紀州藩に提出した亡き祖母の実家の雑賀家譜に記載がある先祖小蜜茶雑賀三緘を十年近くに亘リ調査検証作業をしてきましたが、ついに小生と同じ見解を持つ大御所を見付け出すことが出来ましたので報告いたします。
その大御所とは、明治から昭和戦後期にかけての日本のジャーナリスト、思想家、歴史家、評論家である
徳富蘇峰(猪一郎)で、徳富が書いた『近世日本国民史織田氏時代中編』に記載があることを見つけ出しました。
同志社大学の吉田曠二氏は「徳富蘇峰著『近世日本国民史』に見る織田信長と豊臣秀吉」にて、徳富蘇峰
は今の日本では残念ながら忘れられた歴史家である。しかし、歴史家としての蘇峰の業績は大きく『史記』を著した中国の司馬遷、西洋では『ローマ帝国滅亡史』を著した英国のギボンにも匹敵する堂々たる存在感を見せている。蘇峰は太田牛一の描いた『信長公記』を信頼し重宝して活用していると述べている。
蘇峰は月刊誌『国民之友』を主宰し、明治21年民友社とは別に国民新聞社を設立し『国民新聞』を創刊。
大正7年7月55才となった蘇峰は『近世日本国民史』の執筆に取り掛かって『国民新聞』にこれを発表。
『近世日本国民史』は日本の正しい歴史を書き残して置きたいと云う一念から始まった蘇峰のライフワークである。織田信長の時代以降の歴史を著した。昭和27年4月20日に全巻完結した。『近世日本国民史』は史料を駆使し、織田信長から西南戦争まで記述した全100巻の膨大な史書で34年の歳月が費やされた。蘇峰の弟は徳富蘆花である。(参照:ウイキペディア等)
蘇峰が小生と同じ見解である事案は太田牛一の『信長公記』に記載があり、雑賀三緘の記載箇所を
下記に示す。
記
〇『信長公記』太田牛一著 桑田忠親 校正 雑賀御陣の事 巻十 天正五年
正月二日、三州吉良の御鷹野より安土御帰陣。・・・・省略・・・・
二月二日、紀州雑賀の内三緘の者、並に根来寺杉之坊、御見方の色を立て申すべきの趣、御国々
への仰せ出ださる。・・・・省略・・・・
☞ 「雑賀の内三緘の者」に対して蘇峰は下記見解
〇『近世国民史織田氏時代中編』 徳富蘇峰著 民友社発行 大正八年六月二十日発行
・【八十一】毛利、上杉、及び信長
毛利氏水軍の、大坂川口に於ける勝利は多大の影響を、否信長黨に及ぼした。
本願寺は此によりて、蘇生の思をした。・・・・省略・・・・
元来謙信は、本願寺門徒と、加賀、能登の間に於て、相戦うた。然かも足利義昭は、本願寺と
謙信とを握手せしめて、信長に當らしめんと欲し。天正四年五月、調停の功空しからず、両者の
和親成立した。・・・・省略・・・・
信長は大阪本願寺の、急に抜く可らざるを見て、其の手足を断つ可考へた。折しも紀州の雑賀、根来の
僧侶、有田郡岩屋城主畠山貞政と相役して、本願寺に応じ、兵を和泉に進め、大阪と聯絡を取らんと
した。此に於て信長は、天正五年二月、安土を出て、雑賀三緘、及び根来の杉坊衆徒を誘ひ、大兵を
率ゐて、京都より河内を経、和泉に入り。・・・・省略・・・・
『 信長公記』: 「雑賀の内三緘の者 」 として不特定
『近世国民史織田氏時代中編』:「雑賀三緘(みからみ) 」 と記し、 一人の人物として特定して いる。
※『近世国民史織田氏時代中編』:人物年表 ⇒ 雑賀三緘 とは、紀州雑賀一揆の将。天正四年織田
の攻むる所と為り、之に降る。【八十一】毛利、
上杉 及び信長。
小生が調査究明してきたのは、正に祖母の実家である雑賀家譜に記載がある一人の人物(将)としての
雑賀三緘である。『信長記』の小瀬甫庵も「雑賀ノ三緘ト云者」として一人の人物として捉えているので
ある。
上記に対して下記が既にご報告しました小生の見解ですが、中々小生と同じ見解の資料を見いだせな
く今日まで時間を費やしてしまった。下記と合わせて小生の見解をご検証の程お願い申し上げます。
記
亡き祖母の実家の雑賀家譜(和歌山県立文書館:資料番号5914・5915・5916・5917・5918)に記載がある雑賀衆である《小蜜茶雑賀三緘≫について記載がある古文書関係『後太平記』『中古日本治乱記』等の信憑性を今まで調査・検証して来ました。
検証結果は逐次報告して参りましたが、此度は既に報告してはいますがそれぞれの立場から捉えた資料
(史料)から検証してみたいと思います。
既に2013年6月23日に一度≪小蜜茶雑賀三緘≫が記載されている記載本の一覧を報告しており重複しますが、新たに見つけた資料(史料)も有りますので再度報告いたします。
