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107.人は生きてきたように死んでいく(09.7.10)
「人は生きてきたように死ぬ」、「人は生きてきたようにしか死んで逝けない」、・・・・・・・。
この始めてのフレーズ、ある仏教雑誌、『大法輪』であるが、で一度に二箇所で接したのである。もうすぐ満65歳になるが、約65年間で始めてなのに一時間内外、サラッと目を通すなかで二度も、・・・・・・。
私は、過去の知識を消費するだけでなく新しい知識欲を持ち続けている自分を嬉しく思う。
「人は生きてきたように死ぬ」、女性詩人・エッセイストの堀口すみれ子さんという人が、この題での随筆で、お父さまの最後の様子を、”母に手をとられ、私に抱かれ、何よりも家族を愛した最後”だったと短文を寄せているものがまずひとつだった。ただ、ここではそんなにフレーズの重い意味にまで想い至らなかった。
私を釘付けにしたのは、千石真理さんという浄土真宗本願寺派布教師・鳥取大学医学部精神科博士課程のひとの”仏教ビハーラ・チャプレンとしての模索と気づき”という小論だった。
ビハーラとかチャプレンという用語からの関心の発展性、私が常々思っていた仏教の精神医療領域への力への同感度の高まり、私が好意的に追及している禅系でなく浄土系の、しかも写真での綺麗な女性のひとの論であることへのちょっとした煩悩、・・・・、とにかくこの論文はいろんな面で今後の私のまた別の関心の源流になると思われるのだが、当面、上記等はここでは措くとして、この論文の中ほどに、
”「人は生きてきたように死んでいく」、「人は生きてきたようにしか死んで逝けない」、これは、鹿児島のあるホスピス医の言葉である。”で始まる小節がある。
これまで数多くの癌患者を見送ってきたこの医師の哲学の凝縮されたものだろうという。心安らかに最期を迎えたいとホスピスなりに入っても望むようには必ずしもいかないし、癌の場合、痛みのコントロールもプロの医師からみて、日頃感謝の生活をしている人、不平不満ばかり言っている人、・・・差がでてきている、ということである。
そして、同じように、「人は生きてきたように老いていく」ということなのか・・・・。
元気な頃に何を考え、行動されたかが、老いてくると顕著に現れる、認知症になると、その傾向はさらに大きくなり、その人の性格や、秘められていた思いがはっきりと出る、ということがいわれるが納得できるように思う。
私は、つい先月会ってきた母を思い浮かべる。明治と大正の重なった1912年の明治側、明治45年5月18日生まれ、97歳になっていた。母のことについて最新につぶやいたのは、おじんカテゴリー第99号(08年7月)であったが、そのときは私達夫婦をしっかり認知できたが、その4ケ月後の11月訪れたときは私達夫婦が判ってもらえなかった。そして先月、妹と二人で尋ねたときもやはり、誰であるという認識はしてもらえなかった。耳も遠く、片方の目も不自由で話も少なく十分な会話にはなりえなかったが携帯電話のカメラで施設の人に写真を撮ってもらうときの笑顔を初め、一貫した”安らかさ”は私達兄妹にとってなによりの救いであった。「人は生きてきたように老いる」、一朝一夕でない母のいままでの姿を思い起こしてみる。
私のこの半生カテゴリー、第23号、第24号に書いた母に関する想いは6人兄妹同じだったろうと思う。6人もいたのだから各人ベッタリとはいかなかったが、兄妹みなが母に大いなる感謝の気持ちを日常からもっていたことを母も無意識に受けいれてくれていたのだろう。また、第24号にも触れたように、下の妹のことで悩んだ結果として、”毎日の生活をありがたく生きる”ことを中心にしたある宗教心で、自己のこころも克服していっているように見え、それを周囲も暖かく見守った。トイレに、生を感じ、感謝する意の単文の紙が用をたす目の前に貼ってあったのを思い出す。
人の死亡率は100%である。母も何れは来る「死」を安らかに受け入れることができるだろう。そう願っている。
そしてなによりも、自分である。”自分の、いま” をポジティブに生きる、正しく(八正道という指針もある)生きる、・・・・、明日事故で死ぬ可能性を含めて心安らかな死は”いま”の生き方にかかってくるのである。死だけではない。今後の「老い」のためにも”良きいまの生”を生きなければいけないと思うのである。
ちなみに「人は生きてきたように死ぬ」でGoogle検索した。二つのブログやHPの部分を転載させていただく。
1. http://bloom.at.webry.info/200808/article_4.html
先生によると、
「人は生きたように死んでいく」 のだそうです。
しっかり生きてきた人はしっかりと亡くなっていく。
ネチネチ生きてきた人はネチネチと亡くなっていく。
だらしない人はだらしなく亡くなっていく。
普段から感謝してる人は、感謝しながら亡くなっていく。
不平ばかり言って生きてきた人は不平ばかり言ってなくなっていくらしい。
死に際に現れるのは、地位や職業ではなく、その人の生き様、人生への態度だそうだ。
2. http://www.manabi.pref.aichi.jp/general/10001897/0/kouza/section3.html
患者さんから教えていただいたことは、「人は生きてきたように死んでいく」ということです。これも本当にそのように思います。しっかり生きてきた人は、しっかり亡くなっていかれますし、ちょっと変な表現ですが、べたべた生きてきた人は、べたべたと亡くなります。そして、周りの人に感謝をしながら生きてきた人は、私たち医者やナースに感謝をしながら亡くなっていかれますし、不平不満を言いながら生きてきた人は、我々に不平不満を言いながら亡くなっていかれます。最後の一ヶ月というのは、それまでの人生の凝縮です。ですからそういう意味で、人は、生きてきたように死んでいくのです。
それを言い換えますと、「良き死を死すためには、良き生を生きる必要がある」と思うんですね。そこで、良き生とは何ぞやということが非常に大きな問題になります・・・・・・
余談 : 「人は生きてきたように死ぬ」、こんな長くしかも単語でなく文章、これでもGoogle検索はいろいろ手繰り寄せてくれる。さすがに私の意図どおりのものは3件で、1番、2番、10番。1番と10番が上記引用、この10番が”鹿児島のあるホスピス医”のページか?。1、2番はこの”柏木”先生の対談記事から引っ掛ったもののよう。10番が本来1番だ・・・・。
余談を書く意図はまた別で、この検索で、ちなみに3番は、
”人は死ぬから生きられる―脳科学者と禅僧の問答 (新潮新書): 茂木 健一郎, 南 直哉: 本. ... 良い頭=良い心から出てきた良いことばのオンパレード。 どのような職種においても、仕事の質を追求していくと、こういうところに行き着くかな ..”. アマゾンの本の案内である。
茂木 健一郎、 南 直哉、二人それぞれの著書、茂木 健一郎『クオリア入門』、南 直哉『「正法眼蔵」を読む』が両者とも難渋しているものの読書進行形なのである。それぞれをそれなりに通読し終わる必要があろうが、二人共書ということになると見過ごせない。当然、購入図書候補としてメモされることになる。