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FPと文学・エッセイ 〜是れ日々なり〜

ライフプラン、資産設計のほか、文学・社会・芸術・文化など気まぐれに日々、FPがつづるエッセイ。

そこにいる「アイドルを探せ」 ― シルヴィ・ヴァルタン

2011-08-17 19:31:53 | 芸能・映画・文化・スポーツ

小説でも、ある一節、ある言葉、ある事柄、ある感触から、一瞬のうちに忘れかけられていた記憶が意識の底から引き上げられて、かつてその時抱いていた感情が一気に吹き上げてくるということがあります。そしてそのことが、至上の歓びであり、人の生きてきた感情に特別の意味を持ったりします。幼少のことであり、青春の多感な時であり、それは人さまざまです。フランスの作家プルーストは、そのことを長大な小説に書きました(『失われた時を求めて』)。プルーストにとって、記憶と意識の関係は自分の全生涯と同じくらい重大なことだったのです。

 

映画や音楽なら、なおのことそういうことがあるのかもしれません。忘れていた音楽の一節を聴いたことによって、なぜか知らぬ哀切が襲って来たりして、一人感動することがあります。

 

シルヴィ・ヴァルタン Sylvie Vartan)の「アイドルを探せ」―。原題はLa plus belle pour aller danser。意味は、「踊りに行くのに一番の美人」。彼女が20歳の時の大ヒット作で、今も日本のドラマやCMで流れるくらいですから、知っている人が多いでしょう。

 

私はこの曲を何度も聴いたわけではなく、自分で当時レコードを買ったわけではありません。テレビの歌謡番組で1回か2回くらいは聴いた程度でしょう。もしかしたら、友だちの家へ行ってレコードがかかっていたのを聴いたのかもしれません。それが昨日、たまたまちょっとしたショーでシルヴィのこの曲の一節を聴いてしまい、突然こみ上げてくるものがありました。歌も声も、もちろんすばらしい。当時の彼女の美しさも記憶にあります。でも、私が感動したのは、その歌から導かれてきた青春のさまざまな感情だったのでしょう。

 

恋をし、友と語らい、親や兄弟への複雑な思い、未来への見えない不安、友や家族がいても言い知れぬ孤独感 ― 。異性との関わりが、自分という全存在を取り巻いていくような、楽しくもあり、つらくもあり・・・。そうした、もろもろの情感をまとめてくるめて引きずり出すひとつの曲、それが「アイドルを探せ」。ちょうど青春の真ん中にいて、そしてその時、ちょうどシルヴィの歌がそこにいた。僕の青春の真ん中に君がいたように・・・。(偶然にも今日はシルヴィ・ヴァルタンの誕生日です。)

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※あとで記憶をたどったら、「アイドルを探せ」ではなく、同じ大ヒット作「あなたのとりこ」Irrésistiblement (1968年)23歳でした。

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刑事コロンボ ~ ピーター・フォークのはまり役

2011-07-16 16:10:46 | 芸能・映画・文化・スポーツ

 

『刑事コロンボ』のピーター・フォークが亡くなった。

コロンボ・シリーズがなくても、ピーター・フォークは渋い役柄で独特の演技をし、主役というより主役級の脇役で有名になっていたでしょう。

 

『刑事コロンボ』は、決定的な出会いでした。これほどのはまり役はなかったようです。よく、いい作品に出会ったおかげで成功したと、俳優も世間も言います。いい作品に出会ったところで、ダメな俳優はダメで、作品も自分も生かせずに落ちぶれていくものです。

 

あの、よれよれのレインコート、安葉巻、ぼさぼさの髪、ポンコツ車(あれは警察署所有の車ではなく、マイカーのようです。自分の費用で修理したりしていますから)、「うちのカミさんが・・・」、「最後に一つだけいいですか~」、これらはフォーク氏自身が思いついたキャラクターだそうです。やはり、作品と俳優のキャラクターがマッチしなければ、名作シリーズは生まれないものです。

 

最初に犯行があって、犯人が先に割れてしまう。ミステリーでこういう手法があるのかと、最初はちょっと驚きでした。そこから、じわじわとホシを詰めていく知恵の攻防、これが私たちをひきつけるのです。この手法は、ミステリー小説では「倒叙」といい、決して『コロンボ』が初めてではありません。しかし、これを定番としたのはこのシリーズです。

 

