ナジェージダ

ナジェージダ、それは日々の生活。

変更

2006-01-31 12:02:20 | Weblog
 どんよりとしたものから以前のものへテンプレートを変更。

なんか、「竹」が今の自分に合っている気がするので。

ふふふ

2006-01-30 00:39:28 | Weblog
 またまた平凡な1日。
やる気が上がらない日ほど、前日に何をすべきかをきっちり決めておく必要があると実感。つまり今日の能率はかなり最低だったということ。

気を取り直して、北野武作品『HANA-BI』をみる。久石譲の音楽がよかったけど、北野作品の特徴はやっぱりあの独特の「間」かな~、と以前みた『BROTHER』を思い出しながら考えてみる。内容とかもだけど、登場人物の表情とか仕草に結構目がいってしまう自分にとってはいい感じ。でも少ししつこいかな笑。無言の中なのに、まどろこしさや重さを感じない夫婦の間の空気、写真を撮る時、腕を組もうとする岸本加世子を突っぱねて一瞬だけ間をおいてからにやけるたけし。そんなナチュラルな夫婦の距離感に満足感と羨ましさを感じる自分。

明日は久々の友との食事。色々な話をするだろうな。友達との飲みやお茶の予定が入っていく手帳を眺めながら、ちょいと満足げな寂しがり屋の自分がいる。

それではおやすみなさい。



p.s. ちょいとマニアネタだが…。90年のイタリアW杯や92年のスウェーデン欧州杯の時に活躍したドイツ代表のコーラーがドイツのクラブチームの監督に就任したそうだ。はっきり言って、現役の時代をよくしっている選手が次々と監督に就任しているのをみることの方が、1年に一度くる誕生日を迎えるよりも全然年を感じる。はっと我に返ってみると、現在のバルサの監督はライカールトだもん。おいおい、よく考えてみると俺の中のライカールトはミランの時のロングドレッドのまんまだっちゅーの(古!!) あと何年かしたら、宮本新監督とか、ジダン新監督とかになるんだろうなぁ~。

ほう

2006-01-29 12:35:56 | Weblog
友達とカラオケでレミオロメン「粉雪」を熱唱。

♪素直になれないなら喜びも悲しみもむなしいだけ♪

うぅ、「痛いね」と言い合う。

その人の前では、素直になれる人とそうでない人がいるのかな。素直な自分を見せたいと思っている人にほど、取り繕ってしまう自分がいる。自分の前では素直にして欲しいと思う人ほど、そうしてくれないことが多い気がする。これは一重に自分のせいか?直せるものなのか?幼いといえばそれまでか。でも気になる。そもそも素直になるとはなんぞや? 素を出すってことか。そうだとすれば邪魔しているものは恥ずかしさやプライドかコンプレックスか。実は答えは簡単なのか。そもそも、取り繕っている自分を自分がわかっていてそこから「いかん、素直にならなければ」と思って演じる素直な自分は本当に素直な自分なのか。取り繕いを直すために取り繕うという悪循環に陥るのではないか。

 自分はまだまだ結構演じてしまう気がする。それが相手に伝播するのだと自分ではわかっていながら。だから自分も素をみせられないし相手も見せてくれないのだと。そこからくる虚しさに耐え切れなくなってきている自分もいる。他の人に期待する前に、自分でできることがまだまだありそうだ。ペルソナを取るということは自分にしかできないはずだから。また一つ、今年の目標が増えそうだ。

