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縄文人の志葉楽さんのブログ

日記や趣味を書く

●忍者とはこんな者たち(広義だと陰陽師なども入るかな)

2019年10月08日 20時52分58秒 | 文化

●忍者とはこんな者たち(広義だと陰陽師なども入るかな)
「戦国時代」における 陰陽師 とは? http://bit.ly/up2Msf に結構面白い記事が出ている。
身体能力に優れ、厳しい規律に律された諜報集団という面の他に、優れた動植物の知識や化学の知識を持つ技術者集団としての一面も持つと書かれている部分で前半部分が後半部分が陰陽師にかぶさるように思える。


近年 北斎や芭蕉が忍者ではなかったかと疑われている。
いろんな説があり 調べれば調べるほど奥が深くなっていくのが日本の歴史文化である。
それだけかけ離れているように見えるものでも何らかの形で一般庶民も関わっていたものだからではなかろうか。
色んな事を調べれば調べるほどルール正しい日本が見えてくる。


今でもアメリカのGHQの日本骨抜き作戦をしようとした日本に対する白人の恐怖心が見えてくるのは私だけかな。
縦糸と横糸でシッカリ編まれた大きな丈夫な布(歴史や習慣)を切り刻まないと彼らは眠れないのかも知れない。

あれだけ戦後教育で日本人を貶める教育をして来てもマダマダという感じで迫ってくる。

東北地震で見せた日本人の冷静沈着な行動力を見て。



●忍者(にんじゃ)とは、鎌倉時代から江戸時代の日本で、大名や領主に仕え諜報活動、破壊活動、浸透戦術、暗殺などを仕事としていたとされる、個人ないし集団の名称。その名は日本国内にとどまらず、世界的にもよく知られている。http://bit.ly/vLrFK0

領主に仕える隠密行動を主体とする集団。戦国時代まで、忍者は地域的に集団化した特殊な階級であり、武士や足軽といった身分の集団とはまた別の立場にあった。

忍者、忍術は日本国内各地で集団を形成していた。
その中でも伊賀と甲賀は良く知られている。
忍者は上忍、中忍、下忍に身分が分かれており、上忍は伊賀では郷士(地侍)で、地主として小作人である下忍を支配していた。
中忍は下忍達を率いる小頭(こがしら)である。甲賀では上忍ではなく中忍が最高位とされていた。
実際に各地の戦国大名に雇われていたのは下忍達だったと言われている。
中世にはどの村落も軍事力を備えていたが(江戸時代に武装を必要としない安定を見る(→兵農分離)までは、あらゆる階層が武装していた)、その軍事力は村落の自衛に用いられることもあり、また村落外の勢力に傭兵のように貸す場合もあった。
外から連れてきた子供を訓練することもあり、伊賀では脱走者(いわゆる抜け忍)は探し出して処罰したと言う。

忍者は様々な特殊訓練を行い、特殊な道具なども所持しており、この道具を「忍具」、逃走術を含む種々の技術を「忍術」と呼ぶ。
忍術は密教、陰陽道や、修験道の行者が用いた術(九字護身法、山嶽兵法など)とも関係があるとされ、現代に伝わる古武術には忍術の名残りが見られるものもある。

『萬川集海』によると、忍術には「陰忍」と「陽忍」があるとされる。
陰忍とは、姿を隠して敵地に忍び込み内情を探ったり破壊工作をする方法であり、一般的に想像される忍者とはこの時の姿である。
対して陽忍とは、姿を公にさらしつつ計略によって目的を遂げる方法である。いわゆる諜報活動や謀略、離間工作などがこれに当たる。
近年の研究では、身体能力に優れ、厳しい規律に律された諜報集団という面の他に、優れた動植物の知識や化学の知識を持つ技術者集団としての一面も持つことが判っている。

