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雑賀衆・雑賀三緘について

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先祖 雑賀衆・雑賀三緘(サンカン)について(十五回):太田牛一、「中古日本治乱記」より引用箇所発見!!!

2012-04-19 22:43:33 | 調査・報告
Saikashuu(Saigashuu)・Saika(Saiga) Sankan


今回の事案(下記)には驚かされた。それは、織田信長の行動を記載した「信長公記」にて、太田牛一の今までにない記述
・表現方法で、「中古日本治乱記」とほぼ同一内容が記載された箇所(盗用・引用?)がでてきたことである。このことは、
「中古日本治乱記」の記述が事実を正確に捉えているからこそであり、牛一自ら「曾て私作私語に非ず、直に有ることを
除かず、無きことを添えず。もし一点虚を書かんときんば、天道如何」(「信長公記」池田家文庫本巻十三奥書)に記すごと
くからすると、内容は正確であり牛一自身も「中古日本治乱記」の山中長俊の考えに賛同し共感し、その箇所を(盗用?)
引用したのではないか。

太田牛一が「中古日本治乱記」より何故引用したかという根拠は、石山本願寺の地は商業経済の中心地であり交通の要所
でもあり、非常に重要な位置をしめていたことからして、信長は手にいれることに狙いを定めたのではないか。
太田牛一の「信長公記」は慶長15年(1610年)2月頃完成といわれているとのことで、山中長俊の「中古日本治乱記」の序文
には慶長7年(1602年)とあるからして「信長公記」より先に完成していたと思われる。又、「中古日本治乱記」は秀吉の命に
より「太平記」の後を承けいる形で、貞治元年から慶長2年まで二百数十年に亘る記述を終えたが秀吉が没した。その後朋
友太田和泉守資方(牛一?)の勧めを容れて増補し、慶長5年関ヶ原の戦いで終結した。このことからして、太田牛一は「中古
日本治乱記」の草稿等を見て山中長俊に勧めて増補させたが、その草稿はそのまま牛一の手元に置いていたのではないか。

太田和泉守資方であるが、資方は牛一の実名の資房の間違いではないかとも言われるようであるが、私は専門家ではな
いので分からないが、下記の検討事案の記載内容を比較していただければ、資方が牛一その人物であることが分かる。
その逆は有りえないのではないか。それは、山中長俊は「信長公記」が刊行される前の慶長12年(1607年)12月24日に亡く
なっているので、牛一の「信長公記」は慶長15年に書き上げていることからして長俊は見ることは出来ないからである。

前回の十四回にて亡き祖母の家譜に記載ある「雑賀三緘(カン)」が歴史上存在していることを事案を提出し検証した。
今迄、「後太平記」「中古日本治乱記」を信憑性が高い「信長公記」との同一事案にて、「後太平記」「中古日本治乱記」の
信憑性比較検証してきたが、同一事案がなくなってきたことと信憑性(戦国時代数十年に限定した場合)についても確証
が得られたと思うので、「後太平記」「中古日本治乱記」と「信長公記」との比較検証は今回で取敢えず検証は終わる。

今回も、前回同様に検証を冒頭にもってきた。

検証事案:

・中古日本治乱記:信長與本願寺門徒和睦付大坂城破壊之事(巻第62)

・信長公記:大坂退散御請け誓紙の事(巻13)
:大坂退散の事(巻13)


◎検証:

上記事案には、「後太平記」には記載がないが信長対石山本願寺合戦の最終結末であり、重要な事案である。しかも、
冒頭に書いたが信憑性が高い「信長公記」に於いて今までにない太田牛一の書き方で表記されている。
それは、「中古日本治乱記」の一部の(盗用)引用箇所が見つかったことである。この箇所は下記の検証事案にて検証する。
信長が対石山本願寺に対する講和のための信長が遣わした使者、退去した期日など一致しており「中古日本治乱記」
「信長公記」の史実の相違はない。

しかし、上記の通り「中古日本治乱記」を真似た今迄とは違う太田牛一の記載内容はどうしたものなのか。山中長俊は
「中古日本治乱記」を出すに当たり、太田牛一に相談していることが「中古日本治乱記」の序文に書かれていることは
既に述べた通りである。

何故このようなことを太田牛一がしたのか、私の考えでは、同じ織田側の者として、石山本願寺および各地の一向一揆
との合戦(石山合戦)に10年(籠城5年)も費やすとは思っていなかったはずである。ようやく和睦が成立した安堵感が山中
長俊の「中古日本治乱記」の草稿を見て、太田牛一も山中長俊の考えに賛同し共感し記載内容を(盗用)引用したのでは
ないか。


◎検証史料:

 ○本願寺平定:「織田信長のすべて」 岡本 良一 著 新人物往来社刊

「石山本願寺が頼みとしていた上杉謙信も天正6年3月死亡し、11月木津の開戦で海上権も失い、信長に叛いて摂津有明城
に籠った荒木村重も天正7年敗れ、8年8月、播磨三木城も落ちて、本願寺はここに全く孤立無援となった。一方、信長は天正
7年冬頃から朝廷を通じて本願寺との講和を試みていたが8年3月1日、全関白近衛前久・庭田重保・勧修寺晴豊が勅使とし
て本願寺に赴き、さらに松井友閑・佐久間信盛が信長の目付として加わり顕如らと会談し、ついに和議が成立した。

信長は、17日、石山城の全ての者を許す、信長から人質を出す、石山本願寺退去後、不穏なことがなければ加賀の江沼、
能美の二郡は返す、石山退去と同時に花隈・尼崎も渡すこと、など七カ条の覚書に血判して送った。

一方、顕如側も五カ条の起請文を提出した。しかし、本願寺には教如光寿を許す、信長から人質を出す、石山本願寺退去
後、不穏なことがなければ中心とする講和反対派が雑賀から援軍を導入しなおも籠城しようとした。
その顕如は、紛争拡大を恐れ4月9日石山を発って、10月紀伊鷺の森に移った。これに対して信長は、花隈や尼崎への
兵力を強化した。

そして7月3日、ついに包囲していた荒木村重の武将荒木元清の守花隈城を池田恒興に攻略させた。さらに13日には大坂
東表の辻・安田の両城も落ち、ここに光寿もついに屈服した。17日、信長は京都から8月10日以前に退去すべきなど五カ条
の起請文を教如に送った。

そして8月2日、教如は石山本願寺を退去して雑賀に移った。このとき炬火の火の粉が飛んで、本願寺伽藍は3日間に
わたって燃え続け、すべて灰燼にきした。ここに5年間に及んだ石山合戦は終結し、信長は多年の宿望を達成した。」


◎検証事案:

○中古日本治乱記:信長與本願寺門跡和睦附大坂城破壊之事

「去程ニ大坂ノ本願寺門跡光佐上人顕如ハ久シク大坂ノ城ニ在テ信盛ト合戦シケ ル両人和睦シテ天下ノ乱ヲ可治( )宣下有テ為勅使
近衛前関白全文及勧修寺中納言晴豊庭田中納言重通下使ハ荒屋善左衛門大坂ニ至リテ勅定ノ旨ヲ申ス 門跡光佐応勅使之
旨信長ト和睦シテ避城紀州ノ雑賀ニ移レハ宮内卿法印佐久間右衛門尉信盛大坂ノ城ヲ請取ル
又矢部善七郎ヲ大坂ニツカハシ黄金絹布ヲ光佐顕如上人並ニ其家老下間法院ニ賜リケリ 光佐モ家臣ヲ安全ニツカハシ信長ニ謁セント
請シカハ近衛殿勧修寺殿庭田殿彼使者ヲ召具シテ来リケルニ信長宣ヒケルマツ信忠ニ可逢ト仰セケレハ使者先謁信忠・・・省略・・・・・

・・・・省略・・・・・・・・

同八月(天正八年八月)ハ信長上洛シテ宇治ニ至リソレヨリ船ニノリ大坂ニ赴キ城郭ヲ巡リミテ
同二日ニヨリ大坂ノ城ヲ破却サセラレケリ仰せ抑此大坂ノ城ト申ハ日本j無双ノ各地ナリ都トテモ程近シ

・・・・※ 牛一、下記箇所より引用(盗用?)・・・・

奈良堺モ隣タリ淀鳥羽ノ辺ヨリモ大坂ノ木戸口ニテ舟ノ往変自在ニテ四方ニ切所ヲ抱ヘタリ

北ノ方ニハ水鳥群居ル加茂川ヤ月ノ影スム桂川誰陸奥ノ関ナラテ秋風ソ吹白川ヤ淀宇治川ノ其流イク重トモナク
二里三里ノ内中津川吹田川引廻シタリ

東南ニハ二上カ嶽立田ノ山ノ秋暮ハ錦ヲ晒ス紅葉ハ道明寺川ニ散浮ヒ渡ラハ絶ナマシ流ヲ惜ム行末ハ
大坂ノ腰迄三四里ノ其間ハ江ト川ト續タレハヘウマトシテ城ニ帯スルカ如シ

西ハ滄海マンマントシテ日本ノ地ハ申スニ及ハズ唐土高麗南蛮新羅百済ノ舩彼海上ニ出入シ売買利潤ノ湊ナリ

仏法東漸ノ多地ヲ見立方八町ニ地形ヲカマヘ十方ニ口ヲ開タリ 其中ニ自然ト高キ塁アリシヲ其中ニ御堂ヲ建立池ノ水底ヨリ赤白ノ
蓮花ヲ生シ其中ニ弘誓ノ舟ヲ浮ヘ備前ニハ光明ヲ輝シ利剣念仏ノ名号ハ煩悩賊ノ怨敵ヲ治シ仏法繁昌ノ多地トテ僧坊在家ハ
( )ヲ双ヘ福裕ノ煙リ厚ク偏ク此法ヲ貴々遠国ハトウノ民俗ハ日夜且暮ニ参詣シ行人・・・・・省略・・・・・・・・・・・・

