Saikashuu(Saigashuu)・Saika(Saiga) Sankan
今回の事案(下記)には驚かされた。それは、織田信長の行動を記載した「信長公記」にて、太田牛一の今までにない記述
・表現方法で、「中古日本治乱記」とほぼ同一内容が記載された箇所(盗用・引用?)がでてきたことである。このことは、
「中古日本治乱記」の記述が事実を正確に捉えているからこそであり、牛一自ら「曾て私作私語に非ず、直に有ることを
除かず、無きことを添えず。もし一点虚を書かんときんば、天道如何」(「信長公記」池田家文庫本巻十三奥書)に記すごと
くからすると、内容は正確であり牛一自身も「中古日本治乱記」の山中長俊の考えに賛同し共感し、その箇所を(盗用?)
引用したのではないか。
太田牛一が「中古日本治乱記」より何故引用したかという根拠は、石山本願寺の地は商業経済の中心地であり交通の要所
でもあり、非常に重要な位置をしめていたことからして、信長は手にいれることに狙いを定めたのではないか。
太田牛一の「信長公記」は慶長15年(1610年)2月頃完成といわれているとのことで、山中長俊の「中古日本治乱記」の序文
には慶長7年(1602年)とあるからして「信長公記」より先に完成していたと思われる。又、「中古日本治乱記」は秀吉の命に
より「太平記」の後を承けいる形で、貞治元年から慶長2年まで二百数十年に亘る記述を終えたが秀吉が没した。その後朋
友太田和泉守資方(牛一?)の勧めを容れて増補し、慶長5年関ヶ原の戦いで終結した。このことからして、太田牛一は「中古
日本治乱記」の草稿等を見て山中長俊に勧めて増補させたが、その草稿はそのまま牛一の手元に置いていたのではないか。
太田和泉守資方であるが、資方は牛一の実名の資房の間違いではないかとも言われるようであるが、私は専門家ではな
いので分からないが、下記の検討事案の記載内容を比較していただければ、資方が牛一その人物であることが分かる。
その逆は有りえないのではないか。それは、山中長俊は「信長公記」が刊行される前の慶長12年(1607年)12月24日に亡く
なっているので、牛一の「信長公記」は慶長15年に書き上げていることからして長俊は見ることは出来ないからである。
前回の十四回にて亡き祖母の家譜に記載ある「雑賀三緘(カン)」が歴史上存在していることを事案を提出し検証した。
今迄、「後太平記」「中古日本治乱記」を信憑性が高い「信長公記」との同一事案にて、「後太平記」「中古日本治乱記」の
信憑性比較検証してきたが、同一事案がなくなってきたことと信憑性(戦国時代数十年に限定した場合)についても確証
が得られたと思うので、「後太平記」「中古日本治乱記」と「信長公記」との比較検証は今回で取敢えず検証は終わる。
今回も、前回同様に検証を冒頭にもってきた。
検証事案:
・中古日本治乱記:信長與本願寺門徒和睦付大坂城破壊之事(巻第62)
・信長公記:大坂退散御請け誓紙の事(巻13)
:大坂退散の事(巻13)
◎検証:
上記事案には、「後太平記」には記載がないが信長対石山本願寺合戦の最終結末であり、重要な事案である。しかも、
冒頭に書いたが信憑性が高い「信長公記」に於いて今までにない太田牛一の書き方で表記されている。
それは、「中古日本治乱記」の一部の(盗用)引用箇所が見つかったことである。この箇所は下記の検証事案にて検証する。
信長が対石山本願寺に対する講和のための信長が遣わした使者、退去した期日など一致しており「中古日本治乱記」
