岐阜多治見テニス練習会 Ⅱ

阿弥陀岳紀行

阿弥陀岳、予定外の征服
              山際 うりう

 「名前、貼っておきました」
 「ヒュッテ八ヶ岳」の主人が指をさす。ちょっと太めで眼鏡をかけている。見ると、木製の下駄箱の蓋に紙切れが貼ってある。ぞんざいな字で「山山様」と書いてある。山梨県北杜市大泉町の小さな山小屋風のペンションでの物語の始まりだ。
 「山山ではなく、本当は、山際なんです。ま、どっちでもいいですけどね」と僕が応える。
 「ハハハ、済みません。いつも山のことばかり考えていますので」と主人は心も大らかだ。
  このペンションは、1年365日、宿泊料金が同じ。1泊2食7,800円。おしゃれなペンションに泊まりたい人には向かない。外観など眼中にない主人の山小屋だ。山や山の話が好きな人にはお誂え向きだ。徳仁皇太子殿下には特にお勧めしたい。主人は日本山岳会の会員だし、皇太子殿下も同じ会員名簿にその名を連ねていらっしゃる。しかし、ご光臨を仰ぐとなると、「一週間前からの検便が面倒臭くなる」という主人の話は、2008年7月20日夜の晩餐会でのハイライトシーンだ。山小屋は、人々が語り合えば、総合雑誌より面白くなる場合がある。貧乏でも、孤独でも、幸せになりたい人は、このペンションに1週間泊まるといい。下手な心療内科に通って、薬漬けにされるよりは断然健康的な生活を送ることができる。山男に鬱ってあるの? 豪放磊落という言葉がある。良い言葉だ。引き籠もりになる前に、人は、医師がごろごろいる所ではなく、石がごろごろある所へ行くべきだ。都会ではなく、山へ行け。喧しいビーズの音楽よりもオオルリの囀りの方が美しい。
 脱線してしまった。「山山様」と貼られたのは7月19日の夕刻だ。今、その日の朝に時間を戻す。3連休初日の19日早朝、午前5時多治見市の自宅を出発。中央高速で小淵沢へ。4,600円。通い慣れた道だ。途中、恵那山は、その全容は見えなかった。「あの天辺まで登ったんだな」と思いながら見上げると、見上げる度に、山に親しみが湧く。自宅からは少々離れているが、あの山は自分の庭だ。そんな気分に勝手に浸るのも乙なものだ。
 大泉町営のテニスコートには、19日午前8時過ぎに到着。手続きを済ませ、ネットを張り、8時半頃にはサーヴの練習をしていた。遠いようで近い。
 9時、諏訪市の甲林さん一家がやってきた。「テニスオフ」を見て参加してくれた。まだ若い。小学3年生の長男タックンの顔は日に焼けて黒い。甲林夫人はスリムで髪は短く、目は大きくて愛らしく、僕は久し振りに一目惚れをしてしまった。隣の芝生や他人の妻は、皆美しく見えるものだ。快晴。しかし、湿気がない。夏はやっぱり高原だ。
 4人でテニスの練習をした後、僕は甲林さんとシングルス戦をした。1-6で負けた。こちらの球が浅く、甘くなることが多かった。また、サーヴが決まらなかった。相手が上級者では1ゲーム取れただけでも喜ばなければいけないか。2時間の練習の後、昼飯を食べるために、僕は近くの隠れ家、「霧亭」に出かけた。この家庭料理店は、僕の好きな店で、もう10回くらいは利用している。この店のどこがいいか。小奇麗なのに客がほとんどいない。これが最大の魅力だ。料理の見た目も綺麗で、味もおいしい。雑木林の中の静けさと涼しさ、これは舌ではなく、心が味わうご馳走だ。また、甘口の、冷えたドイツワインのうまさも忘れてはならない。その昼は、我慢できずにビールを注文した。店までは歩いて行ったので飲酒運転にはならない。(山梨県警の方へ。僕はヤマしいことはナシておりません。念のため。)
 飲んだまでは問題なかったが、午後1時にコートに戻ると、酔いが血管の中に根強く残っていた。東京の松元さん夫婦も到着。上級者の甲林さんに「後は頼みます」と頼んだ。2時間ほど球出しによる練習をした。川崎から参加の富士元青年(彼は地元出身だった)も遅れて到着。結局7人でテニスをした。松元さん夫婦は、練習では精彩がなかったが、ゲームでは年季が入った巧さを見せた。富士元青年は「ここではテニスする人はいません。みんなサッカーをやっています」と地元の様子を教えてくれた。 彼自身もサッカーからテニスに転じた。さすがにスリムでフットワークが軽やかだった。この日集まった7人は皆テニスの魔力に取りつかれている者ばかりだった。
