野 話

美嚢川 その他

2014-07-07 15:08:43

2014-07-07 15:08:43 | インポート

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秀吉の逸話として
「三木合戦」といえば、兵庫県民や特に三木市民にとっては有名でありますが、
全国的に言えばどうでしょう?
全国的に有名なのは「中国大返し」
秀吉が天下を取る第一歩といえる出来事です。
もし、「本能寺の変」が無かったならば
この「三木合戦」は中国平定の第一歩として世間に
もっと広まったかもしれません。
2年近い戦であったのは特異です。

三木城攻めは「土木工事」による封鎖。
鳥取城攻めは「経済封鎖」によるもの。
高松城攻めは「土木・河川(水門)工事」による封鎖。

秀吉一門は土木・経済に長けていたようですね。
また、情報収集や密約(?)にも。

現代で言えば「アメリカ」のような機構を持っていたのかもしません。
しかし、晩年は・・・・・・・・・・・・・・・・。

現代人ではる我々は「温故知新」忘れてはいけませんね。
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釜山城(三木城)・城主の歴史
治承元年(1177年) 別所氏三木に築城 伝:霧が峰(君が峰?)城
嘉吉元年(1441年) 山名氏の支配により廃城。

明応元年(1492年) 別所則治(城主)となる 三木城再築

??? 別所則定(城主)となる

??? 別所就治(城主)となる
享禄3年(1530年) 別所就治(城主) 備前浦上氏に攻められる
天文22年(1553年) 別所就治(城主) 尼子晴久に攻められる
同年 別所就治(城主) 三津田城有馬月公・三好長慶に攻められる
天文24年(1555年) 別所就治(城主) 再び有馬・三好氏に攻められる

弘治2年(1556年) 別所安治(城主)となる
永禄12年(1569年) 別所安治(城主) 弟重棟を織田信長に加勢のため派遣
(後の三木合戦では重棟は織田方に付く。更に後、八木城主となる)

元亀元年(1570年) 別所長治(城主)となる
天正3年(1575年) 長篠の戦い 織田軍vs武田軍 (鉄砲隊の活躍
天正6年(1578)4月 別所長治(城主) 織田軍の羽柴秀吉と対戦、三木合戦勃発。
三木城にて篭城(22ヶ月)
天正7年(1579年)6月 秀吉の重臣 竹中半兵衛 陣中にて病死
天正8年(1580年)1月17日 別所長治 自刃し三木城開城

翌日 羽柴秀吉 入城 同年4月まで城主(姫路へ移る) 三木の復興のための徳政を敷く
同年4月~天正10年(1582年)6月 杉原家次(城代)・前野勝右衛門(城番)
天正8年(1580年)6月~9月 第一次鳥取城攻め
天正9年(1581年)4月~8月 第二次鳥取城攻め(餓え殺し)

天正10年(1582年)4月~6月 備中高松城攻め(水攻め)
天正10年(1582年)6月2日 本能寺の変(織田信長の死)

天正10年(1582年)6月~天正13年(1585年)7月 福原尚高(城主) 三木城修復
天正11年(1583年) 秀吉 大阪城築城

天正13年(1585年)7月~天正18年(1590年) 中川秀政(城主)
天正13年(1585年) 秀吉 関白となる翌年、太政大臣と成り豊臣姓を賜る
天正18年(1590年) 秀吉 全国統一
同年 3月頃~7月 小田原の役 北条氏の降伏
天正18年(1590年)~文禄2年(1593年)11月 福原尚高(城主)
文禄元年(1592年) 秀吉 朝鮮出兵(文禄の役) 中川秀政 朝鮮にて敵方に暗殺
文禄2年(1593年)12月~文禄3年(1594年)2月 中川秀成(城主)(後、豊後岡城:大分県竹田市 に転封)
文禄3年(1594年)3月~慶長元年(1596年) 木下延俊(城主)
慶長元年(1596年)~慶長5年(1600年) 杉原長房(城主)
慶長2年(1597年) 秀吉 再度朝鮮出兵(慶長の役)
慶長3年(1598年)8月 秀吉 死去

慶長5年(1600年)~慶長8年(1603年)11月 伊木忠次(城主)
慶長5年(1600年) 関ヶ原の戦い
慶長8年(1603年)~元和2年(1616年)8月 伊木忠繁(城主)
慶長8年(1603年)2月 家康 江戸幕府を開く 江戸時代の始まり
慶長19年(1614年)11月~12月 大阪冬の陣
慶長20年(1615年)5月 大阪夏の陣
元和2年(1616年)8月~元和5年(1619年) 小笠原忠政(城主)三木城廃城→新設明石城へ
元和2年(1616年)4月 家康 死去
元和2年(1616年) 江戸幕府 欧州船の渡航制限発令


寛永3年(1623年) 「太閤記」著される (廃城4年後、秀吉死去25年後
天保12年(1841年) 「播州三木城地図」作成される(廃城222年後

ざっと書くとこんなものでしょうか・・・。
個人的には中川家が三木城主であったこと。
中川家が九州で治めていた地、竹田。岡城。
滝廉太郎が作曲した「荒城の月」のモデルとなった城。
時は違えど私は三木城も「荒城」であり、なんとなく繋がりを感じてしまいます。
歌詞に出てくる「雁」も当時には数を見れたのかもしれません。
中世の中核都市だったことはわかりました。
また、この地から文明人も多数輩出していたことも。
都市だったんだなと感じます。
例えば、儒学者:藤原惺窩
徳川水戸家;三木之次
などなど・・・。(少ない?)
ただ、秀吉・織田軍が2年近くも駆けて戦ったと言う事実。
これは後の秀吉の作戦に結びついてくと思いますが、
それだけ重要な地であり、人物もいたのでしょう。
この三木の籠城が無かったら、歴史はもっと変わっていたかも
と思うとワクワクしませんか?
織田政権やら
三木の金物の歴史も変わっているかも・・・です。
(過去の出来事なので、想像するしかありません)
(しかし、これからの時代では戦・戦争は起こさないようにしなければなりません)

参考資料:「探訪 三木合戦」三木市観光協会 /「三木合戦 謎を追う」福本錦嶺著 三木市観光協会/ 「播州三木城地図」三木城復興の会
参考HP :兵庫県立考古博物館 http://www.hyogo-koukohaku.jp/bank/index.html
       城めぐどっとこむ http://www.siromegu.com/index.htm


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