goo blog サービス終了のお知らせ 

ナジェージダ

ナジェージダ、それは日々の生活。

初のブルーノート。

2009-04-15 19:02:14 | Weblog
二ヶ月遅れの誕生をやってもらった!

初ブルーノート。演奏はこの人↓

http://www.bluenote.co.jp/jp/sp/259.html

HPの映像の時点でかなりキテルとは思ったけど、本番は言葉にならないほどすごくて素晴らしかった。

一緒に来ていて、何回かブルーノートに足を運んだことにある友達に聞いてみたところ、こんなに大勢のスタンディングオベーションがあったこともアンコールが二回鳴ったことも初めてだったらしい。

ミュージックや文学はストレートに脳髄を刺激する。

帰りの井の頭線で、ふとブルーノートで過ごした時間を回想してみた。なんだか、時間が止まっていたような気がした。

まだまだときめきが。。。

2009-04-09 00:03:20 | Weblog
オルハン・パムク『わたしの名は紅』

http://www.amazon.co.jp/%E3%82%8F%E3%81%9F%E3%81%97%E3%81%AE%E5%90%8D%E3%81%AF%E3%80%8C%E7%B4%85%E3%80%8D-%E3%82%AA%E3%83%AB%E3%83%8F%E3%83%B3-%E3%83%91%E3%83%A0%E3%82%AF/dp/4894344092


 村上春樹が世界の全てではない。

カズオ・イシグロ『わたしを離さないで』

http://www.amazon.co.jp/%E3%82%8F%E3%81%9F%E3%81%97%E3%82%92%E9%9B%A2%E3%81%95%E3%81%AA%E3%81%84%E3%81%A7-%E3%82%AB%E3%82%BA%E3%82%AA-%E3%82%A4%E3%82%B7%E3%82%B0%E3%83%AD/dp/4152087196/ref=sr_1_2?ie=UTF8&s=books&qid=1239202567&sr=1-2

も素晴らしい。世界はまだまだときめきで満ちているよ。

 話題は変わって、人間の最大の特徴の一つに、「忘れること」がある。それはそれで良いことなのだけど、忘れちゃいけないことを忘れちゃうのは困る。
 だいたい、「忘れちゃだめだったのに!」と後悔するときに、忘れちゃいけないことを忘れていたことを思い出すもの。

 大切なことは、よく消化してメモっておこうっと。

久しぶりにいらいらが。。。

2009-03-14 02:33:02 | Weblog
 一週間くらい前に、頭にきたことを思いっきり極端な例で。

 自分の頭にあったのは、ナシ、相手の頭にあったのはリンゴ。自分はリンゴのことを知っていて、食べたこともある。

 最初からどうも噛み合ないと思った。途中で気がついた自分は、相手に自分もリンゴについてこれからしゃべるということを示す。

 相手は、「こいつ、リンゴをことを全然わかっていない馬鹿だな」というモードに入ってしまっている。自分が、「俺は今までナシについてしゃべっているって思ってたけど、実は話題になっていたのはリンゴで、自分もリンゴについて知っているから、リンゴについてしゃべろうよ~」、と問いかけても、返ってくる反応は「いや、お前が言っているのはリンゴじゃないんだよ。お前はリンゴをわかっていないよ」と言わんばかりのものばかり。どこか自分を小馬鹿にしたような態度で。

 普通、しゃべっててどうも話が噛み合ないな、と思ったらどうしてだろうと考えるのが常識だ。日常のおしゃべりから高度な学術的議論まで。その原因がどこにあるのか、ひょっとしたら使っている言葉の意味が違うのかもしれないし、共通だと思ってた前提が実は違うものだったたということも考えられる。

 今回の場合は、共通だと思っていた前提が異なっていたケースだ(自分はナシについてしゃべっていると思っていたが相手はリンゴについてしゃべっていたという意味で)。
 自分は途中でそれに気がついた。そして話を噛み合わせようとアピールした、というかアピールどころじゃなくて口に出して言葉で説明した。
 そしたら、普通は、「そっか、お互い勘違いしてたね。あなたはナシについてしゃべってたんだ。あなたが今までしゃべってたことは確かにナシに当てはまる話だね。これからはリンゴの話をしよう」と言って、ズレのあった前提を修正して共有すればおしまいのはず。

 しかし、全くそうならず、相手は「へ、お前はリンゴのことなんか何にも知らないんだよ!」という口調で一方的にしゃべりまくり、「お前は本当にリンゴを何もわかっていないな~なんでこんなこともわからないの?」と言わんばかりの態度を終始取り続け、会話(もはや会話と言えるかどうかも微妙な、なにものか)は終了した。


