goo blog サービス終了のお知らせ 

雑賀衆・雑賀三緘について

写真付きで日記や趣味を書くならgooブログ

先祖 雑賀衆・雑賀三緘(サンカン)について(十回) :将軍西国落之事・将軍西国落事

2012-01-29 20:56:48 | 調査・報告
今回の事案は「信長公記」には記載はない。其れもそうであろう、足利義昭が織田信長より都から追放され武田信玄亡き
後西国に下向して毛利、吉川、小早川三家に頼るところしかなくなり、その下向のことを記載する必要などないがために
記載されていないのではないか。逆に「後太平記」は足利義昭・毛利側からとらえていると考えると必然的に記載される
こととなる。「中古日本治乱記」は織田信長の家臣として豊臣秀吉が足利義昭の動向を注視することからして記載されて
いると考えられるし、「後太平記」「中古日本治乱記」及び「雑賀家譜」の「信憑性」を確認するためにも必要と考え記載する。
その事案は下記。

・後太平記:将軍西国落之事」(地部巻第41)
・中古日本治乱記:将軍西国落事(巻第55)

◎検証史料 「足利将軍列伝」:桑田忠親 著 秋田書房刊

「槇島城の戦いで敗れた足利義昭は、その後槇島城を出て、山城の枇杷庄を経て、河内の普賢寺に護送され、そこで
謹慎の意を表している。その後義昭は、三好義継の居城である河内の若江に移され、かくして、足利将軍も十五代で、
自然消滅し、室町幕府の行政組織も全く崩れ去った。
その後将軍義昭が京都から西へ落ちてゆくとすれば安芸の毛利輝元を頼るほかになかった。
義昭は、天正元年十月になって河内の若江から和泉の堺に移った。天正二年四月、義昭は堺から紀伊に移った。
堺の浦から舟に乗り、紀伊有田郡の宮崎の浦に到着している。
天正三年(1575年)の二月八日、義昭はまた、毛利の武将吉川元春に御内書を与えた。それによると、義昭が安芸まで
下向しようと、毛利方にたびたび依頼状を出したことが分かる。しかし、毛利氏としては、足利義昭の下向は迷惑だった。
義昭は天正四年(1576年)十月、紀州宮崎の浦から、また舟に乗って、備後の鞆の浦に移った。」

◎検証史料 「流浪将軍足利義昭」: 桑田忠親 著 講談社 刊

「足利将軍義昭一向十数人が、南紀の宮崎の浦から再び舟に乗って、春めいてきた波静かな瀬戸の内海を渡り、備後の
鞆に上陸したのは、天正四年(1576年)の二月八日のことであった。最初に義昭が移った小松寺は、奥野氏の調査による
と、その昔、足利初代将軍尊氏が、北畠顕家、新田義貞らと戦って敗れ、九州地方を遁走する途中で宿泊し、後にまた京都
に攻めのぼるために、捲土重来を誓ったという由緒深い古寺であった。そこを、十五代将軍義昭が、吉例の地として選んだ、
とのことである。」

・後太平記:「将軍西国落之事」

「斯る処に大坂一向門跡顕如上人父子、使者を進せ、某し近年御敵を作すと云へ共、大樹に全く楯突き候には非ず、織田
信長吾宗派を滅すべき企て急りなりきりければ、一揆を相催し候、今は信長逆心の為流落の御分野、痛敷覚え候、自今
以後は味方に馳せ参り、御敵追討の御憤りも休すべき由告げ来る、左あらば片時も急ぎ討立ち給はんと、同日難波に
着かせ給へば御勢僅八百餘騎に過ぎざりけり、一向門跡、船を相促し来つて対顔し、珍肴銘酒を献じ、平伏誓権睦し、
大樹御悦限りなし、誠に西国下向の首途に、昨日敵たる門跡、世の轉變定めなく今日味方加り、一言芳志有難し、さぞ
西戎も予が謀に順ふべしと式代在し、軈て御船に召され、難波の川を漕出し、巨船速かに滄海の波に撑し帆を・・・・
省略・・・・・
元歴の昔には源氏起つて、平家を追落し、天正の今は平ノ信長に追落され、此一ノ谷に漂ふ事、皆是れ全因後果の報なりと、
心細くも思わぬ人ぞなき、大樹敦盛の塚・・・・・・省略・・・・・・

言語道断船路の旅は牛窓の月夜潮に袖るとは八大龍王も忽ち観応やありけん、軈て順風帆に打って、備後ノ鞆の津に
着かせ給いひ、是より上野中務ノ大輔、柳沢監物、两使として、小早川左衛門ノ佐隆景を單に頼ませ給へば、隆景少しも
辞せず御請申され翌日鞆ノ津へ馳せ上り、八木(コメ)三千石、大鷹十連駿馬十匹を献じ、禮儀甚だ篤かりしかば、将軍
悦び給ひ急ぎ對面御座します、・・・・・省略・・・・・

先ず鞆ノ津に城を構へ将軍を移り進せ、吉見大蔵ノ大輔、杉次郎左衛門ノ尉、五千四餘騎にて城の警備とし、村上弾正景廣
、八百餘騎の兵船を浮かべ備中加會岡の關を守らせ、敵の通路を差塞ぎ、上下の船を斬捕、海上警めらる、其外ノ中国四国
の勢悉く圍繞渇仰怠らざれば、将軍も今は安堵の席にぞ坐しける。」

・中古日本治乱記:「将軍西国落事」

「斯テ将軍ハ河内国若江ノ城ニ蟄居在テ越方行末ノ事共思食ツツケテ先非ヲ悔タマヒケル処ニ大坂一向本願寺門跡顕如上人教如
父子ノ方潜ニ使者ヲ進セテ某近年御下知ニ不随ハ御敵對ニ似テ候テ共全ク将軍家ニ奉對楯突候ニハアラス織田信長無道ニテ神道仏
道ヲ不用猥リ我宗流ヲ滅シテ其所知ヲ押領セント企ラレ候間高祖親鸞上人ノ置セ給ヒタル宗門流儀顕如教如如カ時ニ當テ断絶セン( )
ノ悲サニ不得止シテ一揆ヲ・・・・省略・・・・・・・・・・・

