楽しく遍路

四国遍路のアルバム

甲山寺 仙遊寺 善通寺 金蔵寺 道隆寺 丸亀へ 

2020-08-05 | 四国遍路

 
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念のため。
この遍路行記は、昨年12月初旬から中旬にかけての、区切り歩きを基にしたものです。


弘田川河口の海岸寺橋
海岸寺や仏母院がある弘田川の河口から、七福寺→曼陀羅寺→出釈迦寺→甲山寺と歩きました。
ここまでが前号です。真魚も見たにちがいない景色の中を、楽しく歩くことができました。曼陀羅寺、出釈迦寺、そして甲山寺では、真魚との「出会い」も、すこしばかり楽しめたような?そんな気がしなくもありません。


甲山寺門前の弘田川に架かる橋
今号では、甲山寺から、善通寺→金蔵寺→道隆寺→丸亀、と歩きます。
「出会い」の旅は善通寺でピークに・・と期待されますが、はたしてどうなることでしょうか。とまれ、そんな期待に、私の足取りは軽くはずんでおります。


仙遊寺へ
甲山寺を出て1キロ弱。仙遊寺への案内がありました。
「弘法大師幼時霊場 仙遊寺」とあります。寺名から判じて、この辺もまた甲山寺同様、真魚の遊び場だったと思われます。むろん、素通りするわけにはまいりません。


以前の仙遊寺
境内の縁起によると、大師5-6才の頃、遊びはといえば、・・いつも泥土を以て仏像を作り、小さき堂を作りて仏像を安置して、礼拝し奉れり・・とのことですが、ある日のこと・・問民苦使(政情視察官で、もみくし・もんみんくし)が屏風ヶ浦の辺を巡視せられ、路傍に遊べる大師の姿をみて、たちまち馬より飛び降り恭しく跪いて大師を敬礼せられましたので、随員の人々大いに怪しみそのわけを尋ねしに、此児は凡人にあらざるべく、四天王が白蓋(白色の絹で張った天蓋・びゃくがい)を捧げて之を守れりと。


R1(2019).6、落慶の本堂
・・之を伝えたる遠近の里人は大師を神童と称え奉れりと。已来、その礼拝せられた土地を仙遊が原と申して、この処に本尊地蔵菩薩を安置して旧跡を存じております。この本尊は夜泣除の地蔵菩薩として各所よりお守を申受る信者が沢山あります。
そんなわけで、このお堂は仙遊ヶ原地蔵堂とも呼ばれているそうです。堂内には本尊として地蔵菩薩、脇に稚児大師と不動明王が祀られています。
写真は昨年、新築なった地蔵堂です。左に「仙遊原古蹟」の石碑があります。仙遊原は一時、旧陸軍の演習場でもありました。


犬塚
仙遊寺のすぐ先に(元は仙遊寺境内だったか?)石塔があり、「犬塚」と呼ばれています。風化のため読みとれませんが、四面には大日如来を表す梵字が刻まれているそうです。
祀られている犬は、大師に仕えた義犬で、貴重な経典、薬草などと共に、大師が唐から連れ帰った犬だといいます。
・・唐留学中のことです。大師はある薬草を求めて、天竺へ行きました。厳しい警備をくぐり、ようやく薬草の種を三粒手に入れ帰ろうとしましたが、番犬に見つかってしまいました。


犬塚
・・犬の声で番人が駆けつけ、大師の身体を調べました。しかし何も見つけることはできませんでした。大師は自分の内股の肉を裂き、そこに種を埋め込み、隠していたのです。
・・大師は放免されましたが、代って番犬が、不運にみまわれました。吠え立てて騒がせたとして、番人にたたき殺されてしまったのです。
・・番犬を哀れんだ大師は、その死骸を長安に持ち帰り、真言密教の秘法をもって生き返らせました。生き返った犬は、もう大師に吠えかかる犬ではなく、大師を慕う犬であったと言います。大師はこれを、日本に連れ帰りました。犬塚は、その犬の墓です。