p.s. 写真は京都のとある通り道。心が落ち着いた瞬間でした。

自分を貫く緊張感。

2006-01-28 01:35:49 | Weblog
 本屋に足を運んだら、気がついたらスポーツ雑誌、それもサッカー雑誌にいる自分がいる。現役をしりぞいた今も、何故か知らないけど、選手の動向などに比較的詳しい自分がいる。どうやら、サッカーというスポーツが自分に一生ついて回ることを認めざるを得ないようだ。「好きこそものの上手なれ」ということわざは、自分が小学生6年生から中学1年生にかけて、サッカーが好きになっていったことと同時にサッカーが上手くなっていったことを、自分自身の確かな実感として身体化して以来、とても好きな言葉の一つだが、それがサッカーについては今も生きている。それはサッカー雑誌のにおいをかぎ分けられることだ(と自分では思っている。)
 言葉でうまく説明することは難しいのだが、サッカー雑誌を覗いて見ると、いい雑誌かそうでないかが直観的にわかる。それは恐らく今までの膨大な経験があってのことだと思う(自分がサッカー雑誌を見始めたころはサッカーマガジンとサッカーダイジェストとストライカーだけ。しかも前者二つはまだ月刊だった。まだ覚えているのは「夢の砦―セリエA―」という企画。今と違って信じられないことに、ほんの少しの紙面を使ってイタリアを中心とした欧州サッカーの特集が組まれていた。まさかそこに日本人が飛び込むとは当時は予想すらできなかった)
 前置きが長い。最近注目しているのは、チャンピオンズリーグ公認の雑誌(だったはず)の『champions』(タイトルも怪しい)。最大の特徴は、現地記者が伝えてくるレポートの質が高いのに加え「生」レポートがあること。選手や監督の生の声を伝えようとしている点。他の雑誌もしていなくはないのだが、インタビューは丁寧且つ読者が望んでいるような「かゆい点」をつくいいインタビューが多く、レポートはチームの状況から選手のコンディション、監督や現地メディアとの関係、ファンの反応を踏まえた的確なものが多くつい目を走らせるものが多い。
 またまた、前置きが長いぞ。最近面白かった記事はチェルシーの監督、モウリーニョのエッセイだ。そもそも監督のエッセイを掲載できるだけですごいことだが、内容がまた面白かった。その内容とはモウリーニョがあのヨハン・クライフとサッカー観についてドンパチしたこと。このやりとりの、特にモウリーニョの発言から、僕が普段考えていることと共通する部分を連想したので、記憶を呼び戻して面白かった部分だけ再現してみよう。

 クライフ「チェルシーのサッカーは守備偏重である。カウンター重視のサッカーで、スコアは1対0が多く、観客は勝利以外のその他の要素からは一切の満足を得ることができないだろう。」「そのサッカーは勝利至上主義的であり、美しくなく、故に正しくない。」

 モウリーニョ「100万歩譲って、チェルシーのサッカーが守備偏重で美しくないことを認めよう。だが、そこからどのような論理的推論を重ねれば、そのサッカーが「正しくない」という帰結をもたらすことができるのだろうか?! 私には全くわからない。」

 ふむふむ、言っていることは恐らくモウリーニョが正しい。美しくないからどういう風に論理的に考えてもそのサッカーが「正しくない」という結論は導き得ないだろいう。じゃ、それで終わりかというとそうはいかない。問題はたくさんあるが、ここで僕が面白いと思うのは次のことだ。

 何が「正しいか」ということについては置いておこう。問題の根本というものには、サッカーの性質が関わっている。即ちサッカーがプロスポーツである以上、勝ち負けが最も大切な要素であり、サッカーは点を取るスポーツであるから、0点では絶対に勝てないスポーツなのである。しかし、逆に言えば点を取られなければ絶対に負けないスポーツなのである。どの球技もそうであるではないか、と言われそうである。その通りだが、僕が見る限り、サッカーというスポーツは他の球技に比べて、極めて点を取ることが難しいスポーツだと思う。ラグビーで番狂わせは99%ないが、サッカーでは高校がプロに勝つことも不可能ではない。このサッカーの性質こそが、問題である。何故なら、点を取られなければ絶対に負けないという性質と、点を取ることが非常に難しいという、この二つの性質が、守備重視という戦略をかなりの説得力を持って正当化するからである。つまり、誰もモウリーニョを責められないのである。
 しかし、一方でサッカーは点を取らなければ勝てないスポーツでもある。また、サッカーを観た人ならわかると思うが、得点シーンはサッカーの試合で最もエキサイティングなシーンでもある。故に、モウリーニョのサッカーを美しくない、そしてそれを正しくないと言うクライフにも弁解の余地がないことではないのだ。

 つまり(何がつまりだ?) どちらにも自分達のサッカーを「正しい」と主張する理由がある。政治学的に言えば、モウリーニョのサッカーは経験主義的であり、クライフのサッカーはロマン主義的だと思う。合理的且つ堅実的である前者と、審美的且つ突飛的な後者。前者はつまらなく時に退屈である。しかしチェルシーが昨年残した成績に文句を言う人はそうはいない。しかし、カウンター狙いのサッカーは観ていてたまあにあくびが出る。クライフが率いていたバルセロナのサッカーは人をひきつけるには十分であったが、前評判が圧倒的に高かったチャンピオンズリーグ決勝の対ミラン戦においてのまさかのスコア0-4が物語るように、大コケする可能性もある。