 6人と別れた後、「ヒュッテ八ヶ岳」へ向かった。玄関で主人が下駄箱を指し示した。
 「ハハハ、済みません。いつも山のことばかり考えていますので」と主人。こちらの主人は山の魔力に取りつかれた人間らしい。僕はまだ山の魔力に取りつかれるところまでは行っていない。ほのかに淡く憧れているだけだ。主人は名古屋出身だった。「山梨の方が長いです」という話だったので、名古屋については最近の駅前事情を少し話すだけにした。ペンションの内部は、山に関する書籍であふれていた。冊数は数え切れないという。僕は目ざとく、ウエストンの名著「日本アルプスの登山と冒険」(昭和8年梓書房刊)を探し出し、「これ幾らなら売ります?」と尋ねた。主人は売るとは言わなかったが、「部屋に持って行って読んでもいいですよ」と気さくに応じてくれた。主人の大学時代の先輩には、女性で63歳でエレベストを征服したという偉大な記録の持ち主がいる。彼女とも親交があるようで、主人は20日の晩餐時に彼女の噂話も聞かせてくれた。無論、彼女の著書も飾ってあった。
 話の矛先がどうしても20日の晩餐会に戻って行ってしまう。これ以上は寄り道せずに僕の今回の山登りだけに暫く話を絞りたい。
 20日、夜明けと同時に「ヒュッテ八ヶ岳」を出発。八ヶ岳高原道路を原村へ向かって走る。擦れ違う車の数は数えるほどだ。美濃戸登山口に到着する前から「ヒュッテ八ヶ岳」の主人の予言が頭をよぎる。「今は一番混雑する時期だから、駐車場が空いてないかもしれない」主人の予言通りだった。1台1,000円の駐車場は満杯だった。そんなに赤岳登山は楽しいのか。僕は3度目の挑戦だったが、この時期に登るのは初めてだった。心の中がざわつく。いらつく。どうするか。左右に首を振って駐車スペースを探しつつ八ヶ岳高原道路へ戻る。ない。と、左側に「八ヶ岳登山口 阿弥陀岳に至る」という標柱があった。この登山道の下調べはしていない。一抹の不安がよぎったが、登ることに決めた。天気は上々だった。林道を走ると、突き当りにゲートがあり、その前の空き地に車が4台止まっていた。先客だ。ここは無料だった。1,000円儲かった。登山靴に履き替え、2本の杖(今年、好日山荘で21,000円!で購入した)を用意し、ザックを背負った。後は歩くだけだ。
 歩くことが、しかし、なぜかえらかった、(えらかったという意味は、苦しかったという意味だ)。やはり、前日のテニスの疲れが残っているのか。それとも、朝食にご飯と味噌汁と糠漬けを食べなかったせいか。500mlの飲み物を4本持って行ったが、頂上に着いた時は、残り1本しかなかった。当初の計画では、美濃戸登山口、行者小屋(ラーメンと果物を注文。飲料水も補給)、そして頂上へ、という甘い展開を考えていた。誤算。僕は阿弥陀岳の頂上で、残った最後の1本のペットボトルを仕舞い込みながら、赤岳登頂を断念した。
 阿弥陀岳へは虎姫新道を利用して登った。登る積もりなど全くなかった山に、結果的には、登ることになってしまった。一人旅の気紛れだ。虎姫新道の利用者は少なかった。ゆっくりと心静かに登ることができた。結果的には、だから、美濃戸の駐車場が満杯だったのが逆に僕にとっては良かった。後で、即ち、その夜の晩餐会で聞いたところでは、赤岳頂上の山小屋は、畳1畳で3人寝るような混雑振りだったとか。両側が妙齢の女性の愛らしい顔ならば、それも苦しくはないが、両側がむくつけき山男の汗臭い靴下ならば、地獄だ。いくらアシがあったって、アシタのない地獄だ。ちょっとくどいか。アシからず。
 虎姫新道から阿弥陀岳への道は、最後の詰めの段階が厳しかった。勾配がきつい。どのくらいの勾配かと言えば、首を後方へ反らして、もうそれ以上反れないという位置まで反らして見上げた時の自分の鼻梁の延長線上の先が、目の前の登山道と空との境界だ、と表現すればいいだろうか。「胸突き八丁」ではまだ生ぬるい。僕の体調が悪かったせいもあるかもしれないが、辛い登攀だった。おまけにその急斜面は浮き石だらけだった。ロープが張ってあったので、それにつかまって登った。2、3個の小石がゴロゴロと落下していった。
