その後、大平山荘駐車場まで私がどのように下りたのか。ほとんど記憶がない。一つの達成感に包まれて、一種の軽い忘我状態に陥り、時間や距離の感覚から超脱してしまった。そう言えばいいだろうか。雨が弱まるに連れて、心も足も軽くなり、快調に下りて行くことができた。朝登り始めて初めて休憩した見晴らしの良い岩場に出た。そこで最終最後の休憩をし、肩の上の荷と心理的な荷の両方を降ろした。冒険は終わった。見下ろせば、鳥海山はその裾野が正面の日本海につながっている。海を吸い込むように幾度も深く息を吸う。忍び込んできた穏やかな波が私の心の中でもたゆたう。微かに霞んで空との境界が見分けがたい日本海の長い海岸線を、私は長い間眺めた。もう一度来ることができるだろうか。
駐車場に辿り着いて時計を見ると、16時だった。往復9時間の行動だった。
草臥れていた(何と字面の良い言葉だろう。「疲れていた」と書いては味気ない)。車を走らせながら、私は日本海沿いの旅館を探した。偶然、湯の田温泉の看板を見付けた。道路と海の間に立つ「酒田旅館」に電話し、1万円で泊めてもらうことにした。建物は古いが、部屋は広かった。1階の部屋に案内された。目の前に何もない狭い長方形の庭があり、そのすぐ向こうに日本海が盛り上がるように広がっていた。凹凸も岩石もない、ただ痩せ細った数本の松の木があるだけの黒っぽい土の庭には素朴な「平面」があった。それが、しかし、なぜか私の郷愁を誘った。誰かと遊びたいような庭だった。子どもの頃の夏は、地面さえあれば遊べた。「吶喊」と言う勇ましい名の遊びもあった。確かに、年月は過ぎ去る。帰りたい日があっても帰れない。(逆にまた、当然のことだが、年月は飛び越えることができない。<この時>を押し進めるしかない。<この時>に押されて行くしかない。) 蝉の鳴き声も聞こえなかった。静かで懐かしい庭と海を交互に眺めながら、しばしぼんやりしていた。
温泉に入った。他にはまだ誰もいない。日本海を間近に見ながらたった一人で湯に浸かった。何の面白みもない、地味で暗い海辺の旅館。しかし、ある意味で一生忘れられない一夜になるような気がした。部屋に戻り、冷蔵庫の中のビールを飲んだ。改めて部屋を見回すと、書院造だった。海辺の温泉旅館には不釣合いのような気がした。蜘蛛か何かが時々部屋の隅や壁の上を走っていた。
午後6時過ぎ、若女将が膳を二つ運んできた。ジーンズ姿だ。受け取ったのは、商売気のない事務的な挨拶だけだった。苦しゅうない。私は豊悦じゃない。一杯飲んでほろりと酔えればそれでいい。日本海を見ながら魚料理を箸でつついた。テレビで7時のニュースを見ようとした。鮮明に映らなかった。備え付けのパンフレットに載っていた旅館の沿革には「明治初年創業」と書いてあった。栄える時もあれば、滅びる時もあるのか、日本海。
若女将が膳の片付けにきた。相変わらず愛想はない。
「これは、何と言う貝ですか?」
「つぼ貝です。地の物です」
「いい庭ですね、何もないところがいいです。ある意味で贅沢ですね。日本海を見ながら、風呂に入ったり、食事をしたりできるんですから。都会では考えられない贅沢ですね」
「何の手入れもしていなくて・・・。今は、波が穏やかですからね。」
「都会で暮らしたことは? あ、ありますか。それじゃ、分かるでしょ。ここの素晴らしさが。」私は、汚濁と喧騒とに満ちた、犯罪だらけの、心が寒くなるような都会の一断面を思い描きながら言った。若女将は、首を傾げて、ちょっと間を置いて、
「でも、冬はひどいですよ」と答えた。
若女将の目は、日本海を目の前にした今の暮らしに対して否定的な色を見せた。ある意味で正直な人だった。私が心に描いているほどはひょっとして幸せではないのかもしれない。
若女将は枕を日本海に向けた。日本海を見ながら寝る幸福。私がこの宿で得た唯一の幸福感だった。海が荒れ狂う冬は本当に耐えるだけの生活になるのだろうか。私は枕に顎を沈めて、自分の目の高さよりも上にある日本海を眺めた、その大きな現存感に圧倒されながら。
翌8月8日、朝、勘定を済ませた後、昨夜若女将に言ったことと同じようなことを主人にも話した。主人は若女将と同じく冬の日本海のやりきれなさを仄めかした。
「お客さんのように1日だけならいいですけどね、毎日だとそんなにいいこともないですよ」
湯の田温泉は、現在、2軒しか残っていない。
続く
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