戦前は「忍術使い」といった呼称が一般的だったが、戦後は村山知義、白土三平、司馬遼太郎らの作品を通して、「忍者」「忍びの者」「忍び」という呼称が一般化した。
江戸時代までは統一名称は無く地方により呼び方が異なり、「乱破(らっぱ)」「素破(すっぱ、“スッパ抜き”という報道における俗語の語源)」「水破(すっぱ)」「出抜(すっぱ)」「突破(とっぱ)」「透破(とっぱ)」「伺見(うかがみ)」「奪口(だっこう)」「竊盗(しのび)」「草(くさ)」「軒猿」「郷導(きょうどう)」「郷談(きょうだん)」「物見」「間士(かんし)」「聞者役(ききものやく)」「歩き巫女」「屈(かまり)」「早道の者」などがある。

●くノ一について
女性の忍者も存在していた。
彼女たちのことを「くノ一(くのいち)」(“女”という文字を「く」「ノ」「一」と三文字に解体し呼称するようになった隠語表現)とする表現が一般的である。
異説として鼻、目、耳、へそ、肛門などの人体にある九つの穴(鼻は一つの穴と数える)に加え、女性は穴が一つ多いことから「九の一(くのいち)」として呼んだという説も存在する。
しかし穴の数え方が資料によってまちまちのため(例えば、へそではなく尿口を数えるなど)の説もあり、信憑性は今ひとつである。
また「くのいち」という呼び方自体が山田風太郎の創作とする説もある。
「くのいちの術」と言って女性を使った忍術は存在するが、忍者を題材にした映像作品や漫画作品などで登場するような女忍者は存在しなかったとも言われる。
しかし女忍者が女中になりすまし城に潜入したという記述も残っており、女中達の「女の噂好き」を利用した諜報活動でかなりの功績をあげていたとされる。
また史実に登場するくノ一で有名なのは、武田信玄に仕えた歩き巫女の集団がある。
詳細はくノ一の項が詳しい。
 
●女忍者!?『くノ一(クノイチ)』って本当にいたの?
http://norenjapan.jp/tradition_history_culture/ninjya-kunoichi/
2016/4/4
忍者(NINJA)という単語は侍(SAMURAI)や寿司(SUSHI)などと共に日本文化を代表する物として広く海外にも広く知られています。忍者の中でも、女性の忍者のことを「くノ一」(KUNOICHI)と呼んでいます。この言葉は、「女」という漢字の中に、ひらがなの「く」、カタカナの「ノ」、漢字の「一」の形が入っていることに由来します。また、「くのいちの術」という呼び方で、女性をしかけとして利用した仕事もあったと言われています。ちなみに、男性の場合は「男」という字の中に「田」と「力」が含まれているため「タヂカラの術」と呼びます。
 
●クノイチとは【ホームメイト・リサーチ - 城ワールド】
https://www.homemate-research-castle.com/useful/17014_tour_095
忍者について詳細に書かれた書物はほとんど残されていませんが、様々な文献などから歴史を繙いていくことで、その姿が明らかにされてきました。
今でも忍者の研究は盛んに行なわれていますが、なかでも「クノイチ」の存在は謎に包まれた部分を多く残す存在です。
・クノイチの役割
クノイチとは女性忍者のことを指します。
漢字の「女」を分解すると「く」「ノ」「一」の文字になることからこの名が付けられましたが、いうなればこの呼び名は暗号の役割も果たしていたようです。
忍術のなかには人遁十法とよばれるものがありました。
主に諜報活動を行なう忍者は敵を欺く術に長けていますが、これは人を用いて相手を欺く技術のことです。
この中には女遁と呼ばれる忍術があり、敵の要人に女性を送り込み油断させ、重要な情報を引出させました。今でいうところのハニートラップのことです。
一説ではこの術そのものがクノイチと呼ばれていたとされています。
一方、人遁十法で男性を使う場合は、「男」の字を分解しタヂカラと呼んでいました。
このことから、一説ではクノイチとはテレビなどで見るような装束に身を包んで体術を会得した存在ではなく、情報収集のために女中などの役割を担ったスパイであったと考えられています。