それにしても、犯人たちの図太さは、ある意味見習うところがあります。会社社長、政治家、弁護士、作家、技術者、俳優、ジャーナリスト、芸術家、マジシャン、エリートビジネスマンなど、社会的地位の高い人間が犯人ですが、犯行が暴かれても、彼らは泣きついたり、わめいたりしません。「まあ、仕方ない、バレてしまったものは」、などと淡々とし、それまでの強がりを決して崩しません。牢獄から出た後も、実力で必ずはい上げってくるまでさ、という強み、その生命力のすごみを感じます。コロンボの方が犯人に無駄な同情をしたりしてしまうくらい、犯人たちは傲然としているのです。人生ではそんな強さを見習うべきか、見習ってはいけないのか、錯覚に陥ってしまいます。

 

ところで、先に犯行が暴かれる定番手法と言いましたが、私の見た限り、唯一、異色の作品がありました。『さらば提督』。ご存じ、知っている人は知っているでしょう、人気番組『0011 ナポレオン・ソロ』のロバート・ボーンがゲスト犯人役になった話です。定番では、当然ロバート・ボーン役が最初に犯行にかかわっていて、犯行を隠ぺいするのですが、その彼が途中で殺害されてしまうのです。しかも、最初の殺人は、彼の犯行ではありえない事実が出てきます。では、真の犯人は?・・・これが、最後の最後まで分かりません。ご興味ある方は、DVDをご覧ください。

 

いやはや、よれよれコートで安葉巻、ポンコツ車の安月給刑事は、このシリーズのおかげでハリウッドでも大邸宅を構える大富豪になったといいますから、人生なんてわかりません。『コロンボ』がなければ、ピーター・フォークは並みの俳優で終わったか、いや彼ほどのアクの強い演技派なら、ほかの作品での超はまり役のシリーズをつくり出したか・・・。まるで、話の中の殺人犯たちのようにその図太さを感じ取れそうです。

 

 

 


クレオパトラとエリザベス・テーラー ~ 絶世の美女 

2011-04-17 19:06:29 | 芸能・映画・文化・スポーツ

 

 

世界一の美女とは誰か? 

 

― 小説の中では、「彼女は世界一の美女である」と書けば、それが世界一の美女なのである。

と、三島由紀夫は『文章読本』で書いている。

 

小学校1,2年の頃、「世界一の美女」といえば、エリザベス・テーラーと聞かされたことがある。その時は、イギリス王国のエリザベス女王と区別がつかなかった。

 

女優エリザベス・テーラーが先月(323日)亡くなった。79歳。晩年の彼女には世間もそうだが、私自身もそれほど関心がなかった。考えてみると、彼女の映画も観たことがない。「世界一の美女」ということで、ネットで若い頃の写真をいくつか見ると、やはりそれは、すごい美貌である。数いる海外の美人女優の中でも、とび抜けている。

 

どんなに美女と言われている人でも、たいてい、その容貌にあいにくのささやかな‘瑕疵(きず)’というものがある。といっても、凡庸な顔の女優に比べれば、欠点というほどの欠点ではなく、その美女らしい愛嬌や可愛らしさ、あるいは親しみやすさというものでしかない。

 

たとえば、少し目が釣り上がってきつめとか、逆に目じりがちょっとだけタレ気味とか、唇が厚め、鼻がやや上向き・・・、など。しかし、そういうのが強い個性であり、魅力となっている。

 

― 彼女は世界でいちばんの美女である。

と、小説で書かれても、イメージがわかないし、どうも親近感が出てこない。いっそ、

― 彼女は、一目でハッとさせるほどの美しさをもっていた。しかし、澄んだ大きな瞳のわりに両目じりがやや上向きのため少しきつい性格を思わせるのか、初めて会う男たちを一瞬逡巡させるところが欠点といえば欠点といえた。

 などと書いてくれたほうが、完璧な美人ではないにしろ相当な美女で、ああ、誰もがその魅力に取りつかれてしまうのだなと思う。

 

ところで、その‘瑕疵’というか‘欠点’がない、「完璧な美女」がエリザベス・テーラーなのだと言われていた。この機会に彼女の代表作とまではいかないが、話題作であった『クレオパトラ』を観てみた。1963年の大作で、現在の価値で3億ドル(当時4400万ドル)以上かけた大スぺクタルである。DVD2枚で4時間半。普通の映画の3本分。劇作でもシェイクスピアの『ジュリアス・シーザー』と『アントニーとクレオパトラ』の2作分ある。

 

長さはともかく、壮大な歴史的場面とクレオパトラ(エリザベス・テーラー)の美しさ、実在の英雄(ジュリアス・シーザー、マーク・アントニー)の描写などを楽しめば、それはそれで飽きずに済む映画である。

 