「信長公記」の史実の相違はない。
しかし、上記の通り「中古日本治乱記」を真似た今迄とは違う太田牛一の記載内容はどうしたものなのか。山中長俊は
「中古日本治乱記」を出すに当たり、太田牛一に相談していることが「中古日本治乱記」の序文に書かれていることは
既に述べた通りである。
何故このようなことを太田牛一がしたのか、私の考えでは、同じ織田側の者として、石山本願寺および各地の一向一揆
との合戦(石山合戦)に10年(籠城5年)も費やすとは思っていなかったはずである。ようやく和睦が成立した安堵感が山中
長俊の「中古日本治乱記」の草稿を見て、太田牛一も山中長俊の考えに賛同し共感し記載内容を(盗用)引用したのでは
ないか。
◎検証史料:
○本願寺平定:「織田信長のすべて」 岡本 良一 著 新人物往来社刊
「石山本願寺が頼みとしていた上杉謙信も天正6年3月死亡し、11月木津の開戦で海上権も失い、信長に叛いて摂津有明城
に籠った荒木村重も天正7年敗れ、8年8月、播磨三木城も落ちて、本願寺はここに全く孤立無援となった。一方、信長は天正
7年冬頃から朝廷を通じて本願寺との講和を試みていたが8年3月1日、全関白近衛前久・庭田重保・勧修寺晴豊が勅使とし
て本願寺に赴き、さらに松井友閑・佐久間信盛が信長の目付として加わり顕如らと会談し、ついに和議が成立した。
信長は、17日、石山城の全ての者を許す、信長から人質を出す、石山本願寺退去後、不穏なことがなければ加賀の江沼、
能美の二郡は返す、石山退去と同時に花隈・尼崎も渡すこと、など七カ条の覚書に血判して送った。
一方、顕如側も五カ条の起請文を提出した。しかし、本願寺には教如光寿を許す、信長から人質を出す、石山本願寺退去
後、不穏なことがなければ中心とする講和反対派が雑賀から援軍を導入しなおも籠城しようとした。
その顕如は、紛争拡大を恐れ4月9日石山を発って、10月紀伊鷺の森に移った。これに対して信長は、花隈や尼崎への
兵力を強化した。
そして7月3日、ついに包囲していた荒木村重の武将荒木元清の守花隈城を池田恒興に攻略させた。さらに13日には大坂
東表の辻・安田の両城も落ち、ここに光寿もついに屈服した。17日、信長は京都から8月10日以前に退去すべきなど五カ条
の起請文を教如に送った。
そして8月2日、教如は石山本願寺を退去して雑賀に移った。このとき炬火の火の粉が飛んで、本願寺伽藍は3日間に
わたって燃え続け、すべて灰燼にきした。ここに5年間に及んだ石山合戦は終結し、信長は多年の宿望を達成した。」
◎検証事案:
○中古日本治乱記:信長與本願寺門跡和睦附大坂城破壊之事
「去程ニ大坂ノ本願寺門跡光佐上人顕如ハ久シク大坂ノ城ニ在テ信盛ト合戦シケ ル両人和睦シテ天下ノ乱ヲ可治( )宣下有テ為勅使
近衛前関白全文及勧修寺中納言晴豊庭田中納言重通下使ハ荒屋善左衛門大坂ニ至リテ勅定ノ旨ヲ申ス 門跡光佐応勅使之
旨信長ト和睦シテ避城紀州ノ雑賀ニ移レハ宮内卿法印佐久間右衛門尉信盛大坂ノ城ヲ請取ル
又矢部善七郎ヲ大坂ニツカハシ黄金絹布ヲ光佐顕如上人並ニ其家老下間法院ニ賜リケリ 光佐モ家臣ヲ安全ニツカハシ信長ニ謁セント
請シカハ近衛殿勧修寺殿庭田殿彼使者ヲ召具シテ来リケルニ信長宣ヒケルマツ信忠ニ可逢ト仰セケレハ使者先謁信忠・・・省略・・・・・
・・・・省略・・・・・・・・
同八月(天正八年八月)ハ信長上洛シテ宇治ニ至リソレヨリ船ニノリ大坂ニ赴キ城郭ヲ巡リミテ
同二日ニヨリ大坂ノ城ヲ破却サセラレケリ仰せ抑此大坂ノ城ト申ハ日本j無双ノ各地ナリ都トテモ程近シ
