米アカデミー賞で「ドライブ・マイ・カー」が国際長編映画賞を受賞し、「コーダ あいのうた」が作品賞、助演男優賞、脚色賞を受賞された。この二つの共通点が手話。
でも、大きな違いは、「コーダ」ではろうの当事者が役を演じ、「ドライブ・マイ・カー」では聴者が演じたことで批判があるようです。ただ、「コーダ」は先天性のろう者で「ドライブ・マイ・カー」は中途の失声症の方としている。ならば、聴者で良いんではないのかなと思ってしまう。
映画のコーダの方は、第一言語が手話ということになっているけれど、同じようにコーダの方でも手話の分からない方もいることを知ってほしい。それと、手話にもいろいろあり、日本手話でも方言があり、日本語対応手話を使う方もいるし、読唇術を使う方もいる。聴覚障害者と言われる方でも、先天性の方もいれば、中途失聴の方もいるし、老人性難聴の方もいるし、薬の副作用で聞こえなくなった方もいれば、ある朝突然聞こえなくなった方もいるし、がんで声が出せなくなった人もいれば、失語症の方もいたり、まちまちなのに、「手話を使う人=ろうの役者」になってしまうのだろうか?ある意味偏見ではないだろうか。
日本にだって、ろうの役者はいる。ただ、どのくらいの一般人と言われる人が知っているだろうか?
「ミッドナイトスワン」でも、トランスジェンダー(T)の当事者がやるべきだと批判した方が実はゲイ(G)でありトランスジェンダーではないのだが、出演者の中にはトランスジェンダーで性別適合手術を受けた方も出演しているけれど、この方々は何に区分されるのだろう。
私には理解できないのだが、区分する必要があるのだろうか?「ミッドナイトスワン」の凪沙役を当事者であるはるな愛さんが出来るのだろうか? 商業映画として成立するのだろうか?
映画観た当事者の方が、こんなところが違うと指摘されていて、そういうものかと納得するのは駄目なことなのだろうか?
「・・・・でなければならない」の概念が多くなりすぎて、生きづらい。
「・・・・でもいいじゃないか」にはならないのだろうか?
最近感じる生きづらさは、マイノリティと言いながら、型に嵌め、区別してマイノリティの世界を益々小さくしているように感じてしまう。
マイノリティとマジョリティが手を繋ぐことは難しいのだろうか?本来は、「こういう私たちも見てください。知ってくください。」なのかと思っていたのですが、SNSの普及で変わってしまったのでしょうか?
でも、大きな違いは、「コーダ」ではろうの当事者が役を演じ、「ドライブ・マイ・カー」では聴者が演じたことで批判があるようです。ただ、「コーダ」は先天性のろう者で「ドライブ・マイ・カー」は中途の失声症の方としている。ならば、聴者で良いんではないのかなと思ってしまう。
映画のコーダの方は、第一言語が手話ということになっているけれど、同じようにコーダの方でも手話の分からない方もいることを知ってほしい。それと、手話にもいろいろあり、日本手話でも方言があり、日本語対応手話を使う方もいるし、読唇術を使う方もいる。聴覚障害者と言われる方でも、先天性の方もいれば、中途失聴の方もいるし、老人性難聴の方もいるし、薬の副作用で聞こえなくなった方もいれば、ある朝突然聞こえなくなった方もいるし、がんで声が出せなくなった人もいれば、失語症の方もいたり、まちまちなのに、「手話を使う人=ろうの役者」になってしまうのだろうか?ある意味偏見ではないだろうか。
日本にだって、ろうの役者はいる。ただ、どのくらいの一般人と言われる人が知っているだろうか?
「ミッドナイトスワン」でも、トランスジェンダー(T)の当事者がやるべきだと批判した方が実はゲイ(G)でありトランスジェンダーではないのだが、出演者の中にはトランスジェンダーで性別適合手術を受けた方も出演しているけれど、この方々は何に区分されるのだろう。
私には理解できないのだが、区分する必要があるのだろうか?「ミッドナイトスワン」の凪沙役を当事者であるはるな愛さんが出来るのだろうか? 商業映画として成立するのだろうか?
映画観た当事者の方が、こんなところが違うと指摘されていて、そういうものかと納得するのは駄目なことなのだろうか?
「・・・・でなければならない」の概念が多くなりすぎて、生きづらい。
「・・・・でもいいじゃないか」にはならないのだろうか?
最近感じる生きづらさは、マイノリティと言いながら、型に嵌め、区別してマイノリティの世界を益々小さくしているように感じてしまう。
マイノリティとマジョリティが手を繋ぐことは難しいのだろうか?本来は、「こういう私たちも見てください。知ってくください。」なのかと思っていたのですが、SNSの普及で変わってしまったのでしょうか?