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雑賀衆・雑賀三緘について

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徳富蘇峰が「雑賀三緘は紀州雑賀一揆の将」と本に記載!!!

2020-11-10 22:38:05 | 調査
紀州藩に提出した亡き祖母の実家の雑賀家譜に記載がある先祖小蜜茶雑賀三緘を十年近くに亘リ調査検証作業をしてきましたが、ついに小生と同じ見解を持つ大御所を見付け出すことが出来ましたので報告いたします。
その大御所とは、明治から昭和戦後期にかけての日本のジャーナリスト、思想家、歴史家、評論家である
徳富蘇峰(猪一郎)で、徳富が書いた『近世日本国民史織田氏時代中編』に記載があることを見つけ出しました。

同志社大学の吉田曠二氏は「徳富蘇峰著『近世日本国民史』に見る織田信長と豊臣秀吉」にて、徳富蘇峰
は今の日本では残念ながら忘れられた歴史家である。しかし、歴史家としての蘇峰の業績は大きく『史記』を著した中国の司馬遷、西洋では『ローマ帝国滅亡史』を著した英国のギボンにも匹敵する堂々たる存在感を見せている。蘇峰は太田牛一の描いた『信長公記』を信頼し重宝して活用していると述べている。

蘇峰は月刊誌『国民之友』を主宰し、明治21年民友社とは別に国民新聞社を設立し『国民新聞』を創刊。
大正7年7月55才となった蘇峰は『近世日本国民史』の執筆に取り掛かって『国民新聞』にこれを発表。
『近世日本国民史』は日本の正しい歴史を書き残して置きたいと云う一念から始まった蘇峰のライフワークである。織田信長の時代以降の歴史を著した。昭和27年4月20日に全巻完結した。『近世日本国民史』は史料を駆使し、織田信長から西南戦争まで記述した全100巻の膨大な史書で34年の歳月が費やされた。蘇峰の弟は徳富蘆花である。(参照:ウイキペディア等)

蘇峰が小生と同じ見解である事案は太田牛一の『信長公記』に記載があり、雑賀三緘の記載箇所を
下記に示す。

〇『信長公記』太田牛一著 桑田忠親 校正 雑賀御陣の事 巻十 天正五年
正月二日、三州吉良の御鷹野より安土御帰陣。・・・・省略・・・・

二月二日、紀州雑賀の内三緘の者、並に根来寺杉之坊、御見方の色を立て申すべきの趣、御国々
への仰せ出ださる。・・・・省略・・・・

☞ 「雑賀の内三緘の者」に対して蘇峰は下記見解
〇『近世国民史織田氏時代中編』 徳富蘇峰著 民友社発行 大正八年六月二十日発行
・【八十一】毛利、上杉、及び信長
毛利氏水軍の、大坂川口に於ける勝利は多大の影響を、否信長黨に及ぼした。
本願寺は此によりて、蘇生の思をした。・・・・省略・・・・
元来謙信は、本願寺門徒と、加賀、能登の間に於て、相戦うた。然かも足利義昭は、本願寺と
謙信とを握手せしめて、信長に當らしめんと欲し。天正四年五月、調停の功空しからず、両者の
和親成立した。・・・・省略・・・・

信長は大阪本願寺の、急に抜く可らざるを見て、其の手足を断つ可考へた。折しも紀州の雑賀、根来の
僧侶、有田郡岩屋城主畠山貞政と相役して、本願寺に応じ、兵を和泉に進め、大阪と聯絡を取らんと
した。此に於て信長は、天正五年二月、安土を出て、雑賀三緘、及び根来の杉坊衆徒を誘ひ、大兵を
率ゐて、京都より河内を経、和泉に入り。・・・・省略・・・・

『 信長公記』: 「雑賀の内三緘の者 」 として不特定
『近世国民史織田氏時代中編』:「雑賀三緘(みからみ) 」 と記し、 一人の人物として特定して いる。
※『近世国民史織田氏時代中編』:人物年表 ⇒ 雑賀三緘 とは、紀州雑賀一揆の将。天正四年織田
の攻むる所と為り、之に降る。【八十一】毛利、
上杉 及び信長。
小生が調査究明してきたのは、正に祖母の実家である雑賀家譜に記載がある一人の人物(将)としての
雑賀三緘である。『信長記』の小瀬甫庵も「雑賀ノ三緘ト云者」として一人の人物として捉えているので
ある。

上記に対して下記が既にご報告しました小生の見解ですが、中々小生と同じ見解の資料を見いだせな
く今日まで時間を費やしてしまった。下記と合わせて小生の見解をご検証の程お願い申し上げます。


亡き祖母の実家の雑賀家譜(和歌山県立文書館:資料番号5914・5915・5916・5917・5918)に記載がある雑賀衆である《小蜜茶雑賀三緘≫について記載がある古文書関係『後太平記』『中古日本治乱記』等の信憑性を今まで調査・検証して来ました。
検証結果は逐次報告して参りましたが、此度は既に報告してはいますがそれぞれの立場から捉えた資料
(史料)から検証してみたいと思います。
既に2013年6月23日に一度≪小蜜茶雑賀三緘≫が記載されている記載本の一覧を報告しており重複しますが、新たに見つけた資料(史料)も有りますので再度報告いたします。
又、第十四回報告で《小蜜茶雑賀三緘》についての報告していますが、その時の追加検証をも合わせて報告いたします。

今回は石山本願寺合戦にて、信長側、豊臣側、徳川側、毛利側(石山本願寺側)と真宗(石山本願寺側)から見た資料(史料下記)を同一事案を通して既に第16回報告の≪小蜜茶雑賀三緘≫の検証と『中古日本治乱記』『後太平記』の信憑性を、再度検証してみたいと考えます。但し、『中古日本治乱記』及び『後太平記』は《小蜜茶雑賀三緘≫が記載されている事案を記す。尚、『中古日本治乱記』は秀吉の祐筆山中長俊著の為に秀吉側とし、『後太平記』は著者の多々良姓からして、又、記載内容の大半が尼子氏・毛利氏関連が多い為毛利側としてみた。但し記事の出典基はほぼ『中古日本治乱記』より引用しているようであるので、雑賀衆関連事案は豊臣(信長)側とも見ることが出来る。


◎豊臣側
○『中古日本治乱記』 国立国会図書館蔵 ・ 国立公文書館蔵
・将軍方所々蜂起之事(巻第55) ※雑賀三緘入道
「将軍義昭卿既ニ備後国ニ御下向有テ毛利右馬頭輝元吉川駿河守元春・・・・省略・・・
淡路岩屋城ヘハ丹地太郎兵衛尉神野加賀守小林民部少輔三百余騎ニテ討納紀州雑賀三緘入道鱸孫市的場源七郎ハ一揆一満人率シ和泉千石塚ニ城ヲ気築門跡ノ一揆ヲ輔将軍ノ御上洛ヲ待向フ・・・・省略・・・」

◎毛利側
○『後太平記』 『物語日本史大系』 早稲田大学出版部
・諸城警禦之事(地部巻41) ※雑賀三緘入道
「将軍則已に備後ノ國に下向あって、毛利、小早川を頼ませ給ひ、上洛御座・・・・省略・・・
淡路岩屋の城へは丹地太郎兵衛ノ尉神野加賀ノ守、小林民部ノ少輔三百騎にて討入、紀州雑賀三緘入道、鱸孫市的場源七郎は一揆一萬餘人を卒し、和泉ノ國千石塚に堀を築き、門跡を輔け、将軍上洛を待向ふ・・・・省略・・・」

○『後太平記』 『物語日本史大系』 早稲田大学出版部
・将軍摂州御發向之事附一向門跡一揆之事(地部巻第40) ※雑賀三緘入道
「六条本国寺にて討申され泄されたる三好一族、今年蘇軍を發し、摂津ノ國・・・・省略・・・
神野加賀ノ守、丹地太郎兵衛ノ尉、其勢都て七千餘騎、摂津の中島陣取り給ひ、兇徒退治の軍慮急り也、斯る處に紀伊ノ國住人雑賀孫市郎、雑賀三緘入道、岡崎三郎大夫・渡邊藤左衛門ノ尉、的場源七、土橋平次、根来法師岩室清祐、各一萬餘騎にて馳せ参る・・・・省略・・・」

○『後太平記』 『物語日本史大系』 早稲田大学出版部
・摂州大坂一向門跡合戦野事(地部巻第42) ※同(雑賀)三入道
「織田信長の武威益天下を呑む、・・・・省略・・・
雑賀孫市郎、同三緘入道、的場源七郎、渡邊藤左衛門ノ尉、岡崎三郎大夫、根来法師岩室清祐、各一手に成り、 紀伊の勢一万餘騎、和泉ノ國に討ち出で、中野、貝塚、千石堀に楯籠り、門跡一揆に一味して、将軍御帰洛
を待無向へ・・・・省略・・・」

上記は《小蜜茶雑賀三緘(入道)≫が記載されているのみを表示したが、下記はその《小蜜茶雑賀三緘(入道)が表示され、尚且つ同一事案(『信長公記』雑賀御陣の事 巻十:雑賀之内ミカラミの者とは誰だ!!)を表示する。
この《ミカラミの者》が非常に重要であると小生は考える。
何故ならば、杉之坊の者と雑賀の内ミカラミの者が信長側に味方になる旨を内通しに行く訳であるが、
前回の第十四回の報告でも述べているが、何処の誰だか分からない輩が遣って来ても織田信長及びその配下の重鎮は認める訳がない。
内通に遣ってきた者達は杉之坊の者にしろミカラミの者にしろ信長及びその配下の重鎮達を納得させうる者
(大将クラス:石山退去録)でなければならないと小生は考える。

そうなると、太田牛一が云う《ミカラミの者》とは誰だ!!となるのである。何故なら、杉之坊は津田太郎左衛門が佐野城の定番となることが判明するので、杉之坊は彼で間違いはないだろう。
では《ミカラミの者》とは、それは小瀬甫庵が調査して正確に『信長記』に記載しているのであるが、この確証がとれる史料が中々見つからなかったのである。見つかったのは膨大な真宗側の史料からであり、信長との対立側より記載されていることからして充分に裏付け出来ると小生は考える。

《小蜜茶雑賀三緘》が記載されているのは、下記太田牛一の『信長公記』、小瀬甫庵の『信長記』、松平忠房『増補信長記』、林 道春『将軍記』、織田長清『織田眞記』等々だが、それに対する実証する史料が真宗側の宗意編『鷺森舊事記』、恵空編『集古雑編巻上』である。



⦿ 《ミカラミの者》を探せ!!! 《ミカラミの者》を探せ!! 《ミカラミの者》を探せ!!

