今回の事案は「信長公記」には記載はない。其れもそうであろう、足利義昭が織田信長より都から追放され武田信玄亡き
後西国に下向して毛利、吉川、小早川三家に頼るところしかなくなり、その下向のことを記載する必要などないがために
記載されていないのではないか。逆に「後太平記」は足利義昭・毛利側からとらえていると考えると必然的に記載される
こととなる。「中古日本治乱記」は織田信長の家臣として豊臣秀吉が足利義昭の動向を注視することからして記載されて
いると考えられるし、「後太平記」「中古日本治乱記」及び「雑賀家譜」の「信憑性」を確認するためにも必要と考え記載する。
その事案は下記。
・後太平記:将軍西国落之事」(地部巻第41)
・中古日本治乱記:将軍西国落事(巻第55)
◎検証史料 「足利将軍列伝」:桑田忠親 著 秋田書房刊
「槇島城の戦いで敗れた足利義昭は、その後槇島城を出て、山城の枇杷庄を経て、河内の普賢寺に護送され、そこで
謹慎の意を表している。その後義昭は、三好義継の居城である河内の若江に移され、かくして、足利将軍も十五代で、
自然消滅し、室町幕府の行政組織も全く崩れ去った。
その後将軍義昭が京都から西へ落ちてゆくとすれば安芸の毛利輝元を頼るほかになかった。
義昭は、天正元年十月になって河内の若江から和泉の堺に移った。天正二年四月、義昭は堺から紀伊に移った。
堺の浦から舟に乗り、紀伊有田郡の宮崎の浦に到着している。
天正三年(1575年)の二月八日、義昭はまた、毛利の武将吉川元春に御内書を与えた。それによると、義昭が安芸まで
下向しようと、毛利方にたびたび依頼状を出したことが分かる。しかし、毛利氏としては、足利義昭の下向は迷惑だった。
義昭は天正四年(1576年)十月、紀州宮崎の浦から、また舟に乗って、備後の鞆の浦に移った。」
◎検証史料 「流浪将軍足利義昭」: 桑田忠親 著 講談社 刊
「足利将軍義昭一向十数人が、南紀の宮崎の浦から再び舟に乗って、春めいてきた波静かな瀬戸の内海を渡り、備後の
鞆に上陸したのは、天正四年(1576年)の二月八日のことであった。最初に義昭が移った小松寺は、奥野氏の調査による
と、その昔、足利初代将軍尊氏が、北畠顕家、新田義貞らと戦って敗れ、九州地方を遁走する途中で宿泊し、後にまた京都
に攻めのぼるために、捲土重来を誓ったという由緒深い古寺であった。そこを、十五代将軍義昭が、吉例の地として選んだ、
とのことである。」
・後太平記:「将軍西国落之事」
「斯る処に大坂一向門跡顕如上人父子、使者を進せ、某し近年御敵を作すと云へ共、大樹に全く楯突き候には非ず、織田
信長吾宗派を滅すべき企て急りなりきりければ、一揆を相催し候、今は信長逆心の為流落の御分野、痛敷覚え候、自今
以後は味方に馳せ参り、御敵追討の御憤りも休すべき由告げ来る、左あらば片時も急ぎ討立ち給はんと、同日難波に
着かせ給へば御勢僅八百餘騎に過ぎざりけり、一向門跡、船を相促し来つて対顔し、珍肴銘酒を献じ、平伏誓権睦し、
大樹御悦限りなし、誠に西国下向の首途に、昨日敵たる門跡、世の轉變定めなく今日味方加り、一言芳志有難し、さぞ
西戎も予が謀に順ふべしと式代在し、軈て御船に召され、難波の川を漕出し、巨船速かに滄海の波に撑し帆を・・・・
省略・・・・・
元歴の昔には源氏起つて、平家を追落し、天正の今は平ノ信長に追落され、此一ノ谷に漂ふ事、皆是れ全因後果の報なりと、