・・・・※ 牛一、下記箇所より引用(盗用?)・・・・
奈良堺モ隣タリ淀鳥羽ノ辺ヨリモ大坂ノ木戸口ニテ舟ノ往変自在ニテ四方ニ切所ヲ抱ヘタリ
北ノ方ニハ水鳥群居ル加茂川ヤ月ノ影スム桂川誰陸奥ノ関ナラテ秋風ソ吹白川ヤ淀宇治川ノ其流イク重トモナク
二里三里ノ内中津川吹田川引廻シタリ
東南ニハ二上カ嶽立田ノ山ノ秋暮ハ錦ヲ晒ス紅葉ハ道明寺川ニ散浮ヒ渡ラハ絶ナマシ流ヲ惜ム行末ハ
大坂ノ腰迄三四里ノ其間ハ江ト川ト續タレハヘウマトシテ城ニ帯スルカ如シ
西ハ滄海マンマントシテ日本ノ地ハ申スニ及ハズ唐土高麗南蛮新羅百済ノ舩彼海上ニ出入シ売買利潤ノ湊ナリ
仏法東漸ノ多地ヲ見立方八町ニ地形ヲカマヘ十方ニ口ヲ開タリ 其中ニ自然ト高キ塁アリシヲ其中ニ御堂ヲ建立池ノ水底ヨリ赤白ノ
蓮花ヲ生シ其中ニ弘誓ノ舟ヲ浮ヘ備前ニハ光明ヲ輝シ利剣念仏ノ名号ハ煩悩賊ノ怨敵ヲ治シ仏法繁昌ノ多地トテ僧坊在家ハ
( )ヲ双ヘ福裕ノ煙リ厚ク偏ク此法ヲ貴々遠国ハトウノ民俗ハ日夜且暮ニ参詣シ行人・・・・・省略・・・・・・・・・・・・
既ニ五カ年天王寺ニ附城シテ大坂ト拒シヲ本願寺軍兵天王寺ニ押ヨヤ合戦シテ原田備中以下数百輩ノ軍兵・・・省略・・・・
攻玉ヘハ大坂方ニモ鴻津ノ丸山廣芝五山ヲ初トシテ端城五十一箇所ヲ構ヘ築ヒテ・・・省略・・・・・
篭ヲキ構ヘノ内ニデ万余石領地ヲ所務シテ運ヲ天道ニ任セデ年ノ春秋ハ・・・・省略・・・・・・
天正八年二月二日ノ未ノ刻ニ雑賀淡路嶋ヨリ数百艘ノ迎舩トモ・・・省略・・・・陸ニ上リテ蜘ノ子ヲ散スカ如ク右往左往ニ分レ
行カカル時節ニ・・・・省略・・・・・頻リニ扇吹テ黒煙諸家ニ覆ヒ作リ双ヘタル伽藍トモ一宇不残焦土ト成テ夜ル昼ル三日ノ火ヲ残セリ
・・・省略・・・・」
○信長公記:大坂退散御請け誓紙の事
「さる程に大坂退城仕るべきの旨・・・・省略・・・・
御勅使、近衛殿、歓修寺殿、庭田殿、並びに宮内卿法印、佐久間右衛門等へ御請けを申し、誓紙御検使申し
請けられ候。
・・・・省略・・・・・・・ 」
○信長公記:大坂退散の事
「・・・・省略・・・・・
天正八年庚辰八月二日、新門跡大坂退出の次第。・・・・・省略
・・・・※ 牛一、「中古日本治乱記」からの引用(盗用?)箇所・・・・・・
仰も大坂は、、凡そ日本一の境地なり。その子細は、
奈良、堺、京都に程近く、殊更、淀、鳥羽より大坂城戸口まで、船の通ひ直にして、四方に節所を拘ヘ
北は加茂川、白川、桂川、淀、宇治川の大河の流れ、幾重ともなく、二里、三里の内、中津川、吹田川、江口川、
神崎川引き廻し、
東南は、尼上ケ嵩、立田山、生駒山、飯盛山の遠山の景気を見送り、麓は道明寺川、大和川の流れに新ひらき淵、
立田の谷水流れ合ひ、大坂の腰まで 三里、四里の間、江と川とつづいて渺々と引きまはし、
西は滄海漫漫として、日本の地は申すには及ばず、唐土・高麗・南蛮の船、海上に出入り、五畿七道ここに 集まり、
売買利潤、富貴の湊なり。
隣国の門家馳せ集まり、加賀国より城作を召し寄せ、方八町に相構へ、真中に高き地形あり、爰に一派水上の御堂を
こうこうと建立し、前には池水を湛ヘ、一連托生の蓮を生じ、後には弘誓の船をうかべ、仏前に光明を輝かし、利剣即是
の名号は、煩悩賊の怨敵を治し、仏法繁昌の霊地に在家を立て、甍を並べ、軒を継ぎ、
福裕の煙厚く、編に此の法をと尊み、遠国波島より日夜朝暮、仏詣の輩・・・省略・・・・
天王寺へ差し懸け、一戦を遂げ、原田備中、塙喜三郎、箕浦無右衛門を初めとして、歴々討ち捕り、その競ひに天王寺