◎織田側
○『信長公記』 太田牛一著 桑田忠親校注 新人物往来社刊
・雑賀御陣の事 巻十 天正五年 丁丑 ※雑賀の内ミカラミの者
正月二日、三州吉良の御鷹野より安土御帰陣、・・・・省略・・・

二月二日紀伊州・雑賀之内《ミカラミの者》并根来寺杉之坊御味方の色を立て申すべきの御請け申す
につきて即ち、・・・・省略・・・

二月十八日、佐野の郷に至りて御陣を移さる。廿二日、志立ヘ御陣を寄せられ、浜手・山方両手を分け
て、御人数差し遣はさる。山方へは根来杉之坊・三緘衆を案内者として差し遣はさる・・・・省略・・・

・御名物召し置かるるの事 巻十 天正五年
雑賀表、多人数、永々御在陣、亡国迷惑を致し、土橋平次・鈴木孫一・岡崎三郎大夫・松田源三大夫・
宮本兵大夫・島本左衛門大夫・栗本次郎大夫已上七人連署を以て、誓紙を致し・・・・省略・・・

三月廿一日、信長公御馬を納められ、・・・・省略・・・
佐久間右衛門・惟任日向守・惟住五郎左衛門・羽柴筑前守・荒木摂津守、残し置かせられ、杉之坊、
津田太郎左衛門、定番に置かる。

○『織田眞記』 織田長清 享保二年(1717年)~三年(1718年) 国会図書館蔵
※雑賀三緘
二月二日紀州雑賀三緘根来杉之坊請來屬於公ニ因令諸州ニ期十三日親出師ヲ八日将如京洛此日
雨ル故ニ止行ヲ・・・・省略・・・

二十二日進軍于志立徑山沿海分軍ヲ為ニ根来杉之坊三緘ノ輩引導於ヨリス山佐久間信盛羽柴秀吉
荒木村重・・・・省略・・・

佐久間信盛惟任光秀惟長秀羽柴秀吉荒木村重ヲ居シム焉使杉之坊津田太郎左衛門ヲソ為戌二十三日
・・・・省略・・・

○『信長記』 小瀬甫庵 国会図書館蔵 《ミカラミの者》を確認!! ⇒ 雑賀ノ三緘ト云
・紀伊國退治 巻第十 ※雑賀ノ三緘徳川者
信長公岐阜ニ於テ御越年有テハ天正五年正月吉日・・・・省略・・・

二月二日雑賀ノ三緘(カン)ト云者并根来寺ノ杉坊味方ニ参シ忠義ヲ致スヘキ旨望ミ申シ、同六日上洛ス、
サラハ三緘(カン)ヲ案内者トシテ雑賀ノ兇徒ヲ退治セラルヘシトテ・・・・省略・・・

同二十二日志立ヘ被寄御本陣海手山手ヘ勢ヲ分テ推入せラルルニ、先案内者ナレハ杉坊并雑賀ノ三緘(カン)
ヲ先トシ・・・・省略・・・

土橋平次鈴木孫一・罡埼三郎大夫ナト佐久間ニ便テ一命ヲ助置レハ、以謀畧ヲ大坂ノ城ヲカヅキ可申旨
種々侘言申ニヨッテ被助一命ケリ、角テ佐野城ニハ津田太郎左衛門尉ニ杉坊指添テ為定番被入置。

◎徳川側
○『増補信長記』 松平 忠房 寛文寫(寛文二年:1662年) 国会図書館蔵
※雑賀ノ三緘
二月二日紀州雑賀ノ三緘及び根来杦坊味方ニ属スヘキト内通ス則諸国ニ陣觸シテ同八日雨天故不發同九日
信長公上洛妙覚寺ニ居ス・・・・省略・・・

同二十二日志立ニ陣ス於是諸将ヲ分テ三緘及杦坊郷導シテ山ノ手ヘ向フ軍士佐久間信盛羽柴秀吉荒木摂津守
別所小三郎同孫右衛門・・・・省略・・・

○『将軍記』 織田信長 寛永18年(1641)~寛永19年(1642年) 編輯 林 道春(羅山)
※雑賀乃三緘(カン)
二月二日紀州雑賀乃三緘(カン)根来の杉坊信長公御味方・・・・省略・・・

同二十二日信長志立に陣を移され三緘(カン)杦坊を先として佐久間羽柴・・・・省略・・・

◎真宗側
○『集古雑編巻上』 恵 空 編 『真宗全書』 妻木直良 編 図書刊行会 《ミカラミの者》を確認!!
・紀州取詰ル事附貝塚軍之事 ※雑賀ノ三緘入道
明ル天正五年丁丑正月。紀州雑賀ニ一揆夥シク發テ。中野・佐野・小雑賀・所々ニ要害ヲ構ヘ。・・・・省略・・・

根来ノ杉ノ坊雑賀ノ三緘入道ハ。去ル六日ニ上洛シテ。信長ニ降参シタリケルヲ案内者トシテ。貝塚ノ千石堀ニ取詰ムル。
城中少々戦テ。夜中ニ乗船。城ヲ明テ。雑賀ヘ退散ス。寄手ハ勢ヲ二ツニ分テ。・・・・省略・・・

孫一・平次・等モ。遂ニ和ヲ乞テ開城ス。斯テ津田太郎左衛門并杉ノ坊ヲ佐野城二入置キ。・・・・省略・・・

○『鷺森旧事記』 濫 觴 『大日本仏教全書』宗 意 編 《ミカラミの者》を確認!!
・信長紀州進發之事 ※雑賀ノ三緘
   元亀元年九月十三日ノ夜。・・・・省略・・・
  
   天正五年正月ニ。信長ノ給ヒケルハ。・・・・省略・・・
   信長天正五年正月十四日。京都妙覚寺日蓮宗エ上洛アリテ。雑賀征伐ノ義諚ヲ極メ給ヒシ所ニ。
雑賀ノ三緘。ナラヒニ根来寺ノ杉之坊。意變リシテ。御味方ヘ参ルヘキヨシ申ケレハ。・・・・省略・・・

寄手ノ先陣。佐久間右衛門尉信盛。羽柴筑前守秀吉。荒木摂津守。別所小三郎。同孫右衛門尉。
堀久太郎ヲ始メ。三月三日ニ。雑賀ノ三緘。根来寺ノ杉之坊ヲ案内者トシテ。・・・・省略・・・

一番史料的に信頼があると云われている太田牛一の『信長公記』第十巻「雑賀御陣之事」に記載されて
いる箇所の中から、《ミカラミの者》にスポットを当てて同一事案が記載されている史料を探求し上記の
通り羅列し比較検証出来るようにした。
諸先輩方は《ミカラミの者》を重要視せずに、単なる雑賀五カラミの中の三カラミとしてしか捉えて
いない。しかし、小生としては重要事項と捉え小瀬甫庵が示した《雑賀ノ三緘ト云者》に重大な関心を持った。

検証・追及の結果信長の祐筆太田牛一が《ミカラミの者》を、小瀬甫庵が《雑賀ノ三緘ト云者》、真宗側の恵空が《雑賀ノ三緘入道》、そして宗意が《雑賀ノ三緘》と夫々記載し、秀吉の祐筆の山中長俊の『中古日本治乱記』に記載がある《雑賀三緘入道》と一致するのである。

それは、当然祖母の雑賀家の家譜に記載がある《小蜜茶雑賀三緘》そのものである。家譜の記載内容については、和歌山県立文書館発行の『紀州家中系譜並に親類書書上げ(上)』P330によれば、「より正確な系譜を藩士に出させるということよりも、むしろ差し出された系譜をより正確にして保存することに主眼が置かれていたと考えることは出来ないだろうか」とある。付箋や貼紙で藩に修正された形跡は一切雑賀家譜にはない。

人によっては、「藩士に仕官するに際し、武功を誇り著名人を先祖(小蜜茶雑賀三緘入道)として掲げている場合が多々ある」と云われるが、上述の県立文書館の通りならば、間違っている、あるいは意図的に記載したこと等は藩に提出していることからして当然藩の役人により訂正されてしかるべきである。

しかし、雑賀家譜の記載内容については付箋や貼紙が一切ないことからして、藩に三代に亘り提出した
家譜は認知されたものとして捉えてよいのではないか。又、『中古日本治乱記』『後太平記』に記載されている《雑賀三緘入道》関連事案の内容等も戦国時代と限定すれば信頼性があると見てよいのではないか。
そして雑賀家譜に記載されている【小蜜茶雑賀三緘】が上記の史料等で確認が出来たのである。

つまり、太田牛一『信長公記』の《雑賀之内ミカラミの者》とは
小瀬甫庵が『信長記』で《雑賀ノ三緘ト云者》と解き明かし
恵空『集古雑編巻上』で《雑賀ノ三緘入道》と、宗意『鷺森舊事記』で《雑賀ノ三緘》と夫々確証した。

『中古日本治乱記』『後太平記』に記載がある《雑賀三緘入道》こそ《雑賀之内ミカラミの者》であり
雑賀家譜の【小蜜茶雑賀三緘】のことである。
このことは、和歌山県立文書館発行の『紀州家中系譜並に親類書書上げ 上』P330記載事項(上述)を
大前提に成り立っている。

























小蜜茶と雑賀三緘(入道)について・記載本一覧

2020-06-20 22:03:36 | 調査
今まで小蜜茶雑賀三緘(入道)について調査報告してきましたが、(根来ノ)小蜜茶と雑賀三緘(入道)について報告します。
昔、南方熊楠も小蜜茶を探したそうであるが分からなかったようである。
小蜜茶と雑賀三緘(サンカン)が同一人物だとはみる人はいないようだ。今まで記載した伝記・通史・軍記物・勧化本等々には各人一人
ひとりの名で記載され、二人の名で記載されているものはない。作者及び編集者等は小蜜茶と雑賀三緘を同一人物と思っていな
いようであるが、同一事案を比較対象して見れば二人(雑賀三緘入道と小蜜茶)がダブっていることがハッキリと分かる。
根来の小蜜茶は真宗関連の勧化本として登場することの方が多い。これは本名より通称で書いた方が受けがいい感じがするので
はないか。
雑賀三緘入道では硬すぎると或は小蜜茶のほうが身近な親近感を感じると著者は考え通称や呼名にしたのではないか。
小蜜茶は小生が調査した古書の中で真言宗関連で記載されたものを見たことが無い(小生が、まだ確認が出来ていない可能性
はあると思う)。
小蜜茶は真宗の雑賀衆であり真言宗の根来衆では無いため真言宗の勧化本に登場するはずがないからである。
祖母の雑賀家譜には同一人物として小蜜茶雑賀三緘として記載されているのである。しかも藩からは付箋や貼紙等で訂正さ
れてはいない。
訂正を余儀なくされた箇所は一か所もないのである。和歌山県立公文書館『紀州家中系譜並に親類書書上げ(上)330Pには「むしろ
差出された系譜をより正確にして保存することに主眼が置かれていたと考えることは出来ないだろうか」と記載されている。
藩に提出の家譜の記載にて「世人根来之小蜜茶ト申候由」といわれているとあり、小蜜茶は紀州では名が通り間違っていれば、
藩が修正なり付箋をつけているはずであるが、訂正・付箋をされた箇所は一か所もない。
それは何を意味しているかと云えば上述の通り正しいから修正なり付箋が貼り付けられていないということである。
今まで報告してまいりましたことから、記載本に記載されている名前(三緘及び小蜜茶)並びにその他の人物を下記の通り一覧表
にして分かりやすく報告いたします。
尚、個々の事案に対しては既述(2017年7月9日掲載:雑賀衆小蜜茶雑賀三緘について再考察)してありますのでそちらを参照願います。
こちらでは重複になるため割愛させていただきます。