心細くも思わぬ人ぞなき、大樹敦盛の塚・・・・・・省略・・・・・・
言語道断船路の旅は牛窓の月夜潮に袖るとは八大龍王も忽ち観応やありけん、軈て順風帆に打って、備後ノ鞆の津に
着かせ給いひ、是より上野中務ノ大輔、柳沢監物、两使として、小早川左衛門ノ佐隆景を單に頼ませ給へば、隆景少しも
辞せず御請申され翌日鞆ノ津へ馳せ上り、八木(コメ)三千石、大鷹十連駿馬十匹を献じ、禮儀甚だ篤かりしかば、将軍
悦び給ひ急ぎ對面御座します、・・・・・省略・・・・・
先ず鞆ノ津に城を構へ将軍を移り進せ、吉見大蔵ノ大輔、杉次郎左衛門ノ尉、五千四餘騎にて城の警備とし、村上弾正景廣
、八百餘騎の兵船を浮かべ備中加會岡の關を守らせ、敵の通路を差塞ぎ、上下の船を斬捕、海上警めらる、其外ノ中国四国
の勢悉く圍繞渇仰怠らざれば、将軍も今は安堵の席にぞ坐しける。」
・中古日本治乱記:「将軍西国落事」
「斯テ将軍ハ河内国若江ノ城ニ蟄居在テ越方行末ノ事共思食ツツケテ先非ヲ悔タマヒケル処ニ大坂一向本願寺門跡顕如上人教如
父子ノ方潜ニ使者ヲ進セテ某近年御下知ニ不随ハ御敵對ニ似テ候テ共全ク将軍家ニ奉對楯突候ニハアラス織田信長無道ニテ神道仏
道ヲ不用猥リ我宗流ヲ滅シテ其所知ヲ押領セント企ラレ候間高祖親鸞上人ノ置セ給ヒタル宗門流儀顕如教如如カ時ニ當テ断絶セン( )
ノ悲サニ不得止シテ一揆ヲ・・・・省略・・・・・・・・・・・
若江ヲ忍ヒ出難波ニ着セタマヒケリ是事ヲ傅聞ヘヒ此彼ニ隠レ居タル御家人共馳集リ御勢無程八百余騎ニ成ニケリ顕如教如大ニ悦
舩ニ掉サシ難波ニ来リテ名酒珍肴ヲ奉ル此上バキ西国ニ御下向有テ毛利右馬頭輝元吉川小早川ヲ頼テ中国四国九州ノ勢ヲ
相催シ押テ上洛アルヘシトテ頓テ御舩ニ被召難波川ヲ漕出シ巨舩速ニ棹海之浪帆ハ烈長江・・・・省略・・・・
元歴ノ昔ニハ源平起テ平家ヲ追落シ天正ノ今ハ平氏信長カタメニ源氏義昭卿追落アサレタマヒ此一ノ谷ニ漂セ給フ事是前周後果ノ報
ナラント心細ク思ハヌ人ハナカリカリ将軍家ハ敦盛ノ塚ヲ御覧アルニ石ハ苔蒸テ・・・・・省略・・・・・・・・
言語道断船路ノ旅ハ牛マトノ月ノ夜潮ニ袖湿レントハ其後順風ニ帆ヲ揚備後ノ国鞆ノ津ニ着セ玉ヒ是ヨリ上野中務大輔柳津監物
ヲ兩使トシテ小早川左衛門佐隆景ヲタノマセ玉フニ隆景少モ不辞御請申シ翌日鞆津馳上リ先ハ米三千石大鷹十連駿馬十匹
・・・・省略・・・・・・
先鞆ノ津ニ城ヲカマヘ吉見大蔵大輔杉次郎左衛門尉ニ五千余人ヲ差副テ鞆ノ津ノ警固トシテ村上弾正景廣ハ八百余艘ノ
兵舩ヲ浮メテ備中加會岡ノ関ヲ守ラセ敵ノ通路エオ差塞ぎ上下ノ舩ヲ斬捕被堅海上其外中国四国ノ勢馳参リテ( )礼
シケレハ将軍家モ安堵ノ思ヒヲナシ給ヒケレ・・・省略・・・・・
将軍ハ御運ノ甲斐ナク御座テ終ニ御本意ヲ遂タマハス後ニハ剃髪シ玉ヒ霊陽院殿昌山ト申奉リシハ義昭将軍ノ御事ナリ」
◎検証:
将軍義昭が西国に下向したことを「信長公記」は記していない。信長側からみれば、再三再四戦いを挑んで
来ては、いつもの奥の手で京都御所に急使を遣わし、信長との和平勧告の論旨を下賜されようと図る
(桑田忠親氏)義昭に閉口し、西国に行こうが何処に行こうが気にしていなかったのではないか。
又、信長の日々の行動を記したことからしても、記載されていなくても不思議ではない。
