ナジェージダ

ナジェージダ、それは日々の生活。

A.Kの魅力

2005-02-01 01:44:09 | Weblog
今、「君にとって最も大切な作品は何ですか?」と聞かれれば、俺は「それは大江健三郎の『個人的な体験』です」と答えるだろう。通読だけで三度、部分読みを入れればもっと読んでいる。大切という意味は、苦しい時に自然と読むということだ。しかし、「君にとって最も大切な小説家は誰ですか?」と聞かれた時、俺が答えとしてあげるのは大江ではなく「彼」であろう。
 大江健三郎は「彼」を評して、「日本の作家で全集を最初から最後まで読んで全部面白いのは恐らく夏目漱石と「彼」であろう」と述べている。満州生まれの「彼」の作品は、従来の日本の私小説に見られる近代的自我はもちろん、ナチスのホロコーストによってまさにその問題点を明らかにされた近代ヒューマニズムとも、明らかに切り離されている。わかりやすく言うならば、「彼」の作品は「観念」ではなく「物の構成」によって書かれているのである。なぜ「観念」ではだめなのか。例えば花の美しさを描写する時、彼は「きれい」という形容詞を使わない。なぜなら、例えば「きれいな花」という表現の「きれい」という言葉から読者が想像するのは「自分がきれいだと思っている何か」である。例えば出会った美人、景色等、具体的な経験を想定してそこからこの「きれいな花」における「きれい」という表現の意味を汲み取るのである。これでは「彼」が本当に言いたかった「きれいな花」ということの意味を読者が受容したことにはならないのだ。そこには前提として自明の「きれいな何か」がすでに存在し、それを想起させる時点で観念的なのであり、強いて言えばそこには、「明確な個」を前提にしている「近代ヒューマニズム」の一義性の暴力も潜んでいるのである。
 「彼」はこの「近代ヒューマニズム」の徹底的な破壊を企てるのである。このようなことを書きながら、「彼」の作品をほとんど理解していない俺にとっても、彼の代表作である『壁』にこの意図を読み取ることは可能だ。名前を奪われた主人公が自己を発見する冒険に出るこの物語は、主人公が一枚の壁になるところで終了する。「彼」の戦略は、もはら語りえないものとなった「近代ヒューマニズム」が想定していた「人間」を、まさにその語りえない仕方によって逆に語ろうとする非本質的な方法である。つまり、従来の「近代ヒューマニズム」的手法ならば、この主人公は名前を取り戻し、一義的な自己にかえった時点で物語が終わるだろう。しかし、それでは一義性の暴力を乗り越えたことにはならない。人間は一義的に定義されるものであってはならないのだ。故に、「彼」はその到達点をあえて「壁」という無機物にしたのだ。この壁は明らかにメタファーである。物語の最後の記述で「見渡すかぎりの荒野です。その中で僕は静かに果てしなく成長していく壁なのです」と記述している。つまり壁というメタファーを利用することで彼は一義性の暴力を免れた、無機物ならではの無限の可変可能性を人間に見出しているのである。
そうであるならば作中の次のようなアピールもうなずける。この壁には次のようなアピールが書かれている「死んだ有機物から生きている無機物へ!」
「彼」にとって「生きている無機物」を描き出すことは、まさしく絶望を完全に描きだすことによって逆に希望を描き出す、逆に言うならば、希望を描くためには絶望を徹底化しなければならないという明確な戦略においてなされたものだったのである。
 
 伝統的な人間像とは明らかに切断され、人間の認識が可能にする希望を極めて戦略的に語っている稀有な作家であるが故に、そしてなぜ「人間は斯く在るのか」という実存の問いを極めて破壊的なまでにロジカルに追求している点で俺は「彼」が好きだ。問題には深度というものがある。人間は恐らくあらゆる問題について考えることはひょっとしたら可能かもしれないが、身近に降りかからないとなかなか真剣に考えられないものである。ここからは俺の考えだが、「彼」が戦った問いはほとんど人間固有の問いの中でも最も深い問いだと思う。恐らく俺が「実存」の問題を考えることとはわけが違う。何故なら彼は実際に祖国としての日本、故郷としての満州を肌で経験し、あの戦争直後の混乱の協奏がうずめく世界を肌で経験して生きて、まさしく存在の根拠としての日本や、実際に生きてきた根拠としての満州から戦争によって断ち切られ「裸の実存」を問うことを余儀なくされた作家だからである。そのような不安の中で、現実から逃げずに立ち向かおうとした勇気に、そしてそれが観念的はならずあくまでロジカルであろうとする戦略においてなされたということに、俺は心からの感動を覚えるのである。俺は「彼」のような問題意識を持つことはできないので、身近な問題から一つ一つ考えいきたいと思う。そしてスケールは全く違っても「彼」のような意識は常に持ち続けたいと思う。だから俺にとって「彼」は最も大切な作家なのだと思う。

 『言語は読者の現実認識を攻撃し、新たな現実を創造する機能をもつ人間の希望だよ』



「彼」の作品は一読ではまず正確にはわからないと断言してもいい。それだけ読み応えがある。今俺は「彼」の全集を借りているが、ひとつのエッセイ、いやひとつのアンケートの答えすら非常に面白い。ロジカルで深い。「彼」が一時、極めて実践的なコミュニストであったということはそれ程問題ではない。極めてロジカルであり観念的ではないからだ。思想的には究極的に対立していた三島由紀夫が、コミュニストとして唯一「彼」だけを認めていたこともその証左だろう。俺は「彼」の作品は『壁』『砂の女』『デンドロカカリア』といくつかのエッセイしか読んだことないが、休みの期間に少なくとも新潮文庫の作品はすべて読みたい。

もうお分かりかな?「彼」とは「天才・安部公房」のことである。

grateful day!!!

2005-02-01 01:00:27 | Weblog
今日はいい日だった。色々あってほぼノー勉で通した試験も終了(でも一個ブッチした以外はたぶん結構できてるはず) この1月の間苦しかったことも今日のゼミ友との飲みで解消。やっぱり友達あっての俺です、感謝、感謝。丁度1月の終わり。おかげでしっかり切り替えられそうです。二月はマジモードでいきたいと思います!! It's a wonderful day, It's a grateful day!!

p.s.中田がマンオブザマッチになったそうです。中田頑張れ! 俺も頑張るよ!