「国民とはイメージとして心に描かれた想像の政治共同体である」。ベネディクト・アンダーソンが「想像の共同体」で語るナショナリズム論のなかで、最も印象的なフレーズだ。
私たちは日頃、日本人であることを自明のものとして受け入れて、そこから文化や社会、他国との関係について発想する。たとえば、日本文化とは何かというように。これは他と区別されたひとつの要素を前提にするという意味で本質主義といってよい。
これに対して日本人を自明なものとしてではなく、あるつくられたものとして再構成しようとしたのがアンダーソンである。こうした方法は構築主義と呼ばれる。
彼は次のようにいう。
「ナショナリズムは国民の自意識の覚醒ではない。ナショナリズムは、もともと存在していないところに国民を発明することだ。… そして最後に、国民は一つの共同体として想像される。なぜなら、国民のなかにたとえ現実には不平等と搾取があるにせよ、国民は、常に、水平的な深い同志愛として心に思い描かれるからである。
そして結局のところ、この同胞愛のために、過去二世紀わたり、数千、数百万人の人が、かくも限られた想像力の産物のために、殺し合い、あるいはむしろすすんで死んでいったのである。なぜ近年の萎びた想像力がこんな途方もない犠牲を生み出すのか。そのひとつの手掛かりは、ナショナリズムの文化的根源に求めることができよう」(増補・想像の共同体)。
教育再生会議の二次報告などは、この「萎びた想像力」の代表だろう。
ではこの対極にあるはずの多文化主義をどう考えたら良いのか。外国人労働者の増加に伴って近年、自治体などでもこうした言説が語られるようになったが、外国研修生の問題は、他者と交わることのないナショナリズム実像を映し出している。背景にある国家意思は何か。
「日本というところには、「市民権」という考え方がありません。カナダやオーストラリアにおいて、多文化主義が政策的な争点になるときにまず問われるのは、「市民権」です。マジョリティの民族・文化への同化や国民への帰化という原則を立てずに、すなわち多様性を肯定しながら平等な市民権の附与を行なうということが求められているのです。
そのカナダやオーストラリアにおいても、しかしながら、市民権をめぐる議論はレイシズムを免れてはおらず、多様性の全面的な肯定ということにはなっていません。市民権は、保守主義者には、なお移民の排除と包摂(つまり従順に取り込まれなければ排除する、という圧力)の道具として使われうるのです」(早尾貴紀、「多文化主義」から考えるシオニズムと天皇制)。
その通りだと思う。どこが「美しい国」なのだろうか。