若江ヲ忍ヒ出難波ニ着セタマヒケリ是事ヲ傅聞ヘヒ此彼ニ隠レ居タル御家人共馳集リ御勢無程八百余騎ニ成ニケリ顕如教如大ニ悦
舩ニ掉サシ難波ニ来リテ名酒珍肴ヲ奉ル此上バキ西国ニ御下向有テ毛利右馬頭輝元吉川小早川ヲ頼テ中国四国九州ノ勢ヲ
相催シ押テ上洛アルヘシトテ頓テ御舩ニ被召難波川ヲ漕出シ巨舩速ニ棹海之浪帆ハ烈長江・・・・省略・・・・

元歴ノ昔ニハ源平起テ平家ヲ追落シ天正ノ今ハ平氏信長カタメニ源氏義昭卿追落アサレタマヒ此一ノ谷ニ漂セ給フ事是前周後果ノ報
ナラント心細ク思ハヌ人ハナカリカリ将軍家ハ敦盛ノ塚ヲ御覧アルニ石ハ苔蒸テ・・・・・省略・・・・・・・・

言語道断船路ノ旅ハ牛マトノ月ノ夜潮ニ袖湿レントハ其後順風ニ帆ヲ揚備後ノ国鞆ノ津ニ着セ玉ヒ是ヨリ上野中務大輔柳津監物
ヲ兩使トシテ小早川左衛門佐隆景ヲタノマセ玉フニ隆景少モ不辞御請申シ翌日鞆津馳上リ先ハ米三千石大鷹十連駿馬十匹
・・・・省略・・・・・・

先鞆ノ津ニ城ヲカマヘ吉見大蔵大輔杉次郎左衛門尉ニ五千余人ヲ差副テ鞆ノ津ノ警固トシテ村上弾正景廣ハ八百余艘ノ
兵舩ヲ浮メテ備中加會岡ノ関ヲ守ラセ敵ノ通路エオ差塞ぎ上下ノ舩ヲ斬捕被堅海上其外中国四国ノ勢馳参リテ( )礼
シケレハ将軍家モ安堵ノ思ヒヲナシ給ヒケレ・・・省略・・・・・

将軍ハ御運ノ甲斐ナク御座テ終ニ御本意ヲ遂タマハス後ニハ剃髪シ玉ヒ霊陽院殿昌山ト申奉リシハ義昭将軍ノ御事ナリ」


◎検証:

将軍義昭が西国に下向したことを「信長公記」は記していない。信長側からみれば、再三再四戦いを挑んで
来ては、いつもの奥の手で京都御所に急使を遣わし、信長との和平勧告の論旨を下賜されようと図る
(桑田忠親氏)義昭に閉口し、西国に行こうが何処に行こうが気にしていなかったのではないか。
又、信長の日々の行動を記したことからしても、記載されていなくても不思議ではない。

「中古日本治乱記」に記載されているのは、「信長として、将軍義昭を追放して、名実ともに中央の政権
を掌握したものの摂津大坂には石山本願寺や三好の余党らが信長打倒の共同戦線をはっている。又、
東国には武田勝頼、北越には上杉謙信が控えているため、安芸の毛利輝元一族と正面衝突することは、
出来るだけ避けたかった。

そこで信長と毛利一族との間で、この危機を無事に乗切るため和平交渉が行われた。その時の交渉の
使者が、信長方が木下秀吉と朝山日乗と毛利方の安国寺恵慶瓊であったとの事(桑田忠親)。これから
して将軍義昭と毛利家の動向を木下秀吉が注視していたのではないか。そのために「中古日本治乱記」の
作者の山中長俊は秀吉とともに行動し、その詳細を熟知していたからこそ記載したのではないか。

将軍義昭は「槇島城の戦い」に敗れ、若江城にそこから堺に移り、更にそこから紀伊の宮崎の浦へそして
最後の地となる備後の鞆に移った。
義昭とすれば幾度となく備後の国に下向して毛利輝元の協力を得る算段を試みたが、ここにようやく実現
し、信長包囲網を再度構築して信長を討ち倒し、京都へ上洛し二条城に将軍として復帰することが出来るのか。
その夢が実現に一歩前進したと考えたのではないか。

毛利一族としても、将軍義昭が鞆に来てしまった以上どうすることも出来ず、取敢えず敬意を表して献上品
を差上げ、身辺警固のため部下を配置する気配りをしている。その内容は「後太平記」「中古日本治乱記」も
内容に差はなく検証史料と比べても信憑性はある。
ただ、「中古日本治乱記」には戦いに敗れ、この地から再度上洛のための捲土重来を誓った足利尊氏のようには
いかず剃髪し出家した義昭の憐れみを山中長俊は記している。

・・・・・・・・・・続く・・・・・・・・・・・・・






















先祖 雑賀衆・雑賀三緘(サンカン)について(九回):真木島合戦之事・真木島軍付信長攻摂州諸城事

2012-01-02 18:23:31 | 調査・報告

明けましておめでとう御座います。本年も宜しくお願いいたします。今年も亡き祖母の先祖「雑賀三緘」について
報告いたします。

・「後太平記」:真木(槇)島合戦之事(地部巻第41)
・「中古日本治乱記」:真木島軍付信長攻摂州諸城事(巻第55)
・「信長公記」:公方様真木島に至り御座之事(巻之六)、・真木島にて御降参、公方様御牢人の事(巻之六)

