岐阜多治見テニス練習会 Ⅱ

2016西表島、波照間島紀行

2016西表島、波照間島紀行

舷窓の下半分を越す青波が繰り返し襲ってくる。石垣港発波照間島行の定期船だ。その日2016年9月29日も、その前日も船会社の安栄観光には何度電話連絡したことか。当初のプランでは、28日の午後西表島の大原港から波照間島へ向かうことになっていた。台風17号がそれを潰した。8年前の初訪問時には、台風襲来を事前に回避するために、波照間島での滞在を1泊2日で切り上げるという経験をしている。その時の宿の主人の「1回台風が来ると、1週間は船が出ない」という話がまだ記憶に残っていたので計画変更を練っていた。28日、止む無く西表島に延泊し、29日島南部の大原港発の船は全便欠航になっていたので、島北部の上原港発の船で取りあえず石垣島に戻ることにしたのだった。石垣島に戻ってからも、そこで過ごすか竹富島へ渡るかどうか思案した。一度は竹富島の宿を予約さえした。僕らが迂闊だったのだが、この宿からは後日キャンセル料を請求された。予約電話1本かけただけで、2万円をドブに、否、海に捨てたことになった。

結果としては、一日遅れの出航となった。今回も波照間滞在は1泊のみ。残念な思いを引き摺りながらの乗船だった。29日一旦西表島の上原港から石垣島へ戻り、そこから最後の便で波照間島に向かった。その西表島から石垣島へ戻る船内で波照間島の旅館からの電話を受け、思わぬ出航の情報を得たのだった。その時は既に竹富島の予約を済ませていた。どちらの宿に泊まってもキャンセル料は発生する。僕は口には出さなかったが、心の中で、「泡波」入手の可能性に賭けていた。我々は敢えて1泊のみの波照間滞在を選択した。29日17時頃、はこな旅館に到着。挨拶を交し合う短い雑談の中で、島の泡盛「泡波」の話になった。ご主人が「2合瓶だけど、そこの売店にまだ数本残っていたよ」と言った。僕は矢庭に席を立ち買いに走った。女将さんから「1人1本しか買えない」という注意を受けて、女房も追随した。
1本500円の2合瓶2本とミニュチア瓶3本を手に入れてチェックインの場に戻ると、僕は女将さんから「幸運でしたね」と言われた。
「どうしてもっとたくさん造らないんですかね。たくさん造ればたくさん儲かるのに」僕は秘密を探りたかった。
「欲がないのさ。夫婦二人でやってるんだ。生活できればそれでいいと思っているんだろうさ」ご主人の答えは至って平凡だった。(付記。その後、僕は変装の意味で水着に着替えて売店に行き、もう1本泡波を買った。)

翌30日、貸自転車で島内巡りをした。集落内の細い道を走りながらふと見上げると、波照間酒造所の看板が目に入った。泡波の製造元だ。道に面して葦簀が垂れ下がっていた。その葦簀の横の引き戸が開いていると、「泡波を販売する」という印だという。しかし、その引き戸がいつ開くかは誰も知らない。島内5カ所の売店を駆けずり回っても、多くの観光客は、ただ泡波の幻に翻弄される憂き目に会うだけである。西表島のホテル「ニラカナイ」の売店では4合瓶が8千円ほどで売られていた。どこで入手しようが、泡波を飲む人が味わうのは希少価値と言う甘味だろう。
 
29日夕食前に西浜ビーチへ行った。台風の影響か、寄せ来る波の色に濁りがあり、シュノーケリングは即座に止めた。この世の岸辺に立つ限り、大きなものから小さなものまで、運と不運は交互に押し寄せて来る。
 
はこな旅館は3室しかない。その夜の宿泊客は、他に若い女性の二人連れだけだった。二人とも一目見て気に入るような垢抜けした外観の持ち主だった。二人は夕食後、レンタカーに乗って星の観察に行った。僕らも星の観測所へ行く予定だったが、観測所の電気設備が故障したため中止になった。ご主人の話では、漏電ということだった。
 
夕食後、ご主人に案内されて、旅館前の路上で夜空を見上げた。夥しい星の数。まだ付近の民家の明かりは点いていたが、乳のように流れる天の川がはっきり見えた。

 夜11時頃、女房は眠っていたので、自分一人だけで旅館の外に出ると、隣部屋の女性2人が路上に腰を下ろして星を見上げていた。天の川には薄い雲がかかっていた。
 
30日の早朝、再び西浜ビーチへ散歩に出掛けた。僕らは海に入らなかったが、同宿の女性2人は既にシュノーケリングをしていた。海の色は前日よりは綺麗になっていた。女房は海に入りたがった。その日の10時にはチェックアウトをし、昼過ぎには石垣島行の船に乗らなくてはいけなかった。海から出た後の慌ただしい後片付け等を考えると、僕は同意できなかった。僕らは旅館に戻った。朝食を食べ始めると、濡れた髪を垂らしたまま、二人の女性が食卓にやって来た。夜は路上で遅くまで星を見ていた。朝は早くから泳いでいた。この子たちは見かけによらず野性味があり、行動が素早い、やはり若いなと僕は思った。
 
