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大阪のおばちゃんのお話

つれづれ日記・創作・童話・エッセイ 

ちょっと つれづれ日記 { ブログ開設 1329日 705回に・・・ 1000回を めざそう}

2011-09-06 20:58:11 | つれづれ日記

 今日で ブログを開設して 1330日目になりました。この歳で まぁ まぁです。80歳過ぎても ひょっとしたら90歳過ぎても インターネットを使いこなしておられることも 珍しくない時代ですから まぁまぁでしょうと 自己満足しています。

 とりあえず 1000回をめざすという 大胆な目標を持つことにしました。
 08年一月に ブログを持ち・・・ 立ち上げるのは 娘にしてもらいましたが・・・ 私は いささか有頂天になりました。なにせ 私の子供のころには お金持ちのお宅の呼び出し電話を使っていた時代です。
 貧しかった私の家には 高校を卒業して トヨタ自動車の本社に入社したとき 61年のころでさえ家の電話がなく 入社しての研修に ”電話の 取り方”の講習があったくらいの時代でした。
 そんな時代から思うと 今の”伝達”の向上は 当時からは「想像」を超えていて 驚異的です。

 公園で 孫を遊ばせていると 小学校低学年と思える子供でさえ 携帯電話を持ち なにやら楽しげに会話しているのを見ると 呼び出し電話の話など 反対に 今の子供たち いや若者でさえ「想像」できないでしょう。
 いえ 60歳代以上の人くらいしか わからないかも。

 そう考えていると 「ほんま 歳やなぁ・・・」って 思ってしまいます。
 昔・・・の話になってしまいます。

 まぁ それでも 少々のインターネットによる検索や 他の人の ブログもちょっとのぞいたりできるし ボランティアのために 調べたりすることもできるし おまけに印刷もできるし・・・ 年賀状とかもできるし・・・このパソコンという”文明の利器”は 老後の楽しみの一つになっています。
 携帯電話など 手放せないもっとも大切な道具になっているし・・・ この進化が また すごい! 娘の持っている アイホン?ていうのなんか オーストラリアの姪と 無料で会話できるという・・・ メールなど とうてい考えもしなかった 通信手段ができている。

 かなり前 たぶん二十数年前だったか ”ワープロ”を手にしたとき 驚嘆して 友人に手紙を書き あちこち投稿し 掲載されたりしたののだった。”どうして こんなに 「字」が つぎつぎ出てくるのか・・・ 字を書き消しが 一瞬にできるのか・・・不思議で仕方がありませんでした。
 パソコンは たぶん 私はその機能の一パーセントも使いこなしていませんが めちゃ面白いものです。

 ただ ワープロや パソコンや携帯を使うようになって 恐ろしく退化したものがあります。

 {漢字}力の 退化です! これは ものすごいです。加齢による 頭の退化も加わり 恐怖に近く 漢字がでてきません。

 私は ”手紙魔”といわれるほど 友人知人と手紙をやり取りしていましたが もう ここ年々も 手紙らしい手紙を書くことがありません。メールという手段は 手軽に通信しあえます。しかも 即時にです。絵や記号も入れて・・・

 それで ブログというものを作ったわけですが 他の人のをのぞいてみると きれいな またかわいい写真や絵を使った 文章も簡潔で上手な ブログがいっぱいあります。
 わたしのような 文章ばっかりの しかも長い 独りよがりのブログは かなり珍しいでしょう。

 調べてみると いままで705回投稿しています。
 自分的には けっこう しつこいと思います。最初は ほぼ 毎日のように書いていますから 自己陶酔に近いです。最近は 一週間に ほぼ一回ですから かなりダウンしてきています。

 前回までに 訪問者のトータルが ほぼ35000余。閲覧者のトータルが66000PV余です。

 毎日 書き込んでいない日も どなたかが訪問してくださっているのですから・・・ 両方が0という日が 1329日間 一度もないのですから うれしいです。これもまた めちゃくちゃ 自己陶酔です。
 他の方の ブログの訪問者や 閲覧者を ぜんぜん知らないのですから 自己満足をしています。

 台風が ひどいありさまになっています。大震災で あえいでいる方が たくさんおられるのに この災害です。
 十津川には 一度いって 一週間ほど 温泉につかって のんびりしたいと思って いろいろ調べ 計画をあれこれ考えていました。
 緑の山々 きれいな河川 うつくしい海の日本・・・ 

 たくさんの方の命を奪い 海岸も 町も工場も会社も学校も 家も田んぼも畑も 野山も村も 崩し流れ去ってしまっている姿を映し出しているテレビの画面に 唖然とし怒りながら・・・今 情報はあふれ その手段は 途方もなく発展し 宇宙の細部まで映し出せる技術がありながら 身近な 生命を守る もっとも大切なことに それを予知する手段も技術も なすすべもないことに・・・ 私は ただただ 自然の力の途方もないことに 胸が痛いです。重いです。 
  

