楽しく遍路

四国遍路のアルバム

H24春遍路 ⑤ 実報寺 日切大師 興隆寺 生木地蔵 丹原 横峰寺 香園寺 宝寿寺

2012-07-23 | 四国遍路

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4月17日  晴   前回のつづき-実報寺-日切大師-興隆寺-生木地蔵-丹原

はじめに
このシリーズの冒頭で、参考にさせていただいたサイトなどを記しましたが、追加です。
「 生涯学習情報提供システム-えひめの記憶」  ('愛媛の記憶'、で検索できます)


実報寺への道

誰かさんと誰かさんが、麦畑でおしゃべりしていました。
雨が少ないことと関係するのでしょう、愛媛県、また香川県を歩いていると、麦畑をよく見かけます。その「青」には魅せられます。


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実報寺山門

実報寺のご本尊は地蔵菩薩です。一丈(約3メートル)の木造坐像だといいます。
土佐の長宗我部軍が持ち去ろうとしましたが、お地蔵さんの怒りでしょうか、突如、大時化に襲われ、果たせませんでした。怖くなって像を海に投げ捨てたところ、浜に流れ着き、帰ってきたのだそうです。


実報寺の一樹桜

北条で足跡をたどった一茶さんに、実報寺で再会できました。一茶は、松山からの帰途、こちらに立ち寄ったようです。
遠くから桜をながめて、一句つくっています。
   遠山と 見しは是也 花一木  一茶
「花」は、俳句では「桜」。エドヒガン桜だそうで、門前のソメイヨシノは咲いていましたが、こちらは、もう時期を過ぎていました。


鯉のぼり

鯉幟を見ながら、石鎚山の向こう側に思いを馳せました。高知の中央部では、「フラフ」が揚がっていることでしょう。大漁旗のような幟です。 →フラフ


日切大師

仕事熱心なワンチャンの所を通り抜ければ、最短距離で脇門をくぐれるのですが、大回りすることにしました。結果、正門から入ることになり、よかったのですが。
ここのお地蔵さんも、珍しいものだそうです。安産、子育て、子授けのお地蔵さんだとか。
お向かいの光明寺さんにもお参りをし、興隆寺に向かいます。

歩くうちに、時間が押していることに気づきました。やむなく一部、タクシーを使いました。


興隆寺山門

今はひっそりとしていますが、紅葉の季節には、いっぱいの人で賑わうそうです。


三つ葉葵の紋

立派な彫刻ですが、私を引きつけたのは、「この紋所が目に入らぬか」、の三つ葉葵の紋でした。徳川家の紋です。目に入ってしまいました。
はじめに思ったのは、西条藩とのかかわりでした。藩主家が徳川御三家和歌山藩の分家だからです。しかし・・・。


参道

老齢のご夫婦が下りてこられました。「まだ、ありますか」と尋ねると、「いやー、まだまだ」との答でした。
左の巨石は「牛石」だそうです。うずくまった牛のように見えます。


石垣

松山藩の寺社奉行によって普請された石垣、と説明されています。まさに城の石積みそのものです。
この辺(丹原、壬生川)は松山藩の飛び地で、在町(ざいまち)でした。在町は、城下ではなく、「 在 」、つまり農村部に設定された、商業活動のための地域をいいます。
山門の三つ葉葵も、西条藩ではなく、松山藩との関わりで考えるべきでしょう。松山藩主家も徳川一門の久松家で、松平の姓と、葵紋の使用を許された家柄でした。


本堂は寄棟造

本堂には、きわめて短いながらも「棟」があります。よって、一見、宝(方)形造のように見えますが、これは寄せ棟造りです。
手前の線香台を覆う屋根には棟はなく、宝珠を頂いて、三角形の面が、四方向に流れ落ちています。これが宝形造です。


三重の塔

天保(19C)の建築物だそうです。本堂に向かい合って立っています。




納経が終わると、「では少しお話ししましょうか」と、杉にまつわる話をして下さいました。
今は株となっていますが、これら2本の杉は「子持杉」などどとも呼ばれ、実は根が繋がっている一本の杉なのだそうです。
巨杉が光り、、千手観音菩薩がお姿を現した、という話です。高縄山の千手観音杉を思い出しながら、うかがっていました。