記 ※『戦国軍記事典』天下統一篇 和泉事典シリーズ 等々参照

古文書名 作者名 成立時期 記載人物 その他
・『信長公記』 太田牛一 江戸時代初期 雑賀ノミカラミノ者 津田太郎左衛門
・『信長記』 小瀬甫庵 1611年~1612年 雑賀ノ三緘(サンカン)ト云者
・『中古日本治乱記』 山中長俊 1602 年 雑賀三緘入道
・『後太平記』 多々良一龍 草稿:1617年 発行:1677年 雑賀三緘入道
・『陰徳記』 香川正矩 1660年 根来ノ小蜜茶
・『将軍記』 林 羅山 1664年 雑賀ノ三緘(カン)
・『総見記』 遠山春信 1685年 雑賀ノ三緘(ミカラミ)
・『鷺森旧事記』 宗意 1693年 雑賀ノ三緘(ミカラミ)
・『陰徳太平記』 香川宣阿 1717年 根来ノ小蜜茶
・『集古雑編巻上』 恵空 1722年 雑賀三緘入道 津田太郎左衛門・池田惣七
・『根来由緒』 永福院 和泉 1738年 根来ノ小蜜茶
・『石山軍記』 立耳軒 1771年 根来ノ小蜜茶
・『本願寺由緒通鑑』 玄智 1794年 池田惣七
・『石山退去録』 不詳 1802年 根来ノ小蜜茶 池田惣七

この中で注目すべき古文書は、特定事案から見て下記の三点である。
太田牛一『信長公記』巻十 天正五年:不特定多数の「雑賀ノミカラミノ者 」が、
⇒ 小瀬甫庵『信長紀』巻第十 紀伊國退治:特定の「雑賀ノ三緘ト云者 」となり、
⇒真宗の僧侶恵空『集古雑編巻上』紀州取詰ル事附貝塚軍之こと:断定の【雑賀三緘入道】と記述となり、
『信長公記』の不特定者が真宗の僧侶恵空では「雑賀三緘入道」と断定された人物となるのである。

どの古文書がどれを参考にして引用しているしてのか、或は信憑性があるものなのかの判断は素人には出来ないために、今までに
類似事案を探し出し諸先輩方の資料を参考にして調査検証をして報告してきた。基本は一番信頼されているのは『信長公記』であることは
諸先輩方の研究で明らかである。然らば、どのような引用手順になるかと考えると、
『信長公記』⇒『信長記』⇒『新撰信長記』⇒『増補信長記』⇒『総見記』と引用されて行くのである。
『太平記』⇒『中古日本治乱記』⇒『後太平記』⇒『陰徳記』⇒『陰徳太平記』と引用されていくと思うが、愛知教育
大学名誉教授の今井 正之助氏は『太平記』『理尽鈔』次いで『後太平記』で最後が『中古日本治乱記』であると述べられて
いる。
古文書には引用元を記入したものもあるが、引用元をほとんど記載されていない。しかし、事案を個々によく調査していくと同じような事案で
あることが素人でもわかる。









小蜜茶雑賀三緘(根来ノ小蜜茶)、究明戦の軌跡 ・・・その3

2019-09-21 22:09:00 | 調査
小蜜茶雑賀三緘(通称或は俗称根来ノ小蜜茶)が記載されている史料を調査して発表してきましたが、前回報告漏れしたことを再度報告するとともに、
今回は、その中で気になる根来の小蜜茶を本願寺側から見た史料『石山退去録』『大谷本願寺由緒通鑑』『集古雑編巻上』『顕如上人御伝』等々を
もとに考察したいと思います。


「小蜜茶雑賀三緘(根来ノ小蜜茶)、究明戦の軌跡・・・その2」にて雑賀三緘入道が太田牛一『信長公記』にて、太田牛一が記載漏れをしていることを指摘
したが同一事案にて再考する。


◎『信長公記』太田牛一 雑賀御陣の事 巻十 ⇒ 三緘(カラミ)の者 三緘(カラミ)の者は不特定多数

「正月二日、三州吉良の御鷹野より安土御帰陣。正月十四日、・・・・省略・・・・ 以下略

二月二日、紀州雑賀の内三緘(ミカラミ)の者、並に根来寺杉之坊、御見方の色を立て申すべきの御請け申すにつき」、・・・・省略・・・・

◎『信長記』小瀬甫庵 紀伊國退治 ⇒ 三緘(カラミ)ノ者を三緘(カン)ト云者に特定!!

「信長公岐阜ニ於テ御越年有テ天正五年正月・・・・省略・・・・ 以下略

二月二日雑賀ノ三緘(カン)ト云者并根来寺ニ杉坊味方ニ参シ忠義ヲ致スヘキ旨望ミ申シ」。・・・・省略・・・・

◎『集古雑編巻上』『真宗全書』光遠院恵空編 紀州取詰ル事付貝塚軍之事 ⇒ 雑賀ノ三緘(カン)ト云者を雑賀ノ三緘入道ト断定!!!

「明ル天正五年丁丑正月、紀州雑賀ニ一揆夥シク發テ。・・・・省略・・・・ 以下略

根来ノ杉ノ坊雑賀ノ三緘入道ハ。去ル六日六日ニ上洛シテ。信長ニ降参シタリケルヲ案内者トシテ」。・・・・省略・・・・

上述の通り同一事案にて、太田牛一の「信長公記』で「三緘(ミカラミ)の者」が、小瀬甫庵『信長記』には「雑賀ノ三緘(カン)ト云う者」に特定し、
真宗側の恵空編では「雑賀ノ三緘(カン)入道」ト断定した。

織田方の味方となることを伝える使者がどこの馬の骨だかわからない不特定多数の者であるはずがない。牛一は「杉ノ坊津田太郎左衛門並びに
三緘(ミカラミ)ノ雑賀ノ三緘(カン)入道」とすべきであった。太田牛一には味方になることが重要であり誰が来ても同じなのである。
真宗側の『集古雑編巻上』では「後勘ニタメ目録如左」として『信長紀』『後太平記』『総見記』等記しているが、『後太平記』より引用して
いるようだが、祖母の雑賀家譜に「雑賀三緘、根来寺ニ登山之節ハ杉之坊ニ相詰候付、世人根来之小蜜茶ト申候由」と記載があるように雑賀孫市と
同様に入道として捉えていることが分かる。そのために小瀬甫庵『信長記』での「雑賀ノ三緘(カン)ト云者」を真宗側の人間として「三緘入道」と
したのではないだろうか。

※ミカラミの者・雑賀三緘ト云う者・雑賀三緘(入道)と表記が変わるが本質は同じである。更に云えば、根来ノ小蜜茶である。これから下記(既に記載スミ
ではあるが)に記載するが、雑賀三緘と根来ノ小蜜茶も同一人物である。これに奥△△が小蜜茶と云われる根拠等ない。
奥△△が小蜜茶ならば、どこかで片鱗を見せていなければおかしい。『芸藩志拾遺第十二巻』『元和五年侍帳』等に奥こみつちゃとあるが、
紀州藩の『紀州家中系譜並に親類書書上げ』のようにその都度家譜の内容を確認され、間違いがあれば訂正・付箋等の修正をされた訳ではない。
雑賀家譜はその都度藩に提出して確認をされているが、修正・付箋等の修正箇所は一切ない。

『信長公記』巻九「原田備中、御(三)津寺へ取出討死の事」に対して真宗側捉えた『石山退去録』『大谷本願寺由緒通鑑』『集古雑編巻上』
『顕如上人御伝』等の関連を記述する。これには小蜜茶が「池田總(惣)七」(小生には詳細は不明)を討取ることが記載されている。

小蜜茶が最初に記載されたのが、岩国吉川家家老香川正矩作で万治3年(1660年)と見られると(米原正義 校訂者マツノ書店)述べている『陰徳記』
ではないか。次が、香川正矩の子の香川宣阿著『陰徳太平記』で後は『紀州根来由緒書』の『根来由緒』となるのではないか。

雑賀三緘(入道)と根来ノ小蜜茶との関連を天正四年の事案をもとに検証する。

◎『信長公記』 原田備中、御(三)津寺へ取出討死の事 巻九
四月十四日・・・・省略・・・・

「 五月三日、早朝、先は三好笑岩・根来・和泉衆。二段は原田備中、大和・山城衆同心致し、彼の木津へ取寄せ
候のところ、大坂ろうの岸より罷り出で、一万計にて推しつつみ、数千挺の鉄砲を以て・・・・省略・・・・
既に、原田備中、塙喜三郎、塙小七郎、簑浦難右衛門、丹羽小四郎、枕を並べて討死なり。
・・・・省略・・・・」

◎『後太平記』 摂州大坂一向一門跡合戦之事 地部巻第四十二

「織田信長の武威益天下を呑む、・・・・省略・・・・

天正四年の四月十四日に、惟任日向ノ守、長岡兵部ノ大輔、筒井順慶、原田備中ノ守に三萬ヨキ餘騎を属け、
・・・・省略・・・・城内には下間刑部法印、同少進法橋、城の四面に弓鉄砲の射手を配り、・・・・省略・・・・

五月三日の朝陽に・・・・省略・・・・、原田が手にて先を蒐けたる箕浦無右衛門ノ尉、塙喜三郎、同小七郎、
丹羽小四郎、宗徒の勇五十餘騎討たれ・・・・省略・・・・

其比雑賀孫市郎、同三緘入道、的場源七郎、渡部藤左ヱ門ノ尉、岡崎三郎太夫、根来法師岩室清裕、各一手
に成り、紀伊の勢一萬餘、・・・・省略・・・・

◎『陰徳記』(上) 原田備中守討死之事 香川正矩著 米原正義校正著

「・・・・省略・・・・
同、五月三日先陣三好笑岩・根来ノ衆徒、其外和泉・河内ノ加勢ノ者、二陣ハ原田備中守ト定メ、木津ノ城ヘ押寄
タリ。木津ノ城ヨリ下間出羽守・八木駿河守・木津ノ願泉寺・江戸報恩寺・本多土佐守・鈴木孫市・同一楠・田辺
平次・山田新介・村上利介・山内内記・・・・省略・・・・

益田頸掻切高クサシ上、原田備中守ヲ討捕タリ、ト訇リケリ。 是ヲ見テ塙喜三郎・同小七郎・氏家左近進・箕浦無右衛門
一所ニテ枕ヲ并討死ス。・・・・省略・・・・

◎『陰徳記』(上) 大坂大寄之事

「斯テ於大坂表味方度々利ヲ失、剰原田備中守ヲ初トシテ宗徒ノ兵五百予騎討レタリト告来ケレハ、・・・・省略・・・・
信長来六日大坂大寄ト披露アリ。・・・・省略・・・・
其碁ニ又惣堀アリ。早鐘ヲ相図ト定ラル。浮武者ハ下間三位・八木駿河守・鈴木孫市・同一楠・田辺平次・根来ノ小蜜茶・
山田新介ヲ大将トシテ、六萬騎ニ中ヨリ究竟ノ兵七千余騎撰出シ、・・・・省略・・・・。

