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雑賀衆・雑賀三緘について

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くずし字勉強開始と家譜見直し

2014-08-03 20:56:46 | 調査・報告
亡き祖母の先祖である雑賀三緘(カン)について、和歌山県立文書館より入手した家譜「紀州家中系譜並びに親類書
書上げ」を基に調査・検証したことを今迄報告をしてきた。
しかし、先祖から引き継いできた書類・手紙・刀剣等の武具など貴重な史料と言うべきものが、生活の困窮から
人手に渡ってしまった現在では家譜に頼るしかないのが現状である。
購入して頂いた方は父親から聞かされているので分かっているが、調査したいので資料を見せて頂きたいと
申し出ても、数十年も前の話なので戦争で焼けたとか、分からないとか言われるのが関の山である。

織田信長・豊臣秀吉等と十年以上に及ぶ戦を遣り抜いた雑賀関連の残された史料は数が少ないと言われているよ
うで、中々専門家でもよくわからない分野のようである。石山本願寺(一向衆)との戦いがなければ、織田信長はも
っと早く全国所制覇が出来たはずである。非常に重要な事案にも拘わらず歴史的史料が少ないという。 司馬 遼
太郎が「尻啖え孫市」という小説を書いているが、あとは津本 陽が雑賀を題材にした小説は書いているくらいで
ある。

和歌山市立博物館の学芸員によれば家譜に記載ある事項は藩に自分の家の「はく」をつけるために、それらしき
武功を記載する事例がよく見受けられるとのことである。
しかし、そうは云うものの孫である私としては納得出来ず、自分で家譜の記載内容を分かる範囲で調査して見よう
と思いついたのは上記の理由に他ならない。
調査はインターネットで雑賀関連を検索し、検索した事柄を国立国会図書館・国立公文書館等に出向き調べた。
調査した史料のなかには、明治になり保管するために新たに写し書きした史料などがあった。この部類になると
なんとか何割かは判読は出来たが、江戸時代に書かれた史料(複製)は所々は分かるが、殆ど判読ができなっかった。

そこで、再度入手した史料を見直しを始めたり、古文書を読むには「くずし字」が読めなくてはならないために、
六十の手習いとやらで「くずし字」を勉強することに決めた。

「くずし字」を何処でどのように勉強すれば良いのか分からなくインターネットで検索をして何件か実際に授業に
参加させて頂いた。
出版会社主催の教室や色々な教室に参加したが、資料はくずし字のコピーでそれに付随する資料等はなく
淡々と進行するのみである。初心者には書類などで手元に置き勉強したいのだが、残念ながら資料らしきもの
は頂けなかった。
仕方なく色々探し通信教育をしようと考え国営放送であることが分かり手配し勉強することにした。
通信教育は資料を基に勉強するために、当然資料は残るのである。書店で彼是探したが中々レベルニ合ったものが
無かったが通信教育の資料は自分のレベルにあわせた資料のために役にたっている。
只今勉強中。しかし難しい。でも解読できたときはとてもうれしい。六十七の手習いである。

同時に家譜の内容の見直しも進行中。中々奥深いものを感じる。歴史が面白くなってきた。学校で習わない内容が
家譜の中に含まれていることが分かってきた。



先祖雑賀衆・雑賀三緘(カン)調査について

2013-10-26 20:02:01 | 調査・報告
亡き祖母の実家の雑賀について「家譜」を調査してきたが、素人として今迄の報告の通りかなりの所まで
確認出来たのではないかと本人は思うところです。
太田牛一の「信長公記」と山中長俊「中古日本治乱記」の事案の比較による、太田牛一の「中古日本治乱記」
からの記事の一部の転用、牛一の「信長公記」と」小瀬甫庵の「信長記」との「三緘」についての「ミカラミ衆」と人物
の「サンカン」についての違い、林羅山の「将軍記」の記載の「三緘(サンカン)」についての記載事項など調査・報告を
してきた。
しかし、専門家の人の話によると違うようです。
そもそも「家譜」に記載ある事項など、大袈裟に自家誇示のため書かれていることが多く、内容に信憑性
が疑われるとのことである。
が、当の家族としては、「ハイ」そうですかとは、了承しかねるものである。