天狗

研修道場のような建物を回っていると、天狗面に出会いました。「やっぱり」という感じです。
地図を見ながら、「修験の道」を思い描いてみようと思います。
興隆寺から西方向に尾根をたどると黒瀧神社があります。この道は、25000/1にも載っています。神社の辺は田瀧川の水源となっているところで、「田瀧」と呼ばれる地です。「田瀧」は興隆寺の故地とも伝わるそうで、黒瀧神社と興隆寺は、深い繋がりを持っていると思われます。
黒瀧神社からさらに西方向を見ると、地図上、道は示されていませんが、前回報告した東三方ヶ森があります。まさに「三方」の名の通り、そこから北方向には奈良原神社の楢原山、西方向には、北三方ケ森を経て高縄山があります。
興隆寺から南東方向に向かえば石鎚山です。


雲に隠れて

石鎚山が姿を現してくれません。実報寺の辺りから、ずっと期待しているのですが。
明日は横峰寺ですが、お姿を見せてくださるでしょうか。明後日は西条ですが、さて、どうでしょうか。一度だけでも拝ませてください。


常夜灯

興隆寺への参道です。ボーボーとホラ貝を吹き鳴らしながら、修験者たちが歩いたのでしょうか。
子供の頃、石鎚山のお山開きになると、多くの修験者たちが今治港に上陸してきました。なんじゃろか?、と頭を傾げていたのを憶えています。


生木地蔵(いきき)

弘法大師が、生きた楠に、延命地蔵菩薩を刻まれた、そうです。
本堂と大師堂の間に立っていましたが、昭和29(1954)の洞爺丸台風で倒れたとのこと。
・・・楠の大樹なり、大師自刻し給ふ、今に枝葉茂りある・・・四国遍礼名所図会

さて、今日の宿までは一直線です。遅くならないうちに入れそうです。


4月18日  晴  60番横峰寺-61番香園寺-62番宝寿寺




道標

今日は60番横峰寺の参拝です。
荷物は泊まった宿のお接待で、次の宿へ送ってくださいます。そのため、身は軽いのですが、お山が姿を現さず、やや心が重くなります。なるべくなら、お山の「方向」を拝むのではなく、この目でお姿を見ながらにしたいのですが。


サボテン

丹原町の有線が流れています。天童よしみさんの曲で始まり、例のゆっくり調子で、犬の首輪登録や注射について、お知らせしています。


中山川

中山川を渡ります。
中山川を遡り、桧皮峠(ひわだ)を越えると、東温市を経て松山です。峠越えの部分が、(たびたび触れますが)、通称「桜三里」。街道としては、松山-讃岐を結ぶので、讃岐街道とか、こんぴら街道と呼ばれました。


石鎚山頂の絵

中山川に架かる橋は、その名も「石鎚橋」。
空が透き通っていれば、この辺から拝めるのでしょう。残念です。
橋の手前に絵がありました。

石根(いわね)のコンビニで昼食などを調達、湯浪(ゆうなみ)道に入って行きました。


鳥居

「いしづち」には、石鎚、石槌、石鉄、石土、などの字が当てられますが、ここでは(金+夫)、です。
「× × 山」、であって、「○ ○ 神社」ではありません。石鎚信仰にあっては、「お山」=石鎚山、こそが中心です。ここからは見えませんが、この道は「お山」に続く道、「お山道」と呼ばれていたそうです。


石づち山

ここから、横峰寺(古坊)まで登り、石鎚山を拝みつつモエ坂を、虎杖(いたずり)-河口(こうぐち)まで下り、再び、今宮あるいは黒川谷を、成就(私は「じょうじゅう」と発音していました)まで登り、さらに八丁坂を登って、鎖を伝って、山頂に向かいます。
ただし、現在はケーブルで成就まで登ることが出来るので、石鎚登山は日帰りも可能となったようです。私は、どんなコースをたどったか記憶にありませんが、子供の頃、石鎚山に登っています。しかしケーブルは、まだ、ありませんでした。
近々、夏期に登ってみるつもりです。ケーブルのお世話になりそうですが。