チエックアウト前に庭先の物干しロープに掛けてあった水着類を取り込んでいたら、見慣れない女性用水着が2点あった。触ってみても、何となく生地がよそよそしい冷たさを指先に伝える。女の子たちの水着かもしれないと思い、取り込まずにおき、自分たちのライフジャケットやゴーグル類をバッグに仕舞い込んでいた。と、そこへ女房が物干し場にやってきたので、「あの水着、あんたの?」と小声で尋ねると、「違います」と返答した。慌てて取り込んでいたら、問題になる可能性もあった。物干しロープは、我々の水着類がほとんど占領していた。彼女たちはそのわずかの隙間に自分たちの水着を干した。その大胆さに僕は心の中で少々驚いた。しかし、今考えると、干場は共同利用なのだから、後から来た者がその狭い隙間に水着を干して乾かすのは当然のことだった。もっと言うならば、僕らは干場の半分は使わずに残しておくという配慮をすべきだったのかもしれない。
 
 石垣島行の船が出るまでの時間を利用し、僕らは貸自転車で日本最南端の碑がある所まで行った。2回目だったが、8年前の記憶は大方消えていたので、僕の目には初めて見る風景のように映った。古女房には記憶が残っているらしく、僕に前回と同じ石碑の傍で前回と同じポーズを取らせて写真を撮った。僕は今年は最北端にも行っている。同じ年に南北両端(人が住む場所)に行ったことになる。
 
 昼食は、売店のおばさんのお勧めの店「ひまわりカフェ」へ行った。狭い集落で店も数えるほどしかないのに、その所在地は見つけにくかった。住民に尋ねても、「あっちの方」と答えるだけで、その道順を説明することは難しそうだった。昼食後宿に帰る途中自分でもその道順の説明を試みたが困難を覚えた。特徴のない風景の中に直線のない細い道がもつれるように交錯している。際立った色彩も形状もない。方角だけは分かる。住民の真似をしてぶっきらぼうに「あっちの方」と答えるのが確かに一番簡単だ。カフェでは、豆腐チャンプルーを注文した。塩と胡椒の味が引き立っていた。南の果てまで来たら、料理など単純でいい。

 どうでもいいことだが、ほぼ同じ時刻に若い太った女性二人が店に入って来た。ファッショナブルな長い衣服を身に纏っていた。食事中、何気なくそちらのテーブルの方を見たら、大柄な二人の小さな飯椀には大盛りの飯が盛られていた。僕が店主なら、気を利かせて丼ぶり茶碗に堆く飯を盛っただろう。
 
30日13時10分、波照間島発石垣島行に乗船。石垣島ではレンタカーを利用し、近場の美景地岬展望台へ向かった。東シナ海と太平洋とが一望の下に眺められた。それだけの話と言えば、それだけの話で、両方の海をどれだけ眺めていても何の足しにもなりはしない。その先の明石とかいう名の集落内でUターンし、レンタカーを返却した。新石垣空港で軽い食事をした後、17時過ぎの飛行機でセントレアへ向かった。無事帰宅し、寝床に入ったのは零時頃だった。

 今回の旅立ちは、2016年9月25日。セントレア空港から初めて石垣島直通の飛行機に乗った。乗り換えなしは楽だった。石垣島から船で西表島へ。同島のホテルニラカナイで宿泊。翌26日午前、台風接近を気にかけつつ、ホテルまで迎えに来てくれた初老のガイドを含めて3人で出発した。カヌーで川を遡上し、滝を目指すという小さな冒険だ。車で連れて行かれたのは同島北部の狭い未舗装道路の突き当りの川岸。川の名はマーレー川。ガイドは樹間のあちこちに無造作に積んであった多くのカヌーの中から二艘を川岸に引き摺り下ろした。手伝ってくくれとは言わなかった。そう重いものではないらしい。
「鰻がいる。2mほどあるね」とガイドが川岸からうねうねと逃げて行く長い黒っぽいものを指さしながら言った。その大きさに僕は驚いた。味はあまり良くないということだった。

