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ばりん3g

現代の学力格差は、学習意欲と情報社会によってもたらされる。

教育学、あるいは生涯教育を語る場において、「強い人」「弱い人」という概念が存在する。

「強い人」と「弱い人」は自律的な学習ができるか否かを軸とした分類であり、

・前者は自律的な学習が営める人で、周囲が何もしなくても基本的に学びまくる、学習意欲に富んだ人。

・後者は自律的な学習が困難な人で、何らかの理由でそれが不可能である、学習意欲以前の問題を抱えていることが多い人。

---を指している。

そして、「強い人」と「弱い人」の学力格差は大きい。自分からどんどん学ぶ人と、周りが支えても動かない可能性がある人。差は歴然であり、当然のように思える。

 

この格差がある状況で、あるものを導入してみる。

「誰でも無条件に扱える、知識が大量に詰まった場所」だ。

わかりやすいものはWikipediaだろうか。Wikipediaは誰もが無料で閲覧できるネットの百科事典であり、これまでにあらゆる分野の知識が蓄積されている。「八甲田山遭難事件」「不確定性原理」「ウガヤフキアエズ朝」についての詳細な記事が1つの事典に記載されているのは他に見ないだろう。

他にも図書館とか、各種オンライン事典とか、多様な媒体で投稿されている教養とかが挙げられる。広域でものを捉えれば、Googleなどの検索エンジンもそうといえるかもしれない。

より分かりやすい例は、今閲覧しているブログだろうか。閲覧者に料金などの制限を課すことなく、ある程度確からしい知識を投稿している。「誰でも無条件に扱える、知識が大量に詰まった場所」の定義は一応満たしていると言えよう。

 

誰でも無条件に扱える、知識が大量に詰まった場所とは、何人も拒むことなく、その場所に行けばいくらでも学べる、あるいは学ぶ目的が見つかるところだ。

「強い人」にも「弱い人」にも同様に知識をもたらしてくれるところだ。

さぁ、これを導入することで、学力格差はどう変動するのだろうか?

 

 

答えは、格差がより拡大する、だ。

「強い人」にとってより学びやすくなるだけである。

 

なぜそうなるのか。

その理由を、私は最初に説明した。

「強い人」と「弱い人」は自律的な学習ができるか否かを軸とした分類である。

触れられる知識の質量を軸とした分類とは言ってないのである。

 

彼らを決定づけているのは知識へのアクセス権ではなく、自分の意志で学習できるかどうかである。「強い人」はそれができるから強いと、「弱い人」はそれが困難だから弱いと表現される。

知識それ単体が、学習になにかをもたらすわけではない。それを扱う側の意志や目的があって初めて有用となる。知識が大量に詰まっていたとしても、扱う意志も目的もなければ、まさに猫に小判。

ゆえに、誰でも無条件に扱える、知識が大量に詰まった場所を追加しても格差は縮まらないどころか、逆に拡大することになるのだ。

 

これが、学習意欲と情報社会から生まれた新しい格差である。

 

 

では、どうすればこの格差は解消されるのだろうか。

どう対処すれば、「弱い人」が「強い人」になれるのだろうか。

 

まず、休息をとること。

学習意欲を主に取り扱う自己決定理論は、学習意欲を「健康な人が」自然に有するものとして解説している。

生きているだけで精一杯な人に、疲労困憊な人に、自律的な学習をするだけの余裕はない。寝て、食べて、めいっぱい羽を伸ばす。そこからである。

 

次に、休息を容認してくれる場所に身を移すこと。

疲労を理由に休息をとっても誰も咎めることなく、むしろそれを奨励したり、推奨したりする場が好ましい。

 

そして、学習を応援してくれる場所と対人関係を持つこと。

学習意欲は外的要因ですぐに壊れる。周囲から指摘されたり、否定されたり、強制されたり、嗤われたり、無関心が続いたりすると、意欲は失せてしまう。

対象の学習を見守ってくれる、認めてくれる、自律的な学習を促してくれる、真剣に受け止めてくれる、あるいは一緒に学習してくれるような場所と人を持つべきだろう。

 

これらの対処は人によっては達成が難しい、あるいは現実的ではないものだろう。

特に、児童生徒が学習を応援してくれる場所と対人関係を持つことは難しいだろう。

支配的な授業を展開する教員、宿題をしなさいと起こってくる母親、宿題を気にも留めない父親。それらの要素は、生まれた環境によって決定されるのだから。

 

だからこそ、新しい格差は格差足り得る。

取り上げる問題として、浮かび上がるのだ。

 

 

補足

このお話は、いわゆる『脱学校論』の批評としてそのまま丸々利用できる。

『脱学校論』というのは、簡単に言えば「誰でも無条件に扱える、知識が大量に詰まった場所を学校に変わる新しいシステムとして導入しよう」という「強い人」が主語にくる教育論であり、義務教育の対義語でもある。

『脱学校論』から得られる気づきは多いが、その扱いは一種の思考実験程度にとどめておくべきである。

 

 

参考文献

Edward L Deci, Richard M Ryan. (1985) Intrinsic Motivation and Self-Determination in Human Behavior.

Petar Jandrić. (2014) Deschooling Virtuality.

Ryan, R. M., & Deci, E. L. (2000). Self-determination theory and the facilitation of intrinsic motivation, social development, and well-being. American Psychologist, 55(1), 68–78.


論文を参考にいろいろ喋るブログです。

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