高灯籠

昭和6(1931)、石土神社の式年記念として建てられたとのことです。コンクリート製で、文化庁の有形登録文化財だそうです。写真では見えませんが、火袋の上に宝珠を頂いています。
今でも毎夜、「お山道」を照らしているそうです。


奈良原神社

奈良原神社がありました。高縄山系の修験の道が、ここまで延びてきています。
高縄山-北三方ケ森-楢原山・奈良原本社-東三方ケ森-黒瀧神社-興隆寺・・・。これまで私が、覚束なくも追いかけてきた、高縄山系の修験の道です。その道が、桜三里を跨いで、この地に延びていました。
すこし歩いた先には石土神社があります。高縄山系修験の道は、今度は、石土神社を起点として、石鎚山系修験の道につながってゆきます。

剣山城は、妙之口川右岸東方(大郷)にある黒川氏の山城で、天守も持っていたとのこと。黒川氏は土佐の長宗我部の出で、黒川に土着し、黒川姓を名乗るようになったようです。


石土神社

石土神社に隣接して、次に述べる妙雲寺があります。神仏分離以前は同体だったのでしょう。
修験者たちは当神社にて拝礼し、石鎚山に向かい歩を進めるのでしょう。
ここは石鎚信仰の、西の起点です。


石づち山 妙雲寺

妙雲寺は長く、60番横峰寺の「前札所」でした。ところが明治4、神仏分離で横峰寺が廃寺となったため、「前札所」としての妙雲寺は、曖昧な存在となってしまいました。
横峰寺の跡には石鎚神社西遙拝所横峰社ができ、欠番となった「60番札所」は、小松町の、平野部にある清楽寺に移されてしまいました。「前札所」の前提となる「札所」が、移動してしまったわけです。
横峰寺は明治18(1885)、(「大峰寺」という寺名で)、「60番札所」に返り咲きますが、妙雲寺が「前札所」として復活することはありませんでした。妙雲寺は不運にも、その前年、明治17、火災に遭い、廃寺状態にあったのでした。代わって、60番のピンチヒッター役であった清楽寺が、「前札所」と確認されました。


妙雲寺門前

向かって右の門柱下に、「六十番 前札」の石柱が残っています。
が、現在の位置づけは、「六十番 前札所 旧跡」、です。
「四国遍礼名所図会」は妙雲寺に触れて、「・・・不自由仁峰へ登らざる人ハ爰にて札を納む、然共大方登る・・・」と記しています。
大方の人は登るのだけれど、身体が不自由で登れない人は、ここ明雲寺(妙雲寺)に札を納めてご利益を願う、というのです。妙雲寺は、明らかに「前札所」でした。
なお、「前札」石柱の隣は、「生木地蔵」への逆うち方向を示したものです。左門柱下の1基は徳右衛門道標で、もう1基は、「千足山村在郷軍人会」が建立したものだということです。


妙之口川

へんろ道保存協力会の地図に、「流水量注目」と記されています。今回は、水量は少なく、大丈夫のようです。
なぜ、この辺で水量に気を配らなければならないか、登るにつれ、まざまざと分かってきます。
高架は、松山自動車道です。


尾崎八幡神社

八幡さまは、ある大学の調査では全国で一番多く、8000社近くあります。ちなみに2番目に多いのは、お伊勢さんで、4500社近くだそうです。
平安から鎌倉時代にかけて、「力ある神」を外から招く「勧請型信仰」が全国で起こりました。「力ある政治勢力」とつながりつつ、「力ある神」が、列島の隅々に浸透していったのです。
尾崎の八幡さまも、そんな動きの中で、この山中にお見えになったのかもしれません。ただ、この風情を見るとき、元々は、地域の共同体が祀る「氏神型信仰」から始まっているらしい、そんな気が、しきりとしました。