香色山 筆ノ山
五岳のうちの二つ、香色山(こうしき山)と筆ノ山が見えてきました。香色山はこれまで、ずっと筆ノ山に隠れていましたので、ここで初見参です。左が香色山157㍍、右が筆ノ山295.7㍍。
後述しますが、二つの山は善通寺御影堂から見たとき、もっとも印象的である、・・というのが私の考えです。御影堂の後ろに香色山が見え、その右斜め後方に筆ノ山が見えます。


かたパン
この道は善通寺の東院と西院を分ける道で、この先、右が西院誕生院、左が東院伽藍となります。
道の左に、善通寺の名物・かたパンのお店がみえます。私はカタパンの大ファンなので、掲載させていただきました。もう昔のようにはまいりませんが、それでもなんとか、かみ砕いております。まだ入れ歯はないのです。だいぶすり減ってはいますけど。


観智院
讃岐33観音 第25番札所 安観音 観智院 とあります。(前号では24番萬福寺にお参りしました)。
境内の案内板によると、・・大同2(807)、弘法大師の創建にて、往時は十善坊と号して一山の寺務を掌握。通行手形なども発行いていた。観智院と称するようになったのは、中世に入ってからである。・・本尊の十一面観音は高松藩主松平公の息女が、庵を結ばれていた寺の本尊を遷したといわれ、安産・子育ての守護仏として(俗に子安観音ともいわれている)婦女子の信仰の篤い寺である。


南大門
観智院から東院域に入り、本堂に向かうことはできますが、一応、正門から入ることにしました。
南大門から入ると、正面に本堂が在りますので、南大門が正門なのだと思います。
見えにくいですが、上に「五岳山」の扁額が架かり、右に「弘法大師 屏風浦」と、左に「御誕生院 善通寺」とあります。


金堂
金堂(本堂)です。
一見、二階建てにも見えますが、屋根の下に裳階(もこし)がついています。「一重裳階付入母屋造の本瓦葺」というそうです。
永禄元(1558)、兵火で創建期の建物を失い、元禄12(1699)、再建したそうです。この建物がそれですが、再建まで、ずいぶん時間がかかっています。


本堂
永禄元の兵火とは、阿波守護細川持隆を謀殺し阿波の支配者に成り上がった三好実休が讃岐に攻め込み、これを、伊予河野氏等の支援を受けた香川之景が迎え撃った戦い(永禄の合戦)をいいます。香川之景は( →R1初冬9 )で記しましたが、室本に麹の専売免許を下賜した天霧城主です。織田信長に近づき、これが本能寺の変で急死したとみるや、長宗我部元親に近づいて元親の次男を養子に迎えるなど、戦国時代をかいくぐってきましたが、ついに秀吉の四国攻めで天霧城を捨て、養嗣子と共に土佐に逃れました。


五重塔
境内でひときわ目を引くのが五重塔です。高さ、約43㍍。国内の木造塔では3番目の高さといいます。
創建以来いくたびかの倒壊、焼失により再建を繰り返し、現在のものは、明治35(1902)に完成した、四代目だとのことです。


大楠
樹高30数㍍、樹齢千数百年。大師御誕生の時、すでに繁茂していたとされ、御著「三教指帰」に「其鄕は櫲樟(よしょう=楠)日を蔽うの浦」とあるのは、この楠を指しているといわれています。
また江戸末期、高松藩の儒者・中山城山がまとめた讃岐の地誌・全讃記には、「櫲樟の大樹あり。これ大師誕生の時より有る所なり」とあるそうです。


五社明神
こちらの楠も、前掲の楠大樹に並ぶ大樹です。
樹下にある五社明神社は、旧善通寺領の鎮守神を勧請したものだそうです。社殿は、金堂と同じ永禄元(1558)、阿波の三好実休により焼失させられましたが、江戸前期、再建されたといいます。


