北海道地震、いつもより早い起床にな
りました。
ガタガタの揺れで起こされた時に口ば
しった言葉は
「またかー、地震アラーム間に合っ
てないし」
と言ったら旦那も
「今鳴ったぞ、遅いわ」と言うや否や
3分かからずお着替えをすまし出勤し
た。
「気をつけて、こちら心配なくー」
と見送り眠い目をこすって被害状況確
認しながら避難経路に物はないか落ち
たら困る電化製品は床に移動等素早く
行動したつもりだが間に合わず停電。
やっぱり消えたかくそー。水汲んでお
けば良かった。
風呂の残り湯と飲み水は備蓄されてい
るから油断したのだ。
私は地震に強い、いや強くなった、
東日本大震災を静岡で体験し停電や
地震の後に起こる事が経験済みだった
、その後は被災地茨城に引っ越し毎日
余震に揺られ これ余震なのかーい?
の震度6弱は何度か経験済みだったか
ら今回は凄く冷静で暗闇でむやみに
動かず電池勿体ないし明るくなるまで
寝ようと布団に入り寝るぐらい図太く
なっていた。
茨城では知り合いも居ない中引っ越し
の片付けをしながら毎日揺れていたの
で精神は鍛えられた気がする。
万が一の事があっても運命、死にかた
は選べないなら受け入れようと腹を
くくったのもこの時でその後乳ガンに
なったりした時もこの気持ちのまま
挑む事が出来た。
困難は人を成長させる…ような気がし
ます(私の主観)
今回もまた地震を経験するのは逃げら
れない縁なのか?わからないけど
ポジティブに捉えるとまだまだ生きろ
と言われ助けられてる気持ちになった
りしました。
停電の夜は1人で耐えられるかしら?
と思いつつ避難所で沢山の人と居るの
も安心な反面物音で寝られないだろう
なーと色々考えて自宅で過ごした。
やることもないし星空を観察したり
1人でライトの影で影絵をしたり(笑)
泣いたりして過ごした。
泣いたのは怖いからではなく停電で
携帯電波も安定しないなか一瞬入った
LINEに高校の同級生の訃報があった
からだ、彼女に最後にあったのは五
年前で私が乳ガン告知を受ける一年
前だった、彼女は同窓会で
「乳ガンでさ、抗癌剤治療したから
今ズラなの」
と笑って教えてくれた。
高校時代はすごく仲が良かったのに
私は旦那の転勤で飛びまわっている
うちにちょっと距離が出来てしまって
いたが何十年振りに会っても変わらな
い話が出来てとても良い時間だった。
その後私の乳ガンを共通の友人通じ
て心配してくれたりエールを送って
くれたりしていたし職場復帰したり
旅行にも出かけていたから元気だと
思っていたのだ。
北海道に来たから一度会いに行こうと
思っていた矢先の訃報で地震の事は
吹っ飛び涙が止まらなくなって声を
あげて泣いた。
会えなかった事、訃報を聞いてもかけ
つけれない今の状況等にもの凄く腹が
立ち何で静岡から病院通いしてる時に
足をのばさかったんだと自分にとにか
く腹がたって怒りなのか哀しみなのか
訳が分からなくなる程泣けて仕方なか
った。
今この瞬間も涙が出る、後悔しない
ように行動さなさいと最後彼女に教え
られた気がします。
高校時代はお互いの家に泊まりその都
度スパサラならぬ素麺サラダを作って
くれた彼女、昔私は素麺とかひやむぎ
が苦手で食べられるようにとシーチキ
ンとキュウリマヨネーズにちょっと
砂糖を入れて作ってくれるサラダ仕立
ての素麺はボールいっぱいでも食べら
れて私の大好物になった。
今美味しいって食べている物は彼女が
克服させてくれた食べ物も多いと改め
て知った、青春の何ページも一緒に
過ごしてくれてありがとう。
生きてるうちに言いたかった。
今回の地震は悔いのない人生を送れ
と改めて教えてくれました。
彼女の分まで90歳迄生きてやる。
絶対、絶対生きてやる!
