Life: 廻りの空気と同期する

リズムとか、空気感をkey wordに心地よい生活空間をみつけていく旅のblog

来歴―来し方;わたしにとっての、生きている感覚

2009-02-01 23:14:46 | Weblog
きょう、ある場所を訪れた。

そこは、私が周囲の世界と初めて絆をむすび、互いに相手が自分にとって、どのような質感を以て自分にふれてくるのか、その感触をはじめて見出した場所である。

(*「自分にとって」というあたりは、わたしの現段階での未熟さがあらわれている。 なぜならば、成熟した人間であるならば、まず第一に、「相手にとって」自分の存在がいかなる重力場を形成しているか、を自問し、かつ有効に立ち振る舞わなければならないはずだから、である)

一部の人たちのあいだで共有された言葉遣いに、この感覚を表現する術を求めるとするならば、こんな語り口になるだろうか。

 Maulice Merleau=Ponty氏の語る意味合いにおいて、

 わたしと世界との肉のまさぐりあいから、わたしと世界にとっての、この場、このときの手触りの感覚が分泌され、つむぎだされてくる、そのstyle(スティル)=筆致=リズム が、おたがいのあいだではじめて、生じてきて、流れはじめた場所、ひとことで言うと、誕生の揺りかご 

 という一名詞節

である。

ここで、氏の言葉づかいにみずからの感慨を託してひとつらなりの字句に落としこんでみた取り組みは、安易な引用でもなければ、衒学気どりでいい気になっているのでもない。

 Merleau=Ponty氏自身の文章にあらわれる、氏と世界とのまさぐりあいの質感が、その陽気さ、幸福感、肯定されるべき生の体験であるという根っこの気分 という点において、わたしの生のなかでわたしに感じられてくる生活の質感と、おなじ系統の色であったり、同じ性質の旋律であるように感じられてならならいからだ。

 そして、彼も、わたしも、この水色=青色の感覚(ときたま、明るくて淡い黄色)のなかで呼吸しはじめている自分を感じはじめたのは、物ごころついて間もない、幼稚園生年少組から、小学校1年生の時期にかけてのことである。

 二人のあいだには、ずいぶんとちがいもある。

 Merleau=Ponty氏は父親を早くに亡くした母子家庭であったし、それもあまりにも親密なあまり、温かい家庭のなかにくるまれて、外の世界からは、かなりの間(ま)をおいて隔てられた、繭にくるまれた揺り籠のなかの幼少期であったという。

 それと比べてみると、

 わたしの場合は、気の合ったクラス・メイトといつも3、4人で登下校の前後の行動をともにして、いつも自分たち仲間内だけの<今日の出来事>のなかを生きて、生きていた。しかし、明るく、幸福であり、日があがってから落ちるまでの一日が、いつも完結して安心して眠りに落ちる、満ち足りた気分であった。

 哲学者の木田 元氏は、著書『メルロ=ポンティの思想』(岩波書店/ハード・カバー判)の冒頭で、ポンティ氏の生きた生活の明るさを、どこか物哀しげな陽気さ、という言葉で以ていいあらわしていた。それも、木田氏の人生の友であったという旧友の面影を、瞼のうらに映じつつ、そのような言葉になって口をついてきたのだと告白されている。

 わたしの場合は、どうだろうか。

 わたしの生活の感触のなかには、いままでわたしが体験してきたどの意味においても、哀愁とか、物悲しさといった音色は響いていない。

 そこには、ポンティ氏の身がいつもそのなかに半身、浸かっていたかもしれない
物悲しさもなければ、西田幾多郎の胸中、奥底にひと知れずしずしずと(つらつらと)流るる、細くか細い、一条の白い滝の如き 哀愁の涙の情感でもない。