◎『石山退去録』 織田方、池田惣七の活躍 関西大学中世文学研究会編
・・・・省略・・・・
「信長勢ハ侍大将原田備中守ヲ紀州ノ住人鈴木孫市ガ郎等親(雑カ)賀ノ勘平ガ討取タリ。」ト声高々ト喚ハレバ、信長勢ノ其内ヨリ
無念ト歯ガミヲシテ、池田惣七トシクニト云モノ、染皮オダシノ鎧ヲ着シ、・・・・省略・・・・

トキニ、池田惣七イヨイヨ勢ツヨク切リマワル。トキニ、石山勢デハ、「テモニクキ池田カナ。」ト、進出ハ根来ノ小蜜茶、、鎧甲モヌギステ、紅縮緬ノ鉢巻シ、本
ヨリ好ム大刀ハキ、サモ大ヤウニ声高ク、・・・・省略・・・・
根来ノ小蜜茶、、カラカラト打笑・・・・省略・・・・ 池田氏構ノ立石ニ打付ラレ、頭微(塵欠カ)ニ打クダカレ、ウント一言此世ノ最後、二言トナシニ
惣七ハ相ハテタリ。・・・・省略・・・・

◎『石山退去録』 天正四年五月六日の合戦事のこと(補説)

「・・・・省略・・・・
天正四年五月六日ノ合戦ニ、石山ノ要害ハ堅(固)ニモ、サカモギ五重ニ並ベ、其内ニ幅五間ノカラ堀ヲ深クホリ、其後ニハ水堀
ヲコシラヘ、城中ノ軍兵凡ソ六萬余キ。偖、浮武者ト云テ、一手ガ千キヅツ、七組有コトジャ。先ヅ一番ニ下間三位、弐番ニハ
八木駿河、三番ニハ鈴木孫市・四番ニハ同一角、五番ニハ田辺平次、六番ニハ根来ノ小蜜茶、七番ニハ山田新助、此等
ハ皆一騎當前(千)ノ勇兵ナレバ、・・・・省略・・・・

◎『集古雑編巻上』摂州木津軍信長敗北之事 恵空編
元亀以来。・・・・省略・・・・

天正四年四月丙子夏四月(家譜・後太平記・信長記)木津ニ要害ヲ構テ。・・・・
五月三日ニ攻来ル。長岡兵部・荒木摂津・惟任日向・原田備中・筒井順慶大将トシテ。木津ノ城ヘ取向フ。・・・・省略・・・・

原田前後度ヲ失ヒ。左右ハ田溝ニテ進退極リテ遂ニ討レニケリ。家ノ子ニ塙ノ喜三郎・同小七郎・丹羽小四郎・箕浦元右衛門・同三郎右衛門・
野崎四郎・池田總七・宮本庄助・同孫右衛門・野呂源左衛門・槇與次・等。宗徒ノ勇等五十餘騎。枕ヲ雙ベテ討レケル。・・・・省略・・・・

◎『大谷本願寺由緒通鑑』 第三巻 大日本仏教全書

天正四年四月。信長仰ラレシハ。東国北国ノ諸将皆我ニ従フ處ニ。大坂本願寺敵對スルコソ鬱憤少カラズ。・・・・省略・・・・

五月三日早朝ヨリ合戦ノ手筈ヲ定テ。先陣三好笑岩竝根来寺ノ衆徒ニ。・・・・省略・・・・
後陣ニアリケル原田備中守ヲミテ。先陣逃タリトモ後陣入替テ。一足モ引ナ引ナト面モフラズ下知ヲナス。サレドモ多勢シドロニナリテ敗軍シケレバ。
大将原田備中守宗行ヲ始トシテ。丹羽小次郎。箕浦二郎右衛門。野崎四郎。池田總七。森本勝助等名アル歴々討死シタリケル。

◎顕如上人御伝『石山本願寺戦争畧記』 鷺森旧事記 田中 庄二郎/編
其三
中にも原田備中守と云う信長の侍大将原田は勇にほこる血気の武士練貫の直衣に啄木威しを着し栗毛の馬にゆらりと
またがり十文字の・・・・省略・・・・
原田が首をうちをとし太刀のさきにつらぬき大音上げ信長の侍大将原田備中守を孫一が郎等討取りたりと呼はれば隻方
の軍勢互いに雌雄をあらそひて根限りと戦へば或は討れ討とり又はさしちがへ討死するものその數を知らざる程なりけり
其四
爰に信長の陣中に池田總七と云侍あり大勇剛なり彼の原田が討取られしを見るより・・・・省略・・・・
其五
去ほどに信長の勢は十万八千の大軍殊に池田總七俊洲が比類なき勇戦に石山勢は気をのまれ・・・・省略・・・・
下知せらるれば雙方互ひに火花をちらし炎をふらし湯玉を涌して攻たたかふ中にも石山の御中より根来小蜜茶と云ふ
若者一人・・・・省略・・・・
石弐山に敵をなす法敵強悪の大賊め首を某にわたすへしと罵れば池田總七俊洲大に瞋り乞食の奴原非礼をぬかすなと討て
かかるを小蜜茶ハひらりと飛び退き太刀にて一討うつぞと・・・・省略・・・・
小蜜茶は吾持つ太刀もからりと振すて飛びかかりて總七が弓手の肩さき引きつかみゑいと云より五六間微塵になれと投付
くれば池田總七俊洲は構の角石で頭は微塵に討ひしがれ鬼をもあざむく血気も眼みはり手足をふるわし歯をくひしばり
息はたへて死にけりと・・・・省略・・・。

当然上述の通り小蜜茶の表記には織田側の池田惣(總)七との戦のと箇所であり本願寺側の人によるところが多い。
これは、本願寺側から信徒に語る合戦譚(勧化本)と云われる。真宗の活動に真言宗の根来衆の人物(奥△△)を記載する理由が
あるはずがない、当然登場人物は雑賀衆(雑賀三緘入道)である。
真宗側の史料は、どこから引用しているかは素人の小生には分からないが互いに補完し合っているように見える。同一事案で
雑賀三緘(入道)と小蜜茶がオーバラップしていて、奥△△が根来ノ小蜜茶と云われるのであれば当然どこかしこに奥△△の活躍
が記述されてしかるべきであるが全然ない。これはどうしたことか。答えは簡単である、奥△△が小蜜茶でないからである。








究明 根来ノ小蜜茶(雑賀三緘入道)

2019-01-26 19:59:20 | 調査
亡き祖母の雑賀家譜に記載がある〖小蜜茶雑賀三緘〗を調査してきました史料を雑賀三緘と小蜜茶と分けて報告
してきましたが、より一層雑賀三緘が根来ノ小蜜茶であることが分かるように同一事案・関連事案として再度時系列に下記
に報告いたします。
下記の通り小生が調査している中で、元亀元年に発生した野田城・福島城の戦いで雑賀三緘(入道)が登場した。その後
登場する事案を列挙しているが、井上正雄氏編纂の『大阪府全志』第五巻和泉の記事中千石堀、積善寺、澤の各城は天正
初期より末期にいたる間紀州の雑賀衆及び根来衆と織田信長、豊臣秀吉との両軍の戦いに関係並びに戦況を明確に示
している。
その中で、雑賀孫一郎、土橋平次、的場源七郎、渡邊藤左衛門、岡崎三郎太夫、根来岩室清裕等々と一緒に雑賀入道三緘が
応援し信長を悩ませた。又根来根来の衆徒は天正十二年小牧長久手の役では、徳川側につき豊臣秀吉に対抗して中村一氏
守る岸和田城を壓せんとし小蜜茶(雑賀三緘)も根来の衆徒共に加わっている。
これにより、奥△△が根来ノ小蜜茶でないことがハッキリと分かると思います。どこの事案にも奥△△の形跡がないのである。
奥△△が根来ノ小蜜茶であれば当然形を変えても形跡が残されていなければならないはずである。突然登場すること事態
ありえない。



元亀元年:
◎野田城・福島城の戦 (第一次石山合戦) 雑賀三緘(カン)登場!!!

・(1)『信長公記』野田福島御陣の事 (巻三) 太田牛一著 桑田忠親校注
御敵、南方諸牢人大将分の事。細川六郎殿、三好日向守、三好山城守、安宅、十河、篠原、岩成、松山、香西、三好為三、
龍興、永井隼人、此の如き衆八千ばかり野田、福島に楯籠りこれある由に候。・・・・省略・・・
 9月三日、摂津国中嶋,細川典厩城迄、公方様御動座、大坂十町ばかり西に、ろうの岸と云う所、御取出に仰せ
付けらる。
 斎藤新五、稲葉伊予、中川八郎右衛門両三人入おかる。並びに、大坂の川向いに、川口と申す在所候を、是れ
又、・・・・省略・・・

・(2)『後太平記』下巻 将軍摂州御發向之事附一向門跡一揆之事(地部巻第四十)
六条本國寺にて討申され泄されたる三好一族、今年蘇軍を發し、摂津ノ国野田福島に城を構ヘ蜂起すと聞えし
ば、・・・・省略・・・
九月三日、京師を打立ち給ふ、供奉の人々には、上野中務大輔、同佐渡ノ守、大館治部ノ大輔、京極近江ノ守・・・・省略・・・、
斯る處に紀伊ノ国の住人雑賀孫市郎、雑賀三緘入道、岡崎三郎大夫、渡部問藤左ヱ門ノ尉、的場源七、土橋平次、根来法
師、岩室清裕、各一万四餘騎にて馳せ参る、・・・・省略・・・

・(3)『中古日本治乱記」 野田福島合戦附江州宇佐山軍(事) 巻第53
信長ハ江州ノ合戦ニ討勝テ暫ク休息シ玉ヒケル処ニ同年ノ八月三好山城守康長入道笑岩同日向守定康等摂州ニ蜂起シテ野田福島ノ
城ニ楯籠り又福島ノ城ニハ安宅甚太郎一倍ヲコメ置国中ヲ掠テ犯スノミナラス京都ノ将軍足利義満ヲ窺フヨシ岐阜ニ告来リシカハ信長安カラヌ
事ナリトテ大事ヲ引率シテ摂州ニ馳
向ヒ両城ヲ囲セメケル城兵モ稠ク防テ城落サリシ
九月ニハ将軍義昭モ京師ヲ御出發有テ摂州中嶋ニイタリ玉ヘハ信長ハ天満森ニ陣ス斯ル処ニ根来寺雑賀ノ輩信長ニ馳加リテ同ク野田福島
ヲ責タリケル爰ニ大坂ノ本願寺門跡光佐顕如三好等ニ語ヒ野田福島ノ後詰トシテ門徒ノ僧ハ申スニ及ハス・・・・省略・・・

・(4)『鷺森旧事記』 本願寺信長鉾楯之事
元亀元年八月三好日向守。同備中守等。三千餘騎ニテ。摂州野田福嶋ニ要害ヲ構ヘ。楯籠リケレハ。
同九月三日。信長スウ數萬騎ヲ引率シテ。野田福嶋ヘ押寄給フ。信長公ハ元来日蓮宗ナリ。・・・・省略・・・