既ニ五カ年天王寺ニ附城シテ大坂ト拒シヲ本願寺軍兵天王寺ニ押ヨヤ合戦シテ原田備中以下数百輩ノ軍兵・・・省略・・・・
攻玉ヘハ大坂方ニモ鴻津ノ丸山廣芝五山ヲ初トシテ端城五十一箇所ヲ構ヘ築ヒテ・・・省略・・・・・
篭ヲキ構ヘノ内ニデ万余石領地ヲ所務シテ運ヲ天道ニ任セデ年ノ春秋ハ・・・・省略・・・・・・

天正八年二月二日ノ未ノ刻ニ雑賀淡路嶋ヨリ数百艘ノ迎舩トモ・・・省略・・・・陸ニ上リテ蜘ノ子ヲ散スカ如ク右往左往ニ分レ
行カカル時節ニ・・・・省略・・・・・頻リニ扇吹テ黒煙諸家ニ覆ヒ作リ双ヘタル伽藍トモ一宇不残焦土ト成テ夜ル昼ル三日ノ火ヲ残セリ
・・・省略・・・・」

○信長公記:大坂退散御請け誓紙の事

「さる程に大坂退城仕るべきの旨・・・・省略・・・・
御勅使、近衛殿、歓修寺殿、庭田殿、並びに宮内卿法印、佐久間右衛門等へ御請けを申し、誓紙御検使申し
請けられ候。
・・・・省略・・・・・・・ 」

○信長公記:大坂退散の事

「・・・・省略・・・・・
天正八年庚辰八月二日、新門跡大坂退出の次第。・・・・・省略

・・・・※ 牛一、「中古日本治乱記」からの引用(盗用?)箇所・・・・・・

仰も大坂は、、凡そ日本一の境地なり。その子細は、
奈良、堺、京都に程近く、殊更、淀、鳥羽より大坂城戸口まで、船の通ひ直にして、四方に節所を拘ヘ

北は加茂川、白川、桂川、淀、宇治川の大河の流れ、幾重ともなく、二里、三里の内、中津川、吹田川、江口川、
神崎川引き廻し、

東南は、尼上ケ嵩、立田山、生駒山、飯盛山の遠山の景気を見送り、麓は道明寺川、大和川の流れに新ひらき淵、
立田の谷水流れ合ひ、大坂の腰まで 三里、四里の間、江と川とつづいて渺々と引きまはし、

西は滄海漫漫として、日本の地は申すには及ばず、唐土・高麗・南蛮の船、海上に出入り、五畿七道ここに 集まり、
売買利潤、富貴の湊なり。

隣国の門家馳せ集まり、加賀国より城作を召し寄せ、方八町に相構へ、真中に高き地形あり、爰に一派水上の御堂を
こうこうと建立し、前には池水を湛ヘ、一連托生の蓮を生じ、後には弘誓の船をうかべ、仏前に光明を輝かし、利剣即是
の名号は、煩悩賊の怨敵を治し、仏法繁昌の霊地に在家を立て、甍を並べ、軒を継ぎ、
福裕の煙厚く、編に此の法をと尊み、遠国波島より日夜朝暮、仏詣の輩・・・省略・・・・

天王寺へ差し懸け、一戦を遂げ、原田備中、塙喜三郎、箕浦無右衛門を初めとして、歴々討ち捕り、その競ひに天王寺
とり巻き候ところ・・・・省略・・・・・
末法の時到って修羅闘諍の瞋恚を発し、力及ばずながら、
大坂も、こう津、丸山、ひろ芝、正山を始めとして、端城五十一ヶ所申し付け、
楯籠り、構への内にて五万石所務し、運を天道に任せ、五カ年の間、時節を相守ると雖も・・・・省略・・・・

八月二日未の刻、雑賀・淡路島より数百艘の迎へ船をよせ、近年相抱へ候端城の者を初めとして、右往左往に、
緑々を心掛け、海上と陸と、蛛の子をちらすが如く、ちりじりに分かれ候・・・・省略・・・・夜日三日、黒雲となって、焼けぬ。」

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

地名で、 中古日本治乱記:二上カ嶽、信長公記:尼上ケ嵩となっているが同じ所を表していると思われる。

上記箇所が「中古日本治乱記」より引用していることが分かったのは、当初に述べたが、「後太平記」「中古日本治乱記」の
信憑性を信憑性が高い「信長公記」と比較検証することで確認出来ると考えたからである。
同じ事案を抜きだし、同一の土俵(紙面)にのせることにより一目で分かる方法をとったからである。「中古日本治乱記」
の事案をパソコンの画面に入力し、続いて「信長公記」の事案を入力していると、重複して再入力している気になり、隣の「中古
日本治乱記」の行を見るとほぼ同じ内容の文面であることが分かった。
このことは何を意味するのであろうか。素人の私には分からないが、太田牛一が「中古日本治乱記」より一部とは言え、
引用箇所がでてきたことは、戦国時代から江戸初期に亘る「中古日本治乱記」の事案の信憑性を太田牛一は認めていると
云えるのではないだろうか。


・・・・・・・・・・・・続く・・・・・・・・・・・・・・・・・・















雑賀衆・雑賀三緘(サンカン)について(十四回):雑賀御陣之事(紀州雑賀一揆退治之事)、三緘(サンカン)確認!!

2012-03-20 20:14:40 | 調査・報告
Saikashuu(Saigashuu)・Saika(Saiga) Sankan

◎家譜記載雑賀三緘(カン)確認!!!

亡き祖母の雑賀の家譜に記載ある事項で、特に興味を引いた戦国時代の人物「雑賀三緘(サンカン)」の調査・検証・確認作業
をしてきたが大詰めに近づいてきた。今回実施のキッカケは家系図(祖父・祖母・母親)の3家のものを作成することであった。
祖父・母親の謄本は容易く手に入ったが、祖母の謄本は関東大震災にて役所が火災に遇い謄本が入手出来ないことから、
色々手をつくして和歌山県立公文書館のホームページより「紀州家中系譜並に親類書書上げ」があることが分かり、入手した
ことから始まった。
公文書館、博物館関係者等からの話では、雑賀衆で紀州藩に仕えた者はいないとのことからして、又、家譜の記載内容の
信憑性があるのか、ないのかとの問題もあるとのことからして、自分自身で検証・確認するしかないと考え調査する決心
をした。
又、信用していただけるか分からないが自分自身不思議な体験をした。今から四十年以上前の学生時代に寝ていて、
「全身金縛りにあい、起きようと悶え、ふと上半身が起こせたので起きて、足元を見ると鎧兜の姿で床几に坐った武者の
姿」を見たのである。
別段、私は驚くこともなくその武者を見、又、武者も私を見ていたことである。当然であろう武者が私を起こしたので
あるからして、他人からすると寝ぼけていたのでは、或は夢を見ていたのではと思うかもしれませんが、お互いに面と
向かい合って見て、気にもせず一旦寝て、今のは何だふと思って再度上半身を起こして足元を見た時には、武者の姿は
無かった(消えていた)のである。
このことがずーと頭にあり、何故私を全身金縛りにして、気づかせ、姿を見せたのかが気がかりであった。それは、戦で
亡くなった者達を弔ってほしいのか、自分を探せといっているのか。いまだに不思議であるが、その時は何だか分からず
いたが、三緘(カン)を調査してみると、それのようにも思え、武者に話しかけたら返事が返って来るのか、色々と聞きたい
ことが沢山あり確認したいことが出来たため、もう一度現れないかと期待しているが、残念乍現れてはくれない。
祖父の実家は武士ではなく、又母親の実家も武士ではないので、祖母の家系でしか武者はいないのである。

今回祖母の家譜を突詰めて検証・確認してきたのは、私の心の底にそれが残っていたからでもあるが、今回の事案の調査
・報告で一様確認出来たのではないか。専門家から見るとその内容(下記)に疑問を抱くかもしてないが、素人が出来る
範囲でやり遂げることは、これが限度ではないか。
確認出来たのは今まで調査してきた「後太平記」「中古日本治乱記」「信長公記」からではなく、小瀬甫庵の「信長記」と
林 道春(羅山)編輯の「将軍記」からである。