 道端の大きな岩石の左手をふと見下ろすと、行者小屋が見えた。これは急斜面に取り付く前の段階の風景だが、これを眺めた時、自分が「阿弥陀岳に登っているんだな」という実感が湧いた。行者小屋辺りから見上げる阿弥陀岳は美しい。それを僕は知っていた。その美しい山を僕は征服しつつあった。
 阿弥陀岳。2,805m。喘ぎ喘ぎの初登頂成功だった。2008年7月20日午前11時17分。天辺は半径8m程の円形になっていて、平らで平凡だった。駐車場のある舟山十字路から約5時間かかった。途中、腰を下ろして休憩することは一度もなかったが、やはり歩く速度が遅かった。赤岳の赤土が左手に見えていた。赤岳頂上の山小屋も見えていた。赤岳頂上に至るジグザグの登山道も見えていた。純白の雲は青空に舞い上がり、舞い降りた。握り飯を口に頬張りながら僕が食べたのは、一つの大きな達成感だった。
 飲み物の残りは、しかし、500mlのペットボトル1本だけだった。非常食はあったが、飲み物の残量が心配だった。30分程休憩した後、僕は赤岳登頂を諦めて、来た道を引き返すことにした。帰路は3時間程かかった。下山途中、前述の急傾斜の下で、単独行の若い女性と出会った。彼女は赤岳頂上小屋で泊まると言った。一緒に登りたかったが、飲み物なしでは誘うことも出来なかった。誤算は誤算を生む。長い立ち話だった。彼女は僕の眼の奥をじっと見詰めていた。スケジュールの話の締め括りに、彼女は「東京に帰る」と言った。何という都会的な、ドラマチックな響きなんだ。僕は軽い眩暈を感じた。「多治見に帰る」では様にならない。僕に羽が生えていたら、この都会のお嬢さんを掻っ攫ってどこか山奥の洞穴に連れて行って閉じ込めておきたいと思った。僕の耳は、「気を付けて」という僕の思いやりのある声が彼女に伝わるのを聞いた。心と声とは天地ほども違う。我ながら驚く。彼女の耳には、果たして僕のさよならがどんなふうに響いただろうか。山では、水の切れ目が縁の切れ目だ。
 舟山十字路の駐車場に無事戻ると、登山靴を脱ぎ、すぐ大泉町営の「パノラマ温泉」に向かった。「ヒュッテ八ヶ岳」の主人が予め渡しておいてくれた割引券を利用した。混んでいた。晴れていると、露天風呂から富士山が見える。ビールを飲まなくちゃ。烏の行水をした後、僕は「ヒュッテ八ヶ岳」へ急いだ。自慢するわけではないが、登るときは遅いが、下りてからは僕の行動は何事も素早い。
 晩餐会が始まった。僕の左隣には自転車愛好家の70代のおじさん二人。左前には山の絵を描く女性画家とその仲間二人。右前には60代の登山家夫婦。僕の左後方には東京からきた30代後半から40代くらいの女性1人。僕の右後方には若いカップル1組。
 「皇太子は10,001番になっている。10,004番の次は10,006番になっている。10,005番が欠番になっている。そこは雅子さんのために取ってあるという噂だ」と主人。
 「本当?」と筋肉質の自転車おじさん。
 「ホント、ホント。皇太子殿下の電話番号も載ってるよ」
 「家に帰ったら、日本山岳会の名簿を見て確かめてみるよ」
 自転車愛好家のおじさんたちも日本山岳会の会員だった。膝を痛めてから自転車をやっているという。僕はテニス仲間の中に自転車愛好家が一人いることを思い出しながら、色々と自転車の話を聞いた。1台100万円のイタリー製の自転車もあるという。膝を痛めていない方のおじさんは、24段切り替えの自転車を持っていた。このおじさんは首の骨を折ったことがあり、現在も、腕や手に痺れが残っているという。事情を知れば知るほど70代おじさんたちの元気のある生き方、行動力に驚き入るばかりだ。
「自転車はタイヤを外して袋に入れて電車で運びます」
「別料金がかかるでしょう?」
「いえ、袋に入れればかかりません」
「へーえ、そうですか」ここで、「へーえ」と頓狂な声で応じたのは僕だ。
話題は自転車から山、山から皇太子さん、皇太子さんから雅子さん、雅子さんから自転車というふうに駆け巡った。
「雅子さんにはイギリス人外交家の恋人がいたんだが、別れさせられて、それで口をあんなふうにへの字に曲げて、・・・・」