・(5)『集古雑編巻上』 大坂御坊建立之事 恵空編(光遠院恵空師):『真宗全書』妻木直良編
元亀元年八月下旬。去年正月六日ニ諸軍記本国寺ニテ敗北シケル三好ノ一族等。阿波國ヨリ催シ上テ。摂州野田福島ニ出張ス。・・・・
省略・・・
九月三日京都ヲ立テ。摂州中島ニ着陣セリ。信長ハ天満森ニ陣ヲ居ヘ。・・・・省略・・・
此日雑賀ノ住人。鈴木孫一・土橋平次・岡崎三郎大夫・渡邉藤左ヱ門・的場源七・三緘入道・根来法師・岩室清裕等。一萬
餘騎。
駆来テ同両城ヲ攻ム。・・・・省略・・・
二千挺ノ鉄炮ヲ放チカケテゾ攻タリケル。『総見記』十ニ云。・・・・省略・・・

・(6)『総見記』 巻第十 信長公摂州野田福島大坂表御出馬事
摂州蜂起の事、聞し召しとどけられ、信長公彼の表御發向美濃、伊勢、三河、と遠江の・・・・省略・・・
九月三日日向守が子兵庫助、俄かに池田の城池田の城を明けて、福島に逃入る。・・・・省略・・・
同日紀州根来衆、岩室杉坊五千人餘人引率し、又、畠山の被官の面々玉木、湯川が名代勢一千餘人、皆々天王寺ヘ参
上し、信長公に加はる。・・・・省略・・・

・(7)『陰徳記』 信長与本願寺合戦之事
・・・・省略・・・
其頃三吉笑岸・同日向守・同為三・同新左衛門・東条紀伊守・篠原玄蕃允・奈良但馬守・岩成主税助・安宅神太郎・細川六
郎・同馬廻守等、摂津野田・福島ノ両城ニ籠、・・・・省略・・・
元亀元年八月廿六日町六萬騎ヲ引率シテ摂州へ發向シ、野田・福島ノ在家ヲ放火シ天満之森・神崎楼之岸・上難波・下難波ニ陣ヲ
取・・・・省略・・・
紀州根来雑賀ノ者トモハ兼テ門跡へ心ヲ合セ置ツ、表向ハ信長へ加勢ト名付其勢一万余騎、・・・・省略・・・

※小生が調査している〖小蜜茶雑賀三緘〗が、時代的に早く見えるのは野田・福島城の戦いからである。
『後太平記』に雑賀三緘入道として記載され、真宗側史料として『集古雑編巻上』には僧侶としての三緘入道
と雑賀衆・根来衆の主だった者と共に記載されている。
上述の「『集古雑編巻上』には、『総見記』十ニ云」とあるが、『総見記』には根来衆徒だけあり、敢えて(雑賀)三
緘入道としたのは、真宗側としてはハッキリと分かっていたからにほかならないのではないか。

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天正四年:
◎将軍義昭御下向

・(8)『中古日本治乱記』将軍方所々蜂起之事 巻第55
将軍義昭卿既ニ備後国ニ御下向有テ毛利右馬頭輝元吉川駿河守元春小早川左衛門隆景一味シ大軍ヲ師テ御上洛アルヘシト
聞ヘシカハ将軍方ハ不及申信長ニ恨ヲ含ムトモカラ機内中国ノ武士トモ暫く悉ク陰謀ヲ企テ中ニモ荒木摂津守同志摩守一族ニ隼人佐
同新之丞越中守同越中守同久左衛門尉野村丹後守牧左衛門尉等ハ摂津国伊丹花隈尼崎三ヶ所ノ城ニ楯コモル・・・省略・・・・
淡路岩屋城ヘハ丹地太郎兵衛尉神野加賀守小林民部少輔三百余騎ニテ討納紀州雑賀三緘入道鱸孫市的場源七郎ハ
一揆一万人ヲ卒シ和泉千石塚ニ城ヲ築門跡ノ一揆を輔将軍ノ御上洛ヲ待つ向フ・・・・省略・・・・

・(9)『後太平記』下巻 諸城警禦之事 地部巻第41
将軍即已ニ下向あつて、毛利、小早川を頼ませ給ひ、上洛御座します由聞えしかば、畿内、中国武士共大半味方に馳せ
加る、中にも荒木摂津ノ守、同志摩ノ守、一族隼人佐、同新丞、同越中ノ守同久左衛門ノ尉、野村丹後ノ守、牧左衛門ノ尉、各
摂津ノ国伊丹、花隈、尼崎三箇所の城に楯籠る、・・・・省略・・・・
淡路岩屋の城へは丹地太郎兵衛ノ尉、神野加賀ノ守、小林民部ノ少輔三百餘騎にて討入り、紀州雑賀三緘入道、鱸孫市、
的場源七郎は、一萬餘人を率し、和泉ノ国千石塚に堀を築き、門跡一揆を輔け、将軍上洛を待向ふ・・・・省略・・・・

※ この事案では内容がほぼ同一であり、豊臣秀吉の祐筆である山中長俊が記述した『中古日本治乱記』より多々良
一龍(撰)『後太平記』に引用したのか、又はその逆なのかは素人の小生では分かるはずがないが、鱸孫市・的場源七郎
等と一緒に雑賀三緘入道が記載されているのである。

本事案は本願寺側と織田信長の対立は上記の野田城・福島城の戦いで始まっているが、本願寺側は一時織田信長
側に付いていた将軍足利義昭が、信長から離反し備後の鞆津に滞在し安芸の毛利氏に本願寺支援の出兵を勧めるとと
もに、越後の上杉氏にも上洛を促していた(『本願寺文書』)。そのことにより毛利氏側雑賀衆等が本願寺側に支援
していること示している。

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◎天王寺の戦い 小蜜茶登場!!!

・(10)『信長公記』 原田備中、御(三)津寺へ取出討死の事 (巻九)
四月十四日、荒木摂津守・長岡兵部大輔・惟任日向守・原田備中四人に仰せ付けられ、上方の御人数相加へられ、大坂
へ推し詰め、荒木摂津守は、尾崎より海上を相働き、大坂の北野田に取出を推並べ、三つ申しつけ、川手の通路を取り
切る。・・・・省略・・・
五月三日、早朝、先は三好笑岩・根来・和泉衆。二段は原田備中、大和・山城衆同心致し、彼の木津へ取寄せ候のところ、
大坂ろうの岸より罷り出で、一万計にて推しつつみ数千挺の鉄砲を以て、散に打ち立て、上方の人数くづれ、原田備
中手前にて請止、数刻相戦ふと雖も、猛烈に取り籠められ、既に原田備中、塙喜三郎、塙小七郎、箕浦無右衛門、丹羽小
四郎枕を並べて討死なり、・・・・省略・・・

・(11)『後太平記』 摂州大坂一向一門跡合戦野事 地部巻第42
織田信長の武威益天下を呑む、・・・・省略・・・
天正四年の四月十四日に、惟任日向ノ守、長岡兵部ノ大輔、筒井順慶、原田備中ノ守に三萬餘騎を属ケ、・・・・省略・・・、城内
には下間刑・・・・省略・・・
五月三日の朝陽に・・・・省略・・・、原田が手にて先を蒐けたる箕浦無右衛門、丹羽小四郎・・・・省略・・・、
雑賀孫市郎、同三緘入道、的場源七郎、渡邉藤左ヱ門ノ尉、岡崎三郎大夫、根来の法師岩室清裕、各一手になり、紀伊の勢
一萬餘騎、和泉ノ国に討ち出で、、中野、貝塚、千石堀に楯籠り、門跡一揆に一味して、将軍御帰洛を無向へ・・・・省略・・・、

・(12)『中古日本治乱記』責大坂本願寺門跡事 巻第56
去程ニ本願寺門跡光佐上人ハ・・・・省略・・・
四月十四日ニ信長下知シテ細川兵部大輔藤孝荒木摂津守村重惟任日向守光秀原田備中守政次筒井筒井順慶等ヲ以て攻ケ
レトモ防キレハ
・・・・省略・・・
三好笑岩根来ノ僧徒一味同心して木津ノ城ヲ責落シ信長ヘ忠節ニセント評定シテ態ト他ノ勢ヲモ不雑シテ木津ノ城ヲソ攻タリケリ城中ノ輩敵
ヲ・・・・省略・・・
直前駆テ戦ヒケル城兵捲リ立ラレテ城中ヘ崩レ入ル原田乗气城中ヘ府入ントス城ノ中ヨリ鉄砲ヲソロヘテ稠ク打ソカハ原田政次戦ヒ死ス・・・・省
略・・・

・(13)『陰徳記』(上) 原田備中守討死之事 香川正矩著 米原正義校正著
去程ニ原田備中守ハ、大坂勢ヲ寄頭ノ一揆原ノ一揆原也ト・・・・省略・・・
同(天正四年)五月三日先陣三好笑岩・根来ノ衆徒、其外和泉・河内ノ加勢ノ者、二陣ハ原田備中守ハ、大坂勢ヲト定メ、木津ヘ押
寄タリ。木津ノ城ヨリ下間出羽守・八木駿河守・木津ノ願泉寺・江戸報恩寺・本多土佐守・鈴木孫市・同一楠・田辺平次・山田新
介・村上利介・山内内記・益田少将等討テ出、鉄砲ヲ以テ散々ニ射。・・・・省略・・・
益田頸掻切高クサシ上、原田備中守ヲ討捕タリ、ト訇リケリ。是ヲ見テ塙喜三郎・同小七郎・氏家左近進・箕浦無右衛門一所ニテ枕ヲ并
討死ス。
・・・・省略・・・

・(14)『陰徳記』(上) 大坂大寄之事
斯テ於大坂表味方度々利ヲ失、剰原田備中守ヲ初トシテ僧徒ノ兵五百予騎討レタリト告来ケレハ・・・・省略・・・、
信長来(天正四年)六日大坂表大阪より大寄ト披露アリ。・・・・省略・・・
其後ニ又惣堀アリ。早鐘ヲ相図ト定ラル。浮武者ハ下間三位・八木駿河守・鈴木孫市・同一楠・田邊平次、根来ノ小蜜茶・山田新
介ヲ大将トシテ、六万騎ノ中ヨリ究竟ノ兵七千余騎撰出シ、敵ニ懸一戦シテ軽ク引取、敵ヲ引寄地ノ利ヲ付ケ戦ヒ決セント也。・・・・省略・・・

・(15)『陰徳太平記』 大坂大寄之事 香川宜阿著 『通俗日本全史第十四巻』
同五日上人諸所處々の櫓へ上り給ひ、諸軍士ニ對面して、合戦の様子は・・・・省略・・・
さて石山の城には柵逆茂木を五重に付け、其内に下間三位、八木駿河守、鈴木孫市、同一楠、田邉平次、根来の小蜜茶、
山田新介を大将として、究竟の兵七千余を擇み出し、・・・・省略・・・