◎検証史料:「織田信長のすべて」 「槇島城攻略」 岡本良一編

「武田信玄の上洛を絶好の機と見てこれまでの黒幕的立場を棄て、この年(元亀四年)三月、自ら二条城に拠って挙兵した
ものの、信長の包囲網に屈し、四月七日、なすすべなく無条件降伏した義昭は、七月三日、信長との誓約を破り三千七百余
の軍勢をもって槙島城に楯籠り、再び反信長の兵を上げた。
二条城には日野輝資・三淵藤英らを配して防御を固める一方、安芸の戦国大名毛利輝元に兵糧米を懇請した。
信長は七月六日、かねて建造させていた大船を利用して湖面を渡り、坂本を経て翌日には入洛し、二条妙覚寺に本陣
をかまえた。そして十六日に至って軍勢を美濃三人衆らを一隊と佐久間信盛・丹羽長秀・柴田勝家・羽柴秀吉らの率いる
将兵との二手に分け、翌日両口より槇島城に猛攻を加えた。敗北した義昭は弐歳の幼児義尋を人質に降伏し、山城枇杷庄
から大坂・堺を経て毛利氏領国に逃れた。これにより、実質的に室町幕府は滅亡した。」

◎検証史料:「織田信長合戦全録」 「槇島城の戦い」 谷口克広著 中央公論社刊

「最初のうちは将軍義昭も信長に擁されて、天下支配の実権が回復できるかと期待したのだが、次第に、自分が信長の
傀儡でしかないことに気づくようになり、実権を握ることのできないのを不満に感ずるようになった。
そして義昭は、信長に従わない諸国の有力者たちを誘って、反信長の包囲網結成をもくろむようになり、武田信玄・浅井
長政・朝倉義景・石山本願寺などが、その義昭の呼びかけに応じて、兵を挙げた。
・・・・・・・・・・以下省略・・・・・・・・・・・
七月三日になると義昭は二条御所を日野殿、藤宰相殿、三淵藤英らに託し、自らは兵三千七百をもって、宇治の槇島城に
籠った。義昭の挙兵を知った信長は七日に入京、二条妙覚寺に本陣を置き、すぐに二条城を攻略した。信長は十六日
宇治五ケ庄に陣を率いて進み、槇島城攻撃に取り掛った。
信長は全軍を二手に分け、一手に稲葉一鉄、その子右京助、同彦六らを先陣とする美濃衆を当て、これに平等院北東から
渡河させて平等院前に上らせた。
もう一手は佐久間信盛・明智十兵衛光秀・荒木村重・丹羽長秀・長岡(細川)幽斎、息与一郎といった面々の主力部隊で、川
下の五ケ庄から西岸に向け渡河した。
そして七月十八日、総攻撃がはじまり、全軍を挙げて槇島城へ迫った。信長軍の猛攻に途方を失った義昭は。子の義尋を
人質に出して、槇島を離脱することを決し、信長に降伏した。即日、義昭は城を明渡し、久世の枇杷庄へと向かい、のち
秀吉の護送を受けて、三好義継の居城、河内の若江城に身を寄せた。」

三事案は以下の通り

後太平記:「真木島合戦之事」

「五月二十五日の夜、潜かに京都を落ちさせ給ひ、二条室町の御所には、日野大納言殿、武臣には伊勢伊勢守、三淵大和
守を守護と定め給ひ、御勢僅三千4餘騎にて真木島に打入り給ひ、東国西国よりの加勢・・・・・・・以下省略・・・・・・・・・・
信長は五箇の庄柳山に陣を取って、此城一刻に攻め落んと議せらる、前に蒐合はせ城を圍む人々には、稲葉伊予守、
同苗右京亮、同彦六郎、先陣に進んで其勢ひは氏家左京亮、丸毛兵庫頭、同三郎兵衛尉、村井長門守、同一族蔵人助、同
庄右衛門尉、。斎藤新五郎、猶も跡に継いて不破河内守、同彦三、市橋九郎左衛門尉、飯沼勘平、各二萬餘騎宇治川に討
望む、時に梶原弥三郎一騎進み出で、昔田原又太郎忠綱、佐々木高綱、承久には芝田橋六が此川の先陣す、天正の
今日は梶原弥三郎師正、先陣を致すを御覧候へ、若し流れて死せば念仏申して給るべしと、腰より銀の采配抜出し、味方
に下知して曰く、夫れ戦地に立って川を渡す時は、人馬水心の習あり、先づ川瀬の緩急を能く察し、向の岸に眼を屬く
べし、早く川上の泥障を折挙げ、鐙を取って鞍坪に納めよ、水の漲る所を瀬とし、澱む所は川深し、浅き瀬は流早し、槍を
以って流に棹せ瀬深くば三頭に乗下れ、激水漲り白波を翻さば石高しと知り、逆巻く所は岩ありと知るべし、瀬緩くば
川深し、浮水、擔浮、四輪木、尊荷、或は欄楯を浮とせよ、掛声に節あり・・・・以下省略・・・・・・
斯かる処に信長五箇の庄を発し、真木島に寄せられ、其勢雲霞の如く已に城を囲まんとす、味方是を防ぎ戦ふ其間
に五百餘騎討たれて、城中に颯と打入りける。敵尚利に募り、追ひ来る事川の裂くるが如し、今一防防ぎ留めんと、和田
伊賀守、大館治部少輔、上野中務大輔討出でて相戦ふと云へ共、木下藤吉郎、丹羽五郎左衛門尉に込入られて甲斐は
なし、継いて二階堂駿河守、大草治部少輔八百餘騎鋒を揃へ討向へば佐久間右衛門尉、柴田修理亮に追ひ立てられて
引き退く、蜂谷兵庫頭、長岡兵部大輔、同子息與市郎忠興、蒲生右衛門太夫、同子息忠三郎氏郷、進藤山城守、山岡美作守
・・・・・・・・・・・・以下省略・・・・・・・・・・・・・
河内国若江の方へと忍び給ふ、案の如く夜中に城は落つべきなれ共、大軍の夜の合戦慎ありとて、一騎も城へは乗入れ
ず、扣へて陣を堅る其間に味方難なく落ち去れば、大草も軈て若江にぞ馳せ参りける、茲にて軍慮の御謀如何せんと、
議定区々に評せらる、是より東国には武田上杉味方と申せ共、今度上洛に及ばず、浅井朝倉も信長の武威に砕かれ、
頼みなき御方にて候へば唯西国へ御下向あって毛利、吉川小早川三家を頼み給ひ候へかし、・・・・・・・・・省略・・・・・
信長會て懺悔なく、同日京都に打入り、村井長門守を洛陽の守護とし、同二十六日速やかに帰陣とぞ聞えける」


