ふと 気が付くと もうラジオ体操はとうに終わり 周りではそれぞれザワザワと 塗り絵をしたり 折り紙をちぎって下絵に貼り付けていく作業や クロスワードやに 仲間とそれぞれ興じている。
男組の二人は いつもどおり将棋をさしながら 若い頃の下らん遊びに呆けたことを 自慢げに話をしている。他の一人は もう本当に惚けているのか 一日中 あらぬほうを見つめているだけだ。もう一人は 体調が悪いのか 一日中 ベットで横になっている。女組は 全体ににぎやかで元気だ。やかましいくらいだ。
みんな しょぼくれた服を着て しょうもない話に しかもレコードのように同じ話を繰り返して・・・ イヤだ! イヤだ! 私は まだ80歳前なのに。
働いて働いて 会社を大きくし家を作り 家族を守り 頑張って頑張って生きてきたのだ。ココにいるようなちんたらちんたら生きてきたヤツらと違うのだ。
たまらない。情けない。風呂でさえ 人の手を借りなければならない体になってしまうなんて考えもしなかった。
たまらない。腹が立つ。何の心配もないはずだった老後を 馬鹿息子に破滅させられた。最終的には 夫婦で 共に苦労した妻と共に邸を売り 温泉付きの有料老人ホームに入る予定にしていたのに。妻が先立ち 邸を失い コツコツとためていた預金の大部分は 息子の不始末で路頭に迷わせて仕舞った従業員への退職金に使ってしまった。
こうして このデイ施設にきて 週二回通い過ごす時間の大半を 私は ”遠い記憶”を 思い出している。
子どもの頃は 貧しかった。中学を卒業するとすぐ 近くの工場に働きに出て 運転免許証を手に入れると 友人と二人で 小さな運送会社を始めたのだ。
少し お金が貯まると その一部で苦労していた母を 年に2回ほど近くの温泉場に連れて行ったものだ。
そのたび 母は”極楽・・・ 極楽・・・”といい 温泉の湯に赤らんだ顔を ほころばしたものだった。その言葉で 私は エネルギーを貰い 辛い仕事にも耐えられたと思っている。
母は 貧しさの中で もちろん内湯など無く 本家の貰い風呂で 本家全員が入った後の 垢の浮いた風呂の流し場で 私の背中を洗いながら
「ワシの宝物じゃけん。誠は。ええ子になりや。ええ子いうんは 優しい子いうことじゃけんな」
といったものだった。
母の 手ぬぐいの感触が まだ 私の背中に残っている。母は 私が会社を大きくし 檜の家を新築し 広い檜の風呂に 大病をしてやせ細った母を入れ 背中を流してやったとき 号泣した。
「幸せや。幸せや。ほんとに誠は ええ子じゃった。母ちゃんは 幸せじゃ」
と いった。母の背中を流している私のほうが 何倍も幸せだと思ったものだ。 私も 母の細い体を洗いながら 涙を流した。このときのために 私は 時とすれば寝もやらず 仕事に頑張ってきたのだ。
その母も その家に2年も住まないまま逝き 私を支えてくれた妻も 程なく逝ってしまい 馬鹿息子は会社をつぶし 私は 今 ここにいる。
会社が潰れたとき 今まで 私に親しんでくれていたもの 近づいてきてチヤホヤしていたものが 潮の引くようにという言葉があるが それこそ ”見事”というほどの勢いで去っていった。かなりの苦境を救ってやったものでさえ。
それは 私の心を壊した。会社倒産の飛まつを浴びないようにという自己本能だろう。飛まつなど浴びせはしないのに。
ただ 母も妻も 会社が倒産し邸も全財産を失ったことを知らないまま逝ったことは 私に取っての唯一の慰めだ。
「本田さん。入浴の時間ですよ」
と うながされ 私は職員の手で 浴室に連れて行ってもらい 自分で洗える範囲内の部分は自分で洗い 洗い残している部分や背中を 丁寧に洗ってもらう。
その時 毎回 一瞬 私は子供に返り 母の手ぬぐいの感触を思い出し遠い記憶の中に浸っている。
もう3ヵ月だ。このデイ施設に来て。
自分の体の不自由さや 人の世話にならなければ生きて行けない自分を嘆き 過去の自分の栄光を浴びた人生を懐かしがってばかりいて 倒産と同時に裏切り 去っていった者たちへの恨みに浸るのではなく 人の好意を信じて生きてみようかと”武士は食わねど高楊枝”ではなく 意地を張らず素直になって 人に頼るところは頼って生きてみようかと ほんの少しだが思い始めたいる。
今日 私を入浴介助をしてくれた職員の手から 子どもの頃 私の背中を流してくれた母の手ぬぐいを 思い出して私は思ったのだ。
息子も許そうと。
そう長くはない人生だ。
人を悪く思うのではなく 一日でも 自分も回りにも感謝して生きねばならないのではと。その方が 高楊枝を気取り 意地を張って生きるより楽ではないかと。
母は ”いい子いうんは 優しい子じゃけん”いうたたではないか。遠い記憶の中の母が ”極楽 極楽”といっていた母の顔と重なった。母の 痩せた背中を流して 涙した自身を思い出した。