佐伯祖廟
大師の父・佐伯善通卿と母・玉寄御前を、佐伯明神・玉寄明神として祀っています。大師は善通卿と玉寄御前の三男です。
佐伯祖廟は本来なら、西院域に在るべきものです。それかあらぬか善通寺HPは、元は香色山の麓の、現在、駐車場がある所に、「佐伯八幡宮」として祀られていた旨、記しています。


中門
中門をくぐり、東院域から出ます。背後に香色山(左)と筆ノ山(右)が見えています。
佐伯祖廟の案内板尚書きは、次のように記しています。・・なお五色山(香色山)の頂上には、佐伯家代々の霊廟がございます・・。
これは、大切な記述です。香色山が佐伯氏にとって、どんな山であるかを記しているからです。その頂上と麓に佐伯氏の代々を祀る香色山は、佐伯氏の祖先が鎮もる、先祖供養の山なのです。その山を背景に、御影堂(大師堂)は建っています。


仁王門
仁王門です。応安3(1370)造立の金剛力士が護っています。頭上には、ご宝号・南無大師遍照金剛の扁額が架かっています。左右には三教指帰の、空海生誕の地を表しているという部分、「玉藻所帰之嶌」「櫲樟蔽日之浦」が掲げられています。「玉藻」は讃岐の枕詞に使われるので、「玉藻・・島」は、讃岐を指すのでしょう。「櫲樟・・浦」は前述しました。
仁王門をくぐり、西院誕生院・・大師と、大師を生み出した佐伯一族の世界・・へと入ってゆきます。


廻廊
仁王門の先に、御影堂への導線がしかれています。


御影堂
西院誕生院の中心・御影堂(大師堂)です。背後に、佐伯一族の山=香色山が、わずかですが見えています。
思うに善通寺は、佐伯氏の私性が強い寺なのでしょう。善通寺は佐伯一族の氏寺として創まった、との推測があり、西院誕生院は佐伯家の邸宅跡であると言われています。寺名が、大師の父の法名「善通」に因んで善通寺と呼ばれることは、よく知られています。


菅笠
さて、お詫びしなければなりません。(すでにお気づきかもしれませんが)ご覧いただいている善通寺辺りの写真は、ほとんどが古い写真です。実は、この辺で撮ったはずの写真が、ゴソッと見つからないのです。シャッターを押した記憶が鮮明に残っているので、撮影したのは間違いないのですが、何かの拍子に削除してしまったとしか考えられません。
ここには菅笠や道標の写真ではなく、ぜひとも弘田川と済世橋の写真を載せたかったのですが、・・残念、果たせません。


道標
弘田川は香色山の山裾、すなわち大師の父祖の地を流れる川です。
ですからその写真を載せて、・・弘田川は真魚の父方の地と母方の地をつなぐ川・・などと、やや情緒的なコメントもしてみたかったのですが、・・重ね重ね残念です。
なお弘田川は今日では、車でお出での方にお馴染みです。駐車場と西院の間は、済世橋を渡って行き来しますが、この橋が架かっているのが、弘田川です。


赤門
金蔵寺に向かうため、赤門を出ます。赤門は方角では、東門です。


ふり返ると
赤門筋の道からふり返ると、香色山、筆ノ山が見えます。


看板
ここでも真魚に会えました。名菓「まおの里」とあります。


看板
善通寺の山号ともなっている五岳山は、我拝師山、筆ノ山、香色山、中山、火上山をいいます。これらの山が立ち並ぶ様子の美しさを表す雅称が、屏風ヶ浦です。


金倉寺へ
(前号で記した)赤門筋の乳薬師などを見ながら東進すると、ふとん屋さんがあり、そこを左に入ります。


土讃線
土讃線を潜った辺りで進路を北に転じると、あとはほぼ真っ直ぐで、金蔵寺の正門です。


市民プール 
善通寺市の市民プールです。大きな流水スライダーが見えます。
ただし今年度の営業は、新型コロナ禍で中止です。


78番金倉寺
突き当たりが、金倉寺です。かつては「蔵」の字も使われていましたが、明治期、「倉」に統一したとのことです。地名では、地元民馴染みの「蔵」が使われますが、読みは、「こんぞう」ではなく「かねくら」です。