 
●黒装束について
「全身墨染めの黒装束」「その中には鎖帷子を纏い、顔には墨を塗っている」「背中に刀」「夜陰に紛れて敵地に侵入する」という印象で描かれることが多いが、黒は夜に像が浮いて見えることから、紺色もしくは柿の熟したような色の衣装を使用していたとされる。
現存する「忍び装束」とされる物も、ほとんどが柿色系統である。
黒色よりも柿色の方が安価に製造できたからとする説もある。
この衣装は、元々は甲賀地方(現在の滋賀県南東部)や伊賀地方(現在の三重県西部)で使われていた山着、野良着が元とする説がある。
また、その状況に合った服装(町中では町人の格好、屋敷などに侵入する場合には使用人の格好など)、すなわち変装を用いており、特に虚無僧・出家・山伏・商人・放下師(ほうかし、大道芸人、奇術師)・猿楽・常の形(つねのなり、武士や農民)の七つは「七方出の術(七化)」と呼ばれる。
また、「専用の」装束などを着用することは稀で、黒装束については、歌舞伎などに登場させる際に黒子のように観客に対して「見えない存在であること」を表現したものが後に、現実にもそのような格好で活動していたと誤認されたとする説もある。
戦うよりも逃げることに重点を置いていたため、通常は重い鎖帷子は着用しない。
漫画表現では、鎖帷子を簡略に描いたことから、網シャツのようなものを着たキャラクターデザインに発展した。
背中に刀を背負うと動くとき邪魔になるため、通常は普通の武士のように腰に下げるが、床下などに潜むときは狭い所でも動き易くするため、また刀自体を盾代わりとするために背負った。

・歴史
・発祥と変遷
広義の忍者、忍術の起源は人類の歴史とともに古く遡ることができる。
その発祥については日本発祥説の他に、インド発祥説、中国発祥説などもある。
『孫子』用間篇を始め、古来、間および諜を説く兵書は多い。
飛鳥時代には、聖徳太子が、大伴細人(おおとものほそひと)を「志能備(しのび)」として用いたと伝えられる。

・狭義の忍者、忍術は源平時代以後に日本で発祥したものである。
忍者、忍術は日本国内各地に分かれ、いくつかの集団を形成していた。
文献上にその名が見られる忍術流派は71流を数え、伝書及び資料の確認される流派は31流とする説がある。
中でも甲賀や伊賀を本拠としていた忍者集団は有名である。
これらの場所には多数の忍者屋敷があり、日々の訓練が行われていたと考えられる。甲賀と伊賀は、鎌倉時代にはその領地の大半が荘園で木材の供給地だったため守護や地頭による支配を受けなかったが、戦国時代になり荘園が崩壊すると、地侍が数十の勢力に分かれ群雄割拠した。
各地侍が勢力を保つため情報収集戦とゲリラ戦が日夜行われ、「忍術」が自然発生したのではないかと考えられている。

文献上の初見は1487年の足利義尚幕府軍対六角氏・甲賀・伊賀連合軍の戦いといわれる。
特に伊賀忍者は、古代、琵琶湖が伊賀国内に存在し、そのため土質が農業向きではなく特殊技能を体得し国外へと移動して忍者集団を形成したものという。

なお、戦国時代には、伊賀・甲賀組や紀州根来衆の他に甲斐武田氏の透破、越後上杉氏の鳶加当他、相模北条氏の風間党、奥州伊達氏の黒脛巾組、加賀本願寺の修験、伊勢長島、出雲尼子氏の鉢屋一党など各地方諸文献に草等の忍者らしき記載が有る。

・大久保忠教の三河物語の記述
徳川家康が桶狭間の戦い後に今川氏から独立し、三河国奪還戦争のさなか、蒲郡市にある鵜殿長持の西之郡城(上ノ郷城)を忍で取る、と記載されている。
寛文7年(1667年)の近江国甲賀武士が奉行に差し出した書状には、甲賀21家が援軍として駆け付け、夜襲・焼き討ちにより、鵜殿藤太郎の首を討ち取った武功について記載。
伊賀ではなく、甲賀であることも注目される。