ちょっと つれづれ日記 { またまた 首相が・・・  }

2011-08-31 21:39:33 | つれづれ日記

 今のニュースで 東北の”ガスト”で からと思われる 赤痢が発生ニュースがながれています。「えっ 赤痢菌って まだ いたの?」っていう感じです。私の子供のころが よく流行していましたが。
 
 ”辞めろ!辞めろ! 諸悪の根源・・・ ”といわれていた菅さんが やっとこせ辞めました。あれだけ ボカスカにいわれていたのに ”辞めないと!” 頑張り続けていましたが。
 いままでも 多くの総理大臣が 辞めろコールを受けてきましたが 菅さんの粘りは 歴史上に残るでしょう。歴史に残りたかったのですから 今頃 自己満足で ほくそ笑んでいるでしょう。
 こんな とんでもない日本になって・・・ 大震災の被災者の方への 無慈悲な方策・・・ 世界中を 震撼させる 放射能汚染への無防備な対策 翻弄される避難者の方たち・・・ 嘘に嘘を塗り固めた政府や 原発関係の発表・・・ もっとも大切な 国への信頼は 崩れつつあるのではないかと思います。

 悔しいです。日本が そうしたことで・・・ マイナスのイメージをもたれたことが。

 野田さんが 新しい総理大臣になりました。今日の 夕方のアンカーの番組を見ていて {あの 演説・・・ ご両親や 自分の生い立ちなどの演説}によって 多くの浮動票が動いたみたいです。
 私も ”えっ けっこう苦労してはるんやな”って 思ってしまいました。
 ほとんどの評論家とういか コメンテーターなどの方たちも 報道も 小沢さんに露骨に近づき 小沢さんの応援を取り付けた海江田さん 有利みたいにいっていたように思いますが 野田さんの逆転勝ちみたいになったようですね。
 アンカーでは ”解散はしない”という言葉が より 票を集めたといっていました。とすると ほんとうは したたかなんだって。

 相田みつるさんの ”どじょうと金魚”の話しをしたということで 相田さんの詩集が すごく売れているそうです。日本人は ものすごいですね。その話を聞いて 本屋さんに駆けつけるエネルギーに感心しました。そのニュースをみて 私も買いに行こうって思う私も あるめんすごいかも。まぁ 買いに行かないで 図書館で探して見ますが。

 一年ごとに変わる一国のリーダーを持っている国も 珍しいですね。世界から 嘲笑されている気がします。
 それで インターネットで 歴代首相を調べてみました。

 平成になってからの ”分”を書き出してみました。
 平成23年の今までに 菅さんまでで15人!も いました・・・
 世界から 笑われるわけです。

  宇野さん 69日間  そういえば 週刊誌で騒がれてた印象がのこっていますが。
  海部さん 818日間 けっこうながくしてはったんですね。
  宮沢さん 644日間 なんか 笑顔が優しかった印象が。
  細川さん 263日間 お殿様です。辞めろって言われる前に 自分から突然やめた記憶があります。
  羽田さん 64日間  名前は覚えていますが。テレビの画面で めちゃくちゃ年老いたっていう感じでしたが。
  村上さん 561日間 阪神大震災の 不手際の記憶が。自民党以外の政党の党首が 首相になったということも おぼえています。
  橋本さん 932日間 しっかり記憶にあるのは 整った ポマードの頭髪。男前。
  小渕さん 616日間 官房長官のときの ”平成”の 新年号のボードを持っていたことは 強烈に印象に残っています。
  森さん  387日間 たしか 支持率が一桁だいに 近く なったのではないかと
  小泉さん1980日間 驚異的に 今思えば 総理大臣を続けてきたのですね。郵政改革ですが あの迫力は・・・ どこかで 日本を
             変えてくれるのではないかと 希望みたいなものを もたらしてくれたことは確かですが。その後は・・・
  阿部さん 366日間 辞めろっていわれても けっこうがんばってきたのに 病気になっちゃったみたいで。
  福田さん 365日間 かなり 迫力がない人 という印象しか。
  麻生さん 358日間 いいとこのボンボン。英語が堪能だったのに 日本語が。でも なんか いい人ぽい印象があります。
  鳩山さん 266日間 大金持ち。お母さんから 毎月1500万円も お小遣いもらっていた。奥さんがキンキらラキンの記憶。
  菅さん        去年の6月8日からだから よく 持ちこたえたというか・・・ 執念みたいにがんばったというか。たぶん 首             相として 誰よりも ある種の記憶と・・・ 平成時代の 記憶に残る首相として 子供の記憶にも鮮明に。

  
    こうしてみると 大阪のおばちゃんの一人から見ても ”小粒”っていう感じ。
    とにかく 人間を見てよね!っていう感じ。

 とにかく この日本を 東北の人たちを ちゃんとみてほしい・・・ 
 野田さんは・・・ どうかなぁ~~ ほとんどの人が 政治にしらけきっちゃっている今・・・ 私は 不信と不安・・・でいっぱいです。