山門脇の碑
  四国第七十六番霊場
  智證大師御誕生之所  
智証大師は、天台宗寺門派の宗祖・智証大師円珍です。その生誕の地とあって、当寺は珍しく天台宗お寺です。
   訶利帝母御出現々地
訶利帝母(かりていも)は、より馴染み深い名では鬼子母神です。この辺では親しみをこめて、「おかるてんさん」とも呼んでいます。(後述)


境内
仁王門を入ると、正面に本堂、本堂に行く途中、左に曲がると大師堂があります。
また本堂の向かって左には 訶利帝堂があります。 訶利帝堂の前には鳥居が建っています。


本堂
本尊は薬師如来です。像は、智証大師の御作とされています。
薬師如来を本尊とする札所が多いことについて、五来重さんは「四国の寺」で、次のように話されています。
・・八十八ヶ所のうちで、海岸のお寺約三十ヶ所の本尊が薬師さんです。その理由は、海のかなたの常世から薬師如来、すなわち民衆を助けてくれる神がやってくるという信仰があったからです。したがって、金倉寺も道隆寺も善通寺も、本尊は薬師如来です。
なお、海のかなたから来る神とは、例えば薬師如来の垂迹神・少彦名命です。この神は、ガガイモの莢でできた船に乗って、やってきました。


祖師堂(大師堂)
大師堂は、ここでは祖師堂と呼ばれています。建物は、元の金堂です。
弘法大師、智証大師そして役行者(神変菩薩)が、智証大師を中央に、祀られています。


智証大師
智証大師円珍は、弘仁5(814)、弘法大師より40年後、当金倉郷でお生まれになりました。弘法大師の甥とも姪の息子とも言われます。縁続きです。
現・金倉寺の基は、唐から帰国した智証大師が造営した伽藍配置にあるそうです。唐の青龍寺を模範として行われたといいます。次に記す 訶利帝堂は、この時、智証大師が刻まれた、訶利帝母をお祀りしているとのことです。


訶利帝堂
訶利帝母(おかるてんさん)は、元は、人間の子を喰らう鬼女でした。鬼子母神と呼ばれるのは、だからです。
鬼子母神には500人の子がありましたが、ある時、お釈迦様が懲らしめに、そのうちの末っ子ひとりを隠してしまわれました。鬼子母神は、子を失う母の悲しみに気づいて改心。以来、鬼子母神は訶利帝母(おかるてんさん)になり、安産・子安の神様として、篤く信仰されるようになったのことです。
訶利帝母は日本で初めて、当地に出現されました。弘仁9(818)、円珍が5歳の時のことだといいます。


一太郎親子松
一太郎親子松は、日露戦争に出征する一太郎と母の物語を伝えています。戦中には教科書にも載っている、よく知られた話でした。
多度津港から出征する我が子、一太郎を見送るため、母は朝早くから家を出ましたが、港を見下ろす丘に来たとき、船はすでに出港していました。
そこで母は叫びました。
   一太郎やぁ-い。母の声が聞こえたら、鉄砲上げろ!