又、家譜の信憑性も確認出来たと思う。和歌山県立公文書館発行の「紀州家中系譜並に親類書書上げ(上)の解説によれ
ば、「一般的に系譜といえば、自身の家の事跡を書き上げた文書であるため、その家の者が事跡については一番よく
知っているはずのものである。しかし、梅田家や中村家の系譜でみたように、差出人よりも藩の方が、より正確に、
より詳しく記述しているのであ。もちろん藩士、一個人あるいは家が、何代にわたってその家の系譜を請け継ぐより
も、行政組織である藩が記録として残していれば、当然、藩の方が正確に、詳しい情報をもつことができたできたと
思われる。であるならば、系譜をわざわざ藩に差しださせる理由がどこにあったのだろうか。
・・・省略・・・・
藩が精査した家の個々の事跡が反映されていない系譜を再度藩が受け取る。ということは正確な情報をより正確に
して保存することに主眼が置かれていたと考えることが出来ないであろうか。」とある。
雑賀家の家譜も三代に亘り、付箋・貼紙等の修正はされておらず、無いということは、正確に報告されていたと考えら
れる。

今回報告する事案は、「後太平記」には記載はないが、「「中古日本治乱記」「信長公記」に記載がある。従来は検証を最後に
したが、今回は冒頭にもってきた。

事案:
・「中古日本治乱記」:紀州雑賀一揆退治之事(巻第58)
・「信長公記」:雑賀御陣の事(巻10)・御名物召し置かるるの事(巻10)

確認史料:
・「信長記」:小瀬 甫庵 紀伊国退治(巻第10)
・「将軍記」:林 道春(羅山)編輯 (織田信長記)

◎検証:

今回の事案に関しては、織田信長側からみた「信長公記」、羽柴秀吉側からみた「中古日本治乱記」には記載されているが、
足利義昭もしくは毛利氏側からみた「後太平記」には記載がないが、「中古日本治乱記」の信憑性を見る上では必要である。

天正五年の正月より信長の安土城帰陣(帰城)からの書き出しから両者共はじまり、同年二月二日の紀州雑賀の内三緘
(ミカラミ)の者、並びに根来寺之坊等が、織田信長側に加担する旨の申し出や、同月の二月二十六日の雑賀衆の前進拠点
である貝塚城攻撃での楯籠っていた雑賀衆の遁走。
この遁走の箇所は「中古日本治乱記」には記載がないが、「雑賀合戦(第一次):戦国合戦大辞典(四)」:新人物往来社刊
によれば、「本願寺の法主顕如が、この行動を賞賛しているところみると、予定されていた作戦の一部であったらしい」と
あり、信憑はあり、前述した「後太平記」の(諸城警禦之事)、「中古日本治乱記」の(将軍方所々蜂起之事)で登場している
雑賀衆も楯籠っていたからこそ遁走したのであってお互いに関連しあっている。

そして同年三月に、雑賀衆の主だった七人が織田信長に対して誓紙をいたし、石山本願寺の攻撃に信長の命に従って
協力する旨を申し出ている。これに対して、桑田忠親氏の「流浪将軍足利義昭」によれば、「信長の雑賀攻めを知った
足利義昭は、三月朔日、吉川元春と小早川隆景に御内書を送り、毛利軍が大坂に出陣すべきであることを主張した。
しかし、元春も隆景も義昭の御内書を無視したらしい」とあり。

「中古日本治乱記」は雑賀衆の誓紙以降は織田方の佐久間信盛、羽柴秀吉等の軍勢が石山本願寺門徒、雑賀衆の残党
警固のため天王寺に引き続き留まっていることが記載され、秀吉側からみた内容になっている。

次に、家譜にある雑賀三緘(サンカン)を指摘した史料である小瀬甫庵の「信長記」と太田牛一の「信長公記」との検証を
述べる。
今回の調査をするまでは「信長公記」があることは書店で見て知っていたが、別段気にもしていなかった。しかし、今回
調査して行く中で別途同一の「信長記」があることを知り確認作業をして行く中で、世の通説として小瀬甫庵の「信長記」
は、太田牛一の「信長記」本を元に書かれた為に「信憑性」が低いといわれるとのことで、私は最初から比較検証すること
もしないで今回の検証作業を終了しようとした時、虫「三緘?(サンカン)」がしらせたのか何気なく調査する気になった。
調査することにより、今回探し求めていた雑賀三緘(サンカン)の確証を遂に得ることが出来たのである。調査しなければ、
重大なことを見逃す処であった。

「雑賀庄」は十ケ郷・雑賀庄・中郷・宮郷・南郷の5ケ郷からなり、「五緘(カラミ)・搦・組」ともいうとのことである。その中で、
中郷・宮郷・南郷を三緘(ミカラミ)ということになっている。
この「緘」の捉え方により大きな違いが生じるのである。つまり「カラミ」ととると「庄」「とか「惣」とか地域とか村とかなど
の意味になり、「カン」となるとそれ以外のこととなる。つまり「三緘」を「ミカラミ」ととるか「サンカン」ととるかによ
って、大きく異なるのである。
 
池田家文庫本では、「ミからミノ者」或は「ミからミ衆」と表記されているが、林 道春編輯の「将軍記」(織田信長)では、
「サンカン」と表記され「ミからミノ者」或は「ミからミ衆」の「惣」「搦」「組」ではなく、特定の人物をさしている。
そのことは、小瀬甫庵の「信長記」では、はっきりと「三緘(カン)ト云フ者」と断言しているのである。素人の私の私見
ではあるが、甫庵は牛一の「信長記」を見て「ミからミノ者」とは知識がなく、その為に周囲に確認し、検証し、人物を特定
しているからこそ「・・・と云う者」と記述したのであって、そうでなければこのような記述にはならない。

又、信長記(池田家文庫本)の「二月二日、紀伊雑賀の内三からミの者、并根来寺杉之坊御身方し色を・・・・」とあるが、
雑賀庄の内三庄(郷)(中郷・宮郷・南郷)が信長側につき、戦況に大きく左右した。
この身方をする旨請願しに来た人物が、不特定多数の者(ミからミの者)或は根来寺の(之坊)では、信長及び信長方の
武将には信用おける有力な人物でなければ、いくら請願に来たとは言え不特定人物では納得出来るものではない。
根来寺の之坊は後の佐野城定番になった「津田太郎左衛門(監物算正)」ではないか。そうすると請願にきた人物は
「三緘(ミカラミ)」の長・首領ではないが、ある程度の地位があり、知れ渡った人物である。之坊は「津田太郎左衛門」であれ
ばお互いに承知したなかであり、信長方が信用したことが肯ける。太田牛一には、特定の人物には興味なく、単に請願に
来たことが大事であったのだ。

つまり、雑賀三緘のことを未確認の太田牛一は「ミカラミノ者」、知らなかった三緘(カン)を確認した小瀬甫庵は「三緘
(カン)ト云フ者」、承知している「将軍記」の編輯の林 道春は「三緘(カン)」と断定した記述になっている。
このことは、「後太平記」の多々良一龍及び「中古日本治乱記」の山中長俊も同様に承知していたから断定した記述にな
っているのであると、考えるべきではないか。
これは、私が断言出来るのは、祖母の家譜に記載があるからこそ断言出来ることである。今まで諸先輩方は、牛一の記載に
忠実に現代訳にし、特定の人物を断定する手段が無かったから「ミからミの者」=「中郷・宮郷・南郷の者」、「ミからミ衆」=
「中郷・宮郷・南郷の衆」として解釈してきたのではないか。
本来ならば太田牛一は、「雑賀三緘」のことを「中古日本治乱記」・「後太平記」・「将軍記」の「雑賀三緘(カン)」、或は、「ミカラミ
の三緘(カン)として記述しなければならないところを「ミカラミの者(衆)」と記述したと考えられる。

以上のことからして「後太平記」「中古日本治乱記」に記述ある「雑賀三緘入道」はまさしくこの人物をさしていると断言
出来、「後太平記」「中古日本治乱記」の記述期間を戦国時代と限定して検証すれば信憑性があると言えるのではないか。

◎検証史料:

○紀州・雑賀、根来の一向一揆討伐:「織田信長のすべて」 飯田 良一 編 新人物往来社刊

「二月、紀伊の畠山貞政が雑賀及び根来の衆徒と謀って挙兵した。しかし、雑賀の内三緘衆と根来の杉の坊が信長に味方
する旨を伝えて来たので、信長は、この機に本願寺の補給基地雑賀を討伐すべく八日、安土から上洛した。
嫡子信忠らを先陣させ、信長は十三日、京都を発して淀川を越えて八幡に陣取った。
東国の人数は真木島、宇治橋を渡って参戦して来た。十五日、若江を経て十六日和泉の香庄に進んだ。十七日、先陣が
一揆側の要撃のため楯籠っていた貝塚を攻撃しようとしたが、一揆の多くは夜陰に乗じて退散した。
・・・省略・・・・・・・
三月朔日、滝川一益・明智・丹羽・長岡・筒井らは雑賀の首領鈴木孫一重秀の居城を包囲して、銃丸を防ぐ竹束や攻撃用
の井楼で日夜攻撃した。
二日、信長は山手と浜手の中間取郷の若宮八幡宮に陣を移し、諸士を根来口に派遣し、小雑賀川・紀ノ川から山手に
陣取らせて、一揆を包囲した。この為十五日孤立した。鈴木重秀らの指揮者七人は連署の誓紙を呈出し、石山本願寺
の攻撃には信長の命に従って協力する旨を申し出て全面的に降伏したので、信長は彼らを赦免した。」