又、第十四回報告で《小蜜茶雑賀三緘》についての報告していますが、その時の追加検証をも合わせて報告いたします。
今回は石山本願寺合戦にて、信長側、豊臣側、徳川側、毛利側(石山本願寺側)と真宗(石山本願寺側)から見た資料(史料下記)を同一事案を通して既に第16回報告の≪小蜜茶雑賀三緘≫の検証と『中古日本治乱記』『後太平記』の信憑性を、再度検証してみたいと考えます。但し、『中古日本治乱記』及び『後太平記』は《小蜜茶雑賀三緘≫が記載されている事案を記す。尚、『中古日本治乱記』は秀吉の祐筆山中長俊著の為に秀吉側とし、『後太平記』は著者の多々良姓からして、又、記載内容の大半が尼子氏・毛利氏関連が多い為毛利側としてみた。但し記事の出典基はほぼ『中古日本治乱記』より引用しているようであるので、雑賀衆関連事案は豊臣(信長)側とも見ることが出来る。
記
◎豊臣側
○『中古日本治乱記』 国立国会図書館蔵 ・ 国立公文書館蔵
・将軍方所々蜂起之事(巻第55) ※雑賀三緘入道
「将軍義昭卿既ニ備後国ニ御下向有テ毛利右馬頭輝元吉川駿河守元春・・・・省略・・・
淡路岩屋城ヘハ丹地太郎兵衛尉神野加賀守小林民部少輔三百余騎ニテ討納紀州雑賀三緘入道鱸孫市的場源七郎ハ一揆一満人率シ和泉千石塚ニ城ヲ気築門跡ノ一揆ヲ輔将軍ノ御上洛ヲ待向フ・・・・省略・・・」
◎毛利側
○『後太平記』 『物語日本史大系』 早稲田大学出版部
・諸城警禦之事(地部巻41) ※雑賀三緘入道
「将軍則已に備後ノ國に下向あって、毛利、小早川を頼ませ給ひ、上洛御座・・・・省略・・・
淡路岩屋の城へは丹地太郎兵衛ノ尉神野加賀ノ守、小林民部ノ少輔三百騎にて討入、紀州雑賀三緘入道、鱸孫市的場源七郎は一揆一萬餘人を卒し、和泉ノ國千石塚に堀を築き、門跡を輔け、将軍上洛を待向ふ・・・・省略・・・」
○『後太平記』 『物語日本史大系』 早稲田大学出版部
・将軍摂州御發向之事附一向門跡一揆之事(地部巻第40) ※雑賀三緘入道
「六条本国寺にて討申され泄されたる三好一族、今年蘇軍を發し、摂津ノ國・・・・省略・・・
神野加賀ノ守、丹地太郎兵衛ノ尉、其勢都て七千餘騎、摂津の中島陣取り給ひ、兇徒退治の軍慮急り也、斯る處に紀伊ノ國住人雑賀孫市郎、雑賀三緘入道、岡崎三郎大夫・渡邊藤左衛門ノ尉、的場源七、土橋平次、根来法師岩室清祐、各一萬餘騎にて馳せ参る・・・・省略・・・」
○『後太平記』 『物語日本史大系』 早稲田大学出版部
・摂州大坂一向門跡合戦野事(地部巻第42) ※同(雑賀)三入道
「織田信長の武威益天下を呑む、・・・・省略・・・
雑賀孫市郎、同三緘入道、的場源七郎、渡邊藤左衛門ノ尉、岡崎三郎大夫、根来法師岩室清祐、各一手に成り、 紀伊の勢一万餘騎、和泉ノ國に討ち出で、中野、貝塚、千石堀に楯籠り、門跡一揆に一味して、将軍御帰洛
を待無向へ・・・・省略・・・」
上記は《小蜜茶雑賀三緘(入道)≫が記載されているのみを表示したが、下記はその《小蜜茶雑賀三緘(入道)が表示され、尚且つ同一事案(『信長公記』雑賀御陣の事 巻十:雑賀之内ミカラミの者とは誰だ!!)を表示する。
この《ミカラミの者》が非常に重要であると小生は考える。
何故ならば、杉之坊の者と雑賀の内ミカラミの者が信長側に味方になる旨を内通しに行く訳であるが、
前回の第十四回の報告でも述べているが、何処の誰だか分からない輩が遣って来ても織田信長及びその配下の重鎮は認める訳がない。
内通に遣ってきた者達は杉之坊の者にしろミカラミの者にしろ信長及びその配下の重鎮達を納得させうる者
(大将クラス:石山退去録)でなければならないと小生は考える。
そうなると、太田牛一が云う《ミカラミの者》とは誰だ!!となるのである。何故なら、杉之坊は津田太郎左衛門が佐野城の定番となることが判明するので、杉之坊は彼で間違いはないだろう。
では《ミカラミの者》とは、それは小瀬甫庵が調査して正確に『信長記』に記載しているのであるが、この確証がとれる史料が中々見つからなかったのである。見つかったのは膨大な真宗側の史料からであり、信長との対立側より記載されていることからして充分に裏付け出来ると小生は考える。
《小蜜茶雑賀三緘》が記載されているのは、下記太田牛一の『信長公記』、小瀬甫庵の『信長記』、松平忠房『増補信長記』、林 道春『将軍記』、織田長清『織田眞記』等々だが、それに対する実証する史料が真宗側の宗意編『鷺森舊事記』、恵空編『集古雑編巻上』である。
記
⦿ 《ミカラミの者》を探せ!!! 《ミカラミの者》を探せ!! 《ミカラミの者》を探せ!!