「中古日本治乱記」に記載されているのは、「信長として、将軍義昭を追放して、名実ともに中央の政権
を掌握したものの摂津大坂には石山本願寺や三好の余党らが信長打倒の共同戦線をはっている。又、
東国には武田勝頼、北越には上杉謙信が控えているため、安芸の毛利輝元一族と正面衝突することは、
出来るだけ避けたかった。
そこで信長と毛利一族との間で、この危機を無事に乗切るため和平交渉が行われた。その時の交渉の
使者が、信長方が木下秀吉と朝山日乗と毛利方の安国寺恵慶瓊であったとの事(桑田忠親)。これから
して将軍義昭と毛利家の動向を木下秀吉が注視していたのではないか。そのために「中古日本治乱記」の
作者の山中長俊は秀吉とともに行動し、その詳細を熟知していたからこそ記載したのではないか。
将軍義昭は「槇島城の戦い」に敗れ、若江城にそこから堺に移り、更にそこから紀伊の宮崎の浦へそして
最後の地となる備後の鞆に移った。
義昭とすれば幾度となく備後の国に下向して毛利輝元の協力を得る算段を試みたが、ここにようやく実現
し、信長包囲網を再度構築して信長を討ち倒し、京都へ上洛し二条城に将軍として復帰することが出来るのか。
その夢が実現に一歩前進したと考えたのではないか。
毛利一族としても、将軍義昭が鞆に来てしまった以上どうすることも出来ず、取敢えず敬意を表して献上品
を差上げ、身辺警固のため部下を配置する気配りをしている。その内容は「後太平記」「中古日本治乱記」も
内容に差はなく検証史料と比べても信憑性はある。
ただ、「中古日本治乱記」には戦いに敗れ、この地から再度上洛のための捲土重来を誓った足利尊氏のようには
いかず剃髪し出家した義昭の憐れみを山中長俊は記している。
・・・・・・・・・・続く・・・・・・・・・・・・・
後西国に下向して毛利、吉川、小早川三家に頼るところしかなくなり、その下向のことを記載する必要などないがために
記載されていないのではないか。逆に「後太平記」は足利義昭・毛利側からとらえていると考えると必然的に記載される
こととなる。「中古日本治乱記」は織田信長の家臣として豊臣秀吉が足利義昭の動向を注視することからして記載されて
いると考えられるし、「後太平記」「中古日本治乱記」及び「雑賀家譜」の「信憑性」を確認するためにも必要と考え記載する。
その事案は下記。
・後太平記:将軍西国落之事」(地部巻第41)
・中古日本治乱記:将軍西国落事(巻第55)
◎検証史料 「足利将軍列伝」:桑田忠親 著 秋田書房刊
「槇島城の戦いで敗れた足利義昭は、その後槇島城を出て、山城の枇杷庄を経て、河内の普賢寺に護送され、そこで
謹慎の意を表している。その後義昭は、三好義継の居城である河内の若江に移され、かくして、足利将軍も十五代で、
自然消滅し、室町幕府の行政組織も全く崩れ去った。
その後将軍義昭が京都から西へ落ちてゆくとすれば安芸の毛利輝元を頼るほかになかった。
義昭は、天正元年十月になって河内の若江から和泉の堺に移った。天正二年四月、義昭は堺から紀伊に移った。
堺の浦から舟に乗り、紀伊有田郡の宮崎の浦に到着している。
天正三年(1575年)の二月八日、義昭はまた、毛利の武将吉川元春に御内書を与えた。それによると、義昭が安芸まで
下向しようと、毛利方にたびたび依頼状を出したことが分かる。しかし、毛利氏としては、足利義昭の下向は迷惑だった。