                        
  


 


 

ちょっと つれづれ日記 {60代 最後の歳に突入・・・ }

2011-08-23 23:40:34 | つれづれ日記

 今日 23日 69歳になりました。
 60代の最終のコーナーを曲がりました。ちょっと 感慨です。一番は とにかく生きてきたわけですから それだけで まず感謝です。

 第一は 今の時期的にいっても あの戦争を・・・ 空襲にも会わずに・・・ 疎開でいじめられ ひもじい思いをしながらも生きてこれたことに感謝です。
 小学生のころは 危篤になるような病気を 二度しました。麻疹と 腸チフスです。今は 予防接種もあるわけですし 医学の格段の向上で 麻疹などのなる人もいないでしょうが。けっこう そのころは 亡くなる人もいました。よく はやったのは 日本脳炎ですね。
 日本脳炎は 当時は 後遺症が残って残酷な病気でした。
 ”蚊”が媒介するといわれていましたが それも 当時は 回りは”蚊”だらけでしたから。今は ものすごい殺虫剤ができて ”蚊”など ここ何年も見たことない気がします。蚊から逃げ回ることなど とうじはできませんでした。金鳥の蚊取り線香のけむり と 蚊帳でした。

 蚊帳は懐かしいですね。部屋の四方にはられた フックに 蚊帳の隅のわっかをかけるのです。蚊帳の中で 毎日 畑で 死ぬほど働き 和裁の夜なべから やっと開放された母が 私の横の布団に そっとはいてくる感触に 幸せを感じていた子供時代です。
 腸チフスは 伝染病で 隔離病院に入らなければならなかったのですが ちょう貧乏だった 私の家には そんなお金もなく 村のお医者さんが 内緒で自宅で治療してくれました。
 近藤医師は 村で唯一の医院でした。肺・胃・腸・・・ すべてに病気持ちだった父も ほとんど無料で診てくれていたように思います。
 いわゆる ”赤ひげ 先生”だったのです。

 ちょっとした風邪でも すぐ寝込む病弱だった私が 子供のころ生きてこれたのは その医師のおかげです。

 中学 高校 そして いわゆる若いころ 劣等感と自己否定で 精神的に追い詰められるような状況を乗り越えられたのは 貧乏のどん底であっても 毅然と生きている母親を 「自ら命を絶つ 娘を持った」という苦しみ 悲しみを与えたくない・・・ という ギリギリの自制であったように思います。
 
 結婚して 子供ができないことに悩み・・・ 嫁姑の 葛藤に悩み・・・ 少し時間がおけば ”どってことないことに”  自己嫌悪し 人をねたみ そんな自分に さらに自己嫌悪し それを 増幅させて生きてきたときもありましたが 友人による立ち直りと やはり 母の存在は大きかったと思います。

 ”とにかく 母を 悲しませてはいけない”という思い。

 せっかく やっと恵まれた子供が 9ヶ月で死産したときも 病院の窓からの飛び降りを考えました。
 そのときは とにかく”子供を 生んでから死んでやる!”みたいな 意地で 自殺を思いとどまりました。
 私の 心の奥底に いつも潜んでいる自殺への 負の感覚は じょじょに薄れてはいても カケラくらいでも存在しているという現実があります。

 子供 二人に恵まれてからも 卵巣のうしゅ捻転で 死の一歩手前まで行きました。
 今でこそ 治癒率7割とか8割とか言われていますが 当時は 一回の治療での 完治率3割のころ C型肝炎になり インターフェロンの副作用に苦しみながら 治療しました。
 なんといっても ちょうど その治療中に 夫の会社が 途方もない苦境に陥り にっちもさっちも行かない泥沼に はまり込み 借金を背負い それこそ”死”を 願望する・・・ 生命保険で・・・ 追い詰められたことがありました。
 自殺するわけにはいかず ”車に はねられたい・・・ 今 この 信号を 間違えて渡った振りをして・・・ という誘惑に 駆られたことも 何度もありました。

 ただ 子供らの 悲しみを思うと それもできませんでした。
 
 夫の 得意先の会社の とほうもない温情で その危機を回避できたのですが。

 とにかく 大きな病気を繰り返し 夫の会社の事態に死ぬほど苦しんできましたが ”今 生きている”ことに 感謝しなくてはいけません。

 この 60代最後の歳に 何か踏み出したいと思っています。

 40代最後の歳に ホームヘルパーの資格を取り ヘルパーとして 14年間働きました。充実していました。
 50代最後の歳に 韓国語を習いに行きましたが 記憶ができないという 自分の頭の悪さに3年で根を上げましたが 韓国という国の魅力と 在日の友達ができました。60代から 高齢者施設でのボランティアを 始めて それは 今でも続いています。