観天望気

巻雲(けんうん)です。当面の天気は大丈夫です。
が、この雲は、崩れる前兆とも言われています。だんだん下層の雲に変じ、数日後には崩れるのです。実際、翌々日は雨が降り、その翌日は大荒れとなりました。晴の後は雨、といえばそれまでですが。


登り口

ここからは急な山道。冷たい水でノドを潤します。


倒木

平地部では、すぐ横に聞こえていた川音も、山道に入ると、いつしか下から聞こえるようになり、登るにつれ、ついには聞こえなくなってしまう、これが大方の場合です。
しかし、この湯浪登山道では違います。山道に入ると、川音は逆に近づいてきて、ついには沢を巻きながら登ることになります。
妙之口川下流で流水量に注目しなければならない訳が、ここにあります。水量が増えると、ここは瀧に変じるのです。
この道は度々、通行禁止となります。前回登ったのは、禁止解除の直後の荒れた道でした。今回も、西条市役所の方から、危険箇所があるので注意するよう、言われました。


山道

山に入ったら、まず、登りに登って、汗をかき、あえぎ、ガスも出します(失礼)・・・。「汚れ」が抜け、その分、代わりに、山の「気」が身体に入ってきます・・・。山と通い合って、心なしか身体が軽く感じます・・・。涼しい風が吹き抜けます・・・。
若さ故でしょうか、こんな感覚が好きで、たいした体力もないのに、私は山が好きでした。
今は、極力、息切れしないように登りますが、それでも山は、いいです。六根清浄 ・・・。


古坊(こぼう)地蔵堂

前回のアルバムで、奈良原神社の氏子たちが今治に移住したことをお知らせしました。商品経済の波が伝統の社会を飲み込み、都市部への移動を余儀なくさせられたのでした。昭和47のことでした。
横峯寺の古坊集落でも、ほぼ同時期、同様のことが起きたと思われます。
昭和50までに、古坊に住む人はいなくなっていたようです。


遍路墓

今も集落跡には、石積みなどが残っているそうですが、私には分け入ってみる気力がありませんでした。
遍路墓がありました。集落の人たちが守ってきたのでしょう。阿州、泉州、芸州などの文字が見えます。 合掌


「從峯」丁石

「從峯〇丁」と刻んだ丁石がありました。「峯より〇丁」と読むようです。写真は「3丁」です。


山門

県道がかなり奥まで延びているからでしょうか。足弱の私も、意外と楽に、着くことが出来ました。


星ケ森から

星ケ森に急いでいると、ひとり、遍路が降りてこられました。九州からおいでの、初老の男性でした。
気がかりなことを尋ねました。お山は見えましたか?
「はい、大きなお山ですねぇ。雪渓が見えました。30分も見ておりました。また、今度は妻と来ます」とおっしゃいます。できれば山開きの時に来たいけれど、それでは妻が登れないので、と残念そうでした。この方とは宿で再会できました。真摯なお方でした。
再び、星ケ森へ急ぎました。


星ケ森から

見えました。これが今回の遍路で一回だけ拝めた石鎚山でした。しばらく眺めてから、北さんに写真を送信しました。見えたよ、と、すこし自慢気に。
モエ坂は通行禁止になっていました。


60番横峯寺

前述したように、横峯寺も廃仏毀釈・神仏分離のうねりに翻弄されました。
整理すると、明治4年(1871)、廃寺→明治13年、大峰寺という寺名で再興→明治18、大峰寺の名で60番札所に返る→明治41(1908)、旧称・横峯寺に復活、となります。

役行者が蔵王権現を感得、お姿を刻んだという石楠花には、少し早い時季でした。


駐車場への道

92才の男性が、もはや初老の息子さんにエスコートされて、駐車場に向かっていました。一緒に歩きました。
息子さんは父親の言葉を、その都度なぞります。お父さんが「来てよかった」と言うと、息子さんが大きな声で、「うん、来てよかった」と応じます。「同意」を示しているのです。
もはや問い返しや話題の転換が父の負担になることを、息子さんは知っているのでしょう。お父さんは自由に、絶えず話し続けていました。
お別れに、お父さんが、「道が悪いで、気ぃつけぇ」と気遣ってくださると、次いで息子さんからも、同じお言葉をいただきました。
お父さんは幸せな老後を過ごしておられます。