 この、どちらが正しいというわけでもなく、どちらにもそれを「正しい」と人に信じさせる相応の理由が存在し、それが人を迷わせるという点が僕が非常に面白いと思う点であり、サッカーの奥深さを感じさせる点でもある。 考えてみれば、今年の野洲高校は僕が見るからには後者のタイプであったと思う。
後者の選択は非常にチャレンジングだが危険だ。しかし、やや曖昧に言えば「人間らしい」気もする。自分がもしサッカーの監督になったらどうするか、恐らく理想は後者に置きながらも、まずは前者の方法を採用するだろう(なんちゅう平凡な答えだ…。)しかし、どちらかに割り切れないところが、また面白いところなのだと思う。

p.s. 眠いから話がずれてきた。しかも論理もめちゃくちゃ。機会があれば書き直します。あのクライフのサッカー観に真っ向から反論しそれを「正しくない」と喝破した上で、批判の多い自らのサッカーを押し通り表現しようとしているモウリーニョの自分の意志を貫く緊張感が好きです。なんか似たものを少し感じてしまい、あのベンチで突っぱねている表情すらも僕には痛ましくみえてきて応援したくなります。そんなモウリーニョへの愛情を込めて書き始めたはずなのに…。でも一方ではクライフ的なものにあこがれている自分もいる…。でもモウリーニョも好き。うーん…恐らく本当の答えは自分が一番よく知っているはずである。。

p.p.s そういう意味で(どんな意味だ?!)今度のチャンピオンズリーグの対戦カードバルセロナ対チェルシーは注目だね。

ふううう。

2006-01-26 22:24:03 | Weblog
 至極平凡な1日。こんな1日でいいものかと思うが、幸せなんだとも思う。

集中力の持続は今日の観察だと二時間が限度らしい。前は一時間半だったのでまあちょいとだけよくなったかな。

幸福とはなんぞやと思う。自分以外の人にどう思われているかではかるのか、自分がどうしたいかではかるのか。自分以外の人との共有で得られるものなのか、自分以外の人を時には蹴落としでもしなければ得られないものなのか。極端に言えば現世で得られるものなのか、来世で得られるものなのか。さっぱりわからないのですが、とりあえず今まで生きてきた中での経験から、してよかったと思うこと、するべきなのにしなかったことを後悔していること、した方がいいなと今後思うことなどを選びながら日々の生活で実践していこうと思います。そうすれば、幸福になれるかどうかは別として、少なくとも後悔することはないはずだ。

寝る…

2006-01-26 00:20:49 | Weblog
 真剣に体調が悪かった(今も)1日。無事に最後のテストを終えました。今日はもう寝ます。

p.s. 刑法上最も大切なことは罪刑法定主義だと刑法で習った記憶があるけど、今回のライブドアの件をみていると、検察が火のない所に煙を立てているとまでは言わないが、証拠不十分なのに放火犯を断定しているような気がしてならない、と素人ながら思う。メディアも放火したかどうかを問うのではなく、どう放火したのかに目がいっている気がする。検察に対するチェック機能は果たしているのだろうか。どうも「右に倣え」の感がぬぐえない。

緊張感

2006-01-25 00:50:03 | Weblog
 キャパせめーと実感した何日間でした。気になることがあるとそれ以外のほとんどのことが頭を素通りする自分を再認識しました。でもそれなりにそのことに対して準備してきちんといった時に一人で無駄に喜ぶことができる自分もいます。どこがよくてどこがだめかもわかります。

 ともかく、一生懸命やってこそ何かが見えてくるものだと実感した何日間でした。ふぃ~。

手帳!!!