 この 60代最後の”はじまり”を 何を”はじめようか”と 今日 思っています。
  



つれづれ日記 { 悲しいこと・・・ 五山送り火の・・・ }

2011-08-14 22:36:26 | つれづれ日記

 東日本大震災の津波で倒れた 陸前高田市の景勝地「高田松原」の松から作ったまきを 京都市の「五山送り火」で燃やすという計画を (放射能汚染を 心配する)懸念する声が寄せられると 早々と断念したという報道に ”なんていうことを・・・”と 私は 胸がふさがりました。
 陸前高田市の皆さんで そのまきを(迎え火)として燃やしながら その火を見つめる人たちの涙に 涙しました。

 その理不尽さに怒るのではなく ”迎え火として”の言葉に 京都の人たちへの気配りと 東北の人たちのやさしさと 忍耐を見たような気がしたからです。
 そして 京都に対する抗議が殺到すると (別のまき)を取り寄せて 送り火で燃やす・・・ということになり そのまきの皮の表面から
”微々たる”放射性セシウムが検出されると また 中止を決めたのです。
 私は 理不尽に命をなくした死者の魂へも まきに それこそ万感の思いをして文字を託した家族や身内の方たちへも 冒涜ではないかと  いえ冒涜だと思いました。
 多くの人も そう思ったことでしょう。
 中止をいわれても 再度のまきを・・・との要請に応じた 陸前高田市のみなさんの心を 踏みにじった行為です。
 
 毎日新聞 13日の朝刊に 市が専門家に問い合わせたさたところ「国の基準がない以上 安全という見解は出せない」との回答だったとあり 中止したとありますが 京都大学丹羽太貫教授は「仮に 表皮を1キロ食べ すべて体に吸収されたとしても 取るに足らない線量。意味のないクリーンさを求めた今回の判断は 被災地の方たちの 気持ちを踏みにじるものだ。京都は 学術都市でもでもあり 専門家の意見を聞いて 冷静にリスクを 検討すべきだった」と指摘されています。
 ノーベル賞を受けられた方を 数人出している京都大学がありながら 市が問い合わせて ”曖昧”な 答えを出した”専門家は だれだろう?” というのが 私の疑問です。
 そんな 大事なことを 市は その専門家 一人だけに問い合わせて 決定したのでしょうか・・・というのも 私の疑問です。

 どなたか・・・ そのことを ご存知の方は教えてください。
 
 五山の送り火・・・ 特に ”大文字”の送り火は 毎年 報道されて 日本中の人が その”灯り”に 家族の 身近な人の死をいたんでいるのです。偲ぶのです。そうした ”火”なのです。
 これから 毎年 そういう思いはあっても 2011年の あの大震災のときの 京都市が 陸前高田市にした仕打ちを 思い浮かべるに違いありません。そうした 悲しい”送り火”として 見られるでしょう。
  

京都市役所のホームページを検索し 電話でもFAXでも メールでも 市制に対する意見をとのコーナーがあり”どうしようか・・・”ってしばし考えました。ホームページを開いたこと事態 (なんかいわないと!・・・)という気持ちからでしたから。
 前回の中止のときの6日には 抗議が2000件超えたっとの報道がありますから 今回ははるかに超える抗議が寄せられているでしょう。

 だから 京都市への抗議の意見はやめました。
 
 京都は 外国からの 観光客の一番多い都市だったでしょうが・・・ 無慈悲な都市との印象を 私の頭には インプットされました。
 
 京都は 諸外国から 理不尽な大災害で命を 瞬間に奪われた 悲しみの”魂”を 冒涜した都市とされるでしょう。
 京都は 残された 家族の嗚咽を 苦しみを ともにできない都市として 記憶されるでしょう。

 あんなに 神社・仏閣がある都市なのに。もっとも ”死”を 受け入れてくれるはずの都市なのに・・・

 しかも 死者を送る”火”なのに・・・

 「京都の人は 優しい物言いのなかに ”底いじわるさ”を ひめてるねんで」と 京都生まれで 大阪育ちの知人が いったことがあります。
 もっとも 京都の人の多くは 今回の事態を 私のように怒っていると思いますが。
 京都のイメージは 悪くなったと思います。

 立命館大学の 安斎郁郎名誉教授は「五山の送り火は 伝統的神事という性格を持つ。放射能がけがれのようにとられられたのではないか。今回の件は 科学の問題ではなく 文化の問題となっている。解決も文化的に行うべきで 犠牲者への追悼の心を込めたセレモニーを やったほうがいい」と 提案されている。 
 けがれととらえるのなら あの五山の火で それを 払拭してほしかった。
 あの波に飲まれた人たちは ”けがれ”の人たちではない。

 陸前高田市の松原の 数え切れないほどあったという松は波に飲まれ ただ一本 流されなかった松の木の写真に 感動したものでした。
  
 この問題だけではなく これからも 放射能の影は付きまとうでしょう。
 
 
 冷静な判断のなかで 忘れてはならないこと・・・ 特に 行政は・・・ その中の”芯”に 悲しさ 苦しさ 辛さを共有しなければならないと・・・そうしてほしいと 無力な私は 思うのです。
 