・(16)『石山退去録』 天正四年五月六日の合戦の時のこと(補説) 関西大学中世文学研究会編
・・・・省略・・・
天正四年五月六日ノ合戦ニ、石山ノ要害ハ堅(固)ニモ、サカモギ五重ニフリ並ベ、其内ニ幅五間ノカラ堀ヲ深クホリ、其後ニハ水堀ヲコシラヘ、城
中ノ軍兵凡ソ六万余キ。偖、浮武者ト云テ、一手ガ千キヅ、七組有コトジャ。先ヅ一番ニ下間三位、二番ニハ八木駿河守、三番ニハ鈴
木孫市、四番ニハ同一角、五番ニハ田辺平次、六番ニハ根来小蜜茶、七番ニハ山田新介、此等ハ皆一騎当千ノ勇兵ナレバ、敵ヲ討取謀
ナリ。・・・・省略・・・


・(17)『大谷本願寺由緒通鑑』 第三巻 大日本仏教全書
天正四年四月。信長仰ラレスハ。東国北國ノ諸将皆我ニ従フ處ニ。大坂本願寺敵對スルコソ鬱憤少カラズ。明智日向守。原田備中守。
遠藤山城守。平井伊賀守。山岡美濃守。筒井順慶ヲ大将トシ。都合其勢二萬餘騎。四月十四日大坂へ指し向ラル。・・・・省
略・・・
五月三日早朝ヨリ合戦ノ手筈ヲ定テ。先陣三好笑岩竝根来ノ衆徒ニ。和泉河内ノ國侍相加ル。後陣ハ原田備中守。畠山甲斐守ニ大
和山城ノ地侍相加リ。・・・・省略・・・。大将原田備中守宗行ヲ始トシテ。丹羽小次郎。蓑浦次郎右衛門。野崎四郎。池田總七。森
本勝助等名アル歴々討死シタリケル。・・・・省略・・・

・(18)『石山退去録』
・・・・省略・・・
「信長勢ノ侍大将原田備中守ヲ、紀州ノ住人鈴木孫市ガ郎等親(雑?)賀ノ勘平ガ討取タリ。」ト、声高々ト喚ハレバ、信長勢ノ其内
ヨリ無念残念ト歯ガミヲシテ、池田總七トシクニト云モノ、染皮オドシノ鎧ヲ着シ、角頭ノ甲ヲ頂キ、・・・・省略・・・
トキニ、池田總七イヨイヨ勢ツヨク切リマワル。トキニ石山勢デハ、「テモ、ニクキ池田カナ。」ト進出ハ根来ノ小蜜茶、鎧甲モヌギステ・・・・省略・・・
トキニ、惣七コラヘカネ、口引(キ)サカント飛カカレバ、小蜜茶心ヘタリト飛違ヒ、ヒツカンデ二三間取テホカセバ、池田氏構ノ立石ニ打付ラレ、頭微ニ打ク
ダカレ、ウント一言此世ノ最後、二言トナシニ惣七ハ相ハテタリ。・・・・省略・・・

・(19)『集古雑編巻上』 摂州木津軍信長敗北之事
・・・・省略・・・
五月三日ニ攻来ル。永岡兵部・荒木摂津・惟任日向・原田備中・筒井順慶大将トシテ。木津ノ城ヘ取向フ。荒木ハ数百艘ノ舟ニ
テ。・・・・省略・・・
原田是ヲ見テ。スハヤ大坂ノ城ヨリ斬テ出ルソ。敵ヲ前後ニ受テハ悪カルヘシ。此陣引ト騒グ所ヘ。下間・栗屋大勢ニテ切テ入リ。追ヒ立揉ミ立撃タリ
ケル。原田前後ヲ失ヒ。左右ハ田溝ニテ進退極リテ遂に討レニケリ。家ノ子ニ塙喜三郎・同小七郎・丹羽小次郎・箕浦元右衛門・同三郎
右衛門・野崎四郎・池田總七・宮本庄助・同孫右衛門・野呂源左衛門・槇與次・等。宗徒ノ勇士等五十人餘騎。枕ヲ雙ベテ討レ
ケリ。・・・・省略・・・

・(20)顕如上人御伝:『石山本願寺鷺森旧事記』 田中 庄次郎/編
・・・・省略・・・
其 三
中にも原田備中守と云信長の侍大将は勇にほこる血気の武士練貫の直衣に啄木威の鎧を着し・・・・省略・・・
本願寺方の陣中より鈴木孫一が郎等に隼人力助と云ふ大力の若者あり原田が馳せゆく駒の頭に太刀ぬきて立むか
へば原田はいらつて眼をいからし・・・・省略・・・
隼人切つくれは運究めや備中守が左の小鬢よりかたさきかけて切り付けられ馬より下にどつと落つ力助は踊りか
かつて原田が首をうちをとし・・・・省略・・・
其 四
爰に信長の陣中に池田惣七と云侍あり大勇剛なり彼の原田が討取られしを見るより无念の顔色あらはにて心も
・・・・省略・・・
其 五
去ほどに信長の勢は十万八千の大軍殊に池田總七俊邦(すけくに)が比類なき勇戦に石山勢は気を呑まれ・・・・省
略・・・
石山の御中より根来小蜜茶と云ふ若者一人着込ばかりに鎧も・・・・省略・・・
法敵強悪の大賊め首を某にわたすへしと罵れば池田總七俊州大に瞋り乞食の奴原非禮をぬかすなと討てかかるを
小蜜茶はひらりと飛び退き太刀にて一討うつぞと見内に煉磨の手の内あやまたず・・・・省略・・・
血気の池田も眼みはり手足をふるわし歯をくひしばりて息はたへて死にけりかくと見るより信長勢せきにせきあ
げもみあげもみあせりたまりかねささへかね蓑浦三良右衛門野崎四良丹羽小四郎が三人一度に抜連れ音をかけ小
蜜茶をのがすなと・・・・省略・・・

※天王寺の戦いで、『後太平記』では同(雑賀)三緘入道として雑賀衆・根来衆の主だった者と記載されていて
配置関係は不明であるが、真宗側史料として『石山退去録』では配置順が六番目根来小蜜茶と記載されている。
根来としてうたっているのは、本来三緘入道は雑賀の者であるが、雑賀家譜に記載があるように「よく根来の杉之坊
に出入りしていたことで(冷やかし半分で揶揄されて?)根来の小蜜茶といわれている」為に、真宗側の僧侶達には
通称名の方が通りやすかった為ではないか。本来根来の住人ならば、一々根来なんとうたう必要がない。又、真宗側の
史料に真言宗根来寺の関係者など敢えて記載する必要などないはずである。

真宗側史料の『石山退去録』『大谷本願寺由緒』『集古雑編巻上』『顕如上人御伝』では小蜜茶が池田惣七(俊州・
俊邦:すけくに・トシクニ)を討ち取ることがそれぞれに記載されている。小蜜茶が根来寺側関係者ならば真宗側の説教談義
・勧化本に記載されるべき人物ではないはずである。他宗の者を敢て真宗側の説教談義・勧化本に登場させること自体
辻褄が合わない。
和歌山県立文書館収蔵史料目録『紀州家中系譜並に親類書書上げ』(上)330Pに記載されているように、三代に亘り
雑賀家譜に小蜜茶三緘が記載されていて付箋や貼紙が一切もないのは、「藩が精査した家の個々の事跡が反映されて
いない系譜を再度藩が受け取る、ということは正確な情報を藩士に承知させ、より正確な系譜を藩士に出させるという
ことよりも、むしろ差出された系譜をより正確にして保存することに主眼が置かれていたと考えることは出来ないだ
ろか。」とある。これによれば、藩に提出された祖母の実家の雑賀家譜は正確に保存されていることになる。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
天正五年:
◎紀州雑賀征伐 雑賀三緘(カン)=根来ノ小蜜茶 確定!!!

・(21) 『信長公記』: 雑賀御陣の事 巻十
正月二日、三州吉良の御鷹野より安土御帰陣。正月十四日、・・・・省略・・・

二月二日、紀州雑賀の内三緘の者、並に根来寺杉之坊、御見方の色を立て申すべきの御請け申すにつき、則ち、十三
日に御動座なさるべきの趣、御国々へ仰せ出ださる。・・・・省略・・・

二十八日、佐野の郷に至りて御陣を移さる。二十二日、志立へ御陣を寄せられ、浜手・山手両方を分けて、御人数差し
遣はさる。山方へは根来杉之坊・三緘衆を案内者として佐久間右衛門、羽柴筑前、荒木摂津守、・・・・省略・・・

信長公記:御名物召し置かるるの事 巻十
・・・・省略・・・。
三月廿一日、信長公御馬を納められ、香庄に至って御陣取り。・・・・省略・・・。
佐久間右衛門・惟任日向守・惟住五郎左衛門・羽柴筑前守・荒木摂津守、残し置かせられ、杉之坊、津田太郎左衛門、
定番に置かる。・・・・省略・・・。

・(22)『信長記』: 紀伊國退治 小瀬甫庵 国会図書館:請求NO.131-103
信長公岐阜ニ於テ御越年有テ天正五年正月吉旦ニ尾濃両国ノ士ノ祝禮是ニテ御請有テ二日ニ安土ニ御帰城ナル。・・・・省略・・・。

 二月二日雑賀ノ三緘(サンカン)ト云者并根来寺ニ杉坊味方ニ参シ忠義ヲ致スヘキ旨望ミ申シ。同六日上洛ス。サラハ三緘(カン)ヲ
案内者トシテ雑賀ノ兇徒ヲ退治セラルヘシテ秋田城介信忠卿・・・・省略・・・。
二十二日志立ヘ被寄御本陣海手山手ヘ勢ヲ分テ推入セラルルニ。先案内者ナレハ杉坊并雑賀ノ三緘(サンカン)ヲ先トシ佐久間右衛
門尉信盛羽柴筑前守秀吉・・・・省略・・・。

・(23)『信長記』(巻二) 『将軍記』(織田信長記):林 道春(羅山) 出版年:寛文四年
同五年正月信長安土に帰る。・・・・省略・・・。

二月二日紀州雑賀乃三緘(カン)根来杉坊信長公の御味方に参り上洛す。これを案内者として雑賀を攻めらるべし
とて、秋田城介信忠、北畠中将信雄(初め茶々丸と号す)・・・・省略・・・。
同二十二日信長志立に陣をうつされ三緘(カン)杉坊を先として佐久間羽柴堀以下三萬餘騎・・・・省略・・・。

・(24)『増補信長記』:松平 忠房 寛文写(寛文二年)
・・・・省略・・・。
二月二日紀州雑賀ノ三緘及根来杉坊味方ニ属スヘキト内通ス則諸国ニ陣觸シテ同八日雨天故不發同九日信長公上洛妙覚寺ニ居
ス・・・・省略・・・。
同二十二日志立ニ陣ス於是諸将ヲ分テ三緘及杉坊郷導シテ山ノ手ヘ向フ軍士佐久間信盛羽柴秀吉・・・・省略・・・。

