の開けのなかに足を踏み入れたとき、

 じぶんがいる、ここ そこの 辺り一面が、一斉に際立った臨場感をもって、その存在が引き立ち、起ち上がってくる。

 そんな体験に襲われたことはないだろうか。

 わたしは、ある映画のなかの一情景と、ある建築作品の写真にであったとき、この体験をした。

 それは、

 映画「戦場のピアニスト」(原タイトル"The Pianist")のなかで、人の住処でなくなった荒涼とした街の残骸のただなかで、主人公がChopinの曲を響かせるシーンを初めてみたときがであり、

 また、

 建築家・Frank Lloyd Wrightが大地のうえに打ち立てた(建立した)、いまは亡き旧帝国ホテル本館の内観を写真貼でみたときである。
 
 前者のワン・シーンでは、
戦火のなか焼き捨てられ、打ち捨てられた廃墟と化した町のただなかで、
主人公がピアノに手をかけ、鍵盤を叩いて弦を震わせる。

 その瞬間、起きたのは、
人気のない、水を打ったような音のない、広漠とした、寂寥感と虚脱感に充ちた 満たされることのない寒い空間のなかに、突如そこを突き破る、激しい魂の躍動の響き渡りであった。

 この響き渡りが鳴り響くまで、その遺棄された空間を生きる者はおらず、ただ一人の人間によってさえ、その空間は生きられていなかった。
 その存在は忘れられ、その空間の存在は、もはや誰かによっても意義づけられたり、解釈されることを止めていたである。

 しかし、突如そこにひとつの音楽が鳴り響くことによって、この遺棄された空間に、ふたたび存在の照明があてられたのである。

 その空間はふたたび存在し始めたものとなり、その存在の開けには、ふたたび意味が付与された。

 音の旋律が、その場に、存在し始めるという動的な動きを引き起こしたのであり、そこに存在と、その次に意義と意味付けの場が開かれた。

 Chopinの曲が流れはじめた この映画の一場面は、私に音楽とは、存在の場をきりひらく圧倒的な力を内に蔵したなにか、なのだということを思い知らしめさせた。畏怖の念、それも、人間わざを遥かに絶した、そのあまりの圧倒さに、恐怖感がよびおこされ、ひざが笑い始めるほどの激しい畏怖の感情に、私は襲われたのである。

 

 では、Frank Lyoid Wrightの建築空間の場合はどうだろう。

 ここで体感したこと。

 それは、

 心地の良いリズムが体の奥底からこみあげてきて、全身から体の外、さらにWrightの建築空間の全域にまで充満し、対流しているかのような体験であった。

 音の形象化=音の彫塑 の実現(出現)とでもいうべき
 それはまさに、本物の、真正な(authentic)クラシック楽曲の響き・旋律の調べが、この建築の壁や柱、そして天井・床のかたち・デザインの空間的連なりを目で追っていくことで、自然と流れはじめてくる感覚であり、それはまさに、心地いいリズムを形象(かたち)のなかに刻印・結晶され、留まらせることに成功した、存在リズムの彫塑・彫刻ともいうべき建築である。

 真に驚嘆すべき安らぎの場の開設であり、どこか母胎の襞のなかに安らいでいるような、洞窟の内部の肌を感じさせるデザインと素材をもちいた建築であった。
(マヤ文明の形象から、Wrightはそのデザインの形象の着想を、得たのだという)

 この感動は、どこからやって来るのだろう。

 なぜ、どのようにして、わたしたちの体は、このような音の調べのイメージを聴き取ることができるのだろう。 そして、いったい、どこから、その音が聴こえてくるのだろうか。

 わたしは、この音の旋律は、前回のエッセーで文にしたためてみた、あの存在の律動・拍動と、どこかかかわりがあるのではないかとみている。

 そしてその拍動がもたらす美の感覚は、

 空から存在の空間・場(時空間の広がり)へと、この世界が空からつきあげられ、存在の鏡域のうちへと設立されてくる、あの出現の過程がもたらすactuality(木村)としての情感・人が(感じる)覚える世界の根本気分をほうはいとかんじさせてあまりない、水墨画の(デザインの前にたったときの)感動や、
 
 世界の厚さ・豊穣感・充実感を体感させる骨董の椀を両手にとってみたときの感動に、どこかで通底しあう経絡が流れているのだとおもう。

 いまだ言葉にできぬ、かくされた地層の水脈のような経絡が、である。

 Lloydは、次の言葉を後世に残しているようだ。

 「デザインとは、
 自然の要素を純粋に
 幾何学的な
 表現手段によって
 抽象する ことである」

 この「抽象」化のプロセス、妙技は、おそらく理屈によって到達されたのではなくて、Lloydという人の体のなかを<気>のように対流していた存在のリズムの拍動を、Lloydが余すことなく、聴き取ることのできた感性・直観によって、うみだされたものとおもわれてならない。