 京都岩手県人会の 笈川光夫会長代行は「陸前高田の被災者たちは なにもいうことができず 釈然としないと思う。京都が築き上げてきたイメージが壊れて残念」と また 今回のまき集めに協力した 旅館経営者の 鈴木繁治さんは 「今回検出されたことで 陸前高田のイメージを悪くした。震災被害者を静かに天国へ送ってあげたいと思い 協力したが 本当に残念だ」と それぞれコメントされているのを 毎日新聞で読みました。
 陸前高田市の戸羽市長は「風評被害を広げ ほかの被災地にも 京都市民にも迷惑がかかっている。慎重にやっていただきたかった」と おっしゃっている。
 ほんとうに もっと冷静に 慎重に 考えるべきだったと思います。

 明後日のテレビには ”大文字”の映像が流れるでしょう。新聞にも 載るでしょう。
 そのとき 陸前高田市だけではなく あの震災でなくなられた 途方もない魂に 鎮魂の祈りをしたいと思います。
 そして ”微々”たる放射能のまきをたくのを 拒否した京都を 意識したいと思います。

 
  
 





 

ちょっと つれづれ日記 { 死ぬこと・・・ 送ること・・・ }

2011-07-31 22:55:27 | つれづれ日記

 兄が 亡くなりました。二人だけの兄妹です。
 若いときから 病気ばかりしていました。6月の中旬に 肺炎をこじらせ入院し 7月27日に亡くなりました。義姉と娘に見守られて。
 75歳ですから ちょっと若すぎます。平均寿命にはたりませんから・・・

 数年まえ 胃がんで胃を全摘しています。そのときから ひどくやせてしまいましたが 本人は 元気でした。
 ”死ぬ気がしない。死ぬということを意識したことがない”というのが 口癖でしたが ほんとに”死”を 感じていないみたいで どちらかというと 心配性で 暗いほうに考えがちの私と違い 楽天的という感じでなく 心のそこから 自分と死を結びつけたことがないみたいでした。 
 

 二人の娘に 大事にされ 幸せな一生だったと思います。

 兄の葬式のだんどりを見守りながら 死というもの・・・送るということ・・・ を 考えさせられました。
 
 兄は ほとんど食事が取れなくなり 肺もどんどん機能を失っていきました。低酸素状態で 夜 意識が混濁して 点滴などを外すということで だれか身内がいないときは 手をベットにくくられていました。
 それは 辛いことでした。義姉も娘たちも 辛そうでした。

 体力が落ちて ほとんど身動きできないのに 急に 立ち上がったり 腕を振り回して暴れたりするから くくる。
 動かないようにする薬は 体力を失い 朦朧状態になる。
 どちらかの選択を迫られたら 家族は どうしたらいいのだろうっと考えました。私なら どうしてほしいだろうと考えました。

 結論は でません・・・ もう少し 時間が要りますが・・・ たぶん 時間がたっても 結論が出ない気がしています。
 
 死を迎えるっていうことは・・・ 自身が 死が そこまできていることを 感じたとき どう迎えられるか・・・ って考えています。
 意識が混濁するということは そういう面では いいかもしれないと考えています。

 お葬式も この何年も ”家族葬”・・・ 最近多くなりましたが・・・で いいと思い その由を 家族には言っていました。病院から 斎場にいき 斎場内の小さな式場で ほんの身内だけで送ってほしいものだと。
 ごくごく簡単に。
 私は 死んでも (ふたたび この世に生を受けるということ)(生命に 過去世・今世・未来世があること)を信じていますから 死んだら消滅するとはおもっていません。

 だから死を 寛容に受け入れて死にたいと思いますが・・・ どうでしょうか・・・
 正直。自信がありません。

 兄は とても丁寧な 葬式までの段取りをしてもらいました。

 もっくんの”おくりびとの映画”みたいな 納棺式も厳粛におこない 立派な シャンデリアが輝き ベットルームも お風呂もある式場で 仮通夜 本通夜 葬式もできる・・・ 泊まってできる式場でした。 葬儀場で 二泊できたのです。

 自分の葬式は 正直 パパッとして すましてくれたらいいと その意思を固めていましたが 兄の葬儀に至る工程をみていて 少し葬儀のあり方を考え直しました。
 葬儀は そんなものではないと・・・

 結局 葬儀は 死んだ者のためではなく 死んだ者を”送る者”がわとしての 心のけじめ 悲しみのいやし 思い出へのものではないかと 思い至りました。
 家族葬でした。

 私は 極端な言い方だと思いますが 夫 娘 息子でおくってくれたらいいと思っていましたが 娘は ”お父さん お母さんが 生きてきて 今まで関わりあった人たちに どんなにおおぜいであっても来てもらって たくさん思い出を話してもらいたい”といいます。