義昭は天正四年(1576年)十月、紀州宮崎の浦から、また舟に乗って、備後の鞆の浦に移った。」
◎検証史料 「流浪将軍足利義昭」: 桑田忠親 著 講談社 刊
「足利将軍義昭一向十数人が、南紀の宮崎の浦から再び舟に乗って、春めいてきた波静かな瀬戸の内海を渡り、備後の
鞆に上陸したのは、天正四年(1576年)の二月八日のことであった。最初に義昭が移った小松寺は、奥野氏の調査による
と、その昔、足利初代将軍尊氏が、北畠顕家、新田義貞らと戦って敗れ、九州地方を遁走する途中で宿泊し、後にまた京都
に攻めのぼるために、捲土重来を誓ったという由緒深い古寺であった。そこを、十五代将軍義昭が、吉例の地として選んだ、
とのことである。」
・後太平記:「将軍西国落之事」
「斯る処に大坂一向門跡顕如上人父子、使者を進せ、某し近年御敵を作すと云へ共、大樹に全く楯突き候には非ず、織田
信長吾宗派を滅すべき企て急りなりきりければ、一揆を相催し候、今は信長逆心の為流落の御分野、痛敷覚え候、自今
以後は味方に馳せ参り、御敵追討の御憤りも休すべき由告げ来る、左あらば片時も急ぎ討立ち給はんと、同日難波に
着かせ給へば御勢僅八百餘騎に過ぎざりけり、一向門跡、船を相促し来つて対顔し、珍肴銘酒を献じ、平伏誓権睦し、
大樹御悦限りなし、誠に西国下向の首途に、昨日敵たる門跡、世の轉變定めなく今日味方加り、一言芳志有難し、さぞ
西戎も予が謀に順ふべしと式代在し、軈て御船に召され、難波の川を漕出し、巨船速かに滄海の波に撑し帆を・・・・
省略・・・・・
元歴の昔には源氏起つて、平家を追落し、天正の今は平ノ信長に追落され、此一ノ谷に漂ふ事、皆是れ全因後果の報なりと、
心細くも思わぬ人ぞなき、大樹敦盛の塚・・・・・・省略・・・・・・
言語道断船路の旅は牛窓の月夜潮に袖るとは八大龍王も忽ち観応やありけん、軈て順風帆に打って、備後ノ鞆の津に
着かせ給いひ、是より上野中務ノ大輔、柳沢監物、两使として、小早川左衛門ノ佐隆景を單に頼ませ給へば、隆景少しも
辞せず御請申され翌日鞆ノ津へ馳せ上り、八木(コメ)三千石、大鷹十連駿馬十匹を献じ、禮儀甚だ篤かりしかば、将軍
悦び給ひ急ぎ對面御座します、・・・・・省略・・・・・
先ず鞆ノ津に城を構へ将軍を移り進せ、吉見大蔵ノ大輔、杉次郎左衛門ノ尉、五千四餘騎にて城の警備とし、村上弾正景廣
、八百餘騎の兵船を浮かべ備中加會岡の關を守らせ、敵の通路を差塞ぎ、上下の船を斬捕、海上警めらる、其外ノ中国四国
の勢悉く圍繞渇仰怠らざれば、将軍も今は安堵の席にぞ坐しける。」
・中古日本治乱記:「将軍西国落事」
「斯テ将軍ハ河内国若江ノ城ニ蟄居在テ越方行末ノ事共思食ツツケテ先非ヲ悔タマヒケル処ニ大坂一向本願寺門跡顕如上人教如
父子ノ方潜ニ使者ヲ進セテ某近年御下知ニ不随ハ御敵對ニ似テ候テ共全ク将軍家ニ奉對楯突候ニハアラス織田信長無道ニテ神道仏
道ヲ不用猥リ我宗流ヲ滅シテ其所知ヲ押領セント企ラレ候間高祖親鸞上人ノ置セ給ヒタル宗門流儀顕如教如如カ時ニ當テ断絶セン( )
ノ悲サニ不得止シテ一揆ヲ・・・・省略・・・・・・・・・・・
若江ヲ忍ヒ出難波ニ着セタマヒケリ是事ヲ傅聞ヘヒ此彼ニ隠レ居タル御家人共馳集リ御勢無程八百余騎ニ成ニケリ顕如教如大ニ悦
舩ニ掉サシ難波ニ来リテ名酒珍肴ヲ奉ル此上バキ西国ニ御下向有テ毛利右馬頭輝元吉川小早川ヲ頼テ中国四国九州ノ勢ヲ