 それこそが、龍安寺の石庭を描いてみせた、庭師(親子)が、まるで当人が世界の磁力の磁力線を感じ取る探芯棒(磁石)であるかのように辺りを杖でたたきながらあるきまわるなかで、石や砂利を あるべきところに 自然と 配置してみせた芸当を可能にしていた感性と、根本が同一であるとおもわれるのである。

 リズム・・・この言葉を、存在論の文脈で、量子論の到達しつつあった知見にめくばせをしつつ、主題にすえて一冊の小論集を世にだしたのが、2、30年前の中村雄二郎氏である。

 われわれは、クラーゲスや、ゲルノルト・ベーメ、といったドイツの人々の感性に耳をかたむけつつも、空や空気感をかんじとり、水墨画をうみだしてきた、そして、フランスの印象派に感じ入ることのできた繊細な存在感(世界の気配)聴覚力をもって、存在のリズムと、それを通常の数倍のスケールで倍加して感得させてくれるような、世界との関わりあい・間合いの取り方に強みをきかせてくれる、楽曲の音の調べや、ある線以上の秀でた建築空間に共通する契機がなんであるのかを、よくよく検討し、探り当ててみることが肝要なのであると考えている。

 なぜならば、その共通する契機を洗い出し、そこに通底する本質を洞察し得たときにはじめて、空間の場の広がりと、ときの流れ、という、この存在の境域における、世界という場、いあわせた物(「集摂体」・本来的な「物」(das Ding))と隣人(たがいにとっての世界の「開け」・「空域」を重ね合わせる同伴者・邂逅者)とのもっとも豊穣で味わい深い間合い・距離感のなかで、この世界の存在の・そして、出現の旋律に、よりよく耳をかたむけ、より豊かに、際立って、自覚的に、みずからがそのような世界の場の立ち上がり・創建・創設の開けのなかに、同伴者として立会い、存在している事実を、豊に体得できる生活を送れるようになれるヒントが潜んでいるからである。

 プラトン、アリストテレスが問うた、汝、より善く生きるとは? という問いに実践をもって答えることのできる日は、このヒントを手にして糸口にすることで、わたしたちにとって真に、縁のある、現実的な将来目標スケジュールの視野に、やがておさまるようになるのでありましょう。

 日々、仕事のなかで、職場と自宅との行き帰りの通勤移動のなかで、この問いはすこしつづ、解かれていかれるのでなくてはならない。

 いかにより善く生活し得るかという問いに答える思索の時間とは、生活者の生活している日々の 平生の生活活動と生活労働のなかから、おのずから、生きて生じてくるものであるはずではないだろうか。

 1/23 02:38AM 自宅1階にて

 

灰色の雲・・・ゆっくりとながれていく、自分を思い返す時間

2009-01-22 00:33:23 | Weblog
きょうは、一日じゅう 雲をみながら仕事をした一日だった。

そして、その日の朝の空の色合いや、雲の切れ方、たなびき方が、いまよりずっと、自分の気分や気持ちと 大きなかかわりあいをしていた 小学校1年生の夏の日の記憶を、想い出の大海原 海中深くから、掬いあげ、手にとっていた。

朝、学校に通じる下り坂を興奮にみちた子供ごころで 小走りにかけ下りていったときに、体をあったかくつつみこんでくれていた、おひさま。

空高いところから降り注ぐ朝の陽の光は、厚ぼったく広がる灰色の雲に落ちて、その雲にやわらかく濾過されてやさしい表情が目をさましたところで、僕の頭のところへとひらひらと舞い降りてきていた。

そして、学校の最後の授業。 5時間目の書道の時間になったとき、気をぬくと重い瞼が目におおいかぶさってしまったとき。

あかね色の夕空がどこまでも広くうすく、すきとおって広がる空間の開けのなかを、悠然と、どっしりとしたおももちで、きれぎれになった鰯雲の一群がゆっくりと家に帰ろうとしていた。

きょう、一面総ガラス張りのオフィスのガラス壁からくっきりとみえるのは、眼前にそびえたつ六本木ヒルズの頭上の大空を我が物顔でとおりすぎていく灰色の鰯雲だ。

ヒルズの住人たちは、数秒を争う資本マーケットの仕事に頭と手を総動員して仕事を進めながらも、すこしでもこの冬空をみやる瞬間を体験しているのだろうか。。。

蛍光灯の明かりに照らされたオフィスのなかの空間は、朝・昼・夜の移りかわりや、季節、それに天気の移りかわりがながれていることにぼくたちの関心が向くのを嫉妬しているかのように、いつも変わらずに、決められた一定光量の人工太陽を注いでくれる。