 どちらかというと 割り切って スパッと物事を考える娘ですから 意外な気がしました。
 そして 少しうれしかったです。
 それは 私たちの生きてきた 関わってきたこと 人たちのことを 喜んでくれているからだと思うからです。
 ”生きてきた あかしを 大事にしなければならない”と いうのです。

 ほんと そうですね。
 
 簡単に送られるのは 死んだ者の自己満足でしかなく 残されたものの ある程度の心の整理として 葬儀は 大切なものだと思いました。
 
 死の迎え方 送られ方・・・ 送るとき・・・のことを 考えたいと思いました。
 ”生死”は 考えてみたら 人生のもっとも大事なイベントですから。

 娘は 生まれてくるときは 家族に見守られている。
 死んだときは・・・ 葬儀のときは・・・ 大勢の人に見送られたほうが 楽しいといいます。
 その考え方も いいと思いました。

 ひとつ 考えたことがあります。

 兄の祭壇は 白い花がいっぱい飾られていました。
 私は 好きな色の”オレンジ”で飾ってほしいと・・・ お日様の色です。
 オレンジの グラデーションで・・・

 そのほかのことは おいおい考えていきたいです。

 

 ちょっと つれづれ日記 { 卑しい ひとたち・・・ }

2011-07-23 21:30:48 | つれづれ日記

 今日 あべのの近鉄百貨店で 東北の障害者の方たちが作られた お菓子や小物の展示即売会にいってきました。
 クッキーやかりんとうなど買ってきました。
 おいしいです。

 テレビの報道で見ていると 政局の混乱に 腹を立て 今は むしろ政治に対しては アキラメみたくなりそうな自分を嫌悪さえしています。 
 最近 私はなんにでも腹を立てているし 何か報道されるたびに なんにでも”ほんまやろか・・・?”って思うようになりました。たとえば 動物のドキュメンタリーを見ていても 以前なら 涙を流すほど感動したシーンでも ”まさか やらせ?””CG”っていう感じです。なんにでも ”うそ”じゃないかと思ってしまうようになっています。

 あの原発事故を 覆い隠していた東京電力に 真相を的確に掌握できなかった政府に それを見抜けなかった報道に・・・
 猛烈に 腹を立てています。日本全体の人が 思っておられると思いますが。
 あの直後 ”雨後のたけのこ”みたく テレビでコメントしていた 原子力の関係者?たちに。日本にこんなに多くの その”筋”の人たちがいることに驚きましたが その多くは 「心配 いらない」みたくいっていました。

 ”うそつき”なのか たんに”馬鹿”なのか。あの学者?たちは。専門家?たちは。
 
 原子力の”平和”利用という言葉に 幻惑されてきたのです。いまさら 脱原発っていっても こんなに巨大化した経済大国日本が 便利と快適を享受した私たちが 一気に 原発を脱せるかどうか・・・疑問です。
 私も 脱原発を望んでいますが ”原発に頼らないでも 大丈夫”という人もいれば ”難しい”という人もいれば また 多くの その道のプロ?や コメンテーターや {日本の方向性を決める 政治家???}らが 論議していますが 私は 腹を立てながら それでも 子供や孫たちの世代に 巨大な”負債”を 残さない確固たる方策を講じてくれる人はいないのかと 祈りにも近い気持ちで テレビをみ 新聞に目を通しています。

 

 民主党の混乱と 菅さんの行き当たりばったりの発言に それをコントロールできない 今 ”日本が 生き残れるかどうか”という瀬戸際にさえ のんべんだらりとしている”奴”らに 腹をたて 考えました。

 結局 ””いやしい 人たち””が ””心 貧しい人たち””が この安全・安心の国日本を 制御不能にしつつあるのでないかと思うのです。
 でなければ この猛暑の中 被災者を 原発からの避難者を 放り出したままにしておく はずが ありません。 
 涙のない人が 痛みを感じない人が 日本を動かしているという”恐ろしさ”を感じています。

 今日の新聞に 玄海原発 データ誤入力とあります。
 ”嘘 やろ””なんと無責任な””あぁ~~ こうして データが作られていいたんや。ええかげんな 人たちが  コントロールしてきたんや”・・・って。責任感のない プライドのない人たちです。いやしいひとたちです。

 そうそう 警察の幹部が 美容整形の病院の不正に関与し 自分の上司・・・たちの 天下りに関与し 自分は食事などの接待を受けていたとか・・・ いやしい・・・としかいいようがありません。食事の接待って・・・
 まぁ 菅さんも 大混乱の政局も 被災者・避難者の悲惨な状況の中でも 取り巻きをつれ 奥さんを伴って 寿司・中華・・・などをはしごする神経は 異常としかいえません。いやしいのです。

 もう 毎日の報道で 毎日”いやしい人”がでてきます。

 ”いやしい人” ウイルスは 蔓延しています。
 

 