意外に思ったのは、エリザベス・テーラーは、その欠点のない、「完璧な美女」であるにしても、最近多いハリウッド女優の美脚プロポーション型女優ではないということである。身長1メートル57というと、日本の女優と変わらない。むしろ、今では日本の平均的な女優よりも小さいくらいだ。彼女の全盛時代にさかのぼっても、それほどスタイルが抜群とはいえなかったようだ(映画では、ほとんどそれを感じさせない)。

 

「絶世の美女」(クレオパトラへの賞賛とかぶってしまうが)と言われるからには、その美貌もさることながら、肉体的な美しさにも言われなければならないと、自分では勝手に思っている。その点は、エリザベス・テーラーにしては、あえて「欠点」といってしまえばそうなのか。そうなると、やはり、「完璧な美女」はいないものなのか。

 

― 彼女は完璧な美女である。

と、小説作品で書いてしまえば、それが「絶世の美女」となるのである。

 

 


驕れるセ・リーグ - 震災後のナイター

2011-03-28 00:27:15 | 芸能・映画・文化・スポーツ

プロ野球セ・リーグがパ・リーグと歩調を合わせて、ようやく4月12日に開幕することが決定しました。

これは、まったく正しい判断だと思います。セ・リーグの選手会もまっとうな主張だったと思います。セ・リーグは、渡辺読売巨人軍会長(役職は正しく思い出せません)が、当初、「言いたい奴には言わせとけ! パ・リーグはパリーグ、セ・リーグはセ・リーグだ」と、あのベランメイ調で言ってました(石原都知事にしろ、渡辺会長にしろ、電波に流れる言葉が汚く、いつも不快です。権力と自信を持ちすぎると、ああいう口のきき方になるのでしょうか)。

それを受けて、セ・リーグの加藤コミッショナーが、「批判を甘んじて受けるうえで、セ・リーグは3月25日に、先行して開幕する」と断固とした言い方で宣言していました。こういう時こそ、被災地の復興を元気づけるためだと。どうも違うような気がします。確かに、戦後の復興期に国民を元気づけるために野球開催が再開されたと聞きます。しかし、今回はまだそういう段階ではないでしょう。被災状況の深刻さが日ごとに増していくときに、いまだ被害の実態が把握しきれていない、死者もまだ増えている状況で、本当に今、ナイターを見たい人がいるのか。

被災地のみならず、被害の少なかった東京でも企業は電力の節約を行っており、都民も計画停電で被災地ほどではないにしろ、不便を我慢しています。莫大な電力を使ってまでナイターを行う必然性があるのでしょうか。

高校野球は開幕しました。彼らはこの1年間(夏の大会からは半年間)、甲子園を目指して頑張って練習してきました。もちろん、甲子園大会も中止しろという意見もあったようです。しかし、これは違うでしょう。どこが違うのだと言われれば、違うと言うしかありません。プロ野球は、興業なのです。甲子園は、被災した地元球児も被災地を代表して全力を出すために出場するのです。しかも、彼らの多くは一生で一度、その土に足を踏みしめるために来るのです。出る側も見る側も、興業とは違います。

歌手加藤ジョージが地元の被災地、仙台に見舞いに訪れました。当初は、家族親類の無事を確かめ、地元避難民の人たちを励まそうとギターを持ち込んで歌を聴かせようと思ったとのことです。ところが、避難所を訪れて、そういう考えが甘いことを知りました。そのような段階に、まだ被災者の心がいってないのです。歌で元気づけるというのは、寝る所、食べるもの、飲むもの、電気・ガス・水道がある程度復旧し始めてからでしょう。テレビ映像は、まさしくそれを物語っています。

電気が十分いきわたっていないところにあって、こうこうと莫大な電力を使って、何の励ましになるでしょう。誰もがプロ野球ファンではないでしょう。年寄りや、おさな子は、野球にそれほど関心はないでしょう。

最終的に開催を遅らせましたが、それも担当大臣に苦言されてから決めたというのですから、セ・リーグの横暴に怒りに近いものを感じ、呆れたりもしています。

 

 

 


ああ、元禄サラリーマン浅野内匠頭 ― 忠臣蔵と上野介 

2010-12-30 17:48:04 | 芸能・映画・文化・スポーツ
この時期になると、必ず出てくる「忠臣蔵」。品を変え、筋を変え、視点を変え、もちろん役者を変えて、元禄の頃から300年も続いてきた人情話。