一太郎やぁーいの像
母が一太郎に呼びかけた丘が、現在の桃陵公園です。母の像が建っています。
ただし、この像は、昭和18(1943)に出来たコンクリート製、二代目の像です。最初の像は昭和6(1931)に制作されましたが、銅製だったため、金属類回収令により供出されたのでした。


乃木将軍妻返しの松
乃木将軍は、善通寺近辺では、第11善通寺師団の初代団長として、よく知られています。
その団長時代の話です。・・将軍は金蔵寺を宿舎としていましたが、明治31(1898)の大晦日、東京に住む夫人が面会に訪れたそうです。ところが将軍は面会に応じず、夫人は将軍の意をくんで、会わず、帰って行きました。松は、帰って行く夫人が側にしばらく佇んでいた松、とのことです。


第11師団
将軍の立場を利用しない夫、それを理解して耐える妻の物語です。「一太郎やぁーい」の母子物語と対をなしているのでしょう。共通点は「無私の奉公」。なお乃木夫妻の息子二人は、旅順攻略戦に加わり、戦死しています。


新羅神社
智証大師は唐から帰朝の途次、新羅明神(しんら明神)を感得したといいます。帰朝後も、唐より請来の経典を整理しているときに感得。経典類の納め場所を夢告されたといいます。
これに因み、当神社は新羅明神を祭神としていましたが、例の明治の神仏分離で、明神はイカン、ということになり、今は素戔嗚尊を祀っています。「明神」には仏教の視点が入っているからイカン、というわけです。


茂兵衛道標
金蔵寺郵便局の角です。車道は県道33号です。この辺、「・・協力会地図」では、ちょっと分かりにくいところがあるような。


Pikoraスタジアム
香川県立丸亀競技場です。愛称、Pikoraスタジアム。山は、讃岐富士です。


葛原正八幡宮
葛原正八幡宮(かずはら正八幡宮)は、その佇まいといい社叢といい、印象的な神社です。特に楠大樹は樹齢1000年を超え、この神社の創建時、延久5(1073)には、すでに自生していたと考えられています。
境内の碑によれば、道隆寺文書の「道隆寺温故記」に、・・道隆寺12世祐禅が八幡神を勧請して、全部で5座の八幡神社を創建した旨が記されており、ここはそのうちの一つである・・むねのことが記されているそうです。


玉垣
珍しい玉垣です。


境内の水洗トイレ
  お遍路さんへ 水洗トイレです ご自由にお使いください
ありがたいことです。


道標
ここは直進します。古い道標が示すとおりです。
古い道標は往々にして、実際の道とはちがう道を指していますが、この辺では、ほとんどが信用できます。道筋が昔と変わっていないのです。


道標
この道標、宅地化、工業団地化が進みつつある中を、がんばっています。


道標
これを左折すると「札所」です。「札所」は、もちろん77番道隆寺。もうすぐです。
手前方向は、金毘羅、金倉寺、善通寺道だと案内しています。この道標も昔のままです。


道隆寺
寺名は、土地の豪族・和気道隆の名から来ているそうです。誤って乳母を射殺した道隆はこれを悲しみ、桑の大木から薬師如来を刻み出し、堂に安置したといいます。道隆寺の始まり譚です。
余談ですが、俳優の筒井道隆さんが、いつかテレビで、・・道隆(みちたか)は本名で、道隆寺さんからいただいたもの・・と話していました。


道隆寺本堂
本尊の薬師如来は、「二体薬師」とも「腹ごもり薬師」とも呼ばれるそうです。
本堂には、大師御自作の薬師如来像が祀られていますが、その胎内には、道隆が作った薬師如来像が納められているのだそうです。このことに因む呼び名です。
またこの薬師様は、とりわけ眼病に御利益があるとされ、「眼なおし薬師さま」の呼び名で篤く信仰されています。


大師堂
観音像がズラリと立ち並び、大師の前に衛門三郎が跪くのが見えます。
左の建物は、弘法大師千五百回忌之塔(多宝塔)です。


多宝塔
弘法大師千五百回忌之塔(多宝塔)です。
この塔は、隣の祖師堂と通路でつながっていたのでしょうか。ぐるりと廻ってみると、そんな痕跡も見えます。大師堂と千五百回忌之塔がつながっていた可能性は、考えられると思います。