 ちょっと つれづれ日記 {原子力というもの・・・ }

2011-07-05 22:24:08 | つれづれ日記
  
 一昨日のブログで 原発の事故のことを書き 日本は広島 長崎 そして 第五福竜丸のビキニ沖の被曝を・・・ 無残な 残酷な体験をしてきて・・・ 原子力・放射能に敏感で もっと対策をしていると 私は信じていたということをかきました。
 
 ブログを投稿してから たまたまみた新聞のテレビ番組表で NHKの番組で”大江健三郎が問う 核兵器と原発 元第五福竜丸乗務員 大石又七との対話”を目にしました。
 驚きました。
 私は この原発事故を目にし いわゆりガーガーカウンターを 人々にあて 放射能を測定している映像を見て 反射的に第五福竜丸を思い出していましたが テレビも新聞も おおきく第五福竜丸のことを取り上げていませんでした。私が たまたま目にしなかったのかもしれませんが。
 それは とてもすばらしい そして この原発事故の根源を 歴史観を知ることの出来た番組でした。

 大石さんが 久保山さんがなくなられる過程を 語っておられました。とてもくるしまれたそうです。多くの仲間が ガンなどを発症し 亡くなられたことで 第五福竜丸のことを書き残されとのことでした。
 私が 驚いたのは 第五福竜丸の被曝に対して アメリカと日本政府が話し合い 政治決着させていたのですね。その上 そうした一方で「原子力平和利用」という名目で 原子力発電所の開発が進められていたんですね。
 そういえば たしか 新聞か 映画館のニュース映画だったかわかりませんが 「原子力平和利用」という言葉を めにしたように思います。
 まだ 戦後が ”そこに”あるころです。
 ”平和”という言葉・・・戦争という言葉の対極にある言葉・・・に 幻惑されたのではないこと思います。私の記憶を思い出してみると ”あの 無残な原子力が 平和に利用される。コントロールすれば 人々を幸せに出来るのだ”という 思い込み・・・思い込まされ・・・ていたのだと思います。

 それは 今回の原発事故で あらわになったわけですね。

 当時 アメリカは 日本をコントロールする方法は マスコミを把握することと断定し 正力 松太郎さんを その頂点にし 中曽根さんと 原発開発にへと 日本の舵をきったそうです。

 いつのまにか 原発は54基にも 日本にあるそうですが・・・ 私は もちろんですが どれだけの人が この原発事故があるまで その数を把握していたでしょうか・・・

 マスコミも その危険性を どこまで報じていたでしょうか・・・

 マスコミは 今 菅総理を叩きます。私も 諸悪の根源と思っています。ましてや 今回の松本!・・・大臣などという言葉をつけることさえ嫌悪しますが 今回の無恥と傲慢の・・・叩きます。
 が・・・ 民主党が 政権交代かと 騒がれた衆議院選挙のまえ ’一度 民主党にやらしてみようか・・・’という論調ではなかったのでしょうか
・・・ マスコミは。

かつて ”原子力平和利用”という言葉で 日本を コントロールしたマスコミも その因を分析する必要が あるのではないでしょうか・・・
 CMで クリーンなエネルギーとして 耳タコみたいに流してきたのですから。

 日本人ほど マスコミの流れで 自分の考え 意思をコントロールされる人種はいないのではないかと思っていましたが この原発事故は 私たちに 社会の動き 政治の流れ 世界の動向を しっかりみつめていかなければならないことを教えてくれましが さりとて 私たちは マスコミを通じてしか それを知るすべのないことも事実です。

 その中で 真実をみつける努力をしていきたいと 私は思っています。
 あの原発の爆発を 映像で見て 仰天しましたが 「大丈夫です。臨海には達していません・・・」などの報道で 多くの人は・・・私も・・・安心しましたが・・・一方では ”ほんまかいなぁ・・・”って 心の片隅で 考えていたと思います。

 それが(ウソ)だったわけです。
 もともとの発信元が ウソをいっていたら マスコミも そう報道するでしょうが 私ら 普通の人間と違うのですから (ウソ)見抜くことこそ マスコミの使命ではないでしょうか・・・

 政治家も マスコミも信用できない時代が この21世紀の日本にやってくるなんて・・・思いも寄りませんでした。
 もっとも 政治家が為政者が 信用された時代など なかったでしょうが。

 ぜひぜひ・・・大江健三郎さんと 大石又七さんとの対談 放送があったら見てください。第五福竜丸の被曝・・・体内被曝の恐ろしさ・・・を 原子力発電所の始まりを・・・戦争を起こした人々の責任の取り方と 今回の原発事故の責任の取り方とを 考えさせてくれます。
 第五福竜丸の 被曝を 忘れては ならないのです。絶対に!