中古日本治乱記:「真木島軍付信長攻摂州諸城事」

「天正元年五月二十五日ノ夜ニ入テ潜ニ京都ヲ出ザセタマヒ真木島ニソ移ラレケル二条室町ノ御所ニハ日野大納言高倉宰相藤原永
相武士ニハ伊勢伊勢守三淵大和守等ヲ以テ御所ノ警固トシテ残シ我身ハ真木島ニソコモリケル信長此事ヲ聞テ岐阜打立馬( )ケル程ニ
江州佐和山ニ至リ其始丹羽五郎左衛門長秀ニ下知シテ造ラセタリケル大船十余艘ニ取乗則坂本ニ趣キ路次悉放火シススンテ二条妙
覚寺ニ打入頓テ二条ノ御所ヲ攻囲城兵ハ敵ノ一二万余騎ニ気ヲ呑レ一戦ニモ不及シテ日野大納言高倉宰相其外伊勢三淵降参ス
信長則真木島ニ發向ス先手ニススム人々ニハ稲葉伊予守通朝子息右京亮貞道同彦六曲通((或号/一通)勇ヲ励ス相ツツク武士
ニハ氏家左京亮丸毛兵庫頭同三郎兵衛尉村井長門守一族ニ村井蔵人助同庄右衛尉子息喜兵衛尉斎藤新五郎不破河内
守同彦三市橋九郎左衛門尉飯沼勘平等先ヲ争ヒ二万余騎宇治川ニ( )ノソムテ時梶原弥三郎高盛一騎ススミ出昔足利又太郎
忠綱此川ヲ・・・・省略・・・・・
信長モ五ケ庄ヲ発シ真木島ニ寄ケルニ其勢雲霞ノコトシ城兵ノ中ニ和田伊賀守大館治部少輔上野中務大輔討出テ戦ヒケルニ木下藤
吉郎丹羽五郎左衛門尉長秀渡シ合テ戦ヒ城ヘ追入タリ次ニ城中ヨリ二階堂駿河守大草治部少輔ハ百余騎切先ヲ揃ヘテ討出タレハ
寄手ノ方ヨリ佐久間右衛門尉信盛柴田修理亮勝家千余騎ニテ戦ヒケルカ如何シテカ先手ノ軍士巻リ立ラレニ陣ノ勢ニナタレ掛レハ心ナラス
押立ラレテ右往左往ニ逃来ル是ヲ見テ蜂谷兵庫頭細川兵部大輔藤孝子息与市郎忠興蒲生右兵衛賢秀子息忠三郎氏郷
進藤山城守山岡美作守池田孫三郎・・・・・・・・・・・・省略・・・・・・・・・・・
木下藤吉郎カ方顧リミテ汝等臆病( )一ノ大将ナリ幾度( )メラレタリトモ害アルマシト申テ義昭卿ヲ( )メ河州津田ヲ行過尊延寺ノ辺ヲ( )
河内国若江ノ城ヘ入参ラセ蟄居ノ躰ニテ在ケリ・・・・・以下省略・・・・・・・・・

信長公記:「公方様真木島に至り御座之事」

「七月五日公方様、又、御敵の御色を立てられ、御構へには、日野殿、藤宰相殿、伊勢守殿、三淵大和守を置かれ、真木
島に至って御座を移され候の由、注進これあり。則、七月六日、信長公彼の大船にめされ、風吹き候と雖も、坂口へ
推し付け、御渡海なり。其の日は坂本に御泊り、七月七日、御入洛、二条妙覚寺に御陣を居ゑられ候。
七月十六日、真木島へ信長御馬をよせられ、五ケ庄の上やなぎ山に御陣を居えさせられ、則ち、宇治川乗り渡し、
真木島攻め破るらるべき旨、仰せ出させる。・・・・・・・・・・省略・・・・・・・
昔、梶原と佐々木四郎、先陣を争ひて、渡らせられ候所を、稲葉伊予・息右京助・同彦六先陣にて、斎藤新五・
氏家左京助・伊賀伊賀守・不破河内・息彦三・丸毛兵庫頭・息三郎兵庫・飯沼勘平・市橋伝左衛門・種田助丞、焜と
打ち越し、平等院の門前ヘ打ち上げて、則ち、近辺に烟を揚げらる。又、川下五ケ庄、前川を西に向いて越され
候衆、佐久間右衛門、丹羽五郎左衛門、柴田修理亮、羽柴筑前守、蜂谷兵庫頭、明智十兵衛、荒木摂津守、長岡
兵部大輔・息与一郎、蒲生右兵衛大輔・息忠三郎、永原筑前守、進藤山城守、後藤喜三郎、永田刑部少輔、山岡
美作守・息孫太郎・山岡玉林、多賀新左衛門、山崎源太左衛門、平野、小河孫一、青地千代寿、京極、池田孫三郎。