○千石堀城(貝塚城):「大坂府全志より」

「貝塚市にある根来寺前線砦群の一つで、畠中城・積善寺城などと近木川沿いにある根来衆の出城の一つである。
天正年間本願寺門徒の摂州石山城に據りて織田信長と争ふや、紀州の雑賀孫一郎・同入道三緘・土橋平次・的場
源七郎・渡邊藤左衛門・岡崎三郎太夫および岩室清裕等は、一万餘騎を引ゐて當国に入り、當城および畠中・貝塚
の要塞に據りて應援し、以って信長を悩ませしかば、信長は天正五年二月雑賀征伐の途に就きて諸城に迫りければ、
同月十六日に悉く潰走した。」

◎検証事案:

・中古日本治乱記:「紀州雑賀一揆退治之事」

「天正五年正月二日信長ハ岐阜ノ城ヲ出テ江州安土ニ皈リ玉フ
・・・省略・・・・
同廿五日ニハ信忠安土ノ城ニ趣キ位階昇進ノ事ヲ吹寵ス 然ル処ニ紀州雑賀ニ一揆蜂起シテ国中動乱スルノヨシ
早馬来テ信長ヘ告タリスカハ時刻ヲ不移退治セント

同二月信長軍兵ヲ相催シ先上洛シケリ相伴人々ニハ嫡子秋田城之介信忠次男北畠中将信雄三男神戸三七信孝
織田上野介信包此人々ヲ紀州ニ遣シ一揆等ヲ攻撃セケリ 堀久太郎秀政相従テ馳向フ信長ハ猶軍兵催促シ追来輩ヲ悉引率
シテ信長モ河州若江ニテ出張シタマヒケリ 其軍兵ノ大ナツ事雲霞ノ如クシテ野モ山モ軍勢ノ陣所ナラヌ所ハナシ

此時貝塚ヲ守リタル紀伊ノ国ノ凶徒トモ敵ノ多勢ニ恐擢シテ貝塚ヲ打ステテ行方不知落失ケリ根来ノ僧徒等共信長ノ陣所ニ来テ
於味方忠戦仕ルヘシト申ケリ
其後諸将ヲ分テ一揆等カ楯籠リシカ城々ヲコソ責ラケレ凶賊等モ此ヲ前途ト防キケル一揆ノ輩ハ兼テ敵寄テセムル程
・・・・・省略・・・・・・・・・・

一揆ノ輩城々ヲ被落ケリ一揆ノ渠魁鈴木孫一土橋平次罡崎三郎太夫等降参シケリ 信長紀州ノ政事ヲ沙汰シテ軍ヲ斑シテ
入洛シ玉ヒケル雑賀ノ残黨未滅者有テ一揆ヲ企ルヨシ聞シカハ信長ノ下知トシテ佐久間右衛門佐信盛ヲツカハシ一揆等ヲ被責撃ケリ
・・・・・・省略・・・・・・・・・・」

・信長公記:「雑賀御陣の事」

「正月二日、三州吉良の御鷹より安土御帰陣。
・・・省略・・・・
二月二日、紀州雑賀の内三緘の者、並に根来寺杉之坊、御見方の色を立て申すべき御請け申すにつきて、
即ち、十三日に御動座なさるべきの趣、御国々へ仰せ出ださる。
・・・省略・・・・・・・・・

十五日、信長公、八幡より若江まで御着陣。十六日、和泉の内、香庄に御陣取り。国中の一揆、貝塚と云う所、
海手を拘へ船を引き付け、楯籠る。翌日、先陣の衆、貝塚へ取り懸け、攻め干さるべきのところ、夜に入り、
船に取り乗り、罷り退き後の者・・・・省略・・・・・

廿二日、志立へ御陣を寄せられ、浜手・山方両手を分けて、御人数差し遣はさる。山方へは根来杉之坊・三緘衆
を案内者として佐久間右衛門、羽柴筑前、荒木摂津守・・・・省略・・・・・
・・・・省略・・・・・・」

・信長公記:「御名物召し置かるるの事(巻10)

「雑賀表、多人数、永々御在陣。亡国迷惑を致し、土橋平次・鈴木孫一・岡崎三郎大夫・松田源三大夫・宮本兵大夫
島本左衛門大夫・栗本二郎大夫已已上七人連署を以て誓紙を致し、大坂の儀、御存分に馳走仕るべきの旨、
請け申すにつき、御赦免なさる。
・・・・省略・・・・・

佐久間右衛門・惟任日向守・惟住五郎左衛門・羽柴筑前守・荒木摂津守、残し置かせられ、杉之坊、津田太郎
左衛門、定番に置かる。」

◎確認史料:雑賀三緘(カン)確認 ※ 国立公文書館所蔵

・安土日記(信長公記)十 太田 牛一 岡山大学池田家

「二月二日紀州雑賀ノ内ミカラミノ者并根来寺ノ坊御身方ノ色・・・省略・・・・

二十二日志立ヘ御陣ヲ被寄濱方山方両手ヲ分けテ御人数()()山方ヘハ根来寺ノ坊
ミカラミ衆為案内者佐久間右衛門羽柴筑前・・・省略・・・・」

・信長記:「紀伊国退治」 小瀬 甫庵 元和寛永間

「二月二日ニ雑賀三緘(カン)ト云者并根来寺ノノ坊御味方ニ・・・・省略・・・
サラハ三緘ヲ案内者トヒテ・・・・省略・・・・

同廿二日ニ志立ヘ被寄御陣ヲ海手山手ヘ勢ヲ分テ推入セラルルニ。先案内者ナレハ坊并
雑賀三緘(カン)ヲ先トシ佐久間右衛門尉信盛羽柴筑前秀吉・・・省略・・・・・」

※ ミカラミノ者(衆)⇒ 三緘(カン)ト云う者に変更、即ち、不特定者から特定者に断定している。

・将軍記(織田 信長):編輯 林 道春(羅山) 寛文四年刊

「二月二日紀州雑賀乃三緘(カン)根来寺坊信長公・・・省略・・・・

同廿二日信長志立()陣をうつされ三緘(カン)坊を先として佐久間羽柴・・・省略・・・」

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

◎雑賀三緘(カン)記載追跡一覧(後太平記・中古日本治乱記)

・中古日本治乱記:将軍方所々蜂起之事(巻第55)

「将軍義昭卿既ニ備後国ニ御下向有テ毛利右馬頭輝元吉川駿河守元春・・・・省略・・・・

淡路岩屋城ヘ丹地太郎兵衛尉神野加賀守小林少輔三百余騎ニテ討納

紀州雑賀三緘入道鱸孫市的場源七郎ハ一揆一満人卒シ和泉仙石塚城・・・省略・・・・・

・・・・・・・・・・・・・
・後太平記:諸城警禦之事(地部巻第41)

「将軍已に備後ノ国に下向あって、毛利、小早川を頼ませ給ひ・・・省略・・・・

淡路岩屋の城へは丹地太郎兵衛尉神野加賀ノ守、小林民部ノ少輔三百余騎にて討入

紀州雑賀三緘入道、鱸孫市的場源七郎は一揆一満萬餘人を卒し、和泉仙石塚に・・・省略・・・・

・後太平記:将軍摂州御發向之事附一向門跡一揆之事(地部巻第40)

「六条本国寺にて討申され泄されたる三好一族、今年蘇軍を發し・・・省略・・・・・

神野加賀ニ守、丹地太郎兵衛ノ尉、其勢都て七千餘騎、摂津の中島陣取り給ひ・・・省略・・・・

斯る處に紀伊ノ国住人雑賀孫市郎、雑賀三緘入道、岡崎三郎太夫、渡邊藤左衛門ノ尉・・・省略・・・・

・後太平記:摂州大坂一向門跡合戦野事(地部巻第42)

「織田信長の武威益天下を呑む、・・・・省略・・・・

雑賀孫市郎、同三緘入道、的場源七郎、渡辺藤左衛門ノ尉、岡崎三郎太夫、根来法師岩室清裕、各一手に

成り紀伊の勢一萬餘騎、和泉ノ国に討ち出で、中野、貝塚、仙石堀・・・省略・・・・


上記が亡き祖母の家譜に記載ある「雑賀三緘(カン)(入道)」が記載されているものであり、他に「織田真記」

「増補信長記」など多々あるが省略する。


・・・・・・・・・・・・続く・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ ・・





























先祖 雑賀衆・雑賀三緘(サンカン)について(十三回):第一次木津川の合戦

2012-02-24 10:47:52 | 調査・報告
 Saikashuu(Saigashuu)・Saika(Saiga) Sankan


足利義昭による織田信長包囲網構築により反攻態勢ができあげり大坂石山本願寺顕如が毛利輝元と呼応して再度
挙兵に踏み切った。前回この挙兵に対して織田信長が取った態勢即ち「石山城の四方を取り囲むように尼崎・吹田・
花隈・能勢・大和田・三田・多田・茨木・高槻・有岡の十箇所に府城を構築し、天王寺には佐久間信盛・信栄親子、松永久秀
らを定番として配置し、住吉の浜に砦を築き、真鍋七五三兵衛・沼野伝内を海上警備のため配置し、石山本願寺を兵糧
攻めにする戦術をとった」と岡本良一氏が著書のなかで述べられている。
この兵糧攻めに対して、石山本願寺側も手を拱いてはいない。それが今回の事案である。事案は下記である。

