LeuciのCPB

事の真相を自分なりに探究し記録しています。

砲身を覗き込む者たち

2008年06月20日 | Weblog
>数学は、もう一つの世界言語である。彼ら日本の秀才達のことを、英語ではエンジニアとか
>テクニシャンというのである。彼らはけっしてサイエンティストとは呼ばれない。
>エンジニアやテクニシャンは理科系の学者集団の中でも、下層の方に位置づけられている
>技術職人たちのことである。たとえば、ハーヴァード大学では、「サイエンティスト」
>と呼ばれる一流学者達の層以外に、この上に、たった十二人だけ「フィロソファー(哲学者)」
>と呼ばれる人々がいる。


・なるほど、これが枠型職人の上の知恵集団のようだ。
サイエンティストはフィロソフィアーの問いかけに答える、という形。




>これ以外に下等学問としての人文がある。この人文というのはヒューマニティーズの日本語訳である。
ヒューマニティーズとは、「人間、および記録された文学に関わる事。という意味である。
だから人文は、簡単に言えば現在で言う文学(部)の事である。他には歴史学があり、その内容である
古文書解説や石碑の文の解説などを行うことだ。これらは、学問としては下等学問である。

>これと、サイエンス(学問)の区別をつけなければならない。これが、日本人にはできていない。
すべてごちゃまぜなのが日本の大学制度である。これは国家的学問犯罪と呼んでもいい。
大欠陥学問観と呼んでもよい。このヒューマニティーズとサイエンスの区別がついてる日本知識人
自体が、ほとんどいない。すべてごちゃまぜである。さらには「文学部哲学科」や「文学部心理学科」
などという恐るべき学問分類を行って恥だと思っていない。あるいは「人文科学」などという奇怪な
言葉を、すべての教育機関が使っている。人文が科学(サイエンス)のわけがないではないか。




・これによる実践集団の上の存在の不在がどうも痛すぎたようだな。
もちろん知識エリートはそれはそれで必要だ。ただ、あまり自分らが
「サイエンティストの提案(仮回答)をよく理解した」という立ち位置であることを
よく理解していなかったようだ。
実践部隊を頂点において政治をやれば、その国は自ずと彼らの実験場になる。

・この提案・受け渡しがいつも誠実な者に行われていればいいが、
これを特定の者と結びつき私益につなげようという者が増えだすと
学問体系は崩壊するだろう。なかなかに理想主義的な危うさの上に
置かれたシステムだ。
そしてどうもこれを実際に過激な競争原理下にいれて破壊したようだ。
いや勝手に劣化していって崩れてきたのかもしれないが。


・日本は戦時体制で集約され、戦後体制ではそれを継続利用してきた。
人的(知的)被害甚だしい時期にいきなり立って走るのはたしかに
難しかったであろう。

そういうこともあって日本の学問の府は一国の機関として自立できていない。
中腹を頂点に置いている。たぶん知識理解においては十分なレベルの集団を
そのわずかな受験技術の劣り(ケアレスミス)で無理やり人数調整している。

そこで、そもそもの知識理解者数を減らそうという動きと、知恵集団を
育てようという動きのぶつかりが起きた。これが考える力を養う、ゆとり(知恵)教育。
これは属国派(主に現官僚)が上手くいかないと判断した。
そして宗主国は当然そのまま実践場でいてほしい。
そして自分らの立場を脅かすような存在を育てるようなことをするよりは
現状維持を選択した、と妄想。

いえることは、知識エリートが動かす国は、科学の結果・効果を見る実践・実験場だということだろう。
サイエンス信仰の国であり、幾度の失敗も含めて成り立つ。
その失敗の被害をとどめる態勢・防護壁がしっかりした国は優秀といえるだろう。
いきなり主幹部でそれを試して、それを無防備(無知)で回りで見守ってるような国(国民)は
成熟しているとはいえず、深い傷を負うことになるだろう。

そうすると民衆と距離を置いた政治体制は、あらかじめ彼らを遠ざけているとも言え、
誠実な社会主義は、大衆支配(民主主義)より優れているとも言える。
民主主義は爆心地に無防備なまま集まらせ、その被害を大きくするため、またそれを
利用するために広めているのかもしれない。
そうか、市場至上主義もそれが狙いなのか・・・。

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