今治造船
道隆寺を発ち、県道21号・丸亀-詫間豊浜線を東進します。この道を西進すると、3キロ弱で海岸寺です。
ここは多度津でしょうか、丸亀でしょうか。その境界辺りです。クレーンはイマゾー(今治造船)の造船所のようです。


旧道
21号から旧道に入りました。


金倉川
金倉川の水源は、まんのう町塩入付近だと言います。川は一度、満濃池の東南端に注ぎ込み、池の北側にある堰より流出してきます。その後は、琴平町市街地を貫き、丸亀平野の西部分を流れて、瀬戸内海に注ぎます。
満濃池から琴平にかけては、 (→H21秋3) で紹介していますので、よろしければご覧ください。


金刀比羅宮の金倉川と鞘橋
江戸時代、金倉川は金毘羅詣りのための、祓川でもありました。この鞘橋はもっと下流の参道に架かっており、橋下が垢離場となっていたのです。裸で沐浴斎戒する姿を描いた絵も残っています。


象頭山
川上に見える山は、金毘羅宮がある象頭山です。



私は明日、丸亀港から琴平へ、江戸期の金毘羅詣りの道を歩いてみるつもりです。
よって、今日の宿は丸亀です。


丸亀の宿にて
さて、ご覧いただきまして、ありがとうございました。
暑さやコロナやで、なかなか集中しきれないなかでの更新でしたが、いかがでしたでしょうか。
次回更新予定は9月2日です。Go to ではなく、Stay home で、入力ガンバロウと思います。
皆さま、どうかご自愛ください。

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2 コメント

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♪もう どうにもとまらない~ (天恢)
2020-08-10 21:46:20
 前回は、熊本を中心に発生した「令和2年7月豪雨」の惨状をお伝えしましたが、相も変わらぬ新型コロナの感染拡大はどうにも止まりません。 中途半端な go to トラベルの混乱やお盆の帰省も重なってどうなることやら? これから台風シーズンが到来、さらに悪いことが重ならないことを願っております。

 さて、今回は「甲山寺 仙遊寺 善通寺 金蔵寺 道隆寺 丸亀へ」ですが、 さすが弘法大師の生誕の地「善通寺」が中心なだけに名所・見所ばかりで、ブログを読みながら、しばし懐かしい思い出に浸りました。
 先ずは、「楽しく遍路」の予告のタイトルに「仙遊寺」とあって、甲山寺から58番仙遊寺へ、そして善通寺へどうやって戻られたのか? まことに粗忽者で、仙遊寺って「弘法大師幼時霊場」だったのですね! 天恢にとって、58番の宿坊に2度ほど泊まり、仙遊寺といえば58番の印象しか残っていませんでした。
 次に、善通寺については、御大師様の生誕の地、真言宗善通寺派の総本山。また、高野山の金剛峯寺、京都の東寺とともに、弘法大師の三大霊場の一つで余りに畏れ多いので、感想は省かせていただきますが、門前の熊岡菓子店の写真が掲載されていました。10年以上も昔のことですが、遍路で知り合った北海道の方から善通寺の名物「堅パン」と紹介されて1枚いただきました。 せっかくの遍路ですから、札所のお参りと御朱印だけでなく、名物や名所・旧跡も一緒にという遍路の歩き方を教えられたような気がします。
 それと、77番道隆寺ですが、ここには眼病に霊験あらたかな「眼なおし薬師さま」が祀られています。 ご本尊は、大師御自作の薬師如来像ですが、その胎内に「眼なおし薬師さま」が納められ、とりわけ眼病に御利益があるとされ、篤く信仰されています。 天恢も眼を患った知人の代参でお参りしたことがあります。 このように88ヵ所の札所には、ご本尊より信仰を集める仏様がいらっしゃいます。 28番大日寺の「爪彫薬師」、34番種間寺の「子育観音」。 そして、61番香園寺のように大聖堂の光々しい大日如来より、境内の隅にある「子安大師像」に信仰が集まっています。 まだまだ書きたいことが山ほどあるのですが紙面の都合で割愛します。