ちょっと エッセイ {節電の夏・・・}

2011-07-03 20:56:49 | つれづれ日記

 暑い・・・としか言葉の出てこない この夏。
 たしか 長期天気予報では ”去年よりは 暑くならないのでは”といわれてきたように思いますが 六月の末の暑さは 尋常ではなかったように思います。
 年々の温暖化による気温のたかまりのせいか 年をくったせいなのか 近年の夏の暑さは 耐えがたくなってきています。
 "節電”ということで はやばやと扇風機を買い揃え {今年はエアコンつけないぞ}との決意は まだ 本格的暑さのやってくる前に 撤回してしまいました・・・情けないですが。

 ホームヘルパーをしているとき 熱中症で倒れている方を見つけて 救急車を要請したことがあり その怖さを知っていることもありますが 暑さが 心身にこたえるようになりました。

 あの大震災で 原発の事故での被災者や避難をされている方の ご苦労を思えば 申し訳ないことだと思っています。
 原子力発電所の事故後のことは 毎日胸を痛めて すべての方が思っておられるように 遅々として進まぬ対応に 重い心をかかえながら 現場で作業されている方たちの 心身とものご苦労に 万分の一にも満たない思いをはせています。
 なのに エアコン入れてしまうわたしがいます。

 放射能が 日本をおおうなんて・・・ 想像をしたこともありませんでした。放射能の数値に憂い恐怖し 住み慣れた土地を離れ 家 田畑だけではなく 家畜もペットも失い 家族や地域の友から離れて暮らさざるをえない状況が 日本の地でおころなんて。
 その方たちへの あまりにも配慮のなさの政治に 政治家たちに怒りを通り越して 絶望さえ感じています。
 先日 ”この地を 離れたくない・・・”との思いで 焼身自殺された方の報道がありました。涙が こぼれます。

 20数年前だと思いますが 地域の方たちと 福井県の原子力発電所の見学に行ったことがあります。美浜だったかどうかは 記憶にありませんが。
 それにしても 福井県に こんなに多くの原子力発電所があること事態も・・・しらなかったという私は 恥ずかしいです。

 そのさい 発電所の職員の方が パネルなどで説明のさい なんども”ぜったい 安全です”と 繰り返しているのを聞いていて 「そんなに なんども安全っていったら よけい怖いよね」って 友だちといいあったことがあります。
 「排水溝の水も こんなにきれいです」とも。
 たしかに きれいでした・・・透き通っていて。あまりにも透明で かえって 私は 奇妙な感じをうけました。これは いまだから いうわけではありません。
 海というイメージに 海草のきれはしひとつ 小さな魚一匹も見当たらないことに 違和感をおぼえたのだと思います。
 いままで 電気代やガス代を節約するための節電や節ガスはしても 電気もガスもふんだんに使えるという 錯覚に中にいました。水道からの水も際限なく。
 電気も 福井県にある原子力発電所によりまかなわれていたことを 知ってはいても意識してはいいなかったと思います。
 
 私が子どもの頃 アメリカや 旧ソ連の水爆などの実験で 「雨に 放射能あるよ。雨に あたったら あたま禿げるよ」っていいながら 大急ぎで駆けたものでした。
 なにより 第五福竜丸の被曝で 久保山愛吉さんというかたが なくなられたニュースは・・・ もちろんテレビなどあるわけでなく 当時は ほんのときたま連れて行ってもらう映画館で 上映前に移されるニュース映画でみたのでしょうが・・・それは 子供心に衝撃でした。そのとき 目に焼きついたガーガーカウンターを この歳で この原発事故で目にして 唖然とし やりきれない思いをしています。
 私は 子供のころから 反戦の作文をかいてばかりいるかわった子どもでしたし 政治や社会の動きも けっこう関心を持って生きてきました。
 原発反対のデモという記事も 目にしたことがあっても ”やっぱり あぶないかも。でも日本は 大丈夫”という幻想にひたっていたのです。
 日本は 広島や長崎の無残さを体験し 第五福竜丸のこともあるし {原子力}{放射能}に対しては 磐石という 確信をいつのまにか 植えつけられていたと思います。

 どうかどうか・・・ 福島原発の現場で 酷暑の中 悪戦苦闘されている方たち お体大切に・・・ 何も出来ませんが 毎日朝夕 仏壇の前で 祈ることしか出来ませが。 
 

ちょっと つれづれ日記 {なんだか よく わかりません・・・}

2010-07-09 23:12:32 | つれづれ日記

 パソコンの設定の業者を 変更して 私の聞き間違いか・・・新しい設定業者との連携のミスで 10日ほど ブログか書き込めませんでした。

 にもかかわらず・・・ 数十人が 毎日訪問してくださっていて感謝です。
 その由を 長々と書いて 投稿を押したら 投稿できません・・・とのエラーみたいのが出てきました。

 それで テスト中と 投稿してもたら 投稿できました。????

 もう一度 この文章を投稿してみます。

 ブログが投稿できなかったら・・・ 明日 もう一度 設定業者に連絡してみますが。