とり巻き候ところ・・・・省略・・・・・
末法の時到って修羅闘諍の瞋恚を発し、力及ばずながら、
大坂も、こう津、丸山、ひろ芝、正山を始めとして、端城五十一ヶ所申し付け、
楯籠り、構への内にて五万石所務し、運を天道に任せ、五カ年の間、時節を相守ると雖も・・・・省略・・・・
八月二日未の刻、雑賀・淡路島より数百艘の迎へ船をよせ、近年相抱へ候端城の者を初めとして、右往左往に、
緑々を心掛け、海上と陸と、蛛の子をちらすが如く、ちりじりに分かれ候・・・・省略・・・・夜日三日、黒雲となって、焼けぬ。」
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
地名で、 中古日本治乱記:二上カ嶽、信長公記:尼上ケ嵩となっているが同じ所を表していると思われる。
上記箇所が「中古日本治乱記」より引用していることが分かったのは、当初に述べたが、「後太平記」「中古日本治乱記」の
信憑性を信憑性が高い「信長公記」と比較検証することで確認出来ると考えたからである。
同じ事案を抜きだし、同一の土俵(紙面)にのせることにより一目で分かる方法をとったからである。「中古日本治乱記」
の事案をパソコンの画面に入力し、続いて「信長公記」の事案を入力していると、重複して再入力している気になり、隣の「中古
日本治乱記」の行を見るとほぼ同じ内容の文面であることが分かった。
このことは何を意味するのであろうか。素人の私には分からないが、太田牛一が「中古日本治乱記」より一部とは言え、
引用箇所がでてきたことは、戦国時代から江戸初期に亘る「中古日本治乱記」の事案の信憑性を太田牛一は認めていると
云えるのではないだろうか。
・・・・・・・・・・・・続く・・・・・・・・・・・・・・・・・・
今回の事案(下記)には驚かされた。それは、織田信長の行動を記載した「信長公記」にて、太田牛一の今までにない記述
・表現方法で、「中古日本治乱記」とほぼ同一内容が記載された箇所(盗用・引用?)がでてきたことである。このことは、
「中古日本治乱記」の記述が事実を正確に捉えているからこそであり、牛一自ら「曾て私作私語に非ず、直に有ることを
除かず、無きことを添えず。もし一点虚を書かんときんば、天道如何」(「信長公記」池田家文庫本巻十三奥書)に記すごと
くからすると、内容は正確であり牛一自身も「中古日本治乱記」の山中長俊の考えに賛同し共感し、その箇所を(盗用?)
引用したのではないか。
太田牛一が「中古日本治乱記」より何故引用したかという根拠は、石山本願寺の地は商業経済の中心地であり交通の要所
でもあり、非常に重要な位置をしめていたことからして、信長は手にいれることに狙いを定めたのではないか。
太田牛一の「信長公記」は慶長15年(1610年)2月頃完成といわれているとのことで、山中長俊の「中古日本治乱記」の序文
には慶長7年(1602年)とあるからして「信長公記」より先に完成していたと思われる。又、「中古日本治乱記」は秀吉の命に
より「太平記」の後を承けいる形で、貞治元年から慶長2年まで二百数十年に亘る記述を終えたが秀吉が没した。その後朋
友太田和泉守資方(牛一?)の勧めを容れて増補し、慶長5年関ヶ原の戦いで終結した。このことからして、太田牛一は「中古
日本治乱記」の草稿等を見て山中長俊に勧めて増補させたが、その草稿はそのまま牛一の手元に置いていたのではないか。
太田和泉守資方であるが、資方は牛一の実名の資房の間違いではないかとも言われるようであるが、私は専門家ではな