・(25)『鷺森旧事記)』:信長紀州進發之事 宗意編(元禄六年)
元亀元年九月十三日ノ夜。・・・・省略・・・。

信長天正五年正月十四日。京都妙覚寺エ上洛アリテ。雑賀征伐ノ義諚ヲ極メ給ヒシ所ニ。雑賀ノ三緘ナラヒニ根来寺ノ杉之坊。意變リシ
テ。
御味方ヘ参ルヘキヨシ申ケレハ。信長兆候長幸ナリトテ。・・・・省略・・・。

三月三日ニ。雑賀ノ三緘。根来寺ノ杉之坊ヲ案内者トシテ。ムカヒケル。雑賀勢は彌勒寺山ノ南北ニアリテ。・・・・省略・・・。

・(26)『集古雑編巻』上『真宗全書』 紀州取詰ル事付貝塚軍之事 光遠院恵空編
明ル天正五年丁丑正月。紀州雑賀ニ一揆夥シク發テ。・・・・省略・・・。

時ニ信長ハ嫡男信忠・二男茶箋・御曹子信雄・三男神戸三七信孝。十五ヶ国選勢ヲ隋ヘ。堀久太郎秀政ヲ副テ。
同十日岐阜ヲ立 テ。貝塚ニ向テ。信長モ同十五日ニ河内ノ若江ニ到着セリ。根来ノ杉ノ坊雑賀ノ三緘入道ハ。去ル六日ニ上洛シテ。
信長ニ降参シタリケルヲ案内者トシテ。・・・・省略・・・。
山ノ手ヨリ国中ヘ打出。瀧川・惟任長岡・筒井・等ハ。其勢三萬餘騎。濱ノ手ヲ打テ。谷ノ輪口ヨリ込入ル。處々ノ塁城ミナ攻破ラレテ。
孫一・平次・等モ。遂に和ヲ乞テ開城ス。斯テ津田太郎左衛門并杉ノ坊ヲ佐野城ニ入置キ。・・・・省略・・・。

・(27)『大系真宗史料』石山合戦 『信長記』第十 太田和泉守 綴之
天正五年丁丑
(前略)
二月二日、紀伊州雑賀之内ミからミの者并根来寺、杉之坊御身方之色を立可申之御請候ニ付而、十三日ニ可被
成御動座之趣、国々ヘ被仰出、・・・・省略・・・
二月十八日、佐野之郷に至て被移御陣、廿二日、志立へ御陣を寄られ、浜手山方両手を分而御人数さし被遣、
山方へハ根来寺、杉之坊、ミからミ衆為案内者、佐久間右衛門、羽柴筑前、荒木摂津守、別所孫右衛門、・・・・省略・・・

三月廿一日、被納御馬、香庄に至て御陣取、次日御逗留、佐野之郷ニ要害可仕之旨仰付、佐久間右衛門、惟任日向守、
惟住五郎左衛門、羽柴筑前、荒木摂津守、池田勝三郎残し置せられ、杉之坊、津田太郎左衛門定番ニ被置、
・・・・省略・・・。

※『信長公記』雑賀御陣の事 巻十「二月二日、紀州雑賀の内三緘の者、並に根来寺杉之坊、御見方の色を立て・・・・省略」
『信長記』紀伊国退治 巻第十「二月二日、雑賀の三緘(カン)と云者、并根来寺の杉坊御味方に参じ・・・・省略・・・」

上記を見比べて頂ければ分かるように太田牛一は雑賀の内三緘(ミカラミ)の者と不特定多数にて記載されている。これに
対して小瀬甫庵は「雑賀の三緘(カン)と云者と特定して記載している。これはどういうことなのか。敵対する相手方
から御見方をするという重大なことに得体の知れない雑賀と根来の不特定者を信長側が信用するとは思えないしあり
得ない。
根来寺関係者は『信長公記』御名物召し置かるるの事 巻十に記載がある佐野の城番に置かれた津田太郎左衛門(監物)
であろう。津田太郎左衛門は『足利季世記』巻八 野田福島合戦記に登場している。ならば雑賀の三からみの者(岡山
大学池田家)はというと雑賀の三からみの三緘(カン)と云う者となってしかるべきである。三緘(カン)は上述している通り
各所に登場し、孫市までは行かなくてもそれなりの地位にいた者で相手方にも知れ渡ってたであろう。
野田城・福島城合戦では雑賀三緘入道も津田太郎左衛門(監物)も共に戦っている。それ故に御見方になると杉之坊津田太郎
左衛門(監物)と一緒に参しても信長側は信用が置けたと断定できたのではないだろうか。そのために、甫庵は雑賀衆では誰が
杉之坊と一緒に参じたのか確認したのではないか。

本来ならば
「三からみの雑賀三緘(カン)と云う者、并杉坊津田太郎左衛門(監物)御見方」と太田牛一は記載すべきではなかったか。
太田牛一とすれば見方になってくれれば不特定多数だろうが関係がなかったのではないか。杉坊も不特定多数ではなく
津田太郎左衛門(監物)と限定すべきであった。見方になるという重要要件を申し出る者を不特定多数で記載するにはお粗末
である。

では何故、小生が(21)『信長公記』に於ける「三緘(ミカラミ)の者」と(22)『信長記』に於ける「三緘(サンカン)ト云者」での
違いに気がついたのかと云えば、祖母の実家の雑賀家譜を公文書館より入手に調査していたからに他ならない。しからば
その家譜の信憑性は如何にとなれば上述したように県立和歌山文書館『紀州家中系譜並に親類書書上げP330に記載され
ている通り付箋も追記・貼紙・修正等なく無修正で正確に保存されていたと云うことではないか。

根来ノ小蜜茶は雑賀三緘(入道)であった。
















小蜜茶雑賀三緘(根来ノ小蜜茶)、戦の軌跡 ・・・その2

2018-07-28 22:26:16 | 調査
前回(小蜜茶雑賀三緘戦の軌跡をその1として)で、小蜜茶雑賀三緘(根来ノ小蜜茶)の戦を時系列的に、元亀元年「野田福島合戦
(石山合戦合戦第一次)」天正四年「天王寺の戦(石山合戦第三次)」まで記述しましたが、今回は引き続きを記載したいと思います。

天正五年織田信長の紀州征伐で織田信長の祐筆太田牛一の『信長公記』巻十に記載されている《雑賀御陣の事》の戦である。この事案は
2012.03.30の第14回にて既に報告済であるが、小生は非常に重要な事案と捉えている。何故ならば祖母の雑賀家譜に記載がある
【小蜜茶雑賀三緘】を小瀬甫庵『信長記』が『信長公記』に記載ある不特定の人物(ミカラミの者)を特定しているのである。
然らば、(ミカラミの者)とは?誰だ。

天正五年
◎雑賀合戦

○『信長公記』 太田牛一著 雑賀御陣の事 巻十 桑田忠親校注 新人物往来社

正月二日、三州吉良の御鷹野より安土御帰陣・・・・省略・・・

二月二日、紀州雑賀の内三緘(ミカラミ)の者、並に根来寺杉之坊、御味方の色を立て申すべきの御請け申すにつきて、則ち、・・・・省略・・・
二月十八日、佐野の郷に至りて御陣を移さる。
廿二日、志立へ御陣を寄せられ、浜手・山方両手を分けて、御人数差し遣はさる。
山方へは根来杉之坊・三緘衆を案内者として佐久間右衛門、羽柴筑前、荒木摂津守、別所摂津守、別所小三郎・・・・省略・・・

上述の『信長公記』より引用していると思われるものは次の通り。

○大系真宗資料 石山合戦 太田和泉守 綴之
天正五年 丁丑
・・・・省略・・・

二月二日、紀伊州雑賀之内ミからミの者并根来寺、杉之坊御味方之色立可申之御請候ニ付而、・・・・省略・・・
二月十八日、佐野之郷に至て被移御陣、
二月廿二日、志立へ御陣を寄られ、浜手山方両手を分け而御人数さし被遣、山方へハ根来寺、杉之坊、ミからミ衆案内者、
佐久間右衛門、羽柴筑前、・・・・省略・・・

○増補信長記 松平 忠房 寛文写

・・・・省略・・・
二月二日紀州雑賀ノ三緘及根来杦坊味方ニ属スヘキト内通ス則諸国ニ陣觸シテ同八日雨天故不發同九日信長公上洛妙覚寺ニ居ス
同二十二日志立ニ陣ス於是諸將ヲ分テ三緘及杦坊郷導シテ山ノ手ヘ向フ軍士佐久間信盛羽柴秀吉荒木摂津守別所小三郎同
孫右衛門・・・・省略・・・

○織田眞記 織田長清 享保二年~三年

・・・・省略・・・
二月二日紀州雑賀三緘根来杉之坊請來屬於公ニ令於諸州ニ期十三日親出師ヲ八日将如京洛此日雨ル故止行ヲ
・・・・省略・・・
二十二日進軍于志立徑山沿海分軍ヲ為ニ根来杉之坊三緘ノ輩引導於ヨリス山佐久間信盛羽柴秀吉荒木村重・・・・省略・・・

佐久間信盛惟任光秀惟住長秀羽柴秀吉荒木村重ヲ居シム焉使杉之坊津田太郎左衛門ヲソ為戌二十三日・・・・省略・・・

○武徳編年集成(上巻) 天正五年 丁丑年 二月大
・・・・省略・・・

二十二日泉紀ノ堺信達ヘ信長着陣根来ノ杉坊以下雑賀ノ内三緘ノ( )擧参シテ先陣ニ列ス小雑賀口ニ於テ川ヲ前ニシ一揆ノ
悉ク出向テ防戦ス味方ノ先隊堀秀政アラスメ軍ヲ班ス中道ヘモ敵向ヒ相支ノト雖長岡藤孝先鋒・・・・省略・・・

三緘を五緘(カラミ)の内の三緘(ミカラミ)と捉えるのか、三緘(カン)として人名と捉えるのかが問題である。
先の第十四回でも報告したが、信長側に味方につくという重大な事を根来の杉之坊と伝えに行く者がミカラミの不特定多数の
いい加減な者で良い筈がない。根来の杉之坊は『信長公記』巻十 「御名物召し置かるるの事」に記載がある佐野城定番となった
津田太郎左衛門であろう。

本来ならば太田牛一は三緘(ミカラミ)の三緘(サンカン)と記載すべき所三緘(サンカン)を省略したのではないか。太田牛一とすれば人物
などどうでもよいのである。相手方が味方になることが重要なのである。織田側を信用させるだけの人物でなければ味方の話
は無かった筈である。其所に疑問を抱いたからこそ、太田牛一が云うミカラミの者とは誰なのか。その不特定多数から特定したのが
下記の小瀬甫庵だっだのではないか。

○ 『信長記』 小瀬甫庵著 紀伊國退治 巻第十 国会図書館 請求NO.131-103

信長公岐阜ニ於テ御越年有テハ天正五年正月吉旦ニ尾濃両国ノ士ノ祝禮是ニテ御請有テ二日ニ安土ニ御帰城ナル。・・・・省略・・・

二月二日雑賀ノ三緘(カン)ト云者并根来寺ニ杉坊味方ニ参シ忠義ヲ致スヘキ旨望ミ申シ。同六日上洛ス。サラハ三緘(サンカン)ヲ案内者トシテ雑賀ノ兇徒ヲ退治
セラルヘシトテ秋田城介信忠卿数万騎ヲ率シ同十日岐阜ヲ打立給フ。・・・・省略・・・
同二十二日志立ヘ被寄御本陣海手山手ヘ勢ヲ分テ推入セラルルニ。先案内者ナレハ杉坊并雑賀ノ三緘(カン)ヲ先トシ佐久間右衛門尉信盛羽柴筑前守
秀吉荒木摂津守別所小三郎同孫右衛門・・・・省略・・・
⇒ 五緘の内三緘(ミカラミ)を雑賀ノ三緘(カン)ト云者と特定したのだ!!!

