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事の真相を自分なりに探究し記録しています。

いつまで核の抜けた日本近代史を教える気か

2008年06月12日 | Weblog
『神々の軍隊-三島由紀夫と国際金融資本の闇』(浜田政彦 著)三五館

ああ、この本を読まなければよかった。この本には、途轍もない「真実」が書かれている。

第1次大戦終結後から第2次大戦の勃発までの日本史の動きを「国際金融資本」という補助
線を引っ張って読み解いている。この補助線なしには、日本が突入したシナ事変と大東亜戦
争(太平洋戦争)の泥沼はいかなる世界史的意味を持っていたのか理解できないだろう。
政治家の動きだけを見ていては絶対に分からない。

当時(第1次大戦後)の日本には大略、3つの勢力がいた。
一つ目は「皇道派=新興財閥連合」、「統制派=大財閥(ロックフェラー、ロスチャイルド
系)連合」、「日本原理主義者(大本教、日蓮教、浄土宗、国柱会など)」である。
「2.26事件」は、日本原理主義者と皇道派=新興財閥連によって起こされた、反財閥、
反国際金融資本のクーデタだったのである。
この大きな視点が、これまでの日本史解説書では全く欠けている。
皇道派の幹部たちも、本当に国体明徴による天皇の神権国家を作ろうという考えの人々は僅
かで多くは、大財閥との利権争いの一環として、政治闘争を仕掛けただけであった。

ところが、大本教、日蓮教などの宗教的熱情から、天皇中心の国体の明徴を実現しようとし
た「ラディカル」な、ある意味では純粋な、日本原理主義者たちは、あくまで純粋に自らの
志に従って散った。筆者はここに三島由紀夫の自決と重なり合うものを見ているのだが、
現代の日本人の視点から見れば、このあまりにも純粋な日本原理主義者の姿は、イスラム原
理主義のアルカイーダやタリバンとも重なっていく。

原理主義はそれが「狂気」であるが故に、現実妥当性を持たず、金と権力を握った者たちに
よって覆滅せしめられるのだ。原理主義者の、武器は狂気だけであり、戦略を欠いていた。
これが、日本があの戦争に負けた最大の原因であろう。

私は彼らの崇高な理念には共感はするが、これは危険なアイデアリズムであり、リアリズム
の観点からすれば、唾棄すべき「国際金融資本」につながりながら、日本の独立をなんとか
維持しようとした政治家たちの立場を取る。

この本は、一方に2.26事件に連座した若い日本原理主義者たちに視点を置き、彼らの姿
に徹頭徹尾共感した形で筆を進めている。
その一方で、数々の文献を渉猟した筆者は、ロックフェラー、モルガン、ロスチャイルド、
サッスーン財閥などの国際金融資本の中国政策と、元々「国際金融資本」(判りやすく言え
ば、ユダヤ金融資本)のひも付きであり、その限りに置いて自主性を許されていた、日本の
三井・三菱などの大財閥たちが、欲を見せて、「彼らの虎の尾を踏む」さまを存分に描き出
している。

昔も今も日本が国際金融資本の強い影響下にあるということは変わらない。昔は英国の属国
として、今はアメリカの属国として。
この本の時代背景は妙に現在に重なっている。三井・三菱は「死の商人」でもあった。今、
アメリカの要求で、武器輸出三原則の見直し、憲法9条の「改正」が行われようとしている。
歴史はくりかえすのか。

本文の内容もさることながら、巻末に乗せられた文献録と人名辞典の資料性を一段と高めている。
天皇家は初めから、日本原理主義者の抱くような理想を体現していなかった、というあまりに悲
惨な現実を、海外の文献まで調べながら立証している。天皇家のキリスト教改宗運動を進めた、
クウェーカー・コネクションについては最近、YS氏が詳しく調べているが、本書でもYS氏の
観点からとは全く正反対の立場から検討が加えられている。




