四面楚歌と虞美人

紀元前のはなしである。中国秦帝国の討伐後、劉邦と項羽が覇権を争う。連戦連勝の項羽が最終的には墓穴を掘って敗れるのである。司馬遼太郎さんの「劉邦と項羽」に二人の性格がうまく表現されている。百姓生まれの「育ち」の悪い劉邦は町のごろつきである。しかし人が良いのか人々に好かれるのである。学問はなく、かといって武力もない。但し人の意見を良く聞く。立派なひげと福耳の持ち主で外見は立派である。項羽は楚の旧家の育ち、礼儀正しく、巨漢で武道に長じている。但し、激情タイプ。
秦帝国を滅ぼす為、秦の都「西安」に向かう。項羽は降参した秦兵20万を穴埋して殺すのである。残虐である。その反面に自分の部下には優しい。特に身内には。彼のすばらしい武勇で都へ進む。が先に別働隊として動いた劉邦の方があまり苦労せずに秦の都を陥れたのである。しかし実力的に項羽の方が勝るのである。しかし劉邦は函谷関で項羽を通せんぼしたが、破られる。項羽に敵するだけの力がない劉邦は「鴻門の会」でわびるのである。しかし項羽は部下の意見を聞かず、彼を許してしまった。ここから項羽が楚に都を移すため、彭城(今の徐州)へ向かうのである。しかし項羽に反発する勢力が出てくる。だが項羽には勝てない。そのうち、漢中に左遷されていた劉邦がまた立ち上がり、項羽に挑むのだが、百戦百敗。逃げることだけは上手な劉邦である。しかし彼には有能な部下が居て、優秀な人間は登用するので後々、彼は助かるのである。食料調達は有能な部下に任せてあるので常に食料は兵士の為に確保されている。その反面、項羽は范増という立派な軍師が居たが、彼の意見を聞かない。有能な部下は遠ざかっていくのである。戦には強いが兵を養う食料調達までは余り考えていない。
広武山で劉邦と項羽が対峙するが、長期戦になる。ついに疲れはて、双方は和睦する。ところが劉邦は張良の意見を取り入れ、和睦を破り、項羽の背後に挑むのである。ところが食料のない項羽軍にはもう戦う意欲がなく、兵士は日増しに脱走していく。とうとう北方から韓信が30万の兵を率いて南下、項羽嫌いの彭越軍も項羽の戻るべき彭城を包囲した。項羽は彭城を諦め、南下し、垓下の断崖と河川を利用して野戦城を築く。項羽は夜中眼を覚ます、彼の故郷の楚歌が聞こえてきたのである。あの有名な四面楚歌である。もう戦意を失った。部下に酒を振る舞う。項羽が歌う。
「力は山を抜き 気は世を蓋ふ 騅逝かず 騅逝かざるを奈何すべき 虞や虞や若を奈何せん」
虞姫は最後だと思い、剣をとって舞いつつ即興詩を繰り返し歌った。彼女が舞い納めると項羽は剣を抜き、一刀で斬りさげ、とどめを刺した。虞美人は絶世の美女であった。項羽は独身であったが、ひとり絶世の美女を常に戦場まで共にしていた。後世にこの地で芥子の花が咲くようになった。この花を虞美人草と呼ばれたそうだ。 
項羽は騅(馬)にとび騎り、城門を走り出た。漢兵の陣をすさまじい勢いで脱出した。最後に長江付近の烏江浦で自滅。
項羽は英雄であったが、人を治められなかった。だが紳士である。また馬鹿正直な人だとも思う。「鴻門の会」でも、劉邦を殺さず、劉邦の父親と彼の妻は捕虜としていたが、殺さなかった。義を重んじていたのだろうか。しかし何十万という兵士を抗埋めする人である。鬼でもあり、義人でもある。
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