いので分からないが、下記の検討事案の記載内容を比較していただければ、資方が牛一その人物であることが分かる。
その逆は有りえないのではないか。それは、山中長俊は「信長公記」が刊行される前の慶長12年(1607年)12月24日に亡く
なっているので、牛一の「信長公記」は慶長15年に書き上げていることからして長俊は見ることは出来ないからである。
前回の十四回にて亡き祖母の家譜に記載ある「雑賀三緘(カン)」が歴史上存在していることを事案を提出し検証した。
今迄、「後太平記」「中古日本治乱記」を信憑性が高い「信長公記」との同一事案にて、「後太平記」「中古日本治乱記」の
信憑性比較検証してきたが、同一事案がなくなってきたことと信憑性(戦国時代数十年に限定した場合)についても確証
が得られたと思うので、「後太平記」「中古日本治乱記」と「信長公記」との比較検証は今回で取敢えず検証は終わる。
今回も、前回同様に検証を冒頭にもってきた。
検証事案:
・中古日本治乱記:信長與本願寺門徒和睦付大坂城破壊之事(巻第62)
・信長公記:大坂退散御請け誓紙の事(巻13)
:大坂退散の事(巻13)
◎検証:
上記事案には、「後太平記」には記載がないが信長対石山本願寺合戦の最終結末であり、重要な事案である。しかも、
冒頭に書いたが信憑性が高い「信長公記」に於いて今までにない太田牛一の書き方で表記されている。
それは、「中古日本治乱記」の一部の(盗用)引用箇所が見つかったことである。この箇所は下記の検証事案にて検証する。
信長が対石山本願寺に対する講和のための信長が遣わした使者、退去した期日など一致しており「中古日本治乱記」
「信長公記」の史実の相違はない。
しかし、上記の通り「中古日本治乱記」を真似た今迄とは違う太田牛一の記載内容はどうしたものなのか。山中長俊は
「中古日本治乱記」を出すに当たり、太田牛一に相談していることが「中古日本治乱記」の序文に書かれていることは
既に述べた通りである。
何故このようなことを太田牛一がしたのか、私の考えでは、同じ織田側の者として、石山本願寺および各地の一向一揆
との合戦(石山合戦)に10年(籠城5年)も費やすとは思っていなかったはずである。ようやく和睦が成立した安堵感が山中
長俊の「中古日本治乱記」の草稿を見て、太田牛一も山中長俊の考えに賛同し共感し記載内容を(盗用)引用したのでは
ないか。
◎検証史料:
○本願寺平定:「織田信長のすべて」 岡本 良一 著 新人物往来社刊
「石山本願寺が頼みとしていた上杉謙信も天正6年3月死亡し、11月木津の開戦で海上権も失い、信長に叛いて摂津有明城
に籠った荒木村重も天正7年敗れ、8年8月、播磨三木城も落ちて、本願寺はここに全く孤立無援となった。一方、信長は天正
7年冬頃から朝廷を通じて本願寺との講和を試みていたが8年3月1日、全関白近衛前久・庭田重保・勧修寺晴豊が勅使とし
て本願寺に赴き、さらに松井友閑・佐久間信盛が信長の目付として加わり顕如らと会談し、ついに和議が成立した。
信長は、17日、石山城の全ての者を許す、信長から人質を出す、石山本願寺退去後、不穏なことがなければ加賀の江沼、
能美の二郡は返す、石山退去と同時に花隈・尼崎も渡すこと、など七カ条の覚書に血判して送った。
一方、顕如側も五カ条の起請文を提出した。しかし、本願寺には教如光寿を許す、信長から人質を出す、石山本願寺退去
後、不穏なことがなければ中心とする講和反対派が雑賀から援軍を導入しなおも籠城しようとした。