 このように、私と氏とのあいだには、少なくともひとつの大きな違いがある。

 しかし、どうだろう。

 二人とも、幼な子の追憶のかなたの生活の感情の旋律の鳴り渡りのなかで、いまもその日の生活のリズムを響かせているあたりは、共通するようである。

 これは、過去へのとじこもり・繭のなかに自分をかくまっているのか。

 それとも、自分にとって、世界が、

 世界という、自分の足が立っているここから周りへと開け、ひろがっている世界という場所――行動と選択の可能性のひろがりの空間――確率の全事象(数字の「1」で表現される全体確率空間)――が、
 
 最初からそのように体験されていた、そのそもそもの始まりの相貌をきょうも維持されたまま、きょうまでのところ 一貫した、一本筋のとおったまっすぐとぶれない路を、歩んでいると捉えるべきなのだろうか。

 生きていることの感触がその質感において変わらずにきた、とりあえずここまで歩んできた。

 このことがわたしの人生にとって、かなる意味を帯びてくることになるのか――その(人生の)結末において。

 その意味合いを、いまのわたしはまだ知ることはない。

 さて。

 わたしはこのような感触のただなかで世界という行動の可能性の空間のなかを両手両脚でかきわけ、息き継ぎして、前へ前へと泳いでいくなかで、

 世界がわたしの体=身体(corps)=肉(chairs)にふれてくる、ある種、水圧のような直観的な圧力の感覚をもって自分の体にむかってくる、水流としてわたしに触れてくる水中のなかで、

 水を掻くわたしの指先や間接と、そこに押し当る水流とのはざまにおいて、無数に―無限に豊かな可能性のなかから、ある特定の色とかたちを帯びた/身にまとった、意味や 感覚;左から右へ、右から左へ、という幅の間隔、同様に、上下、上等―下等、好き(好ましい)-嫌い(好ましくない)、近い―遠い、こちら(こっちのほう)―あちら(あっちのほう) といったもろもろの方向=意味(sens)が、そのような特定の意味・価値(感)の現実感覚、しっくりくる感覚、納得感、了解感をもって、ある範囲の形象の結晶(個体)のなかに収束してくるできごとが、とても不思議な心持ちでかんじられてきた。

 この感触は、いまでもはっきりと覚えている。

 小学校1年生の下校の帰り道、学校正門をでて、右にまがって、学校敷地の角をもういちど右に折れたときに左手下側にみえた、壊れて、粗大ごみとして、コンクリ―トの階段のうえにうずくまるように無造作に打ち捨てられて、ころがっていた、赤と黒のブラウン管テレビがあることに気がついたときのことだった。

 (きょう、そのコンクリートの階段がいまも、その場所にちゃんと位置(場)を占め、形をとどめていることを確認した(ところだ))

 ここから、意味=方向とはなんなのか? そこにともなうしっくり感、実感の質感とはなんなのか? そして、そもそもわたしが、いまこうして、いまというときと、場の広がりという3次元の次元軸という座標概念(ルネ・デカルト空間=ガウス座標空間)をかんじているという出来事そのことが、いったい、どこから、どのようにして、いかなる来歴をたどって、このわたしの意識という出来事のなかで実感として体得されてくるのだろうか?

 こうした、もろもろの疑問が、まだ幼な心のわたしの頭or 胸のなかでは はっきりとした問いのかたちにまとめあげられることもなく、ただ判然としない鬱々とした感情だけを胸に漂わせていた(頭ではない。胸のなかに、それはうすい雲のようにたなびいていた)。

 のちに―――高校2年生から大学1年の冬までのあいだに、

 わたしは、

 ”意味は項と項とのあいだ/はざま/すきまの差異から分泌されてくる”
 (フェルディナント=ソシュール)

 や、

 アンリ・ベルクソンの『哲学的直観』のとあるページに紙面から浮き上がったインクのなかに刻印された、メロディーのリズム、というイメージ、

 それに、

 木村 敏(”アクチュアリティ”、”メタ=ノエシス”の”ノエマ面”(意識の自覚面=水面)への(水底からの)沸き起こりの運動・噴き上げ)、

 ハイデッガー(”存在の場の開け”/”隔たりの奪取”と”方向の伐り開き”、”響き・しなり・轟”(『哲学への「寄与」論考』(発表のためにかかれたのではない、覚書きの類の紙葉の束?)、