信長公記:「真木島にて御降参、公方様牢人の事」 巻六

「七月十八日・・・・・・・以下省略・・・・・・・・・・・
御命を助け、流し参らせられ候て、先々にて、人の褒貶にのせ申さるべき由にて、若君様をば止め置かれ、怨み
をば恩を以って報ぜらるるの由にて、河内国若江の城まで、羽柴筑前守秀吉警固にて、送り届けらる。
・・・・・・・以下省略・・・・・・・・・・・・


◎検証:
「後太平記」「中古日本治乱記」「信長公記」に記載されている人物はほぼ同一人物である。多少微妙に異なるのは
作者が各陣営に属しているか否かの違いではないか。
仮託と思える箇所がある、其れは今回同様に宇治川を舞台に戦われた「宇治川の戦い」での「田原又太郎忠綱、佐々木
高綱」の先陣争いを引きあいに出し、今回の先陣争いの梶原弥三郎と佐々木四郎を記載している。
「後太平記」「中古日本治乱記」を読んでいると、過去の事案を引きあいに出し、現実の事を書いている手法を見る。
「信長公記」では過去の事案を出し現在の事案との比べは見られないが、今回一箇所チョコットある。そこは、
宇治川での「昔、梶原と佐々木四郎、先陣を争ひ渡らせられ候所」である。

「後太平記」は兵法的な表現をしている箇所があり仮託であろう。それは宇治川など太河を渡河する時の心得である
「夫れ戦地に立って川を渡す時は・・・・・・・」の所であり、他の「中古日本治乱記」「信長公記」には表現はない。
多々良一龍は仮託の箇所とはいえ山中長俊、太田牛一と違いそれなりに戦の兵法を学んでいたのではないか。

将軍義昭は、武田信玄が病死し「信長包囲網」が瓦解したにもかかわらず再度挙兵し、真木島城を信長に包囲され
攻撃され降伏となった。
敗れた将軍義昭は、羽柴筑前守秀吉に「河内国若江の城」まで警固され送られ蟄居の身となり、義昭が室町幕府を
永禄十一年に再興したがついに長続きせず滅亡した。
以降将軍義昭が亡き武田信玄以外に頼るところは西国に下向して毛利・吉川・小早川三家のみとなり紆余曲折の
うえ備後の鞆に落延びることになるが、そのことを記載してあるのが「後太平記」のみであり、「後太平記」が足利
義昭、毛利側から見て書いていると思われる。

※省略部分は恐れながら原本を見てください。

・・・・・・・・・・続く・・・・・・・・・・・・・・・

























先祖 雑賀衆・雑賀三緘(サンカン)について(八回):将軍摂州御發向之事附一向門跡一揆之事

2011-12-18 19:56:39 | 調査・報告
今回の検証で「後太平記」に「雑賀三緘(カン)」が記載されている。

「後太平記」:将軍摂州御発向之事附一向門跡一揆之事: 地部巻第40
「中古日本治乱記」:野田福島合戦付宇佐山軍(事):巻第53
「信長公記」:野田福島御陣の事:巻3)

◎野田福島砦の攻略「織田信長のすべて」岡本良一編 新人物往来社刊によれば
「姉川の合戦後、信長が岐阜に帰城すると、これを見計らっていた三好三人衆は七月二十一日に、摂津中島に進出し、
野田福島に砦を築いてこれに拠り、浅井長政・浅倉義景・本願寺顕如と内応しつつ再び反信長の兵を挙げた。事態
を重視した信長は八月廿日に至って出陣し、一両日横山、廿二長光寺に宿泊したのち、二十三日に、上京の本願寺
に到着した。そして二十五日、淀川を越えて河内枚方に出撃し、翌廿六日、摂津天王寺に本陣を設け野田福島両砦
に迫った。
やがて九月三日、将軍義昭は摂津中島に着陣し、将軍親征の建前が成立すると、信長は斎藤新五・稲葉一鉄・中川
重政らを桜岸、川口の砦に平手監物・佐々成政等を配したうえで石山本願寺近辺の江堀をうめ、敵の前方に土手を
築いて櫓を上げ、鉄砲を以って野田・福島砦と本願寺に攻撃を加えた。浅井・朝倉勢が廿日宇佐山を攻略して織田
信治・森可成らの城将を殺害し、更に廿一日には山城山科醍醐方面に放火して京都に向かって快進撃をしている
との情報を得るに至って廿三日、野田・福島砦を落とせないまま、義昭ともども帰京するにいたる」とあり。

其れでは上記の事案3件を見てみよう。

「後太平記」:「六条本国寺にて討申され泄されたる三好一族、今年蘇軍を發し、摂津ノ国野田福島に城を構へ蜂起と
聞えしかば、織田上総介ノ信長馳せ向ひ、数日合戦に及ぶと雖も敵嘗てひるまず、剰さへ一向門跡
謀叛を企て、国々の門徒を進め、夥しく一揆蜂起し、信長前後に敵を請け、難儀に及ぶ由注進急なれば、
急ぎ御旗を向けらるべき議定決し九月三日、京師を打立ち給ふ、供奉の人々には、上野中務大輔、
同佐渡ノ守、大館治部ノ大輔、京極近江ノ守、三淵大和ノ守、野瀬丹波ノ守、飯川山城ノ守、和田伊賀ノ守、
・・・・・・・・省略・・・・・其勢都(スベ)て七千餘騎、摂津の中島陣取り餘給ひ、兇徒退治の軍慮急り也、
斯る処に紀伊ノ国の住民雑賀孫市郎、雑賀三緘入道、岡崎三郎大夫、渡辺藤左衛門ノ尉、的場源七、土橋
平次、根室法師、岩室清裕、各一万餘騎にて馳せ参る、此者共初めは門跡一揆に手合しぬと聞えしか
共、今は早速に味方に参るこそ幸ひなれ、信長五万餘騎に牒じ合せ、野田福島の城八層に圍み攻動し、
已に民屋商家を屠集め、一重の堀を埋めて、一刻に攻め落すべしと下知急也、然りと雖も門跡一揆
大勢に成って、其後を討たんと憤りしかば、急ぎ桜が岸川口森口に属け城を築いて、諸国より馳せ集まる
門徒を防ぎ、糧の通路を差塞がんと、其用意夥し、これに因て海路は出船入船を留め、陸地は往来の旅人
通路忽ちに断にけり、一揆気に咽び九月十四日、六千餘騎にて森口に討出て、佐々内蔵助相守る処の付城
焼落さんと働き、或は時々刈田して糧を求む、佐々も度々合戦に及び、即時勝利を得、僧俗二百餘人討取り、
皆獄門にぞ掛けにける」