◎織田側
○『信長公記』 太田牛一著 桑田忠親校注 新人物往来社刊
・雑賀御陣の事 巻十 天正五年 丁丑 ※雑賀の内ミカラミの者
正月二日、三州吉良の御鷹野より安土御帰陣、・・・・省略・・・
二月二日紀伊州・雑賀之内《ミカラミの者》并根来寺杉之坊御味方の色を立て申すべきの御請け申す
につきて即ち、・・・・省略・・・
二月十八日、佐野の郷に至りて御陣を移さる。廿二日、志立ヘ御陣を寄せられ、浜手・山方両手を分け
て、御人数差し遣はさる。山方へは根来杉之坊・三緘衆を案内者として差し遣はさる・・・・省略・・・
・御名物召し置かるるの事 巻十 天正五年
雑賀表、多人数、永々御在陣、亡国迷惑を致し、土橋平次・鈴木孫一・岡崎三郎大夫・松田源三大夫・
宮本兵大夫・島本左衛門大夫・栗本次郎大夫已上七人連署を以て、誓紙を致し・・・・省略・・・
三月廿一日、信長公御馬を納められ、・・・・省略・・・
佐久間右衛門・惟任日向守・惟住五郎左衛門・羽柴筑前守・荒木摂津守、残し置かせられ、杉之坊、
津田太郎左衛門、定番に置かる。
○『織田眞記』 織田長清 享保二年(1717年)~三年(1718年) 国会図書館蔵
※雑賀三緘
二月二日紀州雑賀三緘根来杉之坊請來屬於公ニ因令諸州ニ期十三日親出師ヲ八日将如京洛此日
雨ル故ニ止行ヲ・・・・省略・・・
二十二日進軍于志立徑山沿海分軍ヲ為ニ根来杉之坊三緘ノ輩引導於ヨリス山佐久間信盛羽柴秀吉
荒木村重・・・・省略・・・
佐久間信盛惟任光秀惟長秀羽柴秀吉荒木村重ヲ居シム焉使杉之坊津田太郎左衛門ヲソ為戌二十三日
・・・・省略・・・
○『信長記』 小瀬甫庵 国会図書館蔵 《ミカラミの者》を確認!! ⇒ 雑賀ノ三緘ト云
・紀伊國退治 巻第十 ※雑賀ノ三緘徳川者
信長公岐阜ニ於テ御越年有テハ天正五年正月吉日・・・・省略・・・
二月二日雑賀ノ三緘(カン)ト云者并根来寺ノ杉坊味方ニ参シ忠義ヲ致スヘキ旨望ミ申シ、同六日上洛ス、
サラハ三緘(カン)ヲ案内者トシテ雑賀ノ兇徒ヲ退治セラルヘシトテ・・・・省略・・・
同二十二日志立ヘ被寄御本陣海手山手ヘ勢ヲ分テ推入せラルルニ、先案内者ナレハ杉坊并雑賀ノ三緘(カン)
ヲ先トシ・・・・省略・・・
土橋平次鈴木孫一・罡埼三郎大夫ナト佐久間ニ便テ一命ヲ助置レハ、以謀畧ヲ大坂ノ城ヲカヅキ可申旨
種々侘言申ニヨッテ被助一命ケリ、角テ佐野城ニハ津田太郎左衛門尉ニ杉坊指添テ為定番被入置。
◎徳川側
○『増補信長記』 松平 忠房 寛文寫(寛文二年:1662年) 国会図書館蔵
※雑賀ノ三緘
二月二日紀州雑賀ノ三緘及び根来杦坊味方ニ属スヘキト内通ス則諸国ニ陣觸シテ同八日雨天故不發同九日
信長公上洛妙覚寺ニ居ス・・・・省略・・・
同二十二日志立ニ陣ス於是諸将ヲ分テ三緘及杦坊郷導シテ山ノ手ヘ向フ軍士佐久間信盛羽柴秀吉荒木摂津守
別所小三郎同孫右衛門・・・・省略・・・
○『将軍記』 織田信長 寛永18年(1641)~寛永19年(1642年) 編輯 林 道春(羅山)
※雑賀乃三緘(カン)
二月二日紀州雑賀乃三緘(カン)根来の杉坊信長公御味方・・・・省略・・・
同二十二日信長志立に陣を移され三緘(カン)杦坊を先として佐久間羽柴・・・・省略・・・
◎真宗側
○『集古雑編巻上』 恵 空 編 『真宗全書』 妻木直良 編 図書刊行会 《ミカラミの者》を確認!!
