岐阜多治見テニス練習会 Ⅱ

苗場山を見ずに (その1)

苗場山を見ずに
山 際 う り う

 上信越自動車道豊田飯山ICから国道117号線を十日町市方面へ向かい、大割野交差点を右折し、国道405号線に出る。後はもう秋山郷関係の看板だけを頼りに走るだけで迷わない。造り酒屋の見学会開催の看板を、涎を垂らしながら、左手に見送った。急いでいた。
 平成18年8月17日木曜、午後3時半頃、みどり湖PAから電話で「男一人今夜泊まれますか」と尋ねた。夕食開始の午後6時までに到着できるのならよい、という返答だった。アクセルを踏んだ。通常は90キロ程度しか出さないが、時速100キロの壁を破って走った。予想外の雨が数滴降ってきたかと思うと、すぐ土砂降りに変わった。スリップの予感が頭の隅を横切る。仕方なく減速していると、乾いた畑を耕している男の姿が左手に現れる。見ると、雨の降った形跡がない。また速度を上げる。しばらくすると、また土砂降りになる。斑模様の雨だった。秋山郷の手前でようやく雨の手を逃れた。
 午後6時前に逆巻温泉「川津屋」に到着。車を降りて、ゆっくり宿の周囲を見回す。深山幽谷。絶壁にへばりつくように建てられている1軒宿。豪雨になれば、真上の崖が崩れ、旅館ごと谷底に落ちるのではないか。しかし、今更帰りたくても帰れない。遥か下の谷底に流れる中津川の白い波を見下ろしながら、宿に入った。
 建物は新しかった。小奇麗だった。廊下の隅などあちこちに飾ってある白百合の微かな芳香が胸の底に沁み入るようだった。部屋の中に入り、大きな窓から渓谷美を見上げたり、見下ろしたりした。案内してくれた品のある女性に「明日も泊まれないですか」と尋ねた。希望は叶わなかった。運よく、その日だけ空いていたのだそうだ。鳥海山登山が目的の旅だった。ここは、途中の休憩地のはずだった。なのに、どの時点からだろうか、なるべくここに滞在して秋山郷をもっと知りたいと思ったのは。自分でも分からない。「川津屋」が私の気に入らない宿だったら、渓谷美がなかったら、翌日には、多分鳥海山麓を目指して出発していたことだろう。
 この「川津屋」は、「宮本武蔵」で有名な文豪吉川英治がかつて逗留し、「新・平家物語」の構想を練った所だ。宿の奥の洞窟からちょろちょろと湧き出す温泉は、確かに秘湯だ。「入浴中」という木札を掛けて入る温泉も部屋から眺める渓谷美も独り占めできるところが何より嬉しい。その日、他には、一組だけ客がいた。
 湯壷の行き帰り、廊下を通る度に百合の花が有るか無きかに匂う。その度に、私は私に戻る。灰色からも不安からも抜け出せる。そんな感覚を覚えた。
 午後6時半に夕食だった。私のために30分遅らせてくれたような気がする。透き通った地酒を注文した。誇張するつもりはない。山菜料理の素晴らしさを私は生まれて初めてここで知った。若女将(身分は分からないが、先ほどの女性のこと)が、「分かりますか」と山菜料理の名を教えてくれた。蕗、木耳、干し薇、屈み(草蘇鉄)、木通、茗荷、蕗の薹。何と言えば、分かってもらえるだろう。味が洗練されている、とでも言うしかないか。若女将と同じく、品がある味、と言えばいいだろうか。
 これは、今朝前の川で釣った山女です。お先に召し上がってください。若女将が一皿持ってきた。並べた料理より嫣然と一皿ずつ手渡される料理のほうが粋に見える。ここは、本当に山峡の絶壁にへばりついている宿なのか。
若女将は肉の名も告げた。鹿と月の輪熊。私は戯れに「この熊もここの山で獲れたんですか」と質問した。はい、いいえ、月の輪熊は、県境で獲れたものです。新潟県は狩猟禁止になっていますから。こちらの鹿は、ここの山で獲れたものです。若女将は「はい」と答えてから「いいえ」と言い直した。「県境」とはうまい表現だ。熊の左足が新潟県、右足が長野県。こういう場合、撃ってもいいのか。相手が熊だけにクマッちゃうなぁ。山本リンダなら歌うだろう。月の輪熊は、山神の使いではないのか。私は、禁を破り、霊山の茂みで恐る恐る小便をする男だ。鍋から肉切れを取り上げると、恐る恐る熊の肉を食べた。名を告げられていずに食べたら、何の肉かは分からなかっただろう。これは熊だと思って食べたが、それでもやはり熊の味はしなかった。味噌の味がしただけだ。誰も見ていなかったことにしてほしい。私が食べなかったとしても、鍋の中の熊は二度と生き返らない。
 夕食後、2階の部屋に戻る。磨かれた木の廊下、木の階段が気持ちよい。昇り降りする度に、百合の香が揺れるようにそこはかとなく漂う。宿の玄関脇の本棚に、岩波文庫版の鈴木牧之著「北越雪譜」が置いてあった。それを抱えて部屋に戻り、逆巻温泉、結東、和山辺りの記述を読んだ。「猿飛橋」周辺のそそり立つ岩壁の様子は、今も江戸時代の当時と変わっていないだろう。当時は、秋山郷以外の人間にとっては、ここは文字通り「秘境」だっただろう。