 簡単なパドリング講習を受けた後、僕らは二人乗り用のカヌーに乗った。マーレー川の両岸はマングローブ林。水面から出たその黒い呼吸根の群れ。何度見ても心に響くものがある。マーレー川が東シナ海に注ぐ河口付近から右に進路を取り、我々はヒナイ川を遡上した。時々は岸辺の樹木にぶつかりながら、何とかガイドのカヌーの後を追い、ピナイサーラの滝をめざす山道の入り口まで進んだ。道はハッキリしていた。ガイドがいなくても迷うことはない。30分程登っただろうか。滝壺付近には先客が、7、8名いた。英語を話す外国人も数名混じっていた。ガイド同士は顔見知りのようで挨拶をしていた。ガイドは滝壺で泳いでもいいと言った。僕に「鰻を捕まえてください」とも言ったが、僕は水から上がった後寒くなると困るので止めた。思い出を残すためだろう、古女房は泳いだ。

 台風が接近しつつあったので、本来ならそこで昼食を取ることになっていたらしいのだが、我々は早めに切り上げて、カヌーに戻った。ガイドは途中、夏の夜に一晩だけ咲くサガリバナや雄の片方の鋏だけ大きいシオマネキという名の蟹の説明をしてくれた。「そこにクロダイがいる」と川の中の古木の奥を指さして教えてくれたりもした。

 ガイドが昼食場所として案内してくれた海辺の公園は、眺めの良い明るい所で、我々のホテルの建物の一部も見えた。風はきつかった。ガイドが作ってくれたおにぎりは僕が作るものよりは見栄えが良かった。褒めると、「元は調理師だった」と答えた。内地から移住してきたという話だった。移住先に西表島を選んだ理由を尋ねると、極端に不便な離島ではなく、ネット注文した品も宅急便で二日で着くから、という返事だった。確かに無人島のような所で暮らすのはあまりに孤独過ぎるだろう。耐えられない雑踏もいやだが、耐えられない孤独もいやだ。僕もそう思う。せめて一日に一度は烏も見たいし、他人とも擦れ違いたい。昼食後、僕らは無事に宿に帰着した。

 その26日の夜、ホテルから居酒屋「いるもてい」へ行った。主人の趣味は魚釣りで、天井には大きな魚の魚拓が数枚張り付けてあった。家族だけでは食べきれない大きさなので仲間で分け合ったという話だ。ホテルでのバイキング方式では出てこない一品料理にそこそこ満足した。
 27日、台風のため、終日、ニラカナイのホテルで缶詰め状態。何の刺激もなく、僕にはただ一刻一刻を味気なく噛み砕いていくしかすることがなかった。昼はホテルで蕎麦を食べ、夜はまた「いるもてい」へ行った。他の飲食店は台風対策のため営業取り止めになっていた。他に行く店がなかったので、2夜連続の訪問となった。大きな被害が出なかったことは良かった。
 
 28日、やまねこレンタカーで車を借りて、星砂ビーチへ。昼食は濡れた体のままミミという店に行き、蕎麦とマンゴジュースを注文した。昼過ぎに波照間島へ渡る予定を変更し、白浜港からお気に入りの舟浮のイダの浜へ行った。シュノーケリングをしていたのは我々の他には4人しかいなかった。この時、自分としては珍しく勇気を出してかなり沖に出た。覗くと、枝状の珊瑚に魚が群れていた。15時半の船で白浜港に戻った。夜、プチホテルくくるくみへ食事に行った。おいしい話はその帰りの車の中で聞いた。女性店員がホテルまで車で送ってくれることになった。飲酒運転取り締まりの話になった。地元に駐在している警察官は住民の中に溶け込んでいるので、取り締まりにくい。わざわざ石垣島から警察官が来る。船で来るので、島民にはすぐ知れ渡る。その価値ある情報を手に入れたら、誰が飲酒運転をするだろう。誠に愉快な話だった。その夜は台風の影響でやむを得ず延泊することになった。その手続きの際、女房が交渉して1階から3階の部屋に替えてもらうことになった。長時間窓際から海を眺め続けるわけではないのだが、やはりホテルは高い階の部屋で滞在する方が何となく気分が良い。
 
 29日朝、短時間のドライブ。マングローブ林や水面から飛び跳ねる小魚の群れを見てからレンタカーを返却。上原港から石垣島へ戻り、昼時だったので、港付近の寿司屋で寿司を食べた。波照間行の船は、1、2,3便が欠航。14時半発の第4便で波照間島に向かった。荒波で船は時に大きく揺れた。心配性の僕は舷窓に押し寄せてくる大波を見上げるたびに身を縮めた。
 
 はこな旅館の主人の話によると、波照間島には短い滑走路がある。飛行機会社も一度は就航に前向きだったが、現在は白紙に戻ってしまったようだ。話は聞いてみるものだ。意外なことを知る場合もある。旅館名の「はこな」は島の言葉で数字の9を意味する。8年前に僕らが宿泊したペンションは、はこなの主人の兄が経営している。僕は、旅先では特に、こういう言わば織り込んであった紙を少しずつほぐしていくような展開が好きだ。最南端の満天の星々を、僕はいつかまた見に行くだろうか。

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