・紀州取詰ル事附貝塚軍之事 ※雑賀ノ三緘入道
明ル天正五年丁丑正月。紀州雑賀ニ一揆夥シク發テ。中野・佐野・小雑賀・所々ニ要害ヲ構ヘ。・・・・省略・・・
根来ノ杉ノ坊雑賀ノ三緘入道ハ。去ル六日ニ上洛シテ。信長ニ降参シタリケルヲ案内者トシテ。貝塚ノ千石堀ニ取詰ムル。
城中少々戦テ。夜中ニ乗船。城ヲ明テ。雑賀ヘ退散ス。寄手ハ勢ヲ二ツニ分テ。・・・・省略・・・
孫一・平次・等モ。遂ニ和ヲ乞テ開城ス。斯テ津田太郎左衛門并杉ノ坊ヲ佐野城二入置キ。・・・・省略・・・
○『鷺森旧事記』 濫 觴 『大日本仏教全書』宗 意 編 《ミカラミの者》を確認!!
・信長紀州進發之事 ※雑賀ノ三緘
元亀元年九月十三日ノ夜。・・・・省略・・・
天正五年正月ニ。信長ノ給ヒケルハ。・・・・省略・・・
信長天正五年正月十四日。京都妙覚寺日蓮宗エ上洛アリテ。雑賀征伐ノ義諚ヲ極メ給ヒシ所ニ。
雑賀ノ三緘。ナラヒニ根来寺ノ杉之坊。意變リシテ。御味方ヘ参ルヘキヨシ申ケレハ。・・・・省略・・・
寄手ノ先陣。佐久間右衛門尉信盛。羽柴筑前守秀吉。荒木摂津守。別所小三郎。同孫右衛門尉。
堀久太郎ヲ始メ。三月三日ニ。雑賀ノ三緘。根来寺ノ杉之坊ヲ案内者トシテ。・・・・省略・・・
一番史料的に信頼があると云われている太田牛一の『信長公記』第十巻「雑賀御陣之事」に記載されて
いる箇所の中から、《ミカラミの者》にスポットを当てて同一事案が記載されている史料を探求し上記の
通り羅列し比較検証出来るようにした。
諸先輩方は《ミカラミの者》を重要視せずに、単なる雑賀五カラミの中の三カラミとしてしか捉えて
いない。しかし、小生としては重要事項と捉え小瀬甫庵が示した《雑賀ノ三緘ト云者》に重大な関心を持った。
検証・追及の結果信長の祐筆太田牛一が《ミカラミの者》を、小瀬甫庵が《雑賀ノ三緘ト云者》、真宗側の恵空が《雑賀ノ三緘入道》、そして宗意が《雑賀ノ三緘》と夫々記載し、秀吉の祐筆の山中長俊の『中古日本治乱記』に記載がある《雑賀三緘入道》と一致するのである。
それは、当然祖母の雑賀家の家譜に記載がある《小蜜茶雑賀三緘》そのものである。家譜の記載内容については、和歌山県立文書館発行の『紀州家中系譜並に親類書書上げ(上)』P330によれば、「より正確な系譜を藩士に出させるということよりも、むしろ差し出された系譜をより正確にして保存することに主眼が置かれていたと考えることは出来ないだろうか」とある。付箋や貼紙で藩に修正された形跡は一切雑賀家譜にはない。
人によっては、「藩士に仕官するに際し、武功を誇り著名人を先祖(小蜜茶雑賀三緘入道)として掲げている場合が多々ある」と云われるが、上述の県立文書館の通りならば、間違っている、あるいは意図的に記載したこと等は藩に提出していることからして当然藩の役人により訂正されてしかるべきである。
しかし、雑賀家譜の記載内容については付箋や貼紙が一切ないことからして、藩に三代に亘り提出した
家譜は認知されたものとして捉えてよいのではないか。又、『中古日本治乱記』『後太平記』に記載されている《雑賀三緘入道》関連事案の内容等も戦国時代と限定すれば信頼性があると見てよいのではないか。
そして雑賀家譜に記載されている【小蜜茶雑賀三緘】が上記の史料等で確認が出来たのである。
つまり、太田牛一『信長公記』の《雑賀之内ミカラミの者》とは
小瀬甫庵が『信長記』で《雑賀ノ三緘ト云者》と解き明かし
恵空『集古雑編巻上』で《雑賀ノ三緘入道》と、宗意『鷺森舊事記』で《雑賀ノ三緘》と夫々確証した。
『中古日本治乱記』『後太平記』に記載がある《雑賀三緘入道》こそ《雑賀之内ミカラミの者》であり
雑賀家譜の【小蜜茶雑賀三緘】のことである。
このことは、和歌山県立文書館発行の『紀州家中系譜並に親類書書上げ 上』P330記載事項(上述)を
大前提に成り立っている。
その大御所とは、明治から昭和戦後期にかけての日本のジャーナリスト、思想家、歴史家、評論家である
徳富蘇峰(猪一郎)で、徳富が書いた『近世日本国民史織田氏時代中編』に記載があることを見つけ出しました。
同志社大学の吉田曠二氏は「徳富蘇峰著『近世日本国民史』に見る織田信長と豊臣秀吉」にて、徳富蘇峰