・服部氏伝説
昭和37年(1962年)、伊賀上野の旧家より「上嶋家文書(江戸時代末期の写本)」が発見された。これによると、伊賀国の服部氏族・上嶋元成の三男が申楽(能)役者・観阿弥で、母は楠木正成の姉妹だったという。
すなわち、観阿弥は楠木正成の甥だったことになる。根拠は特にないが、偽系図などと呼ばれている。
観阿弥の息子・世阿弥も「先祖は服部氏」と自称していた。

伊賀国では、藤林・百地・服部の上忍三家が他の地侍を支配下に、最終的に合議制を敷いて、戦国大名に支配されない地域を形成していた。
外部からの侵略に対しては結束して戦い、織田信長が伊賀国を支配するために送り込んだ築城奉行・滝川雄利を追放、その報復として攻め込んできた織田信雄の軍も彼らは壊滅させている(第一次天正伊賀の乱)。
改めて敵の一部を調略してから、信長が大軍を編成し攻め込んできた際に、その他の伊賀国の忍者集団は壊滅的な打撃を受けた(第二次天正伊賀の乱)。百地丹波以下100名が紀州の根来へと落ち延びたと言われる。

・徳川幕藩体制下
伊賀忍者は本能寺の変の際に、堺(現・大阪府堺市)の見物に訪れていた徳川家康を護衛して伊賀越えを行なったことから、徳川幕府に召抱えられるようになった。
中でも服部半蔵は重用され、江戸城の城門の一つにその名が付けられ、現在も東京の地名「半蔵門」として残っている。
彼らは、徳川幕府のために諸大名の内情を探るだけでなく、江戸城下の世論調査、大奥の警護、空き家となった諸屋敷の管理なども担当し、同心として江戸城下の治安の警護に当たった。
御庭番は忍者と同様に思われがちだが、誤りであり八代将軍・徳川吉宗が紀州から連れて来た薬込役を伊賀者と同格に格付けしただけに過ぎず、彼ら御庭番は忍者とはかかわりがない。

江戸時代の諸国を行脚していた俳諧師・松尾芭蕉は、現在の三重県伊賀市に当たる地方の出身者だった。
そのため、松尾芭蕉は実は忍者あるいは隠密だったのではないかとする説があり、小説などでも題材に扱われている。
その根拠として、芭蕉の著書奥の細道の記録どおりに旅行したとすると、一日数十キロ歩かなくてはいけない計算になり、普通の47歳ならば体力的に相当無理がある、などがあげられる。
当時の江戸時代の浮世絵師・葛飾北斎も公儀隠密説が囁かれている。
これらの説には決定的な根拠はなく、現状では単なる想像の範疇を出ない。

江戸時代の探検家・間宮林蔵は、幕府の隠密であり、広義には彼も忍者だと言える。
少なくともシーボルト事件において高橋景保を売ったという彼の行動は儒教道徳的観点から非難され、冷酷な忍者ならではの行動であると評された。

マシュー・ペリーの率いる黒船が浦賀沖に来航した際、幕府の隠密が早速調査のために行動しており、これがいわゆる忍者の活動の最後だった。

・明治後の忍者
その後明治になり、徳川幕府から明治新政府へ政権が移ると、警察、日本陸軍、日本海軍が創設され、忍者(江戸時代には隠密、同心、御庭番などの武士)もその役目を終えることになった。
活躍できる場を失った彼らはその後、警察関係(警察官)の職業など、新たな職に就いた。