ずっとその存在は知っていた作品でしたが、なぜか読むのを避けて
きました。最近、出版されたばかりの、”三島由紀夫と2.26事
件”を読んで、とうとう読んでみました。読後感は、恐るべきテー
ゼがさまざまな資料(ほとんど状況証拠だが)をベースに展開され
ていました。5年前に書かれた作品ですが、不可思議な日本の近代の
過去のエピソードの説明だけではなく、最近の新聞をにぎわす出来
事の生起がここではすでに予言されています。買収騒ぎや女性天皇
容認論などが生まれてくるその歴史的な不可避性とその原点が、実
に見事にここでは解き明かされています。もちろん、まだ、現代の
日本人は、失ったものの大きさには気づいてはいませんが。背後の
黒幕としての国際金融資本との指摘は、陰謀論の色彩が濃厚ですが
、おそらくここで著者が言いたいのは、具体性としての国際金融資
本ではなく、貨幣をその行動の源泉とする英米の資本主義と理解し
たほうがいいのかもしれません、その国際金融資本とクエーカーそ
して少なからぬ数の日本人のクウェーカー(財界人だけではなく軍
人もいる)のとの間の密接でグロテスクな関係は、これこそ日本の
近代の恥部なのでしょう。振り返ってみれば、バイニング婦人なる
クエーカーが、戦後、今上天皇の家庭教師していたという不可思議
な事実も十分納得がいくわけです。崩壊したこの神話がもう一度読
み解かれることはあるのでしょうか?巻末の人名索引は、各人の係
累や戦後の経歴が簡潔にまとめられており、非常に参考になります。




この本の重厚な内容を是非読んで欲しい。
この本のテーマは一言で言えば、「日本とは何か、そして天皇とは
何か」ということである。
欧米の一神教の神に擬せられた「現人神」としての天皇は昭和維新
を遂げようとした、若人たちの理想であり救いであった。
しかし、著者の浜田氏は彼らに共感を示しつつも、彼らの偶像をた
たき壊す。天皇は神ではなく、ただの人であり、それも決起将校た
ちの一番忌み嫌った、国際金融資本と協調することで日本の経済体
制を守ろうとしていたのである、と。

三島由紀夫は、その目を覆いたくなるような真実に気付いてしまっ
たため、自決し、自らその理想に始末を付けるしかなかったのである。
本書の価値は厖大な脚注に示される、日本と国際金融資本との密接
なつながりである。筆者の恐るべき洞察力に脱帽。




本書では、1970年の三島由紀夫の切腹自殺の意味が、氏の遺作
・豊饒の海シリーズの「奔馬」、「英霊の声」、死の前に自衛官の
前で詠んだ「檄文」等を引用しながら、次の3点を主軸に解明され
ています。

1.昭和戦史がいかに国際ユダヤ金融の闇(ロスチャイルドやロッ
クフェラー等)と、それに群がる日本の財界(財閥)、それに踊ら
される政治家、右翼、思想家によって過った方向に誘導されてきたか。

2.そして、米国の占領政策の下、日本人が「日本」を日本たらし
めてきた日本の神話を捨て、貨幣神話という外国から来た新たな価
値を、おどろくべきは、自ら進んで受け入れて、自国の良き政治、
社会、文化を失ってきたか。

3.それを憂い、告発し、二二六事件の若き将校のように自らの自
決によって、天=神に改善を働きかけた三島の姿。

本著の「あとがき」によると、司馬氏は三島の死の翌日毎日新聞で、
「吉田松陰は、大狂気を発して、本来天にあるべきものを現実とい
う大地に叩きつけるばかりか、大地を天に変化させようとする作業
をした。そういう類の精神は松蔭一人で十分であり、二人以上も出
れば民族の精神体質の課題という別の課題にすりかわってしまう。
三島の死は文学論のカテゴリーにのみ留められるもの」と論じたそ
うですが、晩年の司馬は戦後半世紀を経て、三島の境地にたどり着
き、「日本は滅びる」と語ったそうです。
司馬氏と三島の憂国の次元、洞察力の違いは明らかです。

言論界の寵児、佐藤優氏は「民族をその民族たらしめているのはそ
の民族創世の神話である」と述べられましたが、本書に書かれた史
実は日本の近代史として、学校の歴史や国語の授業で紹介されるべ
きものであり、日本人は今、貨幣神話を是とするのか、古来の日本
の神話を是とするのか、考え、結論を出し、行動に移すべき岐路に
立たされていると強く感じました。




陣風連の乱、2・26事件、大本教・出口ナヲ、三島由紀夫決起事件、
これらをつなぐ1本の縦糸すなわち西欧合理主義に対しての民俗的純
潔と言おうか、天皇を神とする民族固有の神話の存在を見事に描き
出し、その破壊を精緻に書いている。朝鮮や満州で日本人が威張り、
土地の人間が虐げられ、国内では貧しい農民が娘を売らねば生活で
きない窮状がある。天皇親政を夢見て決起したものの、天皇の怒り
を買い誅殺されてしまう。天皇は神ではない。少なくとも彼らが期
待する神ではない。民族固有の神話を思い出す日がくるのか。
日本人であることとは?日本を守るということとは?と自問せずに
はいられない。
国際金融資本のたくらみを人類皆が知る日がくるのだろうか。まず
日本から変わっていかねばばならない。

近い将来、この本は覚醒した日本人のバイブルとなるだろう。

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