は今の日本では残念ながら忘れられた歴史家である。しかし、歴史家としての蘇峰の業績は大きく『史記』を著した中国の司馬遷、西洋では『ローマ帝国滅亡史』を著した英国のギボンにも匹敵する堂々たる存在感を見せている。蘇峰は太田牛一の描いた『信長公記』を信頼し重宝して活用していると述べている。
蘇峰は月刊誌『国民之友』を主宰し、明治21年民友社とは別に国民新聞社を設立し『国民新聞』を創刊。
大正7年7月55才となった蘇峰は『近世日本国民史』の執筆に取り掛かって『国民新聞』にこれを発表。
『近世日本国民史』は日本の正しい歴史を書き残して置きたいと云う一念から始まった蘇峰のライフワークである。織田信長の時代以降の歴史を著した。昭和27年4月20日に全巻完結した。『近世日本国民史』は史料を駆使し、織田信長から西南戦争まで記述した全100巻の膨大な史書で34年の歳月が費やされた。蘇峰の弟は徳富蘆花である。(参照:ウイキペディア等)
蘇峰が小生と同じ見解である事案は太田牛一の『信長公記』に記載があり、雑賀三緘の記載箇所を
下記に示す。
記
〇『信長公記』太田牛一著 桑田忠親 校正 雑賀御陣の事 巻十 天正五年
正月二日、三州吉良の御鷹野より安土御帰陣。・・・・省略・・・・
二月二日、紀州雑賀の内三緘の者、並に根来寺杉之坊、御見方の色を立て申すべきの趣、御国々
への仰せ出ださる。・・・・省略・・・・
☞ 「雑賀の内三緘の者」に対して蘇峰は下記見解
〇『近世国民史織田氏時代中編』 徳富蘇峰著 民友社発行 大正八年六月二十日発行
・【八十一】毛利、上杉、及び信長
毛利氏水軍の、大坂川口に於ける勝利は多大の影響を、否信長黨に及ぼした。
本願寺は此によりて、蘇生の思をした。・・・・省略・・・・
元来謙信は、本願寺門徒と、加賀、能登の間に於て、相戦うた。然かも足利義昭は、本願寺と
謙信とを握手せしめて、信長に當らしめんと欲し。天正四年五月、調停の功空しからず、両者の
和親成立した。・・・・省略・・・・
信長は大阪本願寺の、急に抜く可らざるを見て、其の手足を断つ可考へた。折しも紀州の雑賀、根来の
僧侶、有田郡岩屋城主畠山貞政と相役して、本願寺に応じ、兵を和泉に進め、大阪と聯絡を取らんと
した。此に於て信長は、天正五年二月、安土を出て、雑賀三緘、及び根来の杉坊衆徒を誘ひ、大兵を
率ゐて、京都より河内を経、和泉に入り。・・・・省略・・・・
『 信長公記』: 「雑賀の内三緘の者 」 として不特定
『近世国民史織田氏時代中編』:「雑賀三緘(みからみ) 」 と記し、 一人の人物として特定して いる。
※『近世国民史織田氏時代中編』:人物年表 ⇒ 雑賀三緘 とは、紀州雑賀一揆の将。天正四年織田
の攻むる所と為り、之に降る。【八十一】毛利、
上杉 及び信長。
小生が調査究明してきたのは、正に祖母の実家である雑賀家譜に記載がある一人の人物(将)としての
雑賀三緘である。『信長記』の小瀬甫庵も「雑賀ノ三緘ト云者」として一人の人物として捉えているので
ある。
上記に対して下記が既にご報告しました小生の見解ですが、中々小生と同じ見解の資料を見いだせな
く今日まで時間を費やしてしまった。下記と合わせて小生の見解をご検証の程お願い申し上げます。
記
亡き祖母の実家の雑賀家譜(和歌山県立文書館:資料番号5914・5915・5916・5917・5918)に記載がある雑賀衆である《小蜜茶雑賀三緘≫について記載がある古文書関係『後太平記』『中古日本治乱記』等の信憑性を今まで調査・検証して来ました。
検証結果は逐次報告して参りましたが、此度は既に報告してはいますがそれぞれの立場から捉えた資料
(史料)から検証してみたいと思います。
既に2013年6月23日に一度≪小蜜茶雑賀三緘≫が記載されている記載本の一覧を報告しており重複しますが、新たに見つけた資料(史料)も有りますので再度報告いたします。
又、第十四回報告で《小蜜茶雑賀三緘》についての報告していますが、その時の追加検証をも合わせて報告いたします。