2006-01-16 03:02:54 | Weblog
微妙に寝れないので更新。

 本日は買い物をしに銀座の伊東屋へ。写真は正面から取ったもの。色々思うところがあり気合の入った手帳を二冊購入するため。

 悩むこと一時間半、決断を下して満足度90%の手帳を購入。今年からビジネスマンになるわけではないのでスケジュールを書き込むということをほぼ意図していない。ではなぜ購入するのか。自分が思い立った理由は時間の管理と自己啓発。これが大きい。自分は非常にせっかちな性格なので何かをする時には、1ヵ月や1年という長期的なスパンでの目標も大切だが、1週間、できれば1日単位での「目に見える成果」が欲しい。それでモチベーションを上げる、というかせっかちな自分に抑制を働かせるタイプなのだ。目標を達成するためにはまず目標を立てることが当然ながら重要だ。でも人間、というか俺はすぐに立てた目標を忘れてしまう。例えば今週は○○の範囲と××の範囲をやると思っていたが○○の範囲が思った以上に進んだので××をやらなかったとかざらにある。その時の能率はいいかもしれないが、長期的にみてうまくいったためしがない。そこで目標を視覚化してしまおうと思ったのである。何度も毎日みれば否が応にも意識すると思ったからだ。それも1日単位、1週間単位、1ヵ月単位で。1ヵ月単位にはデスク上に大きめのカレンダーを購入しそこに書き込んだ。そして1日単位で振り返られる手帳と1週間単位で振り返られる手帳を購入した。長期的な目標などはパソコンに書いてあるので、大まかな内容を手帳に書き込み1日、1週間単位で自分で振り返ることにした。視覚化しやすいように何年かぶりに色鉛筆も購入。色々の人の意見を参照にしながら何とか手帳を使いこなそうと思っている。

 他にも、突然何かをひらめいた時に書けるようにポストイットも購入。それまでは携帯のフリーメモを使用していて、今度からは手帳に書こうと思ったのだが、要求に合う手帳で満足のいくメモスペースをもったものがなかったためだ。他にも、1日単位の手帳にはダイアリーを書けるぐらいのスペースもあるのでその日にあったことで省察できることは書いていくことにした。反省はよくする方なのだが(予備校の講師をしている時に、内容がよろしくないとの評判を聞きつけて授業を見学にきた校長先生に「悪くないよ、全然」と言われた後に、「授業をもっとよくするためにはどうすればいいと思う?」と聞かれ即答で「自己批判です」といったら爆笑された)どうも、大学生活を振り返って同じようなタイプの反省を何度かリピートしているような気がするので思い切って書くことにした。色々な項目を立てて1日を振り返るということ。経験上「日記」と銘打ってしまうと長続きしたためしがないので「日記」ではありません、あくまでも「省察」です笑。

 また、モチベを上げるために奮発して手帳用のボールペンと良質のシャープペンシルも購入。今年はこのペンと一緒に様々なことを乗り越えていこう!!
(なんか書いててきもい…)。

 手帳の使用法に関してはたぶん1ヵ月くらいは試行錯誤が続くと思うので、何か独自の使い方をしているとかいい考え方がある人がいたら教えてください!!

ということでおやすみなさい…。

p.s.レミオロメンの「粉雪」がなかなかいい。特に歌い出しの部分は今まで聞いたことない感じでいい。

うむうむ

2006-01-14 23:07:26 | Weblog
 午前中に母親と用事を済ませて午後は図書館という微妙な1日。

 何にも書くことがないというのは平凡な日々なのだろう。

ラストゼミ

2006-01-13 01:04:22 | Weblog
 ラストゼミから友人宅、そしてベッドの片隅で横たわりながら、自分が最後まで居座ってしゃべるという、いつものパターン。N岡、毎度毎度ありがとう笑

 2006年の目標、昨日N岡と話していて意気投合したこと、「張りのある生活」を送るということ。

 黒澤明『我が青春に悔いなし』(お薦め!!)の野毛隆吉風に言えば「顧みて悔いのない生活」を送ること。そのために具体的な目標を立てつつ、1日を365分の1として等閑視すること。細かいことはたくさんあるけど、一つ大切にしたいと考えているのは「人間関係」、人との出会いや付き合いを大切にすること。今年大切にしたいことを手帳やメモ帳に書いて目に見えるところに置いておくことにしている。人生における(少なくとも当面の)目標ははっきりと定まったのであとは行動あるのみ。できるもできないも自分の責任次第。それが自分をわくわくさせる。

 人生、生きてあと50年、最後の10年間を除くとして、俺に残された時間は40年=14600日=350400時間。人生はあまりに短い。時間は大切に…。