松の廊下の刃傷と吉良邸への討ち入り、あまりにも有名すぎて今さら書くまでもありません。史実をもとにしているとはいえ、日本人の心情に合わせ、だいぶ作られているところがあると言われています。まあ、それは先刻承知。今年話題となった坂本龍馬像も、ずいぶん史実とは違うそうですから、そんなことはどうでもよく、私たちはドラマになったものを見て楽しむだけです。

忠臣蔵―。あれは、筋がわかっていても面白いもので、つい見てしまいます。やはり日本人の心にフィットするのでしょう。先日のテレビドラマ、田村正和の大石忠臣蔵もつい見てしまいました。ちょっと大石が老けて声がかすれているのが気になりましたが、最近やたら激情型(大げさに泣いたり喚いたり怒鳴ったり)の劇が多い中、感情を押し殺した田村と北大路(立花左近)が対峙した場面は、短時間ながらさすがぐっとくるものがありました。

ここで書きたかったのは、そういうこともさることながら、いつも忠臣蔵のドラマを見ていて違和感を感じていることです。それは、「吉良はそんなに悪い奴だったのか?」ということです。「浅野は、そこまで善玉だったのか?」という素朴な疑問です。こんなこと書くと、忠臣蔵ファンから大目玉をくらいそうですが、確かに吉良は嫌われ者像で、浅野は好かれ者像です(そういう風に描かれていますから)。

しかし、サラリーマンなら誰でも実感しているでしょうが、吉良のような上司はいくらでもいます。自分の立場に執心して、自分の功績のためには不適格な部下はいじめ、罵倒し、嫌がらせする。でも、そんな輩、あなたの周りにひとりやふたり、いるでしょう。上司なんてそんなものです。上司どころか、ワンマン社長ならもっとひどいものです。上司なら嫌われても我慢すればいいのですが、ワンマンオーナーだと、嫌われたらすぐクビですからね。労働基準法がどうの法律がどうの・・・なんて関係ありません(裁判をおこせば勝てますが、膨大な費用と時間とエネルギーを要し、挙句は居づらくなって辞めることに)。

そういう上司や社長の下で、じっと我慢するのも、人間としてある意味「誇り」なのだと思わなければならないことがよくあります。つまり、我が身だけでなく家族を守るためには、自分にプライドがなければ耐えることができないということです。自分が一時的に、積年(?)の恨みを晴らすため、ドカンと我慢を爆発させた時(それはそれなりに、ずいぶんすっきりするでしょうね)、上司を怒鳴り散らした瞬間、即刻自分も家族も今の職(食)を失うことになります。

まして一国の城主なら、自分の腹を切るだけでなく、一家断絶、領地没収、家来家族を含め数百人が路頭に迷うわけです。若い内匠頭(たくみのかみ)でも、それをわかっていなかったはずは、もちろんありません。しかし、ここはなんとか元禄サラリーマンに徹して、耐えてうまく取り入ることはできなかったかと思うと、身につまされます(似たような実体験を私は周りで見ていますから)。浅野は、真面目で実直ではあるが、どうやら短気で癇癪持ちであったという記録もあるようです。

上野介(こうずけのすけ)は確かに悪玉ですが、あんなのはどこの会社にもいます。家来数百人を犠牲にしてまでまともに相手にするほどの大悪玉ではありません(吉良を擁護するわけではないのです)。浅野は、確かに善玉ですけれど、もう少し我慢するか、小悪玉を手に取って操るようなマネジメント力を身に着けるか、味方のネットワークを作るかなどできなかったろうかと考えてしまいます。城下での経験が浅い藩主、世渡りがうまい出世タイプではなかったのかもしれません。

こうは書いても、私もそして多くのサラリーマンも、結局、浅野と吉良の関係なのです。屈辱と我慢、こうして耐えるのも、一つのプライドなのだと思わなければやっていられないことがたくさんあります。だからこそ腹いせに、元禄ドラマの中で浅野や大石、四十七士になりきり、吉良をやっつけることに快感を覚えるのでしょう。

日本人の心をつかんでしまった忠臣蔵、これはこれでずっと続くのでしょう。

「見得」が切れない海老蔵 ― 歌舞伎「助六」 

2010-12-19 19:33:17 | 芸能・映画・文化・スポーツ
『助六所縁江戸櫻』

海老蔵の事故(事件?)が起きるちょっと前に、NHK教育テレビで、歌舞伎座改築前の最後の歌舞伎(録画)を見ました。

歌舞伎はそれほど詳しくなく、ほとんど見ません。この夜は、たまたまつけたチャンネルで、3時間近く通しで夜中に見てしまいました。歌舞伎18番の『助六』です。通の人なら、これがたいした一番だとすぐわかるでしょうけど、私は筋すら知りません。もともと歌舞伎は、筋があってもよくわからないし、役者の動きも緩慢、喋っていることも聞き取れないしで、日本人の私ですらこうですから、外国人の人はさぞ退屈だろうなあ、というのがこれまでの実感でした。