 自分も悪い。言葉でアピールしてまで相手に気づかせることができなかったとすれば、恐らく考えられる可能性としては、①俺は日本語だと思ってしゃべっていたがその言葉は実はスワヒリ語だった、という俺の致命的な言語能力の不足か(チョムスキーの言う生成文法の能力はどうやら俺には備わっていないらしい・・・)、②手足が短く頭も丸い自分は相手にとって地蔵にしか見えず、まさか地蔵が話をするとは相手も考えていなかったから、俺のアピールが全く相手の耳に届いていなかったか、③自分を馬鹿にしたいからわざと気がつかないふりをしていたか、のどれかである。

 久しぶりに猛烈に頭にきてストレスが溜まった。

 さらにストレスを急上昇させたのは、途中からあまりに頭にきたので、口調を若干鋭くした瞬間、「年配の人にそのようにしゃべるのはよしなさい」と横で見ていた人に言われたこと。

 自分は儒教的な文化で育ってきたから、欧米の文化のように年上の人に対して上下関係をほとんど無視してフランクにしゃべりかけることは得意でないし、例えば乾杯の時には必ず手を添えるという風に、年上の人をリスペクトしようとする儒教的な文化にも良いところはたくさんあると思っているが、行き過ぎたリスペクトは不必要だと常々思っている。

 たとえ目上の人であっても、議論の前提をすっとばして強圧的にしゃべることが許されるとは思わない。それはもはや議論ではない。前提の共有などをすっとばした話し合いは話し合いではなくただの独白だ。そうなってしまうと俺は別にいてもいなくても良い。
 もちろん、年配の方が自分の経験を独白の形で語りかける場合もあるだろう。そして、自分は元々はこのように年配の人の話に黙って耳を傾けるということ自体はとても好きなのだが、今回のケースは別。
 目から火が出そうだった。というかひょっとしたら出ていたかもしれない。

 その後その人が、「勉強になったでしょ」と言ってきたから、「はい」と答えたが、恐らくその人と俺とでは「勉強」という言葉に込めた意味合いが違うと瞬時に思った。
 
 その人は、「目上の人に生意気な口のきき方をしちゃいけないということを身をもって経験したでしょ、よかったね」という意味で「勉強」という言葉を使ったと思うが、自分は「宇宙人が地球にいる。やっぱり言葉は通じないんだな~。絵とかが有効かな」という意味で「はい」とうなずいたのだった。

 ちなみに、その宇宙人であるその人と自分が話をしている間に食べていたのは、自分が話を始める時に宇宙人に勧めた、真っ赤な青森産のリンゴだった。

 


 

しつこく村上春樹。

2009-02-19 00:53:19 | Weblog
しつこく村上春樹。

受賞講演の動画↓
http://www.youtube.com/watch?v=4c7BmEJ9ais

受賞講演の要旨↓
http://www.chugoku-np.co.jp/NewsPack/CN2009021601000180_Detail.html

小説にはできないことが多い。例えば、飢えた子供の前で文学(=小説)が役に立つのか?
この問いは、サルトルから大江健三郎まで、幾度となく繰り返されてきた問いだ。答えは簡単、役に立たない。

また、小説は現在起きている戦争や紛争を止めることができるか?。
これに対する答えは明白。小説ではそれらの戦争や紛争を止めることはできないこと。

じゃ、意味ない?否。じゃ、何に有効なのか?
 まず、貧困や飢餓、あるいは戦争には共通点がある。それはほとんどの場合が人為的な要因に基づいて生み出されたものだということ。つまり、意思を持った人間の手によって発生する場合がほとんどなのであって、機械のスイッチが入って勝手に出来上がったものではない。

 小説は、そのような人間、つまり、これから貧困や飢餓を生み出そうとしている人や、自分が今やっていることが潜在的に、遠くない未来に貧困や飢餓、戦争や紛争の原因になってしまうかもしれないことを気づいている人、気づきつつある人、あるいは、統治のリーダー達(政治家など)が行おうとしている(もしくは行っている)ことが将来かあるいは現在進行形で貧困や飢餓、戦争や紛争の下準備になっていると気がつきつつある人や、気がついているのに気がつかないふりをしている人、そういう人達の「意識を刺激すること」はできる。

 なぜなら、小説はフィクションだから。ありもしないことを想像を膨らませて書くことで、それを読んだ人にフィクションを現実のように追体験させる。そうすることで、自分たちがやっていることが、どういう結果をもたらすのかを想像させる力が、小説にはあると思う。

 もちろん、契機を与えることですべてが解決するとは言えない。例えば、カミュの『ペスト』を読んだからといって、それを読んだ人がファシズムの契機となるような政策に常に抗議をするようになるかと言えば、そうではないだろうし、村上春樹の『ねじまき鳥クロニクル』を読んだ人の全てが、ノモンハン事件のような戦争は二度と起こしてはならない、そのような戦争につながる政策を実施することにもそれを支持することにも反対する、という風には多分ならない。