明治末期~大正年間には立川文庫の作家たちによって、猿飛佐助、霧隠才蔵など忍者ものが創作され人気を博した。
映画のトリックで忍術が描かれ、また、戦後の1950年代後半より、小説や時代劇、劇画などに忍者が多く取り上げられるようになり、忍者は再び日本人の間で広く認知されるようになった。
また日本以外でも「ニンジャ」を使った作品は存在し、アメコミとして登場し後にアニメ化された『ティーンエイジ・ミュータント・ニンジャ・タートルズ』はあり、ゲーム『ウィザードリィ』シリーズでは職業として忍者が登場しており、いずれも日本でも放映、売買されている。
 
●9月1日は「くノ一の日」!絶世の美女忍者達をまとめてみた
https://ninjack.jp/kunoichiday-16
2016/09/01
目録 -MOKUROKU-
1.9/1はくノ一の日
2.くノ一とは?
3.絶世の美女忍者をまとめてみた
4.「#くノ一の日」のタグを作ったのは一体だれ?
2016年ももう8カ月も終わってしまいましたね。9/1は今年からあるお方によって、忍者に非常に関わりの深い日となりました。

そう、9/1はくノ一の日!

言われてみれば確かに!気づかなかった!事の発端はTwitter上で「#くノ一の日」というタグがタイムラインを賑わせたところからはじまります。

今日はくノ一の日のゲリラ的設定開始を記念して、くノ一特集をお送りします!

・くノ一とは言わずと知れた女忍者のこと。
元は万川集海という忍術書に「くノ一の術」という名で「女性を送り込んで情報を収集するための忍術」として記されたことから、くノ一 = 女性の忍者と呼ばれるようになりました。くノ一には色仕掛けして情報を聞き出すイメージがありますが、忍術書にはそのような記述はなく、後世の創作でそんなイメージになってしまったようです。

◆くノ一の語源 - 歴史に潜む忍者たち  忍者大百科
http://ninja2048.jp/ninja7.html
・女忍者くノ一.
女忍者は一般に「くノ一」と言われ、テレビの時代劇などで俊敏な動きをするといった華やかなイメージがあります。
しかし、くノ一は忍びの世界では華やかな活動をしたのではなく、影の忍者をさらに陰からサポートする役割を担いました。
そのため女忍者は時代劇のように暴れまわって敵に攻撃するなど、男性のほうが長けていることはあまり行いませんでした。
しかし男性は女性に弱いです。
そこに漬け込み、女の“特権”を利用したのがくノ一です。
・くノ一の語源
上記の文章ではくノ一という表記を使ってきましたが、「九ノ一」や「久ノ一」という表記方法もあります。
 「くノ一」というのは、「く」+「ノ」+「一」=「女」(女という字の書き順にもなっている)からきています。現在ではこの書き方が一般的です。
 「九ノ一」は「九」+「一」からきていて、男には目、耳など「九」つの穴があるのに対し、女は男より穴の数が「一」つ多いことを意味しています。
 
◆くのいちって何?現代日本でもファンが多いその実態に迫る  生活百科
https://seikatsu-hyakka.com/archives/12993
2018/02/23
アニメや漫画、映画などでもかなりとりざたにされている存在になるかと思います。
忍者には男性もいますし、女性もいます。
女性の場合にはくのいちと表されることが多いかと思いますが、今回はくのいちについてご紹介していきたいと思います。
 
◆歩き巫女
あるきみこ
神社に所属せず,村落に寄食し,漂泊する民間巫女。都鄙を遊行し,口寄せを行い,仏教と習合した。歩き巫女の下級の者は,中世から近世にかけて私娼として里巫女 (さとみこ) ,旅女郎,白湯文字などと呼ばれた。
 
◆◆歩き巫女 - Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/歩き巫女
歩き巫女(あるきみこ)は、かつて日本に多く存在した巫女の一形態である。 特定の神社 に所属せず、全国各地を遍歴し祈祷・託宣・勧進などを行うことによって生計を立ててい た。旅芸人や遊女を兼ねていた歩き巫女も存在した。そのため、遊女の別名である白湯 文字、旅女郎という呼称でも表現される。鳴弦によって託宣を行う梓巫女、熊野信仰を 各地に広めた熊野比丘尼などが知られる。 ワカ(若宮と呼ばれる神社に仕えていた巫女 )アガタ シラヤマミコ モリコ(山伏の妻)総じて神を携帯し各地を渡り歩き竈拂ひ(かまどはらひ)や口寄せを行ったらしい。
 