この日の『助六』では、ちゃんと「事故」前の海老蔵がそれらしく舞台で前口上をやっていました。助六を父親の団十郎、花魁の揚巻を玉三郎、助六の兄を菊五郎、通人を勘三郎と豪華メンバー。その役者だけ見ていても、ちっとも飽きが来ないのは我ながら不思議でした。これまではどうも、下手なドラマを見るように筋ばかりを追って見ようとしていたからでしょう。小説でも、つまらない小説はやたら筋が動き回っているし、テレビでもへたくそな役者ほど喚いたり泣いたりしています。

歌舞伎は、確かに喋っている役者以外は、動作がありません。止まっています。動きも、京劇のような激しさ、アクロバットのようなところ、だれでもぱっと見てぱっとわかるところがあるわけではありません。しかし、よくよく私がひきつけられるようになったのは、団十郎助六の、形式美としての動きです。歌舞伎自体が、様式美、形式美を楽しむことだと悟ったわけです。たとえば、台詞を言っている役者以外の、黙って止まっている役者の表情を見ているだけでも面白い(と言っても、止まっているので表情の変化はありませんが、今この役者は何を考えて次の台詞を待っているのだろう、など)。

まあまあ、団十郎にしても菊五郎にしても、勘三郎もまた、それなりに楽しめました。歌舞伎と言えば、「大見得を切る」ところ。たいした役者ほど、間(ま)が持てる、間がうまい。形になる。

・・・、だけど時々CMや紹介番組などでやる歌舞伎界のプリンス(ともてはやされている)海老蔵のせりふ回しや「見得」は、素人の私が見ても、ヘタ。間が持てない。歯切れが悪い。形に美がない。前々からそれは感じていましたが、この役者がプリンスとして歌舞伎界を本当に引っ張っていくのだろうかと思うと、ずっとがっかりしていました。そこへきて、今回の問題です。へたな「見栄を張る」のではなく、ちゃんとした「見得が切れる」ように、この際、謹慎中にしっかり修行をしてほしいものです。

坂本龍馬は何をしたか ー 「龍馬伝」

2010-12-05 01:19:09 | 芸能・映画・文化・スポーツ
毎週見ていたNHK大河ドラマ「龍馬伝」が終わった。

福山龍馬は少しかっこよすぎて、どうも違うなという感じがしたし、香川弥太郎も一大財閥を築いた人物のわりには、最初から最後まで激情(劇場?)っぽく、やたら泣いたり喚いたり、怒鳴ったりしていた。武田麟太郎は最後まで金八麟太郎だったし、それはそれでドラマとしてはいまどき風なのかもしれない。

龍馬たちの年代(30代前後)の若者たちが、あのドラマのようにやたら感情をむき出していたとは思わない。まして幕府転覆(クーデター)がテーマであれば、若者たちのたぎる感情は、むしろ重苦しく抑えられていたかもしれない。もちろん、世界を変えるという目的で彼らの血は溢れ爆発することもあったろうけれど。

ドラマとして見ると、これはやはり脚本のせいであろう。重苦しく静かに描いていたのでは、1年間、視聴率がもたないのは分かっている。そこは青春ドラマ風に、毎回完結話的にしかも所々で盛り上げなければならない。ということで、毎回、龍馬や弥太郎や慶喜や西郷どんまで小者ぶりに叫んではいたのだ、・・・と思う。

ここまではドラマ評。ところで、坂本龍馬という男は何をしたのだろうか。司馬遼太郎が『竜馬がゆく』で描くまでは、坂本龍馬はそれほど世に知られていなかったという。歴史でも、西郷や木戸や大久保、板垣、博文、陸奥、容堂や象二郎など明治維新に関わった人物は名が残っているが、龍馬の名は、もしかしたら歴史に埋もれてしまっていたかもしれない。ドラマでは表舞台に立っているが、歴史では必ずしも表舞台に立っていない。

薩長同盟、薩土盟約、大政奉還にしろ、表舞台で名が残っているのは龍馬ではない。新政府綱領八策では明治の新政府役人候補に龍馬と一緒に活躍した薩長土の面々の名は連ねてあったが、龍馬は自らの名を外したと言われている。