今回は石山本願寺合戦にて、信長側、豊臣側、徳川側、毛利側(石山本願寺側)と真宗(石山本願寺側)から見た資料(史料下記)を同一事案を通して既に第16回報告の≪小蜜茶雑賀三緘≫の検証と『中古日本治乱記』『後太平記』の信憑性を、再度検証してみたいと考えます。但し、『中古日本治乱記』及び『後太平記』は《小蜜茶雑賀三緘≫が記載されている事案を記す。尚、『中古日本治乱記』は秀吉の祐筆山中長俊著の為に秀吉側とし、『後太平記』は著者の多々良姓からして、又、記載内容の大半が尼子氏・毛利氏関連が多い為毛利側としてみた。但し記事の出典基はほぼ『中古日本治乱記』より引用しているようであるので、雑賀衆関連事案は豊臣(信長)側とも見ることが出来る。
記
◎豊臣側
○『中古日本治乱記』 国立国会図書館蔵 ・ 国立公文書館蔵
・将軍方所々蜂起之事(巻第55) ※雑賀三緘入道
「将軍義昭卿既ニ備後国ニ御下向有テ毛利右馬頭輝元吉川駿河守元春・・・・省略・・・
淡路岩屋城ヘハ丹地太郎兵衛尉神野加賀守小林民部少輔三百余騎ニテ討納紀州雑賀三緘入道鱸孫市的場源七郎ハ一揆一満人率シ和泉千石塚ニ城ヲ気築門跡ノ一揆ヲ輔将軍ノ御上洛ヲ待向フ・・・・省略・・・」
◎毛利側
○『後太平記』 『物語日本史大系』 早稲田大学出版部
・諸城警禦之事(地部巻41) ※雑賀三緘入道
「将軍則已に備後ノ國に下向あって、毛利、小早川を頼ませ給ひ、上洛御座・・・・省略・・・
淡路岩屋の城へは丹地太郎兵衛ノ尉神野加賀ノ守、小林民部ノ少輔三百騎にて討入、紀州雑賀三緘入道、鱸孫市的場源七郎は一揆一萬餘人を卒し、和泉ノ國千石塚に堀を築き、門跡を輔け、将軍上洛を待向ふ・・・・省略・・・」
○『後太平記』 『物語日本史大系』 早稲田大学出版部
・将軍摂州御發向之事附一向門跡一揆之事(地部巻第40) ※雑賀三緘入道
「六条本国寺にて討申され泄されたる三好一族、今年蘇軍を發し、摂津ノ國・・・・省略・・・
神野加賀ノ守、丹地太郎兵衛ノ尉、其勢都て七千餘騎、摂津の中島陣取り給ひ、兇徒退治の軍慮急り也、斯る處に紀伊ノ國住人雑賀孫市郎、雑賀三緘入道、岡崎三郎大夫・渡邊藤左衛門ノ尉、的場源七、土橋平次、根来法師岩室清祐、各一萬餘騎にて馳せ参る・・・・省略・・・」
○『後太平記』 『物語日本史大系』 早稲田大学出版部
・摂州大坂一向門跡合戦野事(地部巻第42) ※同(雑賀)三入道
「織田信長の武威益天下を呑む、・・・・省略・・・
雑賀孫市郎、同三緘入道、的場源七郎、渡邊藤左衛門ノ尉、岡崎三郎大夫、根来法師岩室清祐、各一手に成り、 紀伊の勢一万餘騎、和泉ノ國に討ち出で、中野、貝塚、千石堀に楯籠り、門跡一揆に一味して、将軍御帰洛
を待無向へ・・・・省略・・・」
上記は《小蜜茶雑賀三緘(入道)≫が記載されているのみを表示したが、下記はその《小蜜茶雑賀三緘(入道)が表示され、尚且つ同一事案(『信長公記』雑賀御陣の事 巻十:雑賀之内ミカラミの者とは誰だ!!)を表示する。
この《ミカラミの者》が非常に重要であると小生は考える。
何故ならば、杉之坊の者と雑賀の内ミカラミの者が信長側に味方になる旨を内通しに行く訳であるが、
前回の第十四回の報告でも述べているが、何処の誰だか分からない輩が遣って来ても織田信長及びその配下の重鎮は認める訳がない。
内通に遣ってきた者達は杉之坊の者にしろミカラミの者にしろ信長及びその配下の重鎮達を納得させうる者
(大将クラス:石山退去録)でなければならないと小生は考える。
そうなると、太田牛一が云う《ミカラミの者》とは誰だ!!となるのである。何故なら、杉之坊は津田太郎左衛門が佐野城の定番となることが判明するので、杉之坊は彼で間違いはないだろう。
では《ミカラミの者》とは、それは小瀬甫庵が調査して正確に『信長記』に記載しているのであるが、この確証がとれる史料が中々見つからなかったのである。見つかったのは膨大な真宗側の史料からであり、信長との対立側より記載されていることからして充分に裏付け出来ると小生は考える。
《小蜜茶雑賀三緘》が記載されているのは、下記太田牛一の『信長公記』、小瀬甫庵の『信長記』、松平忠房『増補信長記』、林 道春『将軍記』、織田長清『織田眞記』等々だが、それに対する実証する史料が真宗側の宗意編『鷺森舊事記』、恵空編『集古雑編巻上』である。
記
⦿ 《ミカラミの者》を探せ!!! 《ミカラミの者》を探せ!! 《ミカラミの者》を探せ!!