その顕如は、紛争拡大を恐れ4月9日石山を発って、10月紀伊鷺の森に移った。これに対して信長は、花隈や尼崎への
兵力を強化した。
そして7月3日、ついに包囲していた荒木村重の武将荒木元清の守花隈城を池田恒興に攻略させた。さらに13日には大坂
東表の辻・安田の両城も落ち、ここに光寿もついに屈服した。17日、信長は京都から8月10日以前に退去すべきなど五カ条
の起請文を教如に送った。
そして8月2日、教如は石山本願寺を退去して雑賀に移った。このとき炬火の火の粉が飛んで、本願寺伽藍は3日間に
わたって燃え続け、すべて灰燼にきした。ここに5年間に及んだ石山合戦は終結し、信長は多年の宿望を達成した。」
◎検証事案:
○中古日本治乱記:信長與本願寺門跡和睦附大坂城破壊之事
「去程ニ大坂ノ本願寺門跡光佐上人顕如ハ久シク大坂ノ城ニ在テ信盛ト合戦シケ ル両人和睦シテ天下ノ乱ヲ可治( )宣下有テ為勅使
近衛前関白全文及勧修寺中納言晴豊庭田中納言重通下使ハ荒屋善左衛門大坂ニ至リテ勅定ノ旨ヲ申ス 門跡光佐応勅使之
旨信長ト和睦シテ避城紀州ノ雑賀ニ移レハ宮内卿法印佐久間右衛門尉信盛大坂ノ城ヲ請取ル
又矢部善七郎ヲ大坂ニツカハシ黄金絹布ヲ光佐顕如上人並ニ其家老下間法院ニ賜リケリ 光佐モ家臣ヲ安全ニツカハシ信長ニ謁セント
請シカハ近衛殿勧修寺殿庭田殿彼使者ヲ召具シテ来リケルニ信長宣ヒケルマツ信忠ニ可逢ト仰セケレハ使者先謁信忠・・・省略・・・・・
・・・・省略・・・・・・・・
同八月(天正八年八月)ハ信長上洛シテ宇治ニ至リソレヨリ船ニノリ大坂ニ赴キ城郭ヲ巡リミテ
同二日ニヨリ大坂ノ城ヲ破却サセラレケリ仰せ抑此大坂ノ城ト申ハ日本j無双ノ各地ナリ都トテモ程近シ
・・・・※ 牛一、下記箇所より引用(盗用?)・・・・
奈良堺モ隣タリ淀鳥羽ノ辺ヨリモ大坂ノ木戸口ニテ舟ノ往変自在ニテ四方ニ切所ヲ抱ヘタリ
北ノ方ニハ水鳥群居ル加茂川ヤ月ノ影スム桂川誰陸奥ノ関ナラテ秋風ソ吹白川ヤ淀宇治川ノ其流イク重トモナク
二里三里ノ内中津川吹田川引廻シタリ
東南ニハ二上カ嶽立田ノ山ノ秋暮ハ錦ヲ晒ス紅葉ハ道明寺川ニ散浮ヒ渡ラハ絶ナマシ流ヲ惜ム行末ハ
大坂ノ腰迄三四里ノ其間ハ江ト川ト續タレハヘウマトシテ城ニ帯スルカ如シ
西ハ滄海マンマントシテ日本ノ地ハ申スニ及ハズ唐土高麗南蛮新羅百済ノ舩彼海上ニ出入シ売買利潤ノ湊ナリ
仏法東漸ノ多地ヲ見立方八町ニ地形ヲカマヘ十方ニ口ヲ開タリ 其中ニ自然ト高キ塁アリシヲ其中ニ御堂ヲ建立池ノ水底ヨリ赤白ノ
蓮花ヲ生シ其中ニ弘誓ノ舟ヲ浮ヘ備前ニハ光明ヲ輝シ利剣念仏ノ名号ハ煩悩賊ノ怨敵ヲ治シ仏法繁昌ノ多地トテ僧坊在家ハ
( )ヲ双ヘ福裕ノ煙リ厚ク偏ク此法ヲ貴々遠国ハトウノ民俗ハ日夜且暮ニ参詣シ行人・・・・・省略・・・・・・・・・・・・
既ニ五カ年天王寺ニ附城シテ大坂ト拒シヲ本願寺軍兵天王寺ニ押ヨヤ合戦シテ原田備中以下数百輩ノ軍兵・・・省略・・・・
攻玉ヘハ大坂方ニモ鴻津ノ丸山廣芝五山ヲ初トシテ端城五十一箇所ヲ構ヘ築ヒテ・・・省略・・・・・
篭ヲキ構ヘノ内ニデ万余石領地ヲ所務シテ運ヲ天道ニ任セデ年ノ春秋ハ・・・・省略・・・・・・
天正八年二月二日ノ未ノ刻ニ雑賀淡路嶋ヨリ数百艘ノ迎舩トモ・・・省略・・・・陸ニ上リテ蜘ノ子ヲ散スカ如ク右往左往ニ分レ
行カカル時節ニ・・・・省略・・・・・頻リニ扇吹テ黒煙諸家ニ覆ヒ作リ双ヘタル伽藍トモ一宇不残焦土ト成テ夜ル昼ル三日ノ火ヲ残セリ
・・・省略・・・・」
○信長公記:大坂退散御請け誓紙の事