 でも、想像する契機すら与えられなかったら、人はたぶん常に現在最良と思うことをやるだろうし、その結果不幸なことが起こっても仕方ないと感じると思う。というのは、人は自分が体験してきた過去と現在、そして未来しか考えられないし、他人の将来、他国の将来を想像して考えるなんて、そもそも最初からおせっかいなことには違いないから。

 でも考える必要があると思う。その時、自分以外の体験を想像させて追体験させることで人の意識を刺激する。そして人々にありうべき他の可能性を模索させることが出来るとしたら、たぶんそこに小説の有効性があるのだと思う。

 そして、小説を書いている小説家の生のメッセージは、より直截的な形で読者のイメージを掻き立てることがあると思う。であるならば、小説家にはメッセージを発する責任があるのではないだろうか。
 
 村上春樹のメッセージは、イスラエルの為政者や市民、映像を通してそれを観た自分を含めた人に届いたと思う。責任を果たした村上春樹に拍手。

うれしい。

村上春樹がエルサレム賞を受賞した。

2009-02-16 14:32:11 | Weblog
 村上春樹がエルサレム賞を受賞した。

http://news.tbs.co.jp/newseye/tbs_newseye4063622.html

 イスラエルで人気のある作品は、『ノルウェイの森』と『海辺のカフカ』らしい。
 難しい時期に、難しいところでの受賞になった。ひょっとしたら授賞式には来ないかと思った。。祝。「彼の作品に、人間への愛とヒューマニズムが明確に反映されている」という評価には同意する。

 仮に村上春樹がノーベル文学賞を受賞したとしたら、その時に代表作として挙げられる作品を考えてみた。むぅぅ、、三つ(大体三つ挙げられる。たまに二つ)に絞れん。。。。

ささ、民訴民訴。。


『カサブランカ』を再び観た!

2009-02-15 15:26:20 | Weblog
 久しぶりに、寝る前に、大好きな映画の一つである『カサブランカ』を観ていたら、面白い発見があった。
 レジスタンスの闘士であるラズロと、ヒロインのイルザが主人公のリックのカフェを二度目に訪れる時。そこにはいつものように、ピアノでの引き語りをしているサム、ドイツ軍のシュトラッサー大佐がいた。そこでこの会話。
 イルザ「サムの近くがいいわ」
 ラズロ「大佐からは遠くの席がいいな」
 リック「難しい注文ですな。。。」

と会話が続くのだが、この会話が行われている時、サムが引き語りしている曲がシャンソンの曲で、ジャズピアノのスタンダードナンバーとしても有名な『枯葉』だということに初めて気がついた。ただ、ピアノの時にはあまり演奏しない部分が流れていたので、今まで気がつかなかったのだ!

素敵な発見!!

 自分の映画の原体験は、小学2年生(3年?)の時に観たヘプバーンの『シャレード』で、それ以来映画の存在は、自分にとってなくてはならないものになっているのだけど、振り返ってみると、やっぱりアメリカ映画が多い(反面小説はそうでもないけど)。
 自分は多分に自分の育ってきた文化に身を浸らしている人間だけど(例えば、握手や乾杯の時に手を添える文化は自分がとても好きな文化! まずは相手をリスペクトしようという心構えの現れだから。意味もなくリスペクトしすぎるのは困るけど。)、反面、思いっきりアメリカナイズされている部分もある(そしてこの点で、たまあにだけど自分は同世代の友達との温度差を感じるところがある)。
 アメリカナイズされてきた要因は、今から思えば、アメリカ映画の影響なんじゃないかと、思う部分もある。

さ、能書きはこれくらいにして勉強勉強。。。

チョムスキーに拍手(ぱちぱちぱち!)

2009-02-11 03:18:37 | Weblog
知の世界で、本当の巨人と言われる人の著作を読むべきだ。

 20世紀、誰がいるだろう?? マルクスとウェーバー、フロイトはマストだと思う。経済学の専攻の友達とこの話をした時は、そこにケインズを加えるべきだ、といっていた。丸山真男を加えてもよいと思う。
 あとは、なかなかわからない。ただ、ここにチョムスキーは加えてもよいと思う。

 チョムスキーを話題に出したいための、なんの関係もない前ふりだったが、チョムスキーはこんなことを言っている。

「文学は、想像力、洞察、理解を高めることができる。しかし、結論を引き出したり、結論を実質化するために必要な証拠を与えてくれないことは確かだ」(ロバート・F・バースキー『ノーム・チョムスキー 学問と政治』産業図書、P323)