◎織田側
○『信長公記』 太田牛一著 桑田忠親校注 新人物往来社刊
・雑賀御陣の事 巻十 天正五年 丁丑 ※雑賀の内ミカラミの者
正月二日、三州吉良の御鷹野より安土御帰陣、・・・・省略・・・
二月二日紀伊州・雑賀之内《ミカラミの者》并根来寺杉之坊御味方の色を立て申すべきの御請け申す
につきて即ち、・・・・省略・・・
二月十八日、佐野の郷に至りて御陣を移さる。廿二日、志立ヘ御陣を寄せられ、浜手・山方両手を分け
て、御人数差し遣はさる。山方へは根来杉之坊・三緘衆を案内者として差し遣はさる・・・・省略・・・
・御名物召し置かるるの事 巻十 天正五年
雑賀表、多人数、永々御在陣、亡国迷惑を致し、土橋平次・鈴木孫一・岡崎三郎大夫・松田源三大夫・
宮本兵大夫・島本左衛門大夫・栗本次郎大夫已上七人連署を以て、誓紙を致し・・・・省略・・・
三月廿一日、信長公御馬を納められ、・・・・省略・・・
佐久間右衛門・惟任日向守・惟住五郎左衛門・羽柴筑前守・荒木摂津守、残し置かせられ、杉之坊、
津田太郎左衛門、定番に置かる。
○『織田眞記』 織田長清 享保二年(1717年)~三年(1718年) 国会図書館蔵
※雑賀三緘
二月二日紀州雑賀三緘根来杉之坊請來屬於公ニ因令諸州ニ期十三日親出師ヲ八日将如京洛此日
雨ル故ニ止行ヲ・・・・省略・・・
二十二日進軍于志立徑山沿海分軍ヲ為ニ根来杉之坊三緘ノ輩引導於ヨリス山佐久間信盛羽柴秀吉
荒木村重・・・・省略・・・
佐久間信盛惟任光秀惟長秀羽柴秀吉荒木村重ヲ居シム焉使杉之坊津田太郎左衛門ヲソ為戌二十三日
・・・・省略・・・
○『信長記』 小瀬甫庵 国会図書館蔵 《ミカラミの者》を確認!! ⇒ 雑賀ノ三緘ト云
・紀伊國退治 巻第十 ※雑賀ノ三緘徳川者
信長公岐阜ニ於テ御越年有テハ天正五年正月吉日・・・・省略・・・
二月二日雑賀ノ三緘(カン)ト云者并根来寺ノ杉坊味方ニ参シ忠義ヲ致スヘキ旨望ミ申シ、同六日上洛ス、
サラハ三緘(カン)ヲ案内者トシテ雑賀ノ兇徒ヲ退治セラルヘシトテ・・・・省略・・・
同二十二日志立ヘ被寄御本陣海手山手ヘ勢ヲ分テ推入せラルルニ、先案内者ナレハ杉坊并雑賀ノ三緘(カン)
ヲ先トシ・・・・省略・・・
土橋平次鈴木孫一・罡埼三郎大夫ナト佐久間ニ便テ一命ヲ助置レハ、以謀畧ヲ大坂ノ城ヲカヅキ可申旨
種々侘言申ニヨッテ被助一命ケリ、角テ佐野城ニハ津田太郎左衛門尉ニ杉坊指添テ為定番被入置。
◎徳川側
○『増補信長記』 松平 忠房 寛文寫(寛文二年:1662年) 国会図書館蔵
※雑賀ノ三緘
二月二日紀州雑賀ノ三緘及び根来杦坊味方ニ属スヘキト内通ス則諸国ニ陣觸シテ同八日雨天故不發同九日
信長公上洛妙覚寺ニ居ス・・・・省略・・・
同二十二日志立ニ陣ス於是諸将ヲ分テ三緘及杦坊郷導シテ山ノ手ヘ向フ軍士佐久間信盛羽柴秀吉荒木摂津守
別所小三郎同孫右衛門・・・・省略・・・
○『将軍記』 織田信長 寛永18年(1641)~寛永19年(1642年) 編輯 林 道春(羅山)
※雑賀乃三緘(カン)
二月二日紀州雑賀乃三緘(カン)根来の杉坊信長公御味方・・・・省略・・・
同二十二日信長志立に陣を移され三緘(カン)杦坊を先として佐久間羽柴・・・・省略・・・
◎真宗側
○『集古雑編巻上』 恵 空 編 『真宗全書』 妻木直良 編 図書刊行会 《ミカラミの者》を確認!!
