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雑賀衆・雑賀三緘について

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先祖 雑賀衆・雑賀三緘(サンカン)について(五回)

2011-11-27 20:07:25 | 調査・報告
前回、亡き祖母の雑賀家譜に記載ある「雑賀三緘(カン)」について記載しましたが、今回から信憑性についての
私の調査検証したことを逐次報告いたします。

雑賀家譜に記載ある雑賀三緘は、「後太平記」と「中古日本治乱記」にあることは述べましたが、ともに信憑性は
「低い」或いは「無い」とのことがこの世界では常識のようである。今回これを打破しようと試みる暴挙にでることと
なった次第です。これも亡き祖母の御先祖様を慕うあまりからですので容赦願います。

先ず、史料についてですが、皆様はご存じであったかも知れませんが私は、今回調査するまで残念ながら知りません
でした。概略は下記の通りです。

「後太平記」:作者は多々良一龍。42巻。「太平記」以降の南北朝時代後期から戦国時代を扱う軍記物語。
作者の詳細は不明のようですが、姓から察するには朝鮮からきた多々良氏大内氏と関係があるようで、
毛利に関する記載事項が多数あり。
作成時期:延宝5年(1677年)に成立したとされるが、草稿は元和3年(1617年)に完成したという疑い
があるとのこと。
既に、「後太平記」の信憑性の検証は江戸時代に萩藩にて「閥閲禄」を編纂した元就研究家である
永田政純が「新歳軍記」緒言にて「後太平記」に記載されている毛利関連の事案について信憑性を確認
している。

「中古日本治乱記」:作者は山中長俊(1547年~1608年)。豊臣秀吉の右筆。秀吉の命により「太平記」の後を承けた
形で、貞治元年(1362年~慶長2年(1597年)までの二百数十年に亘る記述を終えたが秀吉が
没した。その後朋友太田和泉守資方の勧めを容れて増補し慶長6年の関ヶ原の戦いで終結。
序文:慶長7年(1602年)

以上二冊の史料に対して、この世界では信憑性が高いと通説の織田信長の側近(右筆との説があるようだが?)で
ある太田牛一が書いた「信長公記」で同様の事案を記載した箇所との比較検証を実施した。
「後太平記」も「中古日本治乱記」も記載期間が、二百年以上に亘るために信憑性が「低い」「無い」と見られるのは、
致し方ないと思われる。又、仮作・仮託とのことでもある。

しかし、萩藩の永田政純が「後太平記」に記載ある毛利家関連の調査をしたように、多々良一龍・山中長俊・太田牛一が
生きた同時代の戦国時代に限定して見た場合は違って来るのではないか。
そのように考えた私は、三冊に記載ある関連事案を事案毎に一シートに横並びに国会図書館より入手した史料から
パソコンに入力した(全部を入力するのに約半年を要した)。
但し、三冊に同じように記載あるのもあれば二冊にしか記載されていない事案もある。要は記載事案が「信長公記」
との比較検証で正しいか否かである。

次回はこの暴挙と思われる事案を列挙し、検証した事を報告いたします。

・・・・・・・・・・続く・・・・・・・・・・・・・・・・・





先祖 雑賀衆・雑賀三緘(サンカン)(祖母の雑賀家譜記載者)について:(初回)

2011-11-03 15:56:49 | 調査・報告
今回より調査した事の報告となるが、何分素人故に分からないないことばかりなので、ご教示アドバイス等頂ければ幸甚です。
家系図を作成するにあたり謄本入手を区役所に出向き申請したが、関東大震災による役所の建物が焼け謄本も焼失したとの
ことから、何か無いかインターネットにて検索した。
偶然にも和歌山県立文書館のホームページを調べていると、初回展示会にて「紀州藩士を家譜から探す」を見つけ、早速文書館に
電話して祖母の雑賀家の家譜を確認。所が、文書館の返事は「雑賀衆で藩士になってる者はいない」との連れない返事。
雑賀名にて家譜を藩に提出している者の名前を挙げてもらた中で、一人祖母が持参した過去帳に記載されている者と同じ
名前があり、早速入手の手配を依頼。数日後雑賀家の家譜を入手。この家譜「紀州家中系譜並に親書書上げ」は今年の3月に
和歌山県立文書館より家中15,710点より「あ行」から「さ行」までの苗字の家中を上巻として発刊された。下巻は来年の予定とのこと。
入手し早速見るが何分古文書である。残念ながら読めないのである。仕方がなくある方に翻訳をして頂き、ようやく内容が判明。
先祖は紀蔵人丞忠賀といい元祖に「雑賀小蜜茶三緘」以下の名前の記載があった。
家譜によれば祖母の雑賀家は古くから雑賀に居住したことから雑賀と名乗ったとのことで、有名な「雑賀孫市」のように「鈴木氏」 から変わったのではないようである。

家譜の記載で興味を引いたのは元祖「雑賀三緘(サンカン)」である。戦国時代に武功が記載されていたため一番興味を引いた。
又、家譜には紀州藩江戸中屋敷の赤坂御殿勤仕の老女と西浜御殿勤仕の老女の名前もあり、一行一行記載された家譜の内容を
確認調査することを思いつく。
この二人の老女は過去帳に記載が残されており確認がとれた。老女二人は、「南紀徳川史」より仕えた
姫様は確認が出来た。一人は満須姫(早世)、一人は豊姫(後の鶴樹院)である。
藩に家譜を提出した者の役職・昇進状況等は同じく「南紀徳川史」、「和歌山県史」「和歌山市史」等から確認が出来た。
しかし、一番興味を引いた「雑賀三緘」は確認が出来ないのである。祖母の家譜の調査を開始してから1年位で大体確認がとれたが、
「雑賀三緘」はインターネット検索を駆使して古文書関係を調査しても確認がとれないのである。
次回はこの確認作業を報告いたします。