「中古日本治乱記」:「信長ハ江州ノ合戦ニ討勝テ暫ク休息シ玉ヒケル処ニ同年ノ八月三好山城守康長入道笑岩同日向守定康等
摂州ニ蜂起シテ野田福島ノ要害ニ楯籠リ又嶋福ノ城ニハ安宅甚太郎一倍ヲコメ置国中掠テ犯スノミナラス京都ノ
将軍足利義昭ヲ窺フヨシ岐阜ニ告来リシカハ信長安カラヌ事ナリトテ大事ヲ引率シテ摂州ニ馳ヒ両城ヲ囲セメケル城兵
モ稠ク防テ城落サリシ
同九月ニハ将軍義昭モ京都ヲ御進發有テ摂州中島ニイタリ玉ヘハ信長ハ天満森ニ陣ス斯ル処ニ根来寺雑賀ノ輩
信長ニ馳加リテ同ク野田福島ヲ責タリケル爰ニ大坂ノ本願寺門跡光佐顕如三好等語ヒ野田福島ノ後詰トシテ門徒
ノ僧ハ申スニ及ハス壇越ノ( )越ノ輩数一千人ヲ相伴森口辺ニ出張ス信長被事ヲ聞テ佐々内蔵助成正福冨平左衛
門尉正之等数一千人兵ヲ差ソヘテ森口ニ越メ門跡ノ兵ト合戦ス信長ノ先陣野村越中守清友深入シテ討レシカハ
敵兵勝ニ乗テアラソヒ攻ル信長方・・・・・・・・・・・・・省略・・・・・・・・・・
宇佐山ノ城主森三左衛門尉可成待迎テ合戦スル事数刻ナリシカ共多勢ニ無勢叶ハスシテ可成ステニ討死シケリ信長ノ
舎弟織田九郎信治並ニ・・・・・・・・・・・・・・・省略・・・・・・・・・・・・・・・
其後浅井朝倉ノ両勢宇佐山ノ城ヲ攻大津ヲ焼ハラヒ醍醐山科ノ辺ニモ火ヲ挙タリケルカ既ニ京都ニセメ入ヘシト相議スヨシ
・・・・・・・・・省略・・・・・・・・・・・・
同二十三日信長将軍義昭共ニ( )洛シ玉ヒケルカ斯ル折ヲ得テ三好軍ノ輩若慕事モヤアラントテ和田伊賀守義純柴田
修理亮勝家後陣ニ打テ敵打出ハ一合戦セント・・・・省略・・・・・・・・・・・・帰洛シケリ

「信長公記」:「八月廿日、南方表御出勢、其の日は横山に、御陣を懸けさせられ、次の日、御逗留、二十二日、長光寺御泊り。
・・・・・省略・・・・・・、二十六日、御敵楯籠もる野田福島へ成るる。・・・・・・・・・・・省略・・・・・・・・・
御敵、南方諸牢人大将分の事、細川六郎殿、三好日向守、三好山城守、安宅、十河、篠原、岩成、松山、香西、
三好為三、龍興、長井隼人、此の如き衆八千ばかり野田福島に楯籠りこれある由に候。・・・・省略・・・・
九月三日、摂津国中島、細川典厩城まで、公方様御動座。大坂十町ばかり西に、ろうの岸と云う所、御取出に
仰せ付けらる。斎藤新五、稲葉伊予、中川八郎右衛門両三人入れおかる。並びに、大坂の川向いに川口と申す
在所候を、是れ又、拵ヘ平手監物、平手陣左衛門、長谷川与次、水野監物、佐々蔵介、塚本小大膳、丹羽源六・・・
九月九日、信長公、天満ケ森へ御大将陣を寄させられ、次の日、諸手より、うめ草をよせ御敵城近辺にこれある
江堀を填めさせられ、九月十二日、野田福島の十町ばかり北へ、えび江と申す在所候。
・・・・・・省略・・・・・・・・・・・・・・・・・
九月十三日夜中に手を出し、ろうの岸・川口両所の御取出(砦)へ大坂より鉄砲を打ち入れ、一揆蜂起候と雖も、
異なる子細なく候。翌十四日に大坂より天満ケ森へ人数出だして、即ち懸り合い、川を越し、かすが井堤通り
中筋を前田又左衛門かかり合い右手は弓にて申野又兵衛、左は野村越中・湯浅甚介・毛利河内・・・省略・・・・
其の時、金松申す様に、某は手伝ひにて候間。河内に頸を取り候へと申し、僉儀にて、あたら頸一つ取らずして
罷り退かる。茲に野村越中討死なり。