事案:

・後太平記:難波舟軍之事附城中糧被籠ノ事(地部巻第41)
・中古日本治乱記:摂州難波舩軍付籠糧於城中事(巻56)
・信長公記:西国より大船を催し木津浦の船軍歴々討死の事(巻9)


◎検証史料: 戦国合戦大辞典:石山城合戦(第三次) 新人物往来社 刊

「天正四年七月十二日、毛利氏は武将の児玉就英と村上元吉の率いる能勢、来島、因島らのいわゆる村上水軍七、八百
艘の大船に石山城に送込む兵糧を積載し、淡路の岩屋を出向させた。この兵糧船は警護船三百艘に護衛させ和泉の貝塚
に至り、ここで紀伊の雑賀衆と合流し、十三日に堺・住吉の海上を航行して木津川口に進出した。

これに対して、木津川口を防衛していた織田軍は、真鍋七五三兵衛、沼野伝内、沼野大隅守、宮崎太夫、尼崎小畑らが和泉
・河内・摂津の兵を率いて大小三百艘ほどの警護船(軍船)に分乗し、毛利方の水軍を追撃した。
戦いは海陸双方で展開された。織田水軍は毛利水軍の大船八百艘にこぎ寄せ攻撃をしかけたが、毛利軍は織田方にない
新兵器の「焙烙火矢」で織田水軍を圧倒した。

つまり、大船で織田方警護船を包囲してはこの「焙烙火矢」を投げ込み、次々に焼崩していった。もともと数の上でも見劣り
する織田水軍は多勢にかなわず、指揮者の七五三兵衛、伝内、小畑、宮崎鹿目助ら歴々の衆が相次いで討死するなど、
大敗をきした。
陸上にあっても、石山城の砦の楼岸や木津の穢田城から出撃した本願寺門徒勢が互いに争い合って住吉浜の手の織田
方砦に攻めかかった。

織田方では、天王寺城砦から佐久間信盛が出撃して門徒勢に相対したが、優劣をつけられなかった。結局、この十三日から
十四日にわたって水上戦で一艘も失うことなく、圧倒的勝利をえた毛利水軍は、予定通りに船荷の兵糧を石山に運び入れ
ることに成功した。」

◎検証事案:

・後太平記:「難波舟軍之事府城中糧被籠ノ事」

「・・・省略・・・・・

七月七日の朝陽に、大坂一向門跡の使僧下り嗷訴に及びて曰く、頃敵退散仕る條、城中冑の緒を解き候ふ處に、信長亦
六萬騎を差向け、城の四角八方を打コク圍み、海陸共に糧道を断ち、兵糧已に盡きて候ふ間、毛利、小早川両家へ御下知
あって、水軍の謀を廻され、海上の通路を開かれ、兵糧助成候はば、御慈恵の前に忽ち運を開き、畿内の味方一蟻し、御
帰路の計策を廻し、忠烈を盡すべき由歎訴急り也、将軍御猶豫坐在し、此儀如何あるべき由宣へば、小早川左衛門ノ佐
景聞いて、西国御動座して、味方の急難を救ひ給はずば、後日誰か當家に與すべき早く一戦に及び糧を城中に納るべし
と、急ぎ三警固に下知せらしかば、早打立つ人々には村上弾正景廣兵船五百餘相順ふ・・・・・省略・・・・・・・・・

七月十日の晩風に備州鞆の津を漕ぎ出し、順風に帆を列ね、同十四日、淡路の岩屋にぞ着きける、急ぎ是より難波川口へ
斥候の船を使ひ、敵の形勢を窺ひ見れば、伊勢ノ国の住人九鬼右馬允海上を警め、其外真鍋主馬兵衛ノ尉沼野伊賀ノ守、
寺田又左衛門ノ尉、杉原兵部丞、鎌太夫、同鹿目介、野口、小畑、尾崎以下の海賊共、阿部の大船五艘に兵二千餘騎を
乗せ、傍らに大小の兵船三百艘、難波川口より住吉の岸に繼いて掛竝べ、大筒数挺を放って雷霆の威を顯す由告げ
しかば、 爰にて水軍の備えを決す、

村上一手の兵船は前に輪舫六艘を備へ、急輪の水彈、火主輪、取船の發風、次に射手舟五十艘、皆一枚楯を竝べ、玉箭
琢磨の射手を進め、次に太国火箭、絡鏃箭、火槍、火鞠、火桶、抛鍵、抛鉾、抛焙烙・・・・省略・・・・・・・

今日は七月十五日午の刻、此浦の潮の満干は一刻早し、汀を除て推掛けよ浪高く買の帆には信の梶を以てす、舟横へて
敵に舟腹射さすな者共、凡そ水軍の勝利は勢莭を要とす、片帆を頼んで、怠る事なかれ、能く揖法艪術を盡すべしと、
・・・・・省略・・・・・・・・・・・

沼野、真鍋、尼崎千變に防ぎ戦ふと雖も、村上弾正正景に戦ひ負け、討たるる者千餘人、其外水夫揖取浪に浮かんで漂
游ば、熊手に掛けて引上げ、・・・・省略・・・・・・・・・・ 」


・中古日本治乱記:「摂州難波舩軍付籠糧於城中事」

「・・・・省略・・・・・・・・・・・

天正二年七月七日ノ朝摂州大坂ノ一向宗本願寺門跡顕如上人ノ使僧下向シ申ケルハ頃日ハ御敵退散仕リ城中ノ軍兵共甲ノ緒
ヲ解候処二織田信長又六萬余騎ノ大勢ヲ通路ヲ抑留ス故ニ城中ニ兵糧既ニ盡テ候毛利吉川小早川ノ面々ヘ御下知
テ舩軍ヲ催サレ先海上ノ通路ヲ開兵糧御助成候ハハ畿内ノ味方ハ如集リテ御昄洛ノ謀踵ヲ廻スヘカラストソ申送リケル将軍猶豫アリケルカ
比儀如何アルヘキト小早川ニ尋給フ隆景畏テ君西国ニ御座有テ斯ル味方ノ急難ヲ救ヒ給ハスハ後日誰カ味方ニ組スル者アラン早ク一戦
ヲ励シテ糧ヲ城中ヘ可納ト三嶋警固ニ下知シケルハ傾テ討立人々ニハ村上弾正景廣兵舩五百艘ニテ出舩ス相須フ・・・・省略・・・・・

七月十日ノ晩備州鞆ノ津ヲ漕出シ順風ニ帆ヲ列子 同十四日淡路岩屋ニツキケル暫間此所ニ舩掛リシテ難波ノ川口ヘ
斥候ノ舟ヲツカハシ敵ノ形勢ヲ窺セケルニ伊勢国ノ住人九鬼右馬允嘉隆海上ヲ警其外真鍋主馬兵衛尉沼野伊賀守
寺田又左衛門尉杉原兵部丞鎌太夫同鹿目介野口小畑尼崎以外ノ海賊共安宅作リ大舩五艘ニ栖樓撥楊武者
・・・省略・・・彼舩共ニハ軍兵二千余人打乗タリ
傍ニハ大小ノ軍舩三百艘難波ノ川口ヨリ住吉ノ岸ニ續ヒテ掛ナラヘ大筒数挺ヲ城兵ニ向テ放シカクハ火迸リ雲霞ニ似其音ノ喧シキ
事百千ノ雷ノ如轟クニモ過テ聾胸響裂ルカト覚ルヨシ( )候是聾ヲ語リケリ去ハ此ニテ舩軍ノ備定セントテ

村上手ノ兵舩ハ前ニ輪舫六艘ヲソロベ輪ノ水弾キ火生輪島舩ノ發風次ニ射手舩五十余艘皆一枚梢ヲ並ヘ玉箭
琢磨ノ射手打手ヲ進メ面梶取梶鐘太鼓ニテ定メ進退廻船螺ノ数ニ極ム次ニ舩中軍ノ責具ニハ大国火箭烙鏃箭・飛鎗
・・・・・省略・・・・・・・・・・・・

七月十五日午ノ刻此浦ニ満干ハ一刻早シ汀ヲ除テ推掛エオ浪高ク開キノ帆ニハ信ノ梶ヲス舟腹射サスナ( )ソ舟軍ノ勝利ハ勢( )
ヲ要トス・・・・省略・・・・・・・

沈ミ軍兵多ク溺死セリ沼野間鍋尼崎千変万化シテ戦ヘ共大舩に膄マテ失ケレハ軍兵ノ数盡テ村上弾正景廣ニ戦ヒ屓被
討者千余人其外水主楫取水練ノ達者ナレハ浪ニ浮テ遊キケルヲ小舟ヲ推寄熊手ニ掛テ浮切・・・省略・・・・・・・・・・ 」