◆真田女忍者:歩き巫女
http://www.infonet.co.jp/ueyama/ip/episode/sanada.html
(1) 歩き巫女平安時代の末頃、 源平争乱の頃、 後白河法皇は、 白拍子たちによって 当時歌われていた今様 (いまよう) 歌謡を掻き集めて集成し、 「梁塵秘抄」 (りょうじん ひしょう) と名付けた。 言わば、 当時の流行歌謡集である。 その中の364番は、 老いた 母が幼い我が娘を思って涙を流す歌である。 「わが子は十余になりぬらん 巫 (こうなぎ) してこそ歩くなれ ・・・ 」 ここに、 巫してこそ歩くなれ = 歩き巫女 (あるきみこ) をして 各地を回っている。
そして、 「歩き巫女」 とは、 特定の神社に属しないで各地を遍歴し、 祈祷 ・ 託宣 ・ 口寄せ (霊媒) ・ 巫女舞いなどを行って生計を立て、 大道芸人 ・ 売春婦を兼ねる者もある、 さすらいの遊女である。
 この歩き巫女の中から、 戦国時代に女忍者 (くのいち) が発生した。 歩き巫女の姿を借りて諸国の情報探索を行った女性たちが生まれてきた。
http://www.infonet.co.jp/ueyama/ip/episode/img/miko1.jpg
 
◆「くノ一」とはなにか?「歩き巫女」とは何かについて考える
http://blog.goo.ne.jp/tudukimituo1028/e/99390c8e07650cc756ca51acb5c8fda3
忍者とは鎌倉時代(1185年-1333年頃)から江戸時代(1603―1867年)の日本で、大名や領主に仕え諜報活動や暗殺を仕事としていたとされる、個人ないし集団のことです。
 
◆パウチカムイ御由緒
http://jyashin.net/evilshrine/gods/pauchi_shrine/pauchi_02.html
それこそ歩き巫女のごとき漂泊のシャーマン・芸能・娼婦集団だったのかもしれない。
いずれにしろ和人の伝説には見ることの出来ないシャーマニック性の強い特異な伝説である。古代人の息吹を感じる、人間の根源的な獣性や第六感的な霊性を呼び覚ます
 
◆渡邊昭五著『中近世放浪芸の系譜』
評者・花部英雄 掲載誌・國學院雑誌102-4(2001.4)
http://www.iwata-shoin.co.jp/shohyo/sho119.htm
 放浪芸の文芸化という分野は、日本文学史においては、「平家物語」や「太平記」などの語り物文芸において認知されてきたといえよう。ただ庶民信仰の拡散に基づく寺社縁起、地方産土(うぶすな)神信仰の宣伝のための唱導、近世門付芸における口上など、細分化、底辺層化していった放浪芸の全貌は研究されていないばかりか、知られていないといっても過言ではない。しかし、中世末期から近世の都市の発展において、この放浪芸は著しく庶民性を濃くして浸透していった。それらのうち、貴顕にもてはやされた猿楽能や、都市文芸の華である歌舞伎、浄瑠璃は別格として、他の説経節、女猿楽、女歌舞伎、絵解き、諸種の門付芸などは、研究においても日陰に置かれてきたのが実情であろう。
 
◆渡り巫女(歩き巫女)
祭りや祭礼や市などの立つ場所を求め、旅をしながら禊や祓いをおこなったとされる遊女の側面を持つ巫女である。
その源流は、平安時代にあった傀儡師といわれる芸能集団で、猿楽の源流一つとされる。
旅回りや定住せず流浪して、町々で芸を披露しながら金子(きんす)を得ていたが、必ずしも流浪していたわけではないので後に寺社の「お抱え」となる集団もあり、男性は剣舞をし、女性は傀儡回しという唄に併せて動かす人形劇を行っていた。
この傀儡を行う女を傀儡女とよび、時には客と閨をともにしたといわれる。
また、梓弓という鳴弦を行える祭神具によって呪術や祓いを行った梓巫女(あずさみこ)もいた。
 