「さる程に大坂退城仕るべきの旨・・・・省略・・・・
御勅使、近衛殿、歓修寺殿、庭田殿、並びに宮内卿法印、佐久間右衛門等へ御請けを申し、誓紙御検使申し
請けられ候。
・・・・省略・・・・・・・ 」
○信長公記:大坂退散の事
「・・・・省略・・・・・
天正八年庚辰八月二日、新門跡大坂退出の次第。・・・・・省略
・・・・※ 牛一、「中古日本治乱記」からの引用(盗用?)箇所・・・・・・
仰も大坂は、、凡そ日本一の境地なり。その子細は、
奈良、堺、京都に程近く、殊更、淀、鳥羽より大坂城戸口まで、船の通ひ直にして、四方に節所を拘ヘ
北は加茂川、白川、桂川、淀、宇治川の大河の流れ、幾重ともなく、二里、三里の内、中津川、吹田川、江口川、
神崎川引き廻し、
東南は、尼上ケ嵩、立田山、生駒山、飯盛山の遠山の景気を見送り、麓は道明寺川、大和川の流れに新ひらき淵、
立田の谷水流れ合ひ、大坂の腰まで 三里、四里の間、江と川とつづいて渺々と引きまはし、
西は滄海漫漫として、日本の地は申すには及ばず、唐土・高麗・南蛮の船、海上に出入り、五畿七道ここに 集まり、
売買利潤、富貴の湊なり。
隣国の門家馳せ集まり、加賀国より城作を召し寄せ、方八町に相構へ、真中に高き地形あり、爰に一派水上の御堂を
こうこうと建立し、前には池水を湛ヘ、一連托生の蓮を生じ、後には弘誓の船をうかべ、仏前に光明を輝かし、利剣即是
の名号は、煩悩賊の怨敵を治し、仏法繁昌の霊地に在家を立て、甍を並べ、軒を継ぎ、
福裕の煙厚く、編に此の法をと尊み、遠国波島より日夜朝暮、仏詣の輩・・・省略・・・・
天王寺へ差し懸け、一戦を遂げ、原田備中、塙喜三郎、箕浦無右衛門を初めとして、歴々討ち捕り、その競ひに天王寺
とり巻き候ところ・・・・省略・・・・・
末法の時到って修羅闘諍の瞋恚を発し、力及ばずながら、
大坂も、こう津、丸山、ひろ芝、正山を始めとして、端城五十一ヶ所申し付け、
楯籠り、構への内にて五万石所務し、運を天道に任せ、五カ年の間、時節を相守ると雖も・・・・省略・・・・
八月二日未の刻、雑賀・淡路島より数百艘の迎へ船をよせ、近年相抱へ候端城の者を初めとして、右往左往に、
緑々を心掛け、海上と陸と、蛛の子をちらすが如く、ちりじりに分かれ候・・・・省略・・・・夜日三日、黒雲となって、焼けぬ。」
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
地名で、 中古日本治乱記:二上カ嶽、信長公記:尼上ケ嵩となっているが同じ所を表していると思われる。
上記箇所が「中古日本治乱記」より引用していることが分かったのは、当初に述べたが、「後太平記」「中古日本治乱記」の
信憑性を信憑性が高い「信長公記」と比較検証することで確認出来ると考えたからである。
同じ事案を抜きだし、同一の土俵(紙面)にのせることにより一目で分かる方法をとったからである。「中古日本治乱記」
の事案をパソコンの画面に入力し、続いて「信長公記」の事案を入力していると、重複して再入力している気になり、隣の「中古
日本治乱記」の行を見るとほぼ同じ内容の文面であることが分かった。
このことは何を意味するのであろうか。素人の私には分からないが、太田牛一が「中古日本治乱記」より一部とは言え、
引用箇所がでてきたことは、戦国時代から江戸初期に亘る「中古日本治乱記」の事案の信憑性を太田牛一は認めていると
云えるのではないだろうか。
・・・・・・・・・・・・続く・・・・・・・・・・・・・・・・・・