・信長公記:「西国より大船を催し木津浦船軍歴々討死の事

「七月十五日の事に候、中国安芸の内、能嶋来島、児玉太夫、粟屋太夫、浦兵部と申す者、七、八百艘の
大船を催し、上乗候て、大坂表海上へ乗り出し、兵糠入るべき行に候、打ちひ人数、まなべ七五三兵衛、沼野
伝内、沼野伊賀、沼野大隅守、宮崎鎌太夫、宮崎鹿目介、尼崎小畑、花くまの野口、 是れらも三百余艘乗り出し、
木津川口を相防ぎ候、御敵は大船八百艘ばかりなり。乗り懸け相戦ひ候。
陸は大坂ろうの岸、木津ゑつ田が城より一揆ども競ひ出で、住吉浜手、の城へ足軽を懸け、天王寺より、佐久間
右衛門人数を出だし、横手に懸け合ひ、推しつをされつ、数刻の戦ひなり。ケ様候こと、海上は、ほうろく、火矢
などといふ物をこしらへ、御見方の船と取り籠め、投げ入れ( )焼崩し、多勢に叶わず、七五三兵衛、伊賀、伝内
野口、小畑、鎌太夫、鹿目介、此の外歴( )数討死候。
西国の舩は勝利を得、大坂へ兵糧を入れ、西国へ人数打ち入るるなり。其の後、住吉浜の定番として保田久六、
塩井因幡守、伊地知文太夫、宮崎次郎七、番手に入れおかれ候。」


◎検証:

「第一次木津川の開戦」は「後太平記」「中古日本治乱記」「信長公記」にもそれぞれ記載されているが、表題名は
異なるが記載内容は同一である。唯、三者三様でその立場により記載内容、ボリュウーム等が異なる。
この開戦の敗者織田信長側を記載した太田牛一の「信長公記」はことの事実をさらっと記述している。

一方勝者側立場の「後太平記」は仮託箇所があるが、将軍義昭が京を追われ西国に下向し流浪の果てに、一番
頼りにしていた備後の鞆の毛利一族の地についた。
しかし、将軍義昭から備後への移徒の通告を受けた毛利一族は、さすがに当惑している。桑田忠親氏の
「浪人将軍足利義昭」によれば、当時連戦連勝の勢いにのっている信長の軍勢と正面衝突することを出来るだけ
回避したかったからだ。

ところが、毛利一族が隠忍自重しているにもかかわらず、摂津の石山本願寺の顕如上人が、信長に対して再び
挑戦を始めた。
そこで、信長も天正四年四月十四日、荒木村重、細川藤孝、原田直政、筒井順慶らの諸将に命じ、本願寺を攻撃させた。

これに対して毛利一族は、重臣たちは安芸の郡山城に集合し、主君毛利輝元を中心とし幾度か会議を開き、ついに
毛利家を防衛するために、抗戦に踏み切った。

信長は兵を天王寺の砦に収めたが、ついでに本願寺城の四方十箇所に新たに砦を築かせ海陸両道の警備にあたらせた。
これは本願寺城を兵糧攻めにするための信長の長期籠城の態勢を整え、川手の通路を遮断し陸路を扼した。

これに対して本願寺方は対抗して大坂の西南方の楼岸、木津の両砦を固守し、難波口から海上への通路を開いている。
このため毛利一族は大坂湾から石山本願寺に兵糧を搬入すること決定し、七月十日に鞆ノ津を出港したことを「後太平
記」「中古日本治乱記」は記し、同十四日には淡路の岩屋、同十五日には大坂表の海上に乗りだしていることを「後太平記」
「中古日本治乱記」「信長公記」ともに記し、「後太平記」「中古日本治乱記」は開戦の状況や新兵器(焙烙火車等々)を細かく
記載している。しかし、「信長公記」には戦況状況や兵器討死にした者達をちょこっと記しただけであるが、内容は「後
太平記」「中古日本治乱記」「信長公記」共相違はない。

「中古日本治乱記」で天正二年七月七日とあるのは天正四年七月七日の間違いか。

・・・・・・・・・・・続く・・・・・・・・・・・・

















先祖 雑賀衆・雑賀三緘(サンカン)について(十二回): 摂津大坂一向門跡合戦野事・責大坂本願寺門跡事

2012-02-11 19:33:39 | 調査・報告
足利義昭による西国下向による毛利氏抱き込みによる「信長包囲網」が構築し、織田信長との一触即発の状況の中で、
ついに摂津の石山本願寺の顕如上人が信長に対して再び挑戦しだした。今回の事案では、「後太平記」「中古日本治乱記」
「信長公記」に記載があり、それぞれの立場で記載されているが、内容は一致している。
「後太平記」の事案には、前回同様に亡き祖母の家譜に記載ある「雑賀三緘(カン)」が記載されている。

事案は下記。

・後太平記:「摂津大坂一向門跡合戦野事」 (地部巻第42)
・中古日本治乱記:「責大坂本願寺門跡事」 (巻第56)
・信長公記:「原田備中、御(三)津寺へ取出討死の事」 (巻9)
「御後巻再三合戦の事」 (巻9)


◎検証史料:「織田信長のすべて」 第三次石山本願寺合戦(天王寺の戦い) 岡本 良一 著 新人物往来社刊

「天正四年(1576年)、信長は一月、京都に近くしかも北国へも通じる要路の拠点として安土にに築城を開始し、
二月早速移って北国の本願寺門徒や上杉謙信の南下に備えた。一方前年十月、信長と講和した石山本願寺の顕如
光佐は、雑賀から鉄砲隊を中心とする紀伊門徒を呼び寄せるなど着々と準備を進め、再起を図って紀伊から備後
の鞆に移った前将軍や毛利輝元と呼応して、四月再度挙兵に踏み切った。

十四日、信長は荒木村重・長岡藤孝・明智光秀・原田直政・筒井順慶らに石山本願寺攻撃を命じた。村重は尼崎から
海上を通って石山城の北、野田に砦を構えて木津川からの通路を遮断しようとした。光秀と藤孝は東南・森河内に砦
を築き、直政は天王寺に要害を構え石山城を包囲した。しかし、本願寺側は楼岸と木津口を抑えて海上権を確保しようと
した。

五月三日早朝、原田直政・三好康長・指揮の根来・和泉衆・山城衆が木津口を攻撃した。これに対して、本願寺軍は一万
余の兵を出し、数千挺の鉄砲で楼岸から迎え撃った。このため織田軍は逆に包囲され、直政以下多数の戦死者を出し、
敗北した。

勢いづいた本願寺軍はそのまま進撃して光秀らの楯籠った天王寺を包囲して攻撃した。四月二十九日に安土から
上洛していた信長は、この戦況悪化の急報を聞いて五日、直ちに百騎余りの兵を率いて京都を発して河内若江に
入った。ここで戦況を聞き、集めるだけの兵三千の手兵の三段に備え、先陣に佐久間信盛・松永秀久・長岡長秀ら、
二段に滝川一栄・蜂谷頼隆・羽柴秀吉・丹羽長秀ら、三段に馬廻衆らを配し、自ら陣頭に立って指揮し、住吉口から一気
呵成に攻撃し天王寺から本願寺軍を退却させ更に天王寺に楯籠っていた織田軍と合流して、石山城の城戸口まで
突入し、頸二千七百余を討ち取った。

ここで信長は、石山城の四方を囲むように尼崎・吹田・花隈・能勢・大和田・三田・多田・茨木・高槻・有岡の十箇所に
府城を構築し、天王寺には佐久間信盛・信栄父子、松永久秀らを定番として配置し、住吉の浜に砦を築き、真鍋七五三
兵衛・沼野伝内を海上警備のため配置し、石山本願寺を兵糧攻めにする戦術をとった。」

◎検証史料:「千石堀城址」: (大坂府全志 第五巻)

「貝塚市にある根来寺前線砦群の一つで、近木川沿いにある主城的なもの。対秀吉戦では一番犠牲者が多い戦いにな
った。
天正年間本願寺門徒の摂州石山城に據り織田信長と争うや、紀州の雑賀孫一郎・同入道三緘・土橋平次・的場源七郎・
岡崎三郎太夫及び根来岩室清裕等は、一万余騎を引きいて当国に入り、当城及び畠中・貝塚の要塞に據り之を応援し、
以って信長を悩ませしかば、信長は天正五年二月雑賀征伐の途に就きて諸城に迫りければ、同月十六日悉く潰走せり」


◎検証事案:

・後太平記:「摂州大坂一向門跡合戦野事」

「・・・省略・・・・・
天正四年の四月十四日に惟任日向ニ守、長岡兵衛ノ大輔、筒井順慶、原田備中ノ守に三萬餘騎を属け、摂州に向けられ
たり、其勢森口、野田、福島に勢揃へて陣をとる、原田備中ノ守は、江口、神崎、難波河口を放火し、茶臼山に付城築いて
南方より攻寄せける、城内には下間刑部法印、同少進法橋、城の四面に弓鉄砲の射手を配り、乱鼓の如く放ちければ
流石の寄手も大勢と云へ共内亦二満餘騎の一揆に射立てられ、楯を寄すべき様ぞなき、先づ木津の田中の勢を追零し、
心安く城を攻めよと評議して