 
◆忍者概要 http://bit.ly/zeRLtX
しかし女忍者が女中になりすまし城に潜入したと言う記述も残っており、女中達の「女の 噂好き」を利用した諜報活動でかなりの功績をあげていたとされる。
 
◆先に知る者が勝つ:「歩き巫女」   http://bit.ly/yOnAXy
 
◆乱波(らっぱ) http://bit.ly/xLqYdq
 
◆「くノ一」とはなにか?「歩き巫女」とは何かについて考える - 団塊 ...
https://blog.goo.ne.jp/tudukimituo1028
2009/10/12
忍者とは鎌倉時代(1185年-1333年頃)から江戸時代(1603―1867年)の日本で、大名や領主に仕え諜報活動や暗殺を仕事としていたとされる、個人ないし集団のことです。※昨日の「忍者」について追補しておきたいことがあります。
 
◆武田信玄の戦い方とは? - 【武田信玄の生涯】 http://bit.ly/yIyrvR
「孫子」に通じていた武田信玄が、スパイを使わない訳がありません。実際、武田信玄や有力な戦国大名は、自国内に忍者軍団を抱えています。武田信玄は、「透破」「歩き巫女」と呼ばれるスパイや忍者を使い、各国の情報を集めさせていたといわれています。
透破は、「すっぱ」「とうは」「とっぱ」などと読み「スッパ抜く」の語源となった忍者の名称・通称であるといわれています。
武田信玄が使った透破は「三つ者」とも呼ばれ、各地の情報収集や情報操作・人心操作などの諜報・工作活動に従事したと言われています。「忍者」というと摩訶不思議な忍法で武士や他国の忍者たちと戦うイメージがありますが、武田信玄は「孫子」に基づいた工作活動などに活用していたようです。
 
◆戦国大名が抱えていた忍者集団を紹介 | はじめての三国志
https://hajimete-sangokushi.com/2018/12/31/%E6%88%A6%E5%9B%BD%E5%A4%A7%E5%90%8D%E5%BF%8D%E8%80%85/
2018/12/31
戦国時代の二大スターと言えば、サムライとニンジャだと思います。
特に海外の人にとっては、この二つの存在は神秘的かつ魅力的でしょう。
特に忍者は、その黒装束と卓越した体術と忍術により圧倒的人気を誇ります。
しかし、一口に忍者と言っても、一塊だったわけではなく、抱えられている戦国大名によって名称が違いました。
今回は戦国大名に抱えられたニンジャについて紹介します。
この記事の目次
エントリー1 伊達家に仕えた黒脛巾組
エントリー2 後北条家に仕えた風魔党
エントリー3 上杉家に仕えた軒猿
エントリー4 武田家に仕えた甲州透波
エントリー5 真田家に仕えた真田忍者
エントリー6 織田家に仕えた忍者 饗談
エントリー7 尼子家に仕えた鉢屋衆
エントリー8 毛利家に仕えた座頭衆、世鬼一族
戦国時代ライターkawauso編集長の独り言
 
◆真田氏の始祖 - 歴史研究海野
http://musha.mobi/index.php?%E7%9C%9F%E7%94%B0%E6%B0%8F%E3%81%AE%E5%A7%8B%E7%A5%96
真田氏の始祖
謎の多い真田氏
 真田といえば、現在でこそ武門の名家として人気が高く、日本中で知らぬ人のない真田一族だが、そのルーツについては、謎に包まれている部分が多く、家系などの記録の信頼性に幅広い見解があり、真田氏がいつごろから始まったのか、真田幸隆(ゆきたか)の出生についても決定的な史料が無く、真田氏の起源や幸隆以前の家系について様々な推測はできても確定させることは出来ないのが現状であり、今も謎に包まれている。
 もっとも、これは真田家だけに限ったことではなく、数ある戦国大名家の家伝書も自分たちに都合の良いように書き換えられて編纂したようです。由緒正しい名家といえる一族は少なく、全くの粉飾していることも事実である。
 