 さてさて、今回のタイトルは「♪もう どうにもとまらない~」は、1972年にリリースされた阿久悠作詞 都倉俊一作曲 山本リンダが歌った『どうにもとまらない』です。 実力あるプロの作詞・作曲、切れ目の入ったパンタロンや赤いブラウスをまとって過激な振り付けで、ヘソだしルックで歌ったリンダさんとで、この歌は大ヒットしました。
 あぁ~「ど・う・し・よ・う」、コロナの感染は、もう「どうにもとまらない」です。 この曲の歌い出しは、「うわさを信じちゃいけないよ 私の心はうぶなのさ…」ですが、皆さんにとっては、フェイクニュースの氾濫で今は何を信じてよいのか?  『こまっちゃうナ』 では、もう済まされませんよね?
 そこで、先号のコメントに載った「楽しく遍路」さんの歌が結論です。
♫待ちましょう 待ちましょう    
      ♫やがて来る (コロナワクチンができる) その日まで    
             だから、♫待ちましょう 待ちましょう・・・
返信する
♫今日 人類がはじめて・・・ (楽しく遍路)
2020-08-16 14:36:28
♫今日 人類がはじめて・・・、かどうかは知りませんが、今、世界で起き、日本で起き、私の身の回りでも起きていることどもは、人類がめったに経験することのない、人類史上の大事件なのだと思います。
その事件の核心は、天恢さんも記されているように、二つ。新型コロナウイルス禍と異常気象です。異常気象は、人類どころか、地球の危機をさえ招いています。
幸か不幸か、そのような大事件の時に、私たちは生き合わせてしまいました。後世、・・後世があればの話ですが、・・子孫達から、「あの頃の先祖は酷かった」などと言われないよう、生きたいものです。

そのために大切なことは一つ。○○ファーストを止めることです。
どこかの金持ち国が、まだ出来てもいないワクチンの先行買い付け契約を交わしたとか、聞きましたけれど、そんな国はけっして、・・国際社会において名誉ある地位を占める・・ことはできないでしょう。むろん great などでもありません。
ちょっと構えた書き方をしましたが、いま私が考えていることのメモとして書きましたので、ご勘弁ください。

海岸寺からの歩きは、当初思っていた以上に楽しいものでした。
特に、弘田川が善通寺と海岸寺、・・真魚の父方の地と母方の地・・をつないでいることに気づいてから、私の足取りはがぜん、軽くなっていました。いえ、「つないでいた」と、確認できていたのではありません。正確には、「つないでいた」との想像が、私を楽しくさせたのでした。
善通寺の御影堂は佐伯氏の邸宅跡だといいます。真魚が、傍を流れる弘田川から舟に乗り、川下りして母の里を訪れていたなんて、想像はいろいろに羽を伸ばします。途中、甲山寺の辺りで下船し、仙遊ヶ原に遊んだり、我拝師山にも、ひんぱんに足を延ばしたことでしょう。こんなことを背景に、仙遊寺の由来譚や捨身ヶ岳の譚が生まれたのかもしれません。

さて、自粛期間が長引き、ブログ更新のための題材や写真が、底をつきかかっています。あと1-2回で尽きてしまうでしょう。
どうしたものでしょう。
私にとって、毎月定期的に訪れる更新は、惰性に流れがちな生活を引き締めてくれる、大切な作業となっています。それがなくなってしまうのは、困ったことです。
いま考えているのは、閲覧不能となっている「古いアルバム」を、リライトしてご覧いただくことです。しかし、それとても、いずれは尽きてしまいます。「新しい生活様式」を考えよとは、こういうことなのでしょうか。
まっ、まだすこし時間はあります。考えたいと思います。
ご自愛下さい。
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