 文学が、イスラエルのガザ侵攻を止めることが、恐らくできないだろう。カシミール紛争を止めることも多分できないし、チェチェン紛争を止めることもできない、と思う。

 しかし、それらの行為に加担しようとしている人間の脳髄に、「人間は素晴らしいものだ!」と、呼びかけることはできる。なぜなら、文学を読むことによって人間に対する「想像力、洞察、理解」が深まるからだ。

 とすれば、もし人間が、最終的には自分の行動の選択を、その意思で行っているとするなら、文学は「人間(他者といってもよいかもしれない)に対する想像力、洞察、理解」を深めることによって、戦争に手を染めようとしている人の意思を変えられる(かもしれない)。

うむ、俺もそう思う。チョムスキーに拍手(ぱちぱちぱち!)

p.s 同じことを安部公房も言っていたな。

p.p.s フィラデルフィア生まれのアメリカ系ロシア人(ロシア系アメリカ人か?)に聞いたところ、チョムスキーはアメリカでは、一つのキャラクターらしい。
(ううむ、、言っていることは非常にクリアだと思うけどな~)。

ふいいい。。。

2009-02-08 01:11:48 | Weblog
そろそろ消そうかしら、このコメント↓

http://blog.goo.ne.jp/uhcuhc/e/af7e397c19f249b29d55eb05c03edb9a

やや俗っぽい言葉を使うことを許してもらえば、このようなコメント(一般には、このようなコメントをする人達のことをネット右翼というらしい)は、ネットという匿名性が確保された言論空間を利用したマスターベンションでしかない。

 イスラエルのガザ侵攻と日教組に一体何の関連性があるのだろう???????????????????????????????????
 
 さらには、毎日新聞の記事が常に真実を語っているとは言えないことは恐らく間違いないと思うが、だからといって毎日新聞の記事がいつもでたらめを語っているということにはならない。日本語で書かれているのだから、夏目も芥川も太宰も安部も三島も大江も村上も全部同じだ、というのと同じくらいの論理の飛躍がある。


まいっか。


ところで、一昨日はとても赤面する出来事があった。人はほめられたことと赤面したことはいくつになっても忘れない。そして、そのせいか、ほめられたことはもっと頑張ろうと思うし、赤面したことは絶対にやらないようになる。成長だ。
 一昨日は、たぶんこれを言ったら赤面するだろうな、と内心で少し思いながらも、まあこれで赤面したら、ちょっとは自分もまともになるだろうと思って、口にしてしまった。よかったと思う! 

引っ越し完了(ブログなんぞ書いている場合ではない!)

2009-01-26 20:14:49 | Weblog
 1月12か13日に、次の更新をするかどうかの期限が「1月31日」だということに気がついてから、はや10日とちょっと、半ば無理矢理に(?)引っ越しを完了させた。

 場所は前住んでいたところからほんの少し学校に近くなったところ。最大の違いは木造→鉄筋、というところか。前に住んでいたところは、「階段を上る音がうるさい」というようなデリケートな苦情がくるところだったので、おちおち人も呼べなかったのです。これで安心して人を呼べる。

 試験が1月28日から2月6日まであるから超特急で仕上げた。1月の予定は様々に様変わりしてしまった。勉強予定が狂い(ブログなんて書いている場合か!)、友達とのテニスの約束も果たさなければ(本番のための体力増強という名目で始めたテニス、こんなに面白いとは思わなかった!)。

 試験が終わったら、落ち着くべさ。

p.s 本番の配点が変わったということで先輩達がざわついてた。

http://www.moj.go.jp/SHIKEN/SHINSHIHOU/h21jisshi.html

発表が遅くてかわいそうな気がする。これで、今までより、より実力差がはっきり表れる試験に様変わりしそうな気がするな。。。

何にも言えない。

2009-01-23 19:25:29 | Weblog
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20090123-00000059-mai-int

http://mainichi.jp/select/world/graph/ghazzah/?inb=yt

どのような論理を持っても正当化できることではないと思う。

「自衛のため」という論理は、終局的にはこのような「先制攻撃論」にまで結びつく。
「政治」は人を殺す。
 このことは歴史的事実だ。古くは、約2500年前のペロポネソス戦争から、最近の6年前のイラク戦争まで。

 政治学はどうなっているのか。
 そもそも、政治学という学問は「政治」を理解するための学問。なぜ理解するのかと言えば、現実の政治をよりよくするため(曲学阿世にならずに)。となれば、どうなれば、政治が人を殺さずにすむのか、について2500年分の議論の蓄積があって、より理論が、どうすれば人を殺さずに済むかと言う点において精錬されてくるのが筋であるはずなのに、今だに先制攻撃論なんていう論理がまかり通っている。

 これは、人間の性だと思うから、未だに戦争が続いているからといって、一重に約2500年間政治学が何の進歩もしてこなかったとはもちろん言えないが、どこかはがゆい感じがする。。