負けないぞ。
りました。
ガタガタの揺れで起こされた時に口ば
しった言葉は
「またかー、地震アラーム間に合っ
てないし」
と言ったら旦那も
「今鳴ったぞ、遅いわ」と言うや否や
3分かからずお着替えをすまし出勤し
た。
「気をつけて、こちら心配なくー」
と見送り眠い目をこすって被害状況確
認しながら避難経路に物はないか落ち
たら困る電化製品は床に移動等素早く
行動したつもりだが間に合わず停電。
やっぱり消えたかくそー。水汲んでお
けば良かった。
風呂の残り湯と飲み水は備蓄されてい
るから油断したのだ。
私は地震に強い、いや強くなった、
東日本大震災を静岡で体験し停電や
地震の後に起こる事が経験済みだった
、その後は被災地茨城に引っ越し毎日
余震に揺られ これ余震なのかーい?
の震度6弱は何度か経験済みだったか
ら今回は凄く冷静で暗闇でむやみに
動かず電池勿体ないし明るくなるまで
寝ようと布団に入り寝るぐらい図太く
なっていた。
茨城では知り合いも居ない中引っ越し
の片付けをしながら毎日揺れていたの
で精神は鍛えられた気がする。
万が一の事があっても運命、死にかた
は選べないなら受け入れようと腹を
くくったのもこの時でその後乳ガンに
なったりした時もこの気持ちのまま
挑む事が出来た。
困難は人を成長させる…ような気がし
ます(私の主観)
今回もまた地震を経験するのは逃げら
れない縁なのか?わからないけど
ポジティブに捉えるとまだまだ生きろ
と言われ助けられてる気持ちになった
りしました。
停電の夜は1人で耐えられるかしら?
と思いつつ避難所で沢山の人と居るの
も安心な反面物音で寝られないだろう
なーと色々考えて自宅で過ごした。
やることもないし星空を観察したり
1人でライトの影で影絵をしたり(笑)
泣いたりして過ごした。
泣いたのは怖いからではなく停電で
携帯電波も安定しないなか一瞬入った
LINEに高校の同級生の訃報があった
からだ、彼女に最後にあったのは五
年前で私が乳ガン告知を受ける一年
前だった、彼女は同窓会で
「乳ガンでさ、抗癌剤治療したから
今ズラなの」
と笑って教えてくれた。
高校時代はすごく仲が良かったのに
私は旦那の転勤で飛びまわっている
うちにちょっと距離が出来てしまって
いたが何十年振りに会っても変わらな
い話が出来てとても良い時間だった。
その後私の乳ガンを共通の友人通じ
て心配してくれたりエールを送って
くれたりしていたし職場復帰したり
旅行にも出かけていたから元気だと
思っていたのだ。
北海道に来たから一度会いに行こうと
思っていた矢先の訃報で地震の事は
吹っ飛び涙が止まらなくなって声を
あげて泣いた。
会えなかった事、訃報を聞いてもかけ
つけれない今の状況等にもの凄く腹が
立ち何で静岡から病院通いしてる時に
足をのばさかったんだと自分にとにか
く腹がたって怒りなのか哀しみなのか
訳が分からなくなる程泣けて仕方なか
った。
今この瞬間も涙が出る、後悔しない
ように行動さなさいと最後彼女に教え
られた気がします。
高校時代はお互いの家に泊まりその都
度スパサラならぬ素麺サラダを作って
くれた彼女、昔私は素麺とかひやむぎ
が苦手で食べられるようにとシーチキ
ンとキュウリマヨネーズにちょっと
砂糖を入れて作ってくれるサラダ仕立
ての素麺はボールいっぱいでも食べら
れて私の大好物になった。
今美味しいって食べている物は彼女が
克服させてくれた食べ物も多いと改め
て知った、青春の何ページも一緒に
過ごしてくれてありがとう。
生きてるうちに言いたかった。
今回の地震は悔いのない人生を送れ
と改めて教えてくれました。
彼女の分まで90歳迄生きてやる。
絶対、絶対生きてやる!
負けないぞ。
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