おわり
男組の二人は いつもどおり将棋をさしながら 若い頃の下らん遊びに呆けたことを 自慢げに話をしている。他の一人は もう本当に惚けているのか 一日中 あらぬほうを見つめているだけだ。もう一人は 体調が悪いのか 一日中 ベットで横になっている。女組は 全体ににぎやかで元気だ。やかましいくらいだ。
みんな しょぼくれた服を着て しょうもない話に しかもレコードのように同じ話を繰り返して・・・ イヤだ! イヤだ! 私は まだ80歳前なのに。
働いて働いて 会社を大きくし家を作り 家族を守り 頑張って頑張って生きてきたのだ。ココにいるようなちんたらちんたら生きてきたヤツらと違うのだ。
たまらない。情けない。風呂でさえ 人の手を借りなければならない体になってしまうなんて考えもしなかった。
たまらない。腹が立つ。何の心配もないはずだった老後を 馬鹿息子に破滅させられた。最終的には 夫婦で 共に苦労した妻と共に邸を売り 温泉付きの有料老人ホームに入る予定にしていたのに。妻が先立ち 邸を失い コツコツとためていた預金の大部分は 息子の不始末で路頭に迷わせて仕舞った従業員への退職金に使ってしまった。
こうして このデイ施設にきて 週二回通い過ごす時間の大半を 私は ”遠い記憶”を 思い出している。
子どもの頃は 貧しかった。中学を卒業するとすぐ 近くの工場に働きに出て 運転免許証を手に入れると 友人と二人で 小さな運送会社を始めたのだ。
少し お金が貯まると その一部で苦労していた母を 年に2回ほど近くの温泉場に連れて行ったものだ。
そのたび 母は”極楽・・・ 極楽・・・”といい 温泉の湯に赤らんだ顔を ほころばしたものだった。その言葉で 私は エネルギーを貰い 辛い仕事にも耐えられたと思っている。
母は 貧しさの中で もちろん内湯など無く 本家の貰い風呂で 本家全員が入った後の 垢の浮いた風呂の流し場で 私の背中を洗いながら
「ワシの宝物じゃけん。誠は。ええ子になりや。ええ子いうんは 優しい子いうことじゃけんな」
といったものだった。
母の 手ぬぐいの感触が まだ 私の背中に残っている。母は 私が会社を大きくし 檜の家を新築し 広い檜の風呂に 大病をしてやせ細った母を入れ 背中を流してやったとき 号泣した。
「幸せや。幸せや。ほんとに誠は ええ子じゃった。母ちゃんは 幸せじゃ」
と いった。母の背中を流している私のほうが 何倍も幸せだと思ったものだ。 私も 母の細い体を洗いながら 涙を流した。このときのために 私は 時とすれば寝もやらず 仕事に頑張ってきたのだ。
その母も その家に2年も住まないまま逝き 私を支えてくれた妻も 程なく逝ってしまい 馬鹿息子は会社をつぶし 私は 今 ここにいる。
会社が潰れたとき 今まで 私に親しんでくれていたもの 近づいてきてチヤホヤしていたものが 潮の引くようにという言葉があるが それこそ ”見事”というほどの勢いで去っていった。かなりの苦境を救ってやったものでさえ。
それは 私の心を壊した。会社倒産の飛まつを浴びないようにという自己本能だろう。飛まつなど浴びせはしないのに。
ただ 母も妻も 会社が倒産し邸も全財産を失ったことを知らないまま逝ったことは 私に取っての唯一の慰めだ。
「本田さん。入浴の時間ですよ」
と うながされ 私は職員の手で 浴室に連れて行ってもらい 自分で洗える範囲内の部分は自分で洗い 洗い残している部分や背中を 丁寧に洗ってもらう。
その時 毎回 一瞬 私は子供に返り 母の手ぬぐいの感触を思い出し遠い記憶の中に浸っている。
もう3ヵ月だ。このデイ施設に来て。
自分の体の不自由さや 人の世話にならなければ生きて行けない自分を嘆き 過去の自分の栄光を浴びた人生を懐かしがってばかりいて 倒産と同時に裏切り 去っていった者たちへの恨みに浸るのではなく 人の好意を信じて生きてみようかと”武士は食わねど高楊枝”ではなく 意地を張らず素直になって 人に頼るところは頼って生きてみようかと ほんの少しだが思い始めたいる。
今日 私を入浴介助をしてくれた職員の手から 子どもの頃 私の背中を流してくれた母の手ぬぐいを 思い出して私は思ったのだ。
息子も許そうと。
そう長くはない人生だ。
人を悪く思うのではなく 一日でも 自分も回りにも感謝して生きねばならないのではと。その方が 高楊枝を気取り 意地を張って生きるより楽ではないかと。
母は ”いい子いうんは 優しい子じゃけん”いうたたではないか。遠い記憶の中の母が ”極楽 極楽”といっていた母の顔と重なった。母の 痩せた背中を流して 涙した自身を思い出した。
おわり