相催シ押テ上洛アルヘシトテ頓テ御舩ニ被召難波川ヲ漕出シ巨舩速ニ棹海之浪帆ハ烈長江・・・・省略・・・・
元歴ノ昔ニハ源平起テ平家ヲ追落シ天正ノ今ハ平氏信長カタメニ源氏義昭卿追落アサレタマヒ此一ノ谷ニ漂セ給フ事是前周後果ノ報
ナラント心細ク思ハヌ人ハナカリカリ将軍家ハ敦盛ノ塚ヲ御覧アルニ石ハ苔蒸テ・・・・・省略・・・・・・・・
言語道断船路ノ旅ハ牛マトノ月ノ夜潮ニ袖湿レントハ其後順風ニ帆ヲ揚備後ノ国鞆ノ津ニ着セ玉ヒ是ヨリ上野中務大輔柳津監物
ヲ兩使トシテ小早川左衛門佐隆景ヲタノマセ玉フニ隆景少モ不辞御請申シ翌日鞆津馳上リ先ハ米三千石大鷹十連駿馬十匹
・・・・省略・・・・・・
先鞆ノ津ニ城ヲカマヘ吉見大蔵大輔杉次郎左衛門尉ニ五千余人ヲ差副テ鞆ノ津ノ警固トシテ村上弾正景廣ハ八百余艘ノ
兵舩ヲ浮メテ備中加會岡ノ関ヲ守ラセ敵ノ通路エオ差塞ぎ上下ノ舩ヲ斬捕被堅海上其外中国四国ノ勢馳参リテ( )礼
シケレハ将軍家モ安堵ノ思ヒヲナシ給ヒケレ・・・省略・・・・・
将軍ハ御運ノ甲斐ナク御座テ終ニ御本意ヲ遂タマハス後ニハ剃髪シ玉ヒ霊陽院殿昌山ト申奉リシハ義昭将軍ノ御事ナリ」
◎検証:
将軍義昭が西国に下向したことを「信長公記」は記していない。信長側からみれば、再三再四戦いを挑んで
来ては、いつもの奥の手で京都御所に急使を遣わし、信長との和平勧告の論旨を下賜されようと図る
(桑田忠親氏)義昭に閉口し、西国に行こうが何処に行こうが気にしていなかったのではないか。
又、信長の日々の行動を記したことからしても、記載されていなくても不思議ではない。
「中古日本治乱記」に記載されているのは、「信長として、将軍義昭を追放して、名実ともに中央の政権
を掌握したものの摂津大坂には石山本願寺や三好の余党らが信長打倒の共同戦線をはっている。又、
東国には武田勝頼、北越には上杉謙信が控えているため、安芸の毛利輝元一族と正面衝突することは、
出来るだけ避けたかった。
そこで信長と毛利一族との間で、この危機を無事に乗切るため和平交渉が行われた。その時の交渉の
使者が、信長方が木下秀吉と朝山日乗と毛利方の安国寺恵慶瓊であったとの事(桑田忠親)。これから
して将軍義昭と毛利家の動向を木下秀吉が注視していたのではないか。そのために「中古日本治乱記」の
作者の山中長俊は秀吉とともに行動し、その詳細を熟知していたからこそ記載したのではないか。
将軍義昭は「槇島城の戦い」に敗れ、若江城にそこから堺に移り、更にそこから紀伊の宮崎の浦へそして
最後の地となる備後の鞆に移った。
義昭とすれば幾度となく備後の国に下向して毛利輝元の協力を得る算段を試みたが、ここにようやく実現
し、信長包囲網を再度構築して信長を討ち倒し、京都へ上洛し二条城に将軍として復帰することが出来るのか。
その夢が実現に一歩前進したと考えたのではないか。
毛利一族としても、将軍義昭が鞆に来てしまった以上どうすることも出来ず、取敢えず敬意を表して献上品
を差上げ、身辺警固のため部下を配置する気配りをしている。その内容は「後太平記」「中古日本治乱記」も
内容に差はなく検証史料と比べても信憑性はある。
ただ、「中古日本治乱記」には戦いに敗れ、この地から再度上洛のための捲土重来を誓った足利尊氏のようには
いかず剃髪し出家した義昭の憐れみを山中長俊は記している。
・・・・・・・・・・続く・・・・・・・・・・・・・