○ 『将軍記』織田信長 編輯 林 道春(羅山) 寛永18年(1641)~寛永19年(1642)

二月二日紀州雑賀の三緘(カン)・根来の杉坊信長の御味方・・・・省略・・・

同廿二日信長信長志立に陣を移され三緘(カン)杉坊を先として佐久間羽柴・・・・省略・・・

○ 『当代記』巻二 寛永年間(1624年~1644年)頃に成立したとされる司書。 編纂者は姫路藩主松平忠明といわれる。

天正五年丁丑正月二日、正二位内大臣兼右大将信長卿自岐阜安土に帰城、・・・・省略・・・

二月二日、信忠雑賀出馬、是根来杉坊雑賀の三緘上洛して、可至忠節由依言上也、信長出張給、小雑賀口にて堀久太郎人数
百ヨ餘討死、谷輪口にて敵敗北、長岡兵部大夫手百五十討捕・・・・省略・・・

○『集古雑編巻上「真宗全書」 光遠院恵空 編 紀州取詰ル事付貝塚軍之事

明ル天正五年丁丑正月。紀州雑賀ニ一揆夥スク發テ・・・・省略・・・

信長モ同十五日ニ河内ノ若江ニ到着セリ、根来ノ杉ノ坊雑賀ノ三緘入道ハ、去ル六日ニ上洛シテ、信長ニ降参シタリケル案内者トシテ、貝塚ノ千石堀ニ
取詰ムル。城中少々戦テ。夜中ニ乗レ舟。城ヲ明テ。雑賀ヘ退散ス。寄手ハ勢ヲ二ツニ分テ。續テ紀州ヘ進ム。佐久間・羽柴・荒木・等ハ。堀秀政ヲ大将
トシテ。其勢三萬餘騎餘。山ノ手ヨリ國中ヘ打出。瀧川・惟任・長岡・筒井・等ハ。其勢三萬餘騎ニテ。
・・・・省略・・・孫一・平次・等モ。遂ニ和ヲ乞テ開城ス。斯テ津田太郎左衛門并杉ノ坊ヲ佐野城ニ入置キ。・・・・省略・・・

○鷺森旧事記 宗意編(元禄六年:1693年) 信長紀州進發之事

元亀元年九月十三日ノ夜・・・・省略・・・

信長天正五年正月十四日。京都妙覚寺日蓮宗エ上洛アリテ。雑賀征伐ノ議諚ヲ極メ給ヒシ所ニ。
雑賀ノ三緘。ナラヒニ根来ノ杉之坊。意變リシレ。御味方ヘ参ルヘキヨシ申ケレハ。・・・・省略・・・
寄り手ノ先陣。佐久間右衛門尉信盛。羽柴筑前守秀吉。荒木摂津守。別所小三郎。同孫右衛門尉。
堀久太郎ヲ始メ。三月三日ニ雑賀ノ三緘。根来ノ杉之坊ヲ案内者トシテ。ムカヒケル雑賀勢。彌勒寺山ノ南北ニアリテ。
・・・・省略・・・

名所図会なるものにも記載されているのである。

○和泉名所図絵 巻4-04 近木城跡千石堀 天王寺合戦

天正年中、本願寺の門徒、平信長と對陣して、泉州大坂の城に籠居す。其時、紀伊國雑賀孫市郎、同入道三緘、
的場源七郎、渡辺藤左衛門、岡崎三郎大夫、土橋平治、根来岩室清裕等、各一万騎、和泉國畠中千石堀、貝塚の
要害に入って、大坂城を助力する。
又、天正五年二月、紀州雑賀逆徒を攻むる。和泉國貝塚辺、所々の要害を固むといえとも、来軍の猛勢に對し
かたく、二月十六日夜、退散す。

○『大坂府全志』第五巻 千石堀城址

貝塚市にある根来寺前線砦群の一つで、近木川沿いにある主城的なもの。対秀吉戦では一番犠牲者が多い戦いに
なった。
天正年間本願寺門徒の雑賀孫一郎・同三入道三緘・土橋平次・的場源七郎・岡崎三郎大夫及び根室岩室坊清裕等は、
一万余騎を引きいて当国に入り、当城及び畠中・貝塚の要塞に據りて之を応援し、以て信長を悩ましかば、信長は
天正五年二月雑賀征伐の途に就きて諸城に迫りければ、同月十六日悉く潰送せり。
同十二年小牧・長久手の役起こるに及び、根来の衆徒は復織田氏・徳川氏に聲息をつうじて豊臣秀吉に抗せしかば、秀吉
は中村一氏を岸和田城に置きて之に當らしめ、自ら兵を率いて尾張に進みたるたるに、根来の衆徒は當城及び積善寺・
澤・畠中・高井の諸塞に占據して、その勢岸和田を壓せんとしければ、秀吉は秀長・秀次を従え、翌年十三年三月十万餘騎
・・・・省略・・・

他に古文書に記載があるのは、『紀藩士姓旧事記』には『後太平記』に記載がある人物として雑賀孫市・土橋平次等と
雑賀三緘が【同(雑賀) 三入道】として書かれている。

次に雑賀三緘(入道)は、別称「根来の小蜜茶とも仲間内では呼ばれている」と雑賀家譜には記載されているので、こちらも
時系列的に記載されているものを列記したいと思う。

⦿根来の小蜜茶

時系列的には上述「戦の軌跡をその1として」の三緘(入道)と同じ案件に記載されている。別途2013.01.22「先祖
 雑賀衆・雑賀三緘≒根来の小蜜茶について」」、2016.07.23「雑賀三緘入道は根来の小蜜茶」にも記載。

天正四年

○『陰徳記』香川正矩著 米原正義校正著 大坂大寄之事

斯テ於大坂表味方度々利ヲ失、剰原田備中守ヲ初トシテ宗徒ノ兵五百予騎討レタリト告来ケレハ、・・・・省略・・・
、信長来六日大坂大寄ト披露アリ。・・・・省略・・・其の後ニ又惣堀アリ、早鐘ヲ相図ト定ラル。浮武者ハ下間三位・八木駿河守・鈴木孫市・
同一楠・田邉平次・根来ノ小蜜茶・山田新介ヲ大将トシテ、六萬ノ中ヨリ究卿竟ノ兵七千余騎撰出シ、敵ニ懸一戦シテ軽ク引取、敵ヲ寄地ノ利ヲ
付ケ戦ヲ決セント也。・・・・省略・・・

○『陰徳太平記』香川宜阿著 通俗日本全史第十四巻  大阪大寄之事

 同五日上人處々の櫓ヘ上り給ひ、諸軍士に体面對面して、合戦の様子は行は大将大将ヘ下知しぬ、面々其下知を守るべし、
 但後世の一道は、一念発起平生の安心に住すべしと宣ひければ、皆有難しと合掌して感涙を流しけり、・・・・省略・・・
城中には、總軍六萬騎、其中に下間三位、八木駿河、鈴木孫市、同一楠、田邉平次、根来の小蜜茶、山田新介を大将として、
究竟の兵七千余を擇み出し、浮武者と定め、敵に懸つて一戦して引取り、・・・・省略・・・
⇒親子で多少の記述が異なるのも面白い。

○『石山退去録』 龍谷大学図書館戦蔵 関西大学中世文学研究会

天正四年五月六日ノ合戦ニ、石山ノ要害ハ堅固ニテ、サカモギ五重ニフリ並べ、其内幅五間ノカラ堀ヲ深クホリ、其後ニハ水堀ヲコシラヘ、城中ニ
軍兵凡ソ六萬餘キ、偖、浮武者ト云テ、一手ガ千キヅ、七組有コトジャ、先ヅ一番ニ下間三位、二番ニハ八木駿河守、三番ニハ鈴木孫市、四番ニハ同一角、
五番ニハ田辺平次、六番ニハ根来小蜜茶、七番ニハ山田新介、此等ハ皆一騎当千ノ勇兵ナレバ、敵ヲ討取某ナリ、・・・・省略・・・

『石山退去録』と『陰徳記』『陰徳太平記』の記述を比較すると配置の順番の記述が同一である。『陰徳太平記』は『陰徳記』を
引き継いでいるので当然ではある。『陰徳記』(上)香川正矩著 米原正義校正者 マツノ書店によれば、「『陰徳記』は戦国時代から
安土桃山時代にいたる西日本、すなわち中国、四国、九州を舞台とした群雄の治乱興亡の歴史、とりわけ安芸毛利氏の中国制覇を中心
とした軍記である。
正矩は戦国時代から安土桃山時代の関西の武功の勝劣をみようと「方策に稽え」、「古老に尋ね」、「古老及び祖父の論談する所、書記
する所所」すなわち文書、記録や聞書を史料としただけでなく、さらに諸国へ物書を史料としただけでなく、調査員を派遣して史料
を収集した」とある。
この収集の史料の中に『石山退去録』もあり、引用したと思われる。即ち、一番下間三位、二番八木駿河、三番鈴木孫市、四番同一角(楠)、
五番田邉平次、六番根来小蜜茶、七番山田新介である。

天正十二年

○ 『紀州根由緒書 全』 国立公文書館蔵

泉州岸和田近辺千石堀積善寺浜之城三ケ所之取手にて合戦仕候内岸和田勢は中村式部也千石堀出張へは愛染院
福永院なと宗して尤弓鉄砲勝れたる者凡三千計籠る此時愛染院を鳴神左衛門根来大膳同小蜜茶福永院の和泉坊
帰一坊須一坊無至坊赤城坊籠る也・・・・省略・・・

上述の『大坂府全志』にも記載があるが、小牧・長久手の役にて同三入道三緘(雑賀三緘入道)も権現様(徳川)方を味方していることが、
雑賀家譜に記載されているのである。
以上のように雑賀三緘(カン)と小蜜茶について報告してきたが、時系列的に記述すると名前は異なるが共に絡んでいることが分
かるであろう。

但し、『芸藩志拾遺第十二巻』や『元和五年侍帳』等に別の小蜜茶が記載されているが上述した通り雑賀三緘(入道)と根来の小蜜茶を
時系列的に記載して比較検討することにより、奥△△が小蜜茶と特定する史料は(小生は)上述しか見つからず雑賀家譜に記載がある通り
雑賀三緘(カン)は、根来の小蜜茶であると小生は結論付けた。