龍馬の性格上、役人の気質には合わなかっただろうことは想像できる。結局、坂本龍馬という男は、表舞台のための裏舞台を作った男、日本というシナリオを作った男なのだ。そういう人物は、本来、歴史には出てこない。言ってみれば、龍馬の名が知れたのも司馬遼太郎さま様である。シナリオをつくり、人を動かし、世の中を変える。これは、本来政治家の仕事である(だから、「我こそは平成の坂本龍馬である」などと大勘違いするバカな政治家が出てくるのだが)。しかし、龍馬は、政治家そのものにもあまり関心がなかった。彼は、おそらく弥太郎とは違った実業家になっただろうと思う。岩崎弥太郎は、一代で大財閥を築いたが、龍馬はもっと違った意味の経営者、たとえば今でいうビル・ゲイツのような起業家だろうか。財閥を築くというより、世の中の価値を変えてしまうという実業家。

とにかく、明治政府ができる前に息絶えたということは、ひとまずそこで坂本龍馬の役目を天が終わらせたということだったのだ。

もう一つ、興味深いのは亀山社中、のちの海援隊である。いつも龍馬を見ていて、決して楽な生活をしているようには見えないが、何して食っていたのだろう、ということだ。土佐の兄から仕送りがあったというが、そうそういつまでもあったか、あったにしてもそれで足りていたのか。その疑問を解くのが、亀山社中である。

これは、商社である。もとは、黒船に対抗した勝麟太郎の海軍養成塾だったが、その航海術を生かして明らかに商社の役目を果たした。坂本龍馬たちの食いっぷちは、ここからちゃんと出ていたのだ。亀山社中は日本最初の会社(もどき)と言われているもので、龍馬はいわば代表取締役社長といったところだろう。これでも、龍馬が実業家向きであることがわかる。新しい世の中になったら、この商船会社で世界を舞台にビジネスを始めたろうし、龍馬自身それを望んでいた。

しかし歴史は、坂本龍馬の役目を明治維新の前夜で終わらせた。

白鵬とイチローの記録 ~ スポーツで前から気になること   

2010-10-16 18:01:37 | 芸能・映画・文化・スポーツ

前からしっくりこないことがあります。

一つは、相撲。角界に覆いかぶさっている黒い問題ではありません。白鵬の連勝記録です。先の場所で、白鵬は4場所連続の全勝優勝を遂げました。そしてなお62連勝中。日本人力士がふがいないと言えばふがいない。だからと言って、異国出身の横綱を讃えないなどとは言いません。大いに賞賛に値します。

しっくりこないのは、双葉山の連勝記録69を超えるかどうかというマスコミの焚き方です。私は、白鵬のことをアスリート(この言葉もどうもすっきりしないので格闘家としたい)として素晴らしいと思います。悪童の朝青龍も格闘家としてみれば好きな方でした。ただ、心・技・体どれをとっても白鵬のほうが上でしょう。その白鵬になんらケチをつけるつもりはありません。でも、双葉山の連勝記録を超えるか超えないかということになると、話は別です。

双葉山の相撲を、私はナマでみたことはありません。時折、何かで紹介される映像を見てきただけです。書物で読んだわけでもありません。紹介されるたび、すごい力士、神格化された横綱をイメージしてきました。その双葉山の連勝記録が来場所にも破られることに不快感を抱いているということでも、もちろんありません。私の心に引っかかっているわだかまりというのは「条件が違うのでは?」ということ、それこそ「土俵が違う」のです。

双葉山の時代は、年2場所です。1年間無敗を誇ったとしても、22勝です(1場所11日、のち13日、15日制となった)。69連勝を成し遂げるには3年以上ものあいだ無敗でいて、その間ずっと、心・技・体を高いレベルで維持していなければならない。格闘家が3年間も無敗を維持し続けることがどれだけ大変な偉業か。格闘家に限らず、アスリートの寿命、賞味価値というのは、1年でみても消耗・衰退が激しいということを言いたいのです。格闘の世界選手権で連覇することがいかに難しいかを考えればわかります。

現在の大相撲は年6場所、1年間休場なしで90番。これはこれで、大変なことです。それでも絶頂にいるときは、その1年で一気に連勝記録を稼ぐことが可能です。大鵬、千代の富士、朝青龍、そして白鵬がそうです。しかし、年22勝(2場所)までとなると、3年間も無敗でいる――。双葉山が神格化されるのも頷けます。