 今は、秘境ではない。「秘境」を売り物にしているだけだ。秋山郷の人々は、売らねばならない。都会に住む者は、買わねばならない。水は言うまでもなく、風や空さえも、現代人は今や、言わば「買出し」に行かねばならない。
 翌8月18日金曜、午前5時30分。見倉橋という吊り橋まで2時間程散歩した。8時前宿の玄関に戻ると、若女将が愛想のよい顔で朝食の準備が出来ましたと迎えてくれた。(この見倉橋という橋は、今夏公開された「ゆれる」という邦画のロケ地になった場所だが、吊り橋は、ここに限らずどこか懐かしいものを感じさせる。) 朝食の部屋も夕食時と同じ1階の広間だった。半分開けた障子の外側のすぐ傍には、朝の清浄な光を浴びたブナのような樹木が見えた。正面の半分開けた障子の外の、谷の向こう側には、金城山が聳えていた。若女将によれば、その金城山の向こう側に「百名山」の一つ、苗場山があると言う。この朝の一番のご馳走は、白い障子の枠に縁取られ、あふれんばかりに輝く緑の渓谷美だった。明日苗場山に登ろう。若女将に登山口を尋ねた。小赤沢です。3合目まで林道が付いていますから車で行けます。頂上まで3時間半です。ここからでも登れますけど、湿原を通って行きますので、8時間くらいかかります。登ったことがあるような言い方だった。私は、土曜日に小赤沢から登ることにした。
 鳥海山の下調べはしてあったが、苗場山は、名前さえ初めて聞くものだった。私の気紛れが始まった。せめて3合目まで下見に行こう。ススキの穂が風に揺れる林道の果てに、広い駐車場とトイレがあった。登山道の入り口横に鉄管があり、そこから湧き水がちょろちょろ音を立てて流れ落ちていた。
 昼近くまで、その駐車場に折りたたみ椅子を置いて読書をした。一口だけ柚子酒を口に含んで一人で過ごす時間に豪奢さを帯びさせることにした。何度読んでもどこで読んでも意味の分からない物語だった。分からないけど、手放せなかった。数ページしか読み進めなかったが、本を閉じ、椅子を折りたたんだ。ある意味で気儘であるが、ある意味で貧しい過ごし方だった。あるいは、ある意味で貧しいが、ある意味で気儘な過ごし方だった。いずれにしても、その間風は吹き、時は過ぎ、腹時計は昼飯を告げた。
 8月18日の宿は、同じ秋山郷の切明温泉、「切明リバーサイドハウス」。名の通り、中津川沿いに建っている。この宿のフロントは、無愛想な男だった。向こうから言わせたら、「この客は、むさくるしい客だ。事前に分かっていたら、泊めはしなかったのに」かもしれない。玄関に「本日は満室です」の木札がぶら下がっていた。時間が早かったせいか、風呂の中には虻と蟻以外の生き物はいなかった。部屋に快適さが乏しかったので、入浴後、缶ビールとピーナツ交じりのあられ菓子と折りたたみ椅子とを持って川縁に行き、時間を潰すことにした。潰すと言うと、語弊を招くかもしれない。ゆったりと自分一人の時間を味わうために、と言うべきか。
 外にいても、不思議と蚊は来なかった。「北越雪譜」の中にも鈴木牧之は書いていた。蚊がいない、蚊帳のある家はない、と。忘れないうちに、ここで書いておくが、私がこの秋山郷で見た野生の動物は、蝶類と灯火に寄り付く様々な虫とを除けば、岩魚と雉と蛇と蝮と鼠と鼬のようなものと雷鳥のような大型の鳥と鳶と猿と虻と蛙だ。
 「切明リバーサイドハウス」の夕食にも山菜料理が出た。屈み(草蘇鉄)の浸し物、干し薇も出た。しかし、「川津屋」の山菜料理の右に出るような物はなかった。天麩羅も冷めていた。「川津屋」の山菜天麩羅は揚げたてだった。システムの違いというよりは、持て成す心の違いだろう。
 しかし、不平ばかり並べていると、片手落ちになるだろう。実は、道端の「切明リバーサイドハウス」の看板に「最新の設備、抜群」と書いてあった。それを見たのは昼間のことだったが、それが嘘でないことを知ったのは、翌朝の個室トイレの中だった。私が個室トイレの扉を開ける。と同時に、便器の蓋が自動的に開く。驚きだった。TOTO製の便器だった。調節ボタンの数も多い。「マッサージ」というボタンまであった。確かに、「抜群」だった。こんなに便利で快適な便器は、名古屋にでも多くはないのではないか。(それとも、私が知らないだけなのか。) 押さえる所は押さえてまっせという商売人の魂のようなものを感じた。物が便器だけに、その設備は私の不平不満をもすべて水に流してしまった。結局は、19日早朝、気持ちよく私は山に向かうことが出来たということを報告しなければならない。

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