五月三日の朝陽に和泉、河内の勢を招き寄せ、七千餘騎、堂々奪發と推し寄せ、三層四層に圍を列ね一刻に揉落さんと
磅かす、城主粟屋内蔵丞元宣、是を見て、怪しや彼の原田備中ノ守は鬼神の気を得、尋常の武士には非ずと聞ゆ、
・・・省略・・・・・・
原田大勢にて、取圍まんとせし処に城中に狼煙夥しく挑立てたれば、是を見て生玉ノ宮、天王寺に螺三通吹いて狼烟
を挙ぐ、原田きつ屹と見、すはやく城中より突出づる敵の相圖ぞ、爰引けたてて攻め討てば、原田が手に先を蒐けたる
箕浦無右衛門ノ尉、塙喜三郎、同小七郎、丹羽小四郎、宗徒勇五十騎討れ、這這茶臼山を討圍み、攻め動き事霹靂に異な
らず、已に危く聞え、信長愕き給ひ、

同六日に三満餘騎を引率し、京都を発し、天王寺に陣を取り、勢急りに見えければ、一揆中有に忍へ難く、城内に
引き入りける、これに因て佐久間右衛門ノ尉を茶臼山に籠置き、信長は程なく還軍坐しける、
城の四方十餘箇所に属城を築き、佐久間甚九郎、半九朗左衛門ノ尉、大筒舁寄せ、夙夜放って雷聲天を震ふより夥し、
・・・・省略・・・・・・・・

其比雑賀孫市郎。同三緘入道、渡部藤左衛門ノ尉、岡崎三郎太夫、根来法師岩室清裕、各一手に成り、紀伊の勢一満
餘騎、和泉ノ国に討ち出で、中島、貝塚、仙石堀に楯籠り、門跡一揆に一味して、将軍御帰洛を待向へ・・・省略・・・・


・中古日本治乱記:「責大坂本願寺門跡事」

「・・・・省略・・・・
四月十四日ニ信長下知シテ細川兵部大輔藤孝荒木摂津守村重惟任日向ノ守光秀原田備中守政次筒井順慶等ヲ以テ
大坂ヲ攻ケレトモ城中ヲ一ツニシテ防キレハ( )ク可落トモ不見其上寄せノ軍兵ノ中ニモ彼宗門ノ輩・・・・・省略・・・・・

三好笑岩根来ノ僧徒等一味同心シテ木津ノ城ヲ責落シ信長ヘ忠節ニセント評定シテ態ト他ノ勢ヲモ不雑シテ木津ノ城ヲソ攻タリケリ
城中ノ輩敵ヲ小勢ト見テケレハ城戸ヲ開ヒテ突出ヒテ散々ニ戦ヒケルニ城中ヨリ鉄砲二三十挺持出テ三好カ勢ノ中ヘ横合ニ打入タレハ
蜘ノ子ヲ散スカ如ク村々ニ成テ逃タリケリ原田備中守遥ニ見て三好根来ノ原カ( )ヒナル先登シテ敵ニ利ヲ付タルコソ遺恨ナレ
進メ者共トテ直前駆テ戦ヒケルニ城兵捲リ立ラレテ城中ヘ崩レ入レ入ル原田乗气城中ヘ付入ントス城中ノ中ヨエイ鉄砲ヲソロヘテ稠ク打
シカハ原田備中政次戦ヒ死ス従兵大将ヲ討レテ引退ケハ敵兵競ヒ進ンテ天王寺ノ城ヲ囲ミタリ此城ニハ信長ノ次将筒井順慶惟任
日向守光秀(明智カ事ナリ)佐久間甚九郎盛勝(後ハ号不チ)防キ戦ヒシカ共城( )ヘ( )カリシカハ早馬ヲ打セテ此事ヲ安土ノ城
ヘソ告タリケリ比時信長ハ共ト相変テ以巨析米舂居玉ヒケリ是ハ信長其力ヲ軍旅ニ用ン為ニ時々ト相変テ同ク米ヲ舂レ
ケルカカル処ヘ天王寺ノ早馬来テ然然ト告タリケレハ大ニ驚ギ月ノ上旬安土ヲ發ス・・・・省略・・・・・・

信長ハ河内国若江ノ城ニ馳向テ彼城火急ニ攻破レハ城兵大坂ヘ逃走ル信長ノ軍兵共勝ニ追走リ首共餘多討取リケリ其後
佐久間右衛門尉信盛息甚九郎等ニ下知シテ天王寺ノ城ヲ守ラセ又進藤山城守秀盛松永弾正正忠久秀以下ノ将士
ヲ以テ府城十箇所ヲ相ラセ
同年六月ニハ信長ノ軍士ヲ引率シテ安土ノ城ヘソ皈リケル」

・信長公記:「原田備中、御(三)津寺へ取出討死の事」

「四月十四日、荒木摂津守・永岡兵部大輔・惟任日向守・原田備中四人に仰せつけられ、上方の御人数相加へられ、
大坂へ推し詰め、荒木摂津守は、尼崎より海上を相働き、大坂の北野田に取出を推並べ、三つ申しつけ、川手
の通路を切リ取る
惟任日向守・永岡兵部大輔両人は、大坂より東南森口・河内両所に取出申しつけらる。原田備中は天王寺に要害
丈夫に相構へられ、御敵、ろうの岸・木津両所を拘へ、難波口より海上通路仕り候。
木津をり候へば、御敵の通路一切止め候の間、彼の所在を取り候へと、仰せ出ださる。天王寺取出(砦)には、佐久間
甚九郎、惟任日向守おかれ、其の上、御検使として猪子兵助、大津伝十郎差し遣はされ、則ち御請け申し候。

五月三日、早朝、先は三好笑岩・根来・和泉衆。二段は原田備中、大和・山城衆同心致し、彼の木津へ取寄せ候のところ、
大坂ろうの岸より罷り出で、一万計にて推しつつみ、数千挺の鉄砲を以って、散( )に打ち立て、上方の人数くづれ、
原田備中手前にて請止、数刻相戦ふと雖も、猛勢に取り籠められ、既に原田備中、塙喜三郎、塙小七郎、箕浦無右衛門
丹羽小四郎、枕を並べて討死なり。・・・省略・・・・・

・信長公記:「御後巻再三御合戦の事」

五月五日、後詰として、御馬を出だされ、明衣の仕立纔か百騎ばかりにて、若江に至り御参陣。

五月七日、御馬を寄せられ、一万五千ばかりの御敵に、纔か三千ばかりにて打ち向はせられ、御人数三段に御備へ
なされ、住吉口より懸けらせれ候。
御先一段佐久間右衛門、松永弾正、永岡兵部大輔、若江衆。茲にて、荒木摂津守に先を仕り候へと、仰せられ候へば、
我( )キ津口の推へを仕り候はんと、申し候て、御請け申さず。信長、後に先をさせ候はんと、申し候て、御請け申さず。
信長、後に先をさせ候はで御満足と仰せられ候へき。二段滝川左近、蜂谷兵庫、羽柴筑前、惟任五郎左衛門、稲葉伊予、
氏家左京助、伊賀伊賀守、
三段御備 御馬廻、かくの如く仰せつけられ、信長は先手の足軽に打ちまじらせられ、懸け廻り、・・・・省略・・・・・

是より大坂四方の塞( )に、十ヶ所の付城仰せつけらる。
天王寺には、佐久間右衛門、甚九郎、進藤山城、松永弾正、松永右衛門佐、水野監物、池田孫次郎、山岡孫太郎、青地千代
寿、是等を定番として置かれ、又、住吉浜手に要害拵へ、まなべ七五三兵衛・沼野伝内、海上の御警固として入れ置かる。

 六月五日、御馬を納められ、其の日、若江に御泊り。次の日、真木島へ御立より、井戸若狭に下され、黍き次第なり。
二条妙覚寺に御帰洛。翌日安土に至りて御帰陣。」


◎検証: ※ 仮託・仮作部分は省略して先に進んだ事、御了承願います。


「後太平記」「中古日本治乱記」「信長公記」ともに信長の命による石山本願寺攻勢の人物4名、即ち惟任日向守・永岡
兵部大輔(細川藤孝)・筒井順慶・原田備中守が記載されている。更に、戦いで原田備中守、塙喜三郎、塙小七郎、箕浦
無右衛門、丹羽小四郎らが討取られたことも記載されている。
又、織田軍は石山本願寺を取り囲むように10の付城を構築(10塁)し、佐久間信盛、信栄親子などを配置したことなども
記載されている。
これに対して、石山本願寺側は中野城、仙石堀城、貝塚城などに雑賀衆・根来衆が楯籠り態勢を整えていることが
分かる。

「後太平記」「中古日本治乱記」「信長公記」ともにそれぞれの陣容での出来事を記載し、共通事項を記したものもあれば、
異なる事項を記したものもあり、夫々の立場の違いが分かるし、どのように相手方に対して対応しているかが分かる。