話を戻すと、このように条件が違う「土俵」で、連勝記録を超える(「超えた」という文字が来場所見られるかもしれません)というのも、「ちがうんだけどな~」と思いたくなります。数字の上では確かに新記録なのですが・・・。白鵬は嫌いではないし、完成された大横綱になると思いますが、多くの相撲関係者やファンは、68連勝あたりで負けてくれるといいのだが・・・、と思っているのではないでしょうか。でも、今の力士の中で、まともにやって白鵬に勝てる力士がいないのも事実で、なんとも情けないというか、さびしいものです。

もう一つは、野球。阪神の外人選手マートンが来日1年目で214安打、オリックス時代のイチローの210安打を超えて新記録だとか。これも、「なんだかなあ~」と思ってしまいます。マートンはさすが大リーグから来たおとなです、「試合数が違うし」と冷めていました。そう、イチローの時は130試合、今年は144試合。今年はマートン含め3人も200安打突破だとマスコミは騒いでいますが、これも「試合数が違うじゃん」、としっくりこないわけです。

ついでに言うと、イチローが記録を立てるたびに「日米通算」と書きき立てていますが、これももうみっともないからやめた方がいいです。大リーグへ行ったら大リーグだけでの数字が大事なのです(イチローもそれをめざしているはず)。元大リーガーが日本のプロ野球に来て、「米日通算」500本塁打とか、「米日通算」2000本安打などと言わないでしょう。本人も何のことだかきょとんとしますし、そんなこと言われても恥ずかしいだけでしょう(実際、日本の記者もその辺は分かっているので、外人選手については書きません)。日本球界を引退した日本人選手が韓国や台湾球界に行って素晴らしい記録を残したとしても、「日韓通算200勝」とか「日台通算2000本安打」など聞いたことがありません。


ゴルゴ13シリーズの最高傑作 ~ おぞましき血の謎「芹沢家殺人事件」  

2010-09-19 16:34:33 | 芸能・映画・文化・スポーツ

コミックはあまり読まないほうですが、今でも読み続けているものがあります。

一つは「島耕作」。
「島耕作」シリーズは、「課長」時代が傑作で、サラリーマンとしての自分と重ね合わせて、仕事のやり方や上司との付き合い、女性の扱い方(?)などを、これを教科書として楽しみながら学んだものです。ただ、島耕作が出世していくにつれ(今では日本を代表する大会社の社長)、だんだん自分との距離が広がりすぎて、ちょっと現実感がなくなっていき、少し興味が薄れてきているのも事実です。

もう一つは「ゴルゴ13」。
「ゴルゴ13」といえば、こちらも若い時代の一人の殺し屋から今では国際舞台で政治を動かすほどの超一流スナイパー(狙撃者)へと出世(?)し、かなりかけ離れた存在となっています。しかし、ゴルゴが超大物に出世すればするほど、このシリーズ作品は逆に現実感が優ってきて、イマージネーションが高まり、読むほうの創造力を刺激してくれます。

最近、「ゴルゴ13」の通算100巻メモリアル号(My First Big 小学館)としてこれまでの傑作(主に1970代~1980年代の作品)が一冊となって出たので、読んでみました。数ある傑作の中で、多くのファンが傑作とするものに「芹沢家殺人事件」があります。私も、これは超傑作だと思います。1975年の作品ですが、最初に読んで以来、時々あのおぞましい光景が脳裏から蘇ってきます。

この作品は、作者(といっても、原作者のさいとう・たかを氏以外に、分業制でシナリオ専門のライターがいるそうですから、本当は誰の原作かはわかりません)が特別に思い入れた、一世一代のシナリオだと思います。ゴルゴが誰なのか、誰がゴルゴなのかを、渾身の筆で作者が描いたのが伝わってきます。ゴルゴの正体の謎を扱った作品はいくつかありますが、作者(さいとう氏?)は、シリーズの途中で、ゴルゴを今後永く作品で生かしておくためには、いったんケリをつけるために、ここでゴルゴの正体を明かしておく必要があったのかもしれません。もっとも、「芹沢家殺人事件」はゴルゴ13の本当の正体を極限まで突きつめておきながら、最終的には明かしていません。

「芹沢家殺人事件」― 。昭和20年代に起きた一家5人惨殺事件、家族殺害の犯人と思われる5歳の少年・芹沢五郎(ゴルゴ?)が成人した後、ただひとり生き残った姉を、自分の正体を知る最後の証人ゆえ抹殺する・・・(読んでいない人のために殺人の方法は書きません)。その時から芹沢五郎はゴルゴ13になるべく十字架を背負う宿命となる。まるで、実際に起こった凄惨な殺人事件のような現実感をもって迫ってくる作品です。