等々であるが詳細は画面上の制約もあり省略をした箇所があることは御了承願いたい。

これとは別に「後太平記評判」というのがあり、「後太平記」を論評していて、「後太平記」を補完している。それは下記の通り。

「後太平記評判」:将軍摂州御發向ノ事(巻之52目録)
「其ノ比、三好日向ノ守同備中ノ守笑岩斎其外残党三千余奇ニテ摂津ノ国野田ノ城ニ籠、同所福嶋ノ城ニハ細川六郎同右馬ノ
頭安宅甚太郎前ノ美濃ノ守右兵衛ノ大夫龍興長井隼人ノ佐ヲ始メトシ其勢六千余奇ニテ楯籠。・・・・・・・・省略・・・・・・・・・・
九月三日京都ヲ雷發シケル細川右馬ノ頭ガ中嶋ノ城ヲ開去テ福島ノ城ニ楯籠コソ幸ナレトテ軈テ入城御座シ信長今ハ飛龍乗雲ノ気ヲ
得テ平手監物・同舎弟左衛門ノ尉・水野監物・佐々木内蔵ノ助・長谷川與次郎・丹羽源六・高宮右京ノ亮ヲ先蒐トシ、天満ノ
森ニ陣ヲ寄野田福嶋ニ両城ハ堀一重ノ城ナレハ数千ノ民家ヲ屠リ捨昼夜堀ヲ埋テ攻寄タリ。
斯ル処ニ紀伊ノ国ノ住人雑賀孫一・的場源七郎・根来大将巖室清裕勢一万余奇ニテ馳着御方ニ加リケリ。・・・・・・・
同十三日楼岸川口二箇所ニ陣城築テ扣タル処ニ門跡一揆数千余奇城中ヨリ突出散々ニ討負攻動ス事・・・・・・・・・・・
以下省略

この事案三件は三者三様の立場が表されている。「信長公記」はこのあとの「滋賀御陣の事」をも下記足せばよりはっきりと
したかも知れない。「滋賀の御陣の事」には、将軍義昭・信長の帰京、宇佐山の事などが記載されており、今回の事案以外の
ことが記載されている。

◎検証

記載人物で三好方を「後太平記」はサラット書かれているが、一部補完を上記の「後太平記評判」がしている。「中古日本治乱記」
は三好三人衆を、「信長公記」は三好三人衆のほかに加わった武将を詳細に記載しているが、他のと同一人物である。
義昭の京師出立日はそれぞれ同一日(九月三日)である。特に「後太平記」は将軍義昭を支える側近武将たちを詳細に記載し、
加えて援軍の雑賀衆勢の個々の名前も記載されている。この中に亡き祖母の家譜に記載ある「雑賀三緘(カン)」の名前も「雑賀
三緘入道」として記載されているのである。
ここに記載されている中に、天正五年の「小雑賀口の合戦」で「誓紙」に記載されている人物もいるので架空の人物ではない。

「中古日本治乱記」の記載内容、記載人物などは同じだが、記載内容が微妙に「後太平記」とは異なり、秀吉の右筆らしく自陣
の武将の戦状況などを記載している。
「信長公記」は敵陣三好方の参戦武将を詳細に確実に敵情報を把握しており、しっかり情報収集がなされている。面白いのは
上記の通り「後太平記評判」には「後太平記」「中古日本治乱記」にはない、織田方の武将が記載されていることである。
「後太平記評判」の発行年月日が分からないが、「信長公記」を見て追記したのかは分からないが、それぞれお互いに影響し
あっている感じがとれる。

戦術面で、信長方の陣地の配置を詳細に「信長公記」が記載しているのは流石に信長の側近である。

この時点では、雑賀衆は将軍足利義昭・織田信長側についていたが、その後袂を分ち合うことになる。義昭は信長包囲網を
構築し、義昭・石山本願寺対織田信長との壮絶な対立が以降十年間に亘る幕開けである。

・・・・・続く・・・・・・・・・・



































先祖 雑賀衆・雑賀三緘(サンカン)について(七回) :六条合戦之事

2011-12-11 19:39:29 | 調査・報告
前回「後太平記」「中古日本治乱記」「信長公記」に同一事案で記載されている項目を挙げたが、その事案の調査・検証に
進みたい。
これは当初に述べた通り亡き祖母の家譜に記載ある雑賀衆・雑賀三緘について調査・検証するものである。同時に
この世界では「後太平記」「中古日本治乱記」等は仮作・仮託等々言われ信憑性が低く史料としての価値はないようである。
一方信長の家来である太田牛一が書いた「信長公記」は一級の史料ということである。そのために、「後太平記」「中古日本
治乱記」の戦国時代に限定して信憑性をも検証するものである。

中学高校で歴史を習った後今日まで全然学習していない私が、諸先輩がたに対抗して調査・検証するという大袈裟なも
ではない。唯、子供の頃から祖母等がいっていたことの真実を家譜に記載ある「雑賀三緘」について、自分なりに習慣に囚
われることなく出来る範囲で調査検証してみようと考えたことである。

調査・検証方法は、仮作・仮託といわれる部分をフィルターに掛け削除し諸先輩がたが書かれた本を検証ようとして使用させ
ていただきスクリーニングして、「信長公記」等と比較検証する方法をとった。これがど素人が出来うるベストな調査検証方法と
考えたからにほかならない。諸先輩がたからすればとんでもない調査検証方法といわれることは重々承知のことである。

調査史料・資料は国会図書館をはじめ地元の図書館等に出向き入手。
比較検討事案は事案毎に1シート(A3)に並列で記載(三冊に記載もあれば、二冊に記載のもある)したが、今回は画面の都合
上一部の記載に留めざるをえなかったこと、又、横一列に併記出来ないことをご了承願います。

◎調査本:「後太平記」:「通俗日本全史」早稲田大学出版部、「中古日本治乱記」:国会図書館所蔵
「信長公記」:桑田忠親校注 新人物往来社刊 他

◎調査・検証:

(1)事案:
「後太平記」:六条合戦之事(本圀寺の変) 地部巻第38
・・・・・・・・・三好山城ノ守入道笑岩斎、同下野ノ守入道釣閑、同日向ノ守、岩成主税ノ助を初めとして、一族
餘鐙黨五千餘騎、其外畿内の為卒を招き寄せ、前の美濃の守護斎藤右兵衛大夫龍興、同叔父長井隼人佐
、薬師寺九郎左衛門尉を先掛の大将とし、永禄二十年正月朔日、泉州堺の浦に勢揃して評議しけるは義昭
去る十月征夷大将軍の宣下を下され・・・・・以下省略・・・・・・・・・・・