「中古日本治乱記」では原田備中守を「原田政次」と記している原田直政」の間違いであろう。


・・・・続く・・・・・・












































先祖 雑賀衆・雑賀三緘(サンカン)について(十一回) : 諸城警禦之事

2012-02-04 21:32:04 | 調査・報告
今回の事案も第十回と同様に「信長公記」には記載はない。記載ない理由は前回と同様であろう。しかし、足利義昭が西国
に下向し毛利・吉川・小早川等が、更に近隣諸国の武将達も信長包囲網に加わり臨戦体制が整う状況になってきており
「信長公記」には記載が無くても重要と考え検証する。
又、この事案には亡き祖母の家譜にある「雑賀三緘(サンカン)」が記載されている。
事案は下記。

・「後太平記」:「諸城警禦之事」 (地部巻第41)
・「中古日本治乱記」:「将軍方所々蜂起之事」 (巻第55)

◎検証史料:「足利将軍列伝」:桑田 忠親 著 秋田書房刊

「反逆への画策:亡命が、京都から西へ落ち行くとすれば、安芸の毛利輝元を頼るほかニなかった。毛利氏は、なんといって
も中国地方の大大名である。それに、大坂の石山本願寺、若江の三好義嗣、河内の遊佐氏、紀州の根来寺の僧徒などを味
方につけ、信長に一大反撃を加える計画でいたらしい。

 足利義昭、備後へ亡命、天正三年(1575年)の二月八日、義昭はまた毛利の武将吉川元春に御内書を与えた。それによる
と、義昭が安芸まで下向しようと、毛利方に度々依頼状を出したことが分かる。

しかし、毛利氏としては、足利義昭の下向は迷惑だった。翌天正四年四月、信長の安土城に新城を築くとともに、石山本願
寺討伐を大体的に行い始めた。そのために、安芸の毛利氏も、ついに信長を敵視し本願寺を瀬戸内海上から援助すること
にした。そのうち、大坂湾で、信長と毛利との水軍の戦いが激しく行われたが、毛利の勝利に帰した。

義昭は同年の十月、紀州宮崎の浦から、また舟に乗って、備後の鞆に移った。次第に毛利氏を頼って安芸に近づいた足利
義昭の心中は、亡命将軍だけに哀れ深さを覚える。」

・検証事案:

・「後太平記」:諸警禦之事

「将軍則已に備後ノ国に下向あって、毛利、小早川を頼ませ給ひ、上洛御座します由聞えしかば、
畿内、中国の武士共大半味方に馳せ加る、中にも荒木摂津ノ守、同志摩ノ守、一族隼人佐、同新之丞、同越中ノ守、
同久左衛門ノ尉、野村丹後ノ守、牧左兵衛ノ尉、各摂津ノ国伊丹、花隈、尼崎三箇所の城に楯籠る、
同国宮野原の城をば小岸備前ノ守、同宗右衛門ノ尉相守、城列一乗谷の城には、渡邊宮内少輔、二千余騎にて楯籠る、
別所小三郎長治、同山城守、同苗小八郎、播州東八郡の兵五千餘騎を帥ぬ、三木の城に楯籠り、同一族櫛橋左京ノ亮は
志賀の城を守護し神吉民部ノ少輔は、神吉の城に楯籠る、
高砂別府の城へは梶原平三兵衛討入り、淡路岩屋の城へは丹地太郎兵衛ノ尉、神野加賀ノ守、小林民部ノ少輔三百饀騎
にて討入り、
紀州雑賀三緘入道、鱸孫市、的場源七郎は、一揆一萬餘人を率し、和泉ノ国千石塚に堀を築き門跡一揆を輔け、将軍
上洛を待向ふ、摂州木津の田中には遽に要害を築き、備後ノ国の住人粟屋内蔵丞元宣に二千餘騎を属け、門跡一揆ノ
輔の城にぞ定めらる、
伊丹尼崎の城へは桂因幡ノ守八百餘騎にて加勢に討入り、同国花隈の城主荒木摂津ノ守、同志摩ノ守加勢として、防州
の住人杉次郎左衛門ノ尉元家、一千餘騎にて討入り、淡路岩屋の城も勢微なりとて、安藝国の住人長屋左近太夫八百
餘騎にて馳せ向ふ、
・・・・・省略・・・・・・・・・
将軍も唯大石に異ならず、毛利、小早川船と頼み給へど、萬民囁きければ、味方に参るべき人々も、怪しく思はずと
云ふ事なし」

・「日本中古治乱記」:将軍方所々蜂起之事

「将軍義昭卿既ニ備後国ニ御下向有テ毛利右馬頭輝元吉川駿河守元春小早川左衛門佐藤隆景一味シ大軍ヲ帥テ御上洛アル
ヘシト聞ヘシカ将軍方ハ不及申信長ニ恨ヲ含ムトモカラ
畿内中国ノ武士トモ暫ク悉ク陰謀ヲ企ツ中ニモ荒木摂津守同志摩守一族ニ隼人佐同新新之丞同越中守
同久左衛門尉野村丹後守牧左兵衛門尉等ハ摂津国伊丹花隈尼崎三ヶ所ノ城ニ楯コモル
同国宮野原ノ城ヲハ小岸備前守宗右衛門尉相守城州一乗谷山城ニハ渡邊宮内少輔二千余騎楯籠ル
別所小三郎長治同山城守同小八郎播州東八郎ノ軍士五千余騎ヲ引率シテ三木ノ城ニ引籠ル同彼一族櫛橋左京亮ハ
志賀多城ヲ守護シ神吉民部ノ少輔ハ神吉ノ城ニコモル
高砂別府ノ城ヘハ梶原平三郎衛尉討納淡路岩屋城ヘハ丹地太郎兵衛尉神野加賀守小林少輔三百余騎ニテ
討納
紀州雑賀三緘入道鱸孫市的場源七郎ハ一揆一万人ヲ卒シ和泉千石塚ニ城ヲ輔将軍ノ御
上洛ヲ待向フ摂津木津ノ田中ニハ俄ニ要害エオ築備後国ニ住人粟屋内蔵丞元宣ニ二千余騎ヲ属門跡ノ一揆ヲ輔
ノ城ニソ定メケル
伊丹尼崎ノ城ヘハ桂因幡守八百余騎ニテ加勢ニ討納同国花隈ノ城主荒木摂津守同志摩守カ加勢ニハ防州
ノ住人杉次郎左衛門尉元家一千余騎ニテ討入淡路岩屋ノ城モ勢微ナルトテ安芸国ノ住人長屋左近太夫八百
余騎ニテ馳加ル将軍方ノ味方国々ニ蜂起シテ城々ニコモリケレハ
・・・・・省略・・・・・・

将軍モ唯大石ニ不異毛利吉川小早川ヲ舩トタノミ給ヘ共亦イカナル風波カ起リテ或ハ船ヲモ打砕キ覆シ御身ヲシツメ
タマフヘシト怪ク思ハヌ者ハナシ」

※上記の通り「後太平記」「中古日本治乱記」もほぼ同一記載内容になっていることが分かるように
改行などをした。

◎検証:

将軍義昭と織田信長の仲の不和になってきたのは、永禄十二年の四月二十一日以降のことであろうと
指摘されている(桑田 忠親氏)。
これ以降義昭は、ちょうど兄義輝などがやったように当面の実力者である信長には隠れて諸国の目ぼしい
大名達に密書を送り、京都の足利将軍や幕府の現状について訴え、将軍政権挽回のための事前運動を
行い始めた(桑田 忠親著:流浪将軍足利義昭)。

次には、摂津の石山本願寺の門主、顕如上人に御内書を送り本願寺門徒を義昭の企画する信長包囲網作戦
に参加させようとし成功した。次には武田信玄をこの包囲網に加わるよう御内書のほかに誓書まで送り、
信長を討伐のため上洛するよう度々要請している。

当初、本願寺側も足利義昭、織田信長側についていたが、元亀元年頃より織田信長に敵対するようになり、
ついには足利義昭も織田信長と敵対するようになると、足利義昭の第一次信長包囲網に本願寺側も組込まれ、
それに伴い雑賀衆も加わるようになる。
「元亀元年の野田・福嶋砦の戦い」で本願寺法主顕如が武装蜂起を促して以来真宗の門徒である雑賀衆等も砦・
端城を信長軍の大塁に対抗するように構築して行き、戦いに備え警禦する。

更に将軍義昭がついに毛利氏の備後に到着し、毛利氏も信長包囲網に加わることにより、近隣諸国の武将達も
信長包囲網に加わり臨戦態勢が整備されていき、足利義昭の身辺警護に毛利氏の武将達が勤めることになる。

この事案は毛利氏・石山本願寺・足利義昭側の「後太平記にはあるが、」織田信長側の「信長公記」では義昭側の動き
に対する信長の直接の行動がないために記述されていない。しかし、義昭側の動向を秀吉側の「中古日本治乱記」
は捉えている。

記載人物では一部の未確認はあるものの、ほぼ確認出来た(詳細は略す)。
上記の通り「後太平記」「中古日本治乱記」の記述内容がほぼ一致しており、何故このような似た記述になったかは、
私では解明不可である。

・・・・・・続く・・・・・・・・・・