香園寺への下り道は、ひたすら下るだけではなく、けっこう上りもあります。


降り口

2時間ほどで着いたでしょうか。


香園寺奥の院

不動明王が、向かって右に矜羯羅童子(こんがら・どうじ)、左に制多迦童子(せいたか・どうじ)を従えています。
瀧行のための更衣室、清めの塩を入れる箱が、準備されていました。


キウイ

キウイ・フルーツだそうです。品種登録をして栽培しています。愛媛県は全国有数の産地だそうです。


溜め池と高速道

大谷池、溜め池です。県下最大だとか。
高架は松山自動車道です。川之江-宇和島間を走っています。この先に小松ICがあり、今治-小松自動車道が始まります。
松山道は、しばらく中山川沿いに走った後、「桜三里」に穿ったトンネルを抜け、松山に出ます。


高縄半島の山々

高縄半島の山々が奥に見えます。山向こうに松山があります。高架は、今治-小松自動車道です。
写真の左方向が中山川の上流で、「桜三里」です。


イタドリ

虎杖が生えていました。ワンチャンのおしっこ味は付いていない場所なので、一本いただきました。
皮をむいて、囓りながら歩きました。ちょっと酸っぱい味が、たまらなく美味しかったです。


高鴨神社

祭神は高鴨大御神。石鎚開山・役行者の祖神、と位置づけられています。大和葛城からお迎えしたとのことです。
香園寺が、神仏分離以前の別当寺でした。


香園寺大聖堂

横峯寺が廃寺となっていた間、その檀家は香園寺に預けられていたと云います。
では、香園寺は神仏分離の波にさらされなかったのでしょうか?
香園寺の神仏分離の過程は、他寺とは異なっていたようです。享和2(1802)、香園寺住職から「別当退職願」が小松藩に差し出され、これが認められているそうです。細かい経緯は分かりませんが、香園寺では、明治維新に先立つこと半世紀以上前、神仏分離がなされたことになります。
本堂、大師堂、講堂を併せて、大聖堂と呼んでいるそうです。堂内は、決して軽薄成金的意味ではなく、「金ぴか」です。「金ぴか」の仏像、須弥壇を、まざまざと、目前に拝むことが出来ます。古の伝来仏教は、かく表現されていたかに思われます。


宝寿寺

門前の標石に、「一國一宮 別當 宝壽寺」とあります。
伊予で一宮といえば、大山祇神社ですが、この「一國一宮」は、どこを指しているのでしょう。
(この時点では知りませんでしたが)、近くに「一之宮神社」があり、元62番札所だと言いますから、神仏分離以前は、宝寿寺と同体だったと思われます。この「一國一宮」は一之宮神社を指しています。
なお、一之宮神社の主祭神は大国主命で、事代主命と大山積命が配祀されています。


宝寿寺

うかつにも建立年を確認しないまま、ずっと、江戸期以前の古い標石だと思い込んでいました。明治以降には、神仏分離により、別當寺は存在しなくなるからです。
ところが、この記事を書くにあたって宝寿寺の縁起を呼んでみると、ある疑問に突き当たりました。
宝寿寺は明治初期、一時、廃仏毀釈の嵐の中で、廃寺となっておりました。
では、その間、この標石はどうなっていたのか、という疑問です。
廃寺の間も、(寺地は移動しているようですが)、ずっと立ち続けていた?どこかに保管されていて、(ほとぼりが冷めた頃に)、再び立てた?それとも、これは明治以降の建立?
どうも疑問いっぱいの標石となりました。
 

さて、これで今日の行程は終わりました。宿は、小松駅近くの民宿です。
明日は、壬生川で「生きた化石」カブトガニを見て、西条に向かいます。途中の石鎚神社、前神寺は、とりわけ楽しみです。
西条では自噴水「うちぬき」を見ながら、神拝地区を歩いてみます。神拝は「かんばい」と読みます。「神」は、石鎚山です。石鎚山を拝む、という地名の土地です。

次回アップロードは、8月13日の予定です。

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