その後、私は学校を終え製鉄所で働き出した。しかし、「このまま、ここにいてよいのか」という迷いを持つようになった。「日曜日に教会で過ごす自分」と「会社で働く自分」、そして教会の言葉」と「生活の言葉」が分裂しているように思えてならなかった。「自分の人生」と時代」とが結びつかなかった。まるごとの自分を生き、まるごとの自分を生きるための言葉を見つけたいと思った。その時出会ったのが、次の言葉だ。「なおわれわれを悩ます問いがある。それは、イエスの服従への招きは、今日、労働者や商売人や農民や兵士にどういう意味があるのかという問い、すなわち、その招きを聞けば、耐えがたい葛藤がこの世で働いている人間とキリスト者の現実に持ち込まれることにならないかどうかという問いである。」
ボンヘッファーが「キリストに従う」の序言で出している問いは、まさに私の知りたいことだった。決まりきった公式に安住することなく、誠実に問う人がここにいる。それならわたひも始めらられるかもしれない。それからずっと歩いている。
大澤 秀夫 日本基督教団千ヶ崎平和教会牧師
聖書的にどれだけ人間が生きれないか、でも、それだけに、生きる意味を見いだしたいなーと思いました。
ボンヘッファーが「キリストに従う」の序言で出している問いは、まさに私の知りたいことだった。決まりきった公式に安住することなく、誠実に問う人がここにいる。それならわたひも始めらられるかもしれない。それからずっと歩いている。
大澤 秀夫 日本基督教団千ヶ崎平和教会牧師
聖書的にどれだけ人間が生きれないか、でも、それだけに、生きる意味を見いだしたいなーと思いました。