縫い糸のゴロゴロもそんなに気にならなくなって、涙もそれほど出なくなった。
手術後から4種類の点眼薬を1日4回ナースに投薬され、朝・夕と医師の診察があり状態をチェックされる。
目玉の改造手術は2度目だが、さすが東大病院と言うべきなのか、40年前のRK手術のラフさとは雲泥の差だ。
以前このブログか旧ブログでも書いたのだが、RK手術というのはレーザーを使ったレーシックが登場する前の、手切りのメスで角膜を切開して視力矯正する手術だ。
その発祥は大正時代の日本で、その後技術が旧ソ連に伝わり、ミグ戦闘機のベテランパイロットの視力を矯正するために発達したのだ。
若手を訓練してできる戦闘機乗りに育てるより、手っ取り早くベテランの目を治して即戦力として温存しようという冷戦時代ならではの発想で普及したという。
ソ連のRK手術の権威フョードロフ博士から指導を受けた医師の手によりRKの改造手術を受けたオヤジは、術後一週間で眼帯を外した時、世界が明るくクリアに見えたものだ。
その視力はアフリカのマサイ族には及ばないものの2.2を記録し、当時の女性の肌が思いのほか荒れていることや、見えなくていいものが見えてしまう不思議に驚いたものだ。
まさに改造手術‼️
しかしその手術のラフさはザ・昭和というべきか、ソ連式というべきか🙃
東大病院では手術着に着替え点滴をし、車椅子で手術室に向かったが、RKのクリニックでは服はそのまま、頭にカバーもかぶらず、片目だけ出る布も顔にかぶせず、ただ凹型の枕に頭を入れ
「動かすな‼︎」
と医師から言われるのみ。
東大病院の手術室は一度に3人手術できる広さで、歯医者のような椅子が3台置かれていてそれが手術台。
脇にはこれまた歯医者のようなアームのついた水が出るノズルやら何やらが何本かあり、大きなモニターも横に設置してあった。
ザ・昭和の40年前とはいえ、RKのクリニックの手術室はというと、待合室の延長な感じの室内中央に長椅子みたいな手術台があり、BGMにはなんと「ランバダ」が流れていた😳
これでリラックスせよとは無理な話しで、目玉はクリップでバチっと固定され、点眼麻酔を数滴たらされてすぐ、切れ目のガイドラインのスタンプをバチン‼️と押され、ウッ‼️‼️とうめくと、
「目玉を動かすな‼️」
と言われ、泣きそうなほどの意志を振り絞って目玉を真ん中で固定すると、「サスペリア」のようにメスが迫ってきて目玉に刺さり、視界がグニャリと歪んだ。
そのスンゲー気持ち悪い状況と比べて今回の手術は、術前数時間前から瞳孔を開くものなど2種類の点眼薬をナースに何度もさされ次第に視界が白く曇り、いざ手術のときは曇りガラスを通したように目の前の手のひらの皺も見えなくなってしまった。
だがそれは手術のいろいろな器具が迫ってくる恐怖を見せないための処置で、手術灯のUFOみたいな明るさだけしか最初は見えない。
でもそうはいっても変な感じには変わりなく、推定時間15分後くらい経過すると、水の出る先端の細いノズルやらハサミのようなもの、メスのようなものや糸がぼんやり見えてきて、目玉が縫われている感覚に思わず顔をしかめたくなった。
手術時間はどちらも3、40分で同じくらいだが、RKは保険はきかず片目15万円、方や今回は障害者手帳や各種医療証などのおかげで無料、しかし術後一週間は顔も頭も洗えないのは同じ。
ま今回は視力2.2なんてあり得ないが、せめて運転免許証は取り戻したい。
まだ眼圧が高く薬を飲まなくてはならないし、1日4回目薬を差し続ける必要があり、一週間後の診察でどうなるかだ。
う〜ん⁉️
3泊4日の入院で3食普通食を食べていたがさすが病院食、本日退院前の体重は49㎏。
せっかく50㎏に復帰したばかりなのに、また減ってしまった⤵️
最新の画像もっと見る
最近の「迷想雑記」カテゴリーもっと見る
最近の記事
カテゴリー
バックナンバー
人気記事