 西田(”於いて有る場所”、”行為的直観”・・・)

 さらに、

 無限の可能性から、有限の可能性へと物事のこの世界へのたちあらわれ=出現せしめられる際のその形象の輪郭のあてがわれ方=の収束  
 
 や、
 
 いま、わたしにとっての存在の開けのただなかに、あなたや、彼や、彼女や、これこれの物が一緒になって居合わせ、邂逅しているということ(互いが場をしめる、そこにおいてあるところの場の開けが、相互にかさなりあっている/食い込みあっている?)ことの偶然性の驚きとその必然性・・・

 という意味=文脈での、

 可能性と偶然性

 の正体については、

 九鬼周三(『偶然性の問題』)
 と
 木村敏(『偶然性の精神病理』)

 これら2冊が、決定的な導き/助け となった。

 これらの問題のとらえかた、設問のたてかたと、それに回答を見出すための問題への切り込み方(アプローチの仕方)とについての考えが、自分の頭(今度は、頭、だ)のなかでなにがしかの輪郭を帯びはじめたのは、大学院修士課程の全過程を終えなくてはならなくなっていた、23歳の冬である( とくに、上智大学市ヶ谷キャンパスのちいさなかわいらしいpetit図書館; その2階の一席においてである )

 このとき、わたしは外交史を専攻していた。

 大学1年生のとき、韓国(大韓民国)をおとずれた経緯があり、このときに、狭い海――しかし波荒く、険しい海――を隔てた日本列島と、韓半島(むこうの人たちの呼び名)とのこちら側と、あちら側とでは、おなじ物理量で表現される時間と、空間のなかで、おなじ物理事象の展開のなかで呼吸をしながらも、それぞれ、色合い/色調のことなる文脈――歴史的来歴・文脈――の意味の布置(configuration)のなかから、それぞれの情感的価値をあてがいながら、その事象がときとともにつみかさなっていく光景をながめ、もてる手段を万般に動員して、自分の希望する方角へといざなおうとしている。


 このとき、わたしは強烈に感じていた。

 やはり、存在の場の開けのなかで、意味=価値の産出が、ひとびとのあいだで各々自分の価値「観」=世界「観」=正義「観」を分泌させて、編み上げさせている。
 
 そして、そうして編み上げられた世界観と世界観とが、偶偶(たまたま)同じ時代に生き合わせた、同時代人の身体(corps)のあいだで、あいまで、交錯し、時代の歴史、時代の空気、時代の思潮・趨勢/傾向/勢い/方向性/心性/パラダイム=モメンタム(momentum)を、つむいでいくのだと。

 ここでも、ポンティ氏の歴史=社会理論(身体=制度の布置の変容過程の記述)の運動が、たしかに、はたらいている。

 それでは、意味なり、価値(観)がぶつかりあう舞台であるところの、於いて有るこの世界のただなかに、数々の同時代人たちが居合わせて、出現してくるところの、その存在論的(ontrogisch)な構造のダイナミズムと、その存在論上の、そして人間の人生上の、意義・その構造のなかを生きることの価値 とは、いったい、いかなるものなのか?

 このことに得心のゆく回答を得るためには、存在論という問いと思索の圏域のなかで歩まねばならない。

 そう感じたのである。

 ところで、韓国をおとずれたのは、日本国内で出会うことのできた 外交問題評議会という米国の研究機関で上席研究員日本人第1号をされていた尊敬する先輩からの紹介状があったで、実現したものである。

 その紹介状を懐にして、現地の別の先輩のいきとどいたエスコートを受けて、かの国の与野党2党の党本部と、一方の党の敷設の国家戦略研究所をおとずれたていたのである。

 本部のテレビにうつしだされていたのは、生放送の「サンデー・プロジェクト」であった。電波が日本からここまで届いていたのだ。しかも、その電波をうける受動機をとりかこみ、画面をくいいるように見つめているのは、日本語を解する志の熱い、韓国の国士たち――年齢は80代から20代まで――であった。