この作品の頃から、ゴルゴは実際の政治・経済の国際舞台で現実世界と交錯し、現存するスナイパーとして国家や軍の依頼により政府要人や組織大物らを狙撃していきます。表舞台に見えない闇舞台で現実に存在し、裏の世界より歴史を変えていきます。

「芹沢家殺人事件」は、横溝正史の小説にあるような殺人ミステリーと、一族の歴史に秘められた謎、おぞましき血の連鎖、ゴルゴ13という超人が誕生するまでの種明かしを絡めた傑作です。あのゴルゴ独特の風貌と醸し出す雰囲気は小説という言語世界では表現しきれませんし、ましてゴルゴという超存在を実写で演じきれる俳優が存在しないということで映画化も難しいものです(実際、高倉健や千葉真一とか、何人かの俳優が挑んでいますが、どこまで迫りきれたでしょう)。

ゴルゴ13が死ぬ時は、生みの親さいとう・たかを氏が亡くなる時だと思いますが、ゴルゴの死は、さいとう氏の死よりも世界中で大きく報道されることでしょう。現実世界を超越したテロリストの死として。

(村上龍のテレビ番組「カンブリア宮殿」に出演した時、さいとう氏は「すでにゴルゴの最終幕は頭の中にでき上っている」と語っていました。)


またまた「竜馬がゆく」

2010-09-05 01:34:44 | 芸能・映画・文化・スポーツ
龍馬が、またブームらしい。

また、というのは、坂本龍馬は、日本人が好きな歴史上の人物の中でも、つねにトップクラスにいるようで、たびたびドラマにされたり、何人もの作家により書かれている。

ずいぶん昔、やはりNHK大河ドラマでやっていた『竜馬がゆく』(司馬遼太郎・原作)がかすかに記憶に残っている。北大路欣也が坂本竜馬で、千葉道場で修行をしている場面だけが記憶にあるが、あとはほとんど覚えていない(あまり熱心に見ていなかったのかもしれない。ちなみに、司馬遼太郎の場合は「龍馬」ではなく「竜馬」である)。

ずっとあとで、司馬遼太郎の同名小説『竜馬がゆく』を読んだが、小説を読みながら、この場面はドラマだったらどんなふうだろうと思い浮かべたりしたが、後の祭りで、『竜馬がゆく』は当時のテープはほとんど残っていないそうだ。ただ、僕としては、龍馬といえば「北大路」竜馬なのだ。

司馬原作の竜馬は無口でどちらかというと無愛想、風体にはかまわず、大柄でド近眼だがやたら剣の腕がたつ(北辰一刀流の免許皆伝)。出会う女はみな、なぜか竜馬に惚れてしまう(史実の女性がいるので、作り話ばかりではなかろう)。政治感覚に優れていたが、商才にも長けていた。商船の会社(亀山社中)を作り、薩長の懸け橋となった。明治維新後も生きていれば、坂本竜馬は、政治よりも商人(経営者)として名を残しただろうと、作者は書いている。

今は、NHK大河ドラマの『龍馬伝』だ。毎週見ているが、「福山」龍馬、「武田」海舟と、俳優の顔が表に出ている。これは、仕方ない。作者によって、俳優によって、それぞれ解釈している坂本龍馬像がみな、違うから。「福山」龍馬が、やたら喚いたり、叫んだり、泣いたり、笑ったりしていると、「なんか、違うぜよ」と思ってしまう。僕の知っている竜馬は、あくまで無口で、あまり表情を顔に出さない、近眼のせいでいつも眩しそうに眼を細めている、いざとなれば脅しや口説きの決定的な殺し文句を言いたげな口元、それが出会う人間(男も女も)の心を虜にしてしまう。喜怒哀楽がないのではなく、笑うところは豪快に笑う、酒宴などでは騒ぐところは騒ぐ、とメリハリがあったらしい。

まあ、少し調べると、ドラマや小説で描かれている坂本龍馬は、史実とはだいぶ違うらしいことが書いてあったりするが、そこはそこ、一介の下級武士の浪人が、薩摩の西郷と長州の木戸を結びつけるのだから、これはたいしたことだった。今でいえば、失業中の人間が、民主党と自民党の党首同士の手を結びつけることか?(スケールが小さいか? 政界では時々、自分を現代の坂本龍馬だと名乗る人間が出てくるが・・・。)

ちょっと不満なのは、『龍馬伝』の龍馬には、当時の大人物がこの男に魅力を感じ、信頼しきるほどの何かが十分に描き出されていない。これは、脚本家の力量不足か、俳優の演技力の限界か。

それとも、坂本龍馬という人間は、史実に迫らなければ、永遠に本当の姿がわからないものか。