***
 
ここまで書いたが、「不敬罪」に触れるといけないから、この事情通による話の続きは割愛しよう。無論、この夜の晩餐会の出席者に不敬の心など微塵もない。皆皇太子殿下を取り囲んで日本の美しい山河について語り合いたいくらいなのだ。ただ、小心者の僕としては、ちょっとためらう。辻褄の合った噂話や儲け話ほど危険なものはない。みんな感じの良い人ばかりだった。彼らに迷惑をかけたくないから書かない。それだけだ。それに、僕の耳の聞き間違いもあるかもしれない。
 プリンセス・ダイアナにまつわる噂話も山とある。どれもこれも書きたい気持ちは山山だけど、僕は「山山様」ではなく、「山際様」だから、話の際で留めておくのが分相応だろう。
 
 「ヒュッテ八ヶ岳」の蔵書の中に、僕は皇太子殿下の紀行を見つけた。イギリス留学時代の山登りの思い出だ。食堂より一段低くなった書庫で、僕は一人ビールを飲みながら読んだ。正直な話、皇太子殿下の紀行より僕の紀行の方が面白い、と思った。こういうのを日本語で「手前味噌」と言う。ビールで酔った勢いで思ったことだ。皇太子殿下が万一このブログを読まれた節は、ご寛恕を請わねばならない。
 寝る前、晩餐会の折に僕の左後方にいた女性と洗面所で出会い、歯磨き粉の味を感じながら立ち話をした。彼女の趣味は旅行だ。日本でまだ行っていない県は2か所だけで、ほとんどは一人旅だという。一見、いわゆる暗いタイプの女性だが、僕は暗いタイプも嫌いではないので、隙があれば口説こうとした。「今までで一番良かった場所はどこですか」と尋ねた。彼女はしばらく考えてから、「自分の家」と答えた。僕が答えるような答えだったので、その理由を聞かなかったが、聞いておくべきだった。もっと彼女に自己解放をさせるべきだった。一つの小さな手抜かりが墓穴を掘った。僕は振られた。
 翌21日、八ヶ岳山麓を彷徨した。観音平、三味線滝、延命水。熊笹と落葉松林の美しい調和。登るだけが人生ではない。僕は誰もいない落葉松林の中で何度も深呼吸をした。権現岳に登る途中にある延命水という名の水場に行くことにした。昔は修験者の水飲み場だったらしいが、現在は獣のそれになっている。「飲用不可」となっていた。そこからの帰り道だった。実は、10分程度、遭難した。道跡がはっきりしていなかった。熊笹の中を歩いているうちに道を見失ってしまった。道のないところを、斜め上に、あるいは、斜め下に歩くことの困難さは、体験者でないと分からないだろう。僕は焦った。右往左往した。歩けば歩くほど迷うのだ。いよいよ焦った。ここで僕は実感した。遭難とは、即ち、心の中のパニックだ、と。
 火事になったら、まず一服タバコを吸え。大事なのはこれだ。心を落ち着かせて頭の中を整理した上で行動することだ。迷わない歩き方、パニックに陥らない歩き方が必ずある。たとえ結果として遭難死するにしても、自分なりに理詰めの行動を積み重ねた上で死にたいものだ。熊は、ところで、どうして道なき道を自由自在に歩き回れるのだろう。そんな疑問が迷いながらも心に浮かんだ。熊には幸い出会わなかったが、観音平からの帰り道、大型のカモシカを見かけた。カメラを向けようとした時にはもういなかった。
 21日の早朝、観音平で鳥の撮影をしているおじさんと出会った。どこへ行ってもおじさんばかりだ。横浜から来たという。自分で森で録音した鳥の囀りをスピーカーで再生しながら、鳥を集めていた。その時は、霧が立ち込めていた。僕が「あいにくの天気ですね」と話しかけると、「いや、これがいいです。僕のイメージ通りの世界です」と答えた。彼はその朝撮影した霧の中の枯れ枝に止まったオオルリの写真を見せてくれた。
「この囀りの音は効果ありますか?」
「あります」
「よく逃げなかったですね」
「いやぁ、結構、撮ってますよ。僕は青い鳥が好きなんです」
「確かにこの青はいいですね」。
 彼は満足そうだった。自分の思い通りに鳥の写真が撮れただけで幸せになれる男、こういう男も世の中にはいる。良いことだ。
 21日泊まったペンション某の奥さんは、僕に「寝冷えされませんように」と言った。標高1,100mの宿の外には静かな闇しかなく、閉じた僕の瞼の裏側には時間も八ヶ岳の存在もなかった。ただ、青い鳥だけは闇の中でも羽ばたいていたような気がする。

 * 人名、施設名の一部には仮名を用いています。

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