 みな、肯定の感情も、否定の感情も両面、幾恵にも、幾襞にもおりかさなった日韓両国のかかわりあいの来歴のふりつもった地層の厚さ――心ある人であれば、じぶんは右だ、左だからといって、ひとことで白黒つけられない、人間どおしのまさぐりあいの集積の総体の歴史――に、それぞれの専門領域――立ち位置――から立ち入り、それぞれの想いを内に秘め、人知れず静かに燃えたぎらせている。そんな、思慮深い眼(まなこ)に光を宿らせながら、テレビ画面を見守っていた。
 
 わたしは、日本人としての歴史の降り積もり=過去の日本に生を享けた先輩たちが立って、活動した立ち位置=の地点から、

 日本人が過去の韓国の人々との係わり合いにおいてえらびとってきた無数の行動の数かす

 ――アジア主義者(対等連帯論者から、日本による指導論まで)から、欧米一等国の一角としての日本vs日本以外のアジアという私圏で同時代の進運をみつめ、行動した人たちまで、実にさまざまな思想と価値観と方向をめざした日本人――

 の論理と情念をくみとって、共感・同意はしないでも、その立ち位置を鑑みて、理解はしてほしい――了解はしないでも――と述べれば、

 相手も、韓半島の人々の立ち位置で以て、また実にさまざまな方向の動機と行動をとったひとたちのパッションを、熱くぶつけてきた。

 たがいに、相手の立場に身をおきかえてみれば、感情のうえで相手を抱擁できるケースが多かった(過去の個々の人々の行動それぞれについて)。

 しかし、おたがいに、受け継ぐべき、立場がある。

 国際政治学におけるConstractivism(e)(*社会構成主義の国際政治理論版)におけるひとつの重要な概念であるところの、立場、起ち位置("where he/she stands on"= his/her "role(s)")を背負っているのだ。

 そうだ。

 およそ、ひとは、この 於いてある世界のただなかに出現しはじめたそのときから、(量子論のかたり出すように)ある一定の不確定性量の許す範囲内で、世界のなかで場を占める立ち位置の座標点と、そこから目指そうとする方向と速さ=速度ベクトル(V or P)とは、その範囲内へと収束してしまうのだ。

 U-topia = Ubiquitas 汎神論者のとく神のように、

 わたしたちは、ここにもいて、あそこにもいる = この立場でもあるし、あの立場でもある、という芸当は残念ながら、まことに残念ながら、できないのだ。

 では、互いの立場の違いを、どうのりこえたらいいのか?

 はたして、その違いとは、なにか乗り越えるべき 間隙 なのだろうか?

 問いはどこまでも、つづいていく。


 ・・・(閑話休題)

 この問いは、またそのような問いとして、今後とも自問自答していくつもりだ。

 しかし、同時に、いま考えているのは、他の日の記事にかいて披瀝させていただいているとおりだ。

 存在のリズムを快適=自然あらしめる/ならしめるために、

 われわれは意図してどのような生活の空間を用意していくことができるのか?

 ---もしもわれわれが十分 思慮深く、賢明であり、なおかつ、いまもって、

 次の問いを自問しつづけるのならば、ということだ。

  「汝、善く生きるとはいかなることぞ」

 2009年2月2日月曜日 午前1時29分

 冗長にすぎた。わたしは思慮深さに欠けているようだ。


2 コメント

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初書き込み (弁慶)
2009-02-19 23:52:42
サンプロなんて映してたっけ?
もう、ちょうど7年前のことだよ。
早いもんだ。
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お世話になりました (ヤシえもん)
2009-02-21 01:02:43
サンプロでしたね!
リアルタイムで、田原総一郎の顔がおおうつしに映し出されていました。 それも吹き替え・字幕なしの日本語です。

その節はたいへん お世話になりましたm(__)m

たまらなくなつかしいです。
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