◆「くノ一」の誕生です。
http://bit.ly/yZw0Iy
くノ一の定義は下記の通りです。
「くノ一は忍者の下で働きをする女性のことを指す。実際くノ一は忍者とは異なるが、現在では女性の忍者と認識されていることが多い。
仕事のしかけに女性を使うことをくのいちの術と呼んだ。ちなみに男性を使うことはタヂカラ(タヂカラの術)と言い、これは男の田と力から由来していると推測される。
小説や漫画などで女忍、すなわち女性の忍者を意味する言葉として用いられることが多く、これが普及している。」

つまり、厳密に言うと「くノ一」は忍者ではないのです。しかし、現実にはスパイとして敵に送り込まれることが多く、その意味では忍者と呼んでもいいかなと思います。
 
◆くのいち…忍者と誤認 http://bit.ly/z634WC
 
◆芸者の歴史について | スタジオ七色
http://nana-iro.tokyo/column/theme02/column01
芸者の歴史は古く、平安時代の白拍子、踊り子、遊女歌舞伎と形を変え、吉原の遊郭の遊女で芸に秀でた歌扇(かせん)をきっかけに、芸に優れた遊女を置くようになったことが、今の芸妓(芸者)の ... という質問をすると、多くが「フジヤマ」「ニンジャ」と並び「ゲイシャ」や「ゲイシャガール」という言葉が返ってくるでしょう。 ... そしてその踊り子は諸国を旅するようになり、かの有名な出雲阿国が登場し、「遊女歌舞伎」へと発展していくのです。
 
◆戦前は「忍術使い」といった呼称が一般的だったが、
戦後は村山知義、白土三平、司馬遼太郎らの作品を通して、
「忍者」
「忍びの者」
「忍び」という呼称が一般化した。

江戸時代までは統一名称は無く地方により呼び方が異なり、
「乱破(らっぱ)」
「素破(すっぱ、“スッパ抜き”という報道における俗語の語源)」
「水破(すっぱ)」
「出抜(すっぱ)」
「突破(とっぱ)」「透破(とっぱ)」
「伺見(うかがみ)」
「奪口(だっこう)」
「竊盗(しのび)」
「草(くさ)」
「軒猿(のきざる)」
「郷導(きょうどう)」
「郷談(きょうだん)」
「物見(ものみ)」
「間士(かんし)」
「聞者役(ききものやく)」
「歩き巫女(あるきみこ)」
「屈(かまり)」
「早道の者」などがある。
 
◆巫女(日本)
https://dic.pixiv.net/a/%E5%B7%AB%E5%A5%B3
神社に属し、神楽を舞ったり神事に奉仕して神職を補佐する女性。
巫女(みこ、ふじょ)、または神子(みこ)とは、神道において神に仕える女性のこと。神社で祭祀を行う女性(女性の神主、すなわち女子神職)とは異なる。※巫女は神職には含まれない
現在の神社では、神職の補助者としての位置づけになっている。また、海外の女性シャーマンも巫女と訳されることが多い。
 
◆日本巫女史
https://docs.miko.org/index.php/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E5%B7%AB%E5%A5%B3%E5%8F%B2
日本巫女史
巻頭小言

 
◆出雲の阿国は忍者か?!
http://www.taigafan.com/sanadamaru/tozainanboku/p/17.html
慶長3年(1603)、出雲の阿国おくにが京の四条河原で「傾奇かぶき踊り」を始めたのが歌舞伎の起こりだと言われている。
平成15年(2003)は、それから数えて400年目に当たり、出雲や京都では数多くの催しが

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