時間や、場所、それに場や気分の文脈によって起伏があるはずの生活空間を、均質に、のっぺらぼうに馴らしていく静かな力を行使している近代生活のスタイル・インフラたち。

そこには、世界のどの街にいても、直線的・計画管理の意思をかたちにした近代スカイクレイパー・ビルがひしめきあう同じ風景だけがひろがる現代の世界に、安心感と、寂寥感を同時に感じてしまう、2009年の20代後半の自分の日常生活感覚の混乱と困惑をかいまることができるのかもしれない。

かつて、<<生きられる時間・生きられる空間>>という言葉に思いを傾けた一人のロシア系フランス人 精神科医がいた。E.Minkowskiというおじいちゃん その人だ。

自分の気分と、身の廻り・辺り一面をとりかこむ場の雰囲気との界面から、そのときどきの僕たちの体感する、いきているうえで、呼吸しながら身をどっぷりと浸して、水中に浸(つ)かっている、ときの流れの脈拍・鼓動と、場の広がりの現実感覚というもの。

この脈拍こそが、僕たちがいま・こうして、ここに場を占めて何か新しいことに身を乗り出そうとしている、生活しているという現実を構成しまた、その現実感を気分や情動として、場の広がり感(覚)や、ときの流れ感(覚)という2方向のベクトル感覚(はたして、<とき>は、方向をもたないスカラー量とみなすべきだろうか?)をともなって、わたしたちに体感させている当の本体なのかもしれない。

つまり、この脈拍、律動こそが、

<なぜ、この世には何も「ない」のではなく、何かが「ある」のか?>

 そして、

いまここに、このようなありようで、わたしとあなたとが、おなじ場所に居合わせて、それぞれの情動や世界観をともないながら隣り合って呼吸している現実は、どのようにして引き起こされているのか(Wie geschen Es als etwas ?)

この問いに答える、それを「引き起こしている」当の本体、実態、なのかもしれない。

 この律動を、命の鼓動となづけたい。
 直感的に、感覚的に、その方が自分の足のしたにひかえて、自分をささえ返している大地の感覚に素直な表現だからだ。

 Actualityをもたらす<メタ・ノエシス流>(木村敏・精神科医)、
 ひたすら静かに、そして忍耐強くその声に耳を傾けるべき<存在の声・響き・轟
き・しなり>(ハイデッゲル・思索の旅人)

人によって、その感じ方は、さまざまだ。
 
 この命の鼓動に注意の矛先をむけることで、人々にとって、あくまでも現代の生活者の感覚の現状にとって、ここちよい・親しめる・適切な かかわりあいの仕方が保たれている状態が担保される?(制度的に? or 人々の自律的な生活の緊張感・節度によって?)ような、生活の空間の場づくり、建築思想、都市論、田舎論、等々が、うみだされてくるのかもしれない。

 中村雄二郎、上田閑照、鷲田清一、オギュスタン・ベルク、イー・フー・トゥアン、ゲルノルト・ベーメ、そして、ポール・ヴィリリオ、和田伸一郎・・・

 この問いをまじめに問うべき問題として、自分の意識のなかで設定している人は、同時代をいきている人たちのなかには、すでに何人かいるようだ。

 直に、お互いの空気感・存在の手触りを確かめながら対話したり、ベンチに隣り合って腰かけて無言の対話をしたことはまだなく、彼らが物した文章、という活字という媒介物(media)を受け取ったレベルにとどまるものの、彼らの存在は、とても感慨ぶかいもの。

 どういきていきたいのか = どういう場に身を浸して、いきていきたいのか?

 この問いを、生活の場づくりの実践というささやかな行動の積み重ねのなかで、問い深め、行動によって、自分の生き方を切り出していこう。

 きょうのような鰯雲とわたしとのあいだ・界面につむぎだされてくる・分泌されてくる今日という日の僕の情動・雰囲気・気分に耳を傾けながら。

 2009/1/22 01:49

 ~時間が、情動という、「空」から、方向=意味(sens)/時間+空間がこみあがってくる泉の湧き出しの過程で生じてくることで、数字という離散情報によって、表現される結果がもたらされる~

 =時間は、微積分可能な連続量ではないのだ。そうではなく、むしろ時空は、マックス・プランク量で表現される飛び飛びの非連続量だ。
 このことに注目することでそこから、その時間とともに生きているわたしたちの生活=人生にとって、どのような大切な意義・意味を汲みとることができるだろうか?=



初めての投稿

2009-01-21 01:29:38 | Weblog
初ブログ、ついにつくっちゃいました~ イエーイ、パチパチ(拍手)

でもいま、とっても眠たい・・・。

眠くなるとラーメンとか、サイコロステーキとか、塩っけのあるもの たべたくなるよね。。。

あーー、シャキッとしないと。

とりあえず、退場(シャワーでも浴びよう)