・紀州取詰ル事附貝塚軍之事 ※雑賀ノ三緘入道
明ル天正五年丁丑正月。紀州雑賀ニ一揆夥シク發テ。中野・佐野・小雑賀・所々ニ要害ヲ構ヘ。・・・・省略・・・
根来ノ杉ノ坊雑賀ノ三緘入道ハ。去ル六日ニ上洛シテ。信長ニ降参シタリケルヲ案内者トシテ。貝塚ノ千石堀ニ取詰ムル。
城中少々戦テ。夜中ニ乗船。城ヲ明テ。雑賀ヘ退散ス。寄手ハ勢ヲ二ツニ分テ。・・・・省略・・・
孫一・平次・等モ。遂ニ和ヲ乞テ開城ス。斯テ津田太郎左衛門并杉ノ坊ヲ佐野城二入置キ。・・・・省略・・・
○『鷺森旧事記』 濫 觴 『大日本仏教全書』宗 意 編 《ミカラミの者》を確認!!
・信長紀州進發之事 ※雑賀ノ三緘
元亀元年九月十三日ノ夜。・・・・省略・・・
天正五年正月ニ。信長ノ給ヒケルハ。・・・・省略・・・
信長天正五年正月十四日。京都妙覚寺日蓮宗エ上洛アリテ。雑賀征伐ノ義諚ヲ極メ給ヒシ所ニ。
雑賀ノ三緘。ナラヒニ根来寺ノ杉之坊。意變リシテ。御味方ヘ参ルヘキヨシ申ケレハ。・・・・省略・・・
寄手ノ先陣。佐久間右衛門尉信盛。羽柴筑前守秀吉。荒木摂津守。別所小三郎。同孫右衛門尉。
堀久太郎ヲ始メ。三月三日ニ。雑賀ノ三緘。根来寺ノ杉之坊ヲ案内者トシテ。・・・・省略・・・
一番史料的に信頼があると云われている太田牛一の『信長公記』第十巻「雑賀御陣之事」に記載されて
いる箇所の中から、《ミカラミの者》にスポットを当てて同一事案が記載されている史料を探求し上記の
通り羅列し比較検証出来るようにした。
諸先輩方は《ミカラミの者》を重要視せずに、単なる雑賀五カラミの中の三カラミとしてしか捉えて
いない。しかし、小生としては重要事項と捉え小瀬甫庵が示した《雑賀ノ三緘ト云者》に重大な関心を持った。
検証・追及の結果信長の祐筆太田牛一が《ミカラミの者》を、小瀬甫庵が《雑賀ノ三緘ト云者》、真宗側の恵空が《雑賀ノ三緘入道》、そして宗意が《雑賀ノ三緘》と夫々記載し、秀吉の祐筆の山中長俊の『中古日本治乱記』に記載がある《雑賀三緘入道》と一致するのである。
それは、当然祖母の雑賀家の家譜に記載がある《小蜜茶雑賀三緘》そのものである。家譜の記載内容については、和歌山県立文書館発行の『紀州家中系譜並に親類書書上げ(上)』P330によれば、「より正確な系譜を藩士に出させるということよりも、むしろ差し出された系譜をより正確にして保存することに主眼が置かれていたと考えることは出来ないだろうか」とある。付箋や貼紙で藩に修正された形跡は一切雑賀家譜にはない。
人によっては、「藩士に仕官するに際し、武功を誇り著名人を先祖(小蜜茶雑賀三緘入道)として掲げている場合が多々ある」と云われるが、上述の県立文書館の通りならば、間違っている、あるいは意図的に記載したこと等は藩に提出していることからして当然藩の役人により訂正されてしかるべきである。
しかし、雑賀家譜の記載内容については付箋や貼紙が一切ないことからして、藩に三代に亘り提出した
家譜は認知されたものとして捉えてよいのではないか。又、『中古日本治乱記』『後太平記』に記載されている《雑賀三緘入道》関連事案の内容等も戦国時代と限定すれば信頼性があると見てよいのではないか。
そして雑賀家譜に記載されている【小蜜茶雑賀三緘】が上記の史料等で確認が出来たのである。
つまり、太田牛一『信長公記』の《雑賀之内ミカラミの者》とは
小瀬甫庵が『信長記』で《雑賀ノ三緘ト云者》と解き明かし
恵空『集古雑編巻上』で《雑賀ノ三緘入道》と、宗意『鷺森舊事記』で《雑賀ノ三緘》と夫々確証した。
『中古日本治乱記』『後太平記』に記載がある《雑賀三緘入道》こそ《雑賀之内ミカラミの者》であり
雑賀家譜の【小蜜茶雑賀三緘】のことである。
このことは、和歌山県立文書館発行の『紀州家中系譜並に親類書書上げ 上』P330記載事項(上述)を
大前提に成り立っている。