「中古日本治乱記:六条本国寺合戦付三好一族敗北事(巻51)
・・・・・永禄十二年新玉ヲ祝ヘキ正月朔日ニ成シカハ将軍守護ノ諸侍・・・・・・・・・・・・・三好山城ノ入道咲岩斎同下野
入道釣閉斎同日向守(定)康岩成主税等ヲ初トシテ四国勢五千餘騎其他畿内ニ與力卒ヲ招集前美濃守護職
斎藤右兵衛門大夫龍興同叔父長井隼人佐薬師寺九郎左衛門尉等ヲ先手ノ大将トシテ正月元旦泉州堺ノ浦ニ勢揃
ヘシテ評シケルハ義昭去十月征夷大将軍ニ宣下セラレ天下ノ武将ニ・・・・・・・以下省略・・・・

「信長公記」:六条合戦の事(巻2)
永禄十二年己巳
正月四日、三好三人衆並に斎藤右兵衛大輔龍興、長井隼人等南方の諸牢人を相催し、先懸の大将、薬師寺
九郎左衛門、公方様六条に御座候を取詰め、門前を焼払ひ、既に児寺中へ乗り入るべきの行なり、其処、
六条に楯籠る後人数、細川典厩、織田左近野村越中、赤座七郎・・・・・・・・・・以下省略・・・・・

等々上記のように1シート(A3用紙)に横一列に記載(今回は画面上記表記)し期日、記載人物、出来事等々を調査・検証
を行っていった。
検証の例として、
期日に於いて、「後太平記」では永禄二十年と記載あるが、その後原本を入手して確認したところ永禄十二年と
記載があり、早稲田大学出版部にて出版の時印刷工が活字の順序を間違えたと思われる。
そのために「後太平記」に記載ある期日は正しいと判断される。
又、記載人物の多い少ないはあるかも知れないが合っていると見てよいのではないか。

このような仕方で前述した同一事案を調査・検証を行っていった。

・・・・・・・・・・・・・・・・・続く・・・・・・・・・・・・・・・・










先祖 雑賀衆・雑賀三緘(サンカン)について(六回):真木島合戦之事

2011-12-04 20:16:32 | 調査・報告
今回は前回報告いたしました通りの「後太平記」「中古日本治乱記」「信長公記」に記載されていて、
同一事案のものは下記の通り。尚「後太平記」と「中古日本治乱記」との今回との関連無き類似事案関係は画面上割愛 させて頂いた。

※調査本 : 「信長公記」:桑田忠親 校正を使用 、中古日本治乱記:国会図書館所蔵 、「後太平記:「通俗日本全史」


「後太平記」:六条合戦之事(地部巻第38)
「中古日本治乱記」:六条本国寺合戦付三好一族敗北之事(巻第51)
「信長公記」:六条合戦之事(巻之2)
・・・・・・・・・・・・・・・・
「後太平記」:真木島(槙島城)合戦之事(地部巻第41)
「中古日本治乱記」:真木島軍付信長攻摂州諸城事(巻第55)
「信長公記」:公方様真木島に至り御出之事(巻之6)、真木島にて御降参、公方様御牢人の事(巻6)
・・・・・・・・・・・・・・・・
「後太平記」:将軍西国落之事(地部第41)
「中古日本治乱記」:将軍西国落事(巻第55)
・・・・・・・・・・・・・・・・
「後太平記」:諸城警禦之事(地部第41)
「中古日本治乱記」:将軍所々蜂起之事(巻第55)
・・・・・・・・・・・・・・・・
「後太平記」:難破船軍之事附城中糧被籠事(地部巻41)
「中古日本治乱記」:摂州難破船軍付籠糧於城内(事)(巻第56)
「信長公記」:西国より大船を催し木津浦の船軍歴々討死の事(巻9)
・・・・・・・・・・・・・・・・
「後太平記」:将軍摂州御發向之事附一向門跡一揆之事(地部巻第40)
「中古日本治乱記」:野田福島合戦付考江州宇佐山軍(事)(巻第53)
「信長公記」:野田福島御陣之事(巻之3)
・・・・・・・・・・・・・・・・
「中古日本治乱記」:浄土宗霊譽與日蓮日光宗論(事)(巻第62)
「信長公記」:法花浄土宗論之事(巻之12)
・・・・・・・・・・・・・・・・
「中古日本治乱記」:勢州長嶋一揆(事)(巻54)、信長長嶋一揆退治付珂州兵乱記事(巻第55)
「信長公記」:珂州長嶋一編に仰付けらるるの事(巻之7)
・・・・・・・・・・・・・・・・
「後太平記」:摂州大阪一向門跡合戦野事(治部巻第42)
「中古日本治乱記」:責大坂本願寺門跡事(巻第56)
「信長公記」:原田備中、御(三)津寺へ取出討死の事(巻9)、御後巻再三合戦の事(巻9)
・・・・・・・・・・・・・・・・
「中古日本治乱記」:紀州雑賀一揆退治之事(巻第58)
「信長公記」:雑賀御陣之事(巻之10)、御名物召し置かるるの事(巻10)
・・・・・・・・・・・・・・・・
「中古日本治乱記」:信長與本願寺門跡和睦付大坂城破壊(事)(巻第62)
「信長公記」:大阪退散御請け誓紙の事(巻13)、本門跡大坂退出之事(巻之13)、大坂退散の事(巻13)

等々であるが、順序が前後しましたことお詫び申し上げます。
次回からは上記の個々について報告いたします。

・・・・・・・・・続く・・・・・・・・・・・・・