織田信長と争いを始めて10年も戦った「雑賀衆」であるにもかかわらず、その史料は殆ど無いようである。
当家の史料は「武士の商法」とやらで財政困窮につき、父親の兄が勤める会社の社長殿に拡散を逃れる為に、
一括して購入願ったようです。
購入して頂いた先は亡き父親から聞いておりますが、今流行の「コンプライアンス」などからして史料を見せて
頂きたいと申し出ても拒否されるのがおちです。

小生といたしましては、まだ亡き祖母の雑賀の現地のお寺の調査(数十年も連絡を取っていないため、小生
は檀家寺を確認出来ていない)もしておらず、まだ調査の余地はまだあると確信しております。
退職したとはいえ、まだ働いている為に現地を訪れる時間もとれないので、その日が来ることを前提に
古文書を読み解けるように、これから「くずし字」を勉強し始める所であります。
最終的には現地に赴き古文書等の史料を確認してみたいと思っています。

何か御教示頂ければ幸いに存じます。

雑賀衆・雑賀三緘(カン)記載本一覧表

2013-06-23 22:12:29 | 調査・報告
今迄調査してきました亡き祖母の実家の家譜に記載ある雑賀三緘(小蜜茶)について調査してきたことを
報告して来ましたが、今回はその報告してきました掲載本の内容一覧を報告いたします。
雑賀衆についての記録はなかなか無いようで未確認事項が多く謎に満ちているようで専門家でも難しい調査を素人の私がして何処まで真実が解明できたかは分かりません。
が、祖母の先祖を調査してみたい一心で和歌山県立文書館より雑賀家の家譜を入手し、それに記載ある雑賀三緘(小蜜茶)を四年に亘調査してまいりましたなかで、「信長公記」での著者太田牛一が「中古日本治乱記」の一部を引用している箇所(第15回報告)等の発見もあり、自己満足している次第ではあります。
御報告いたしました内容が専門家からみた場合の真偽の判断は分かりませんが、素人の私の出来る範囲で調査出来たのではないかと思いますし、これからもライフワークとして継続して調査してまいりたいと思い ます。
下記に今迄調査しました史料の一覧を省略して記載いたします。記載内容の詳細は今迄ご報告いたしました事案を確認願います。今回は纏めとして、「雑賀 三緘(小蜜茶)」が記載されている箇所、及び関連する箇所に焦点をあて一覧に纏めました。



◎「石山合戦(第一次)」
○「後太平記」:多々良一龍 ・国会図書館所蔵本 ・通俗日本全史: 早稲田大学出版部
「将軍摂州御発向之事附一向門跡一揆之事」:地部巻第40
「六条本圀寺にて討申され泄されたる三好一族、今年蘇軍を発し、摂津ノ国野田福島に城を構へ蜂起
すと 聞えしかば、織田上総ノ介信長馳せ向ひ・・・・・省略・・・・・・・・・
九月三日、京師を打立ち給ふ、供奉の人々には、上野中務大輔、同佐渡ノ守・・・・省略・・其勢都て七千
餘騎、摂津の中島に陣取り給ひ、凶徒退治の軍慮急り也、斯る處に紀州ノ国の住人雑賀孫市郎、「雑賀
三緘入道」、岡崎三郎太夫、渡部藤左衛門ノ尉、的場源七、根来法師、岩室清祐、各一万餘騎にて参る、
此者共初めは門跡一揆に手合いしぬと聞えしか共、今は早速味方に参るこそ幸ひなれ・・・・省略・・・・・」

○「中古日本治乱記」:山中 長俊 ・国会図書館所蔵本 ・国立公文書館所蔵本
「野田福島合戦付孝江宇佐山軍(事):巻第53
「信長ハ江州ノ合戦ニ討勝テ暫ク休息シ玉ヒケル処ニ同年ノ八月三好山城守康長入道笑岩同日向守定康等摂州ニ
蜂起シテ野田福島ノ要害ニ楯籠リ又福島ノ城ニハ安宅甚太郎・・・省略・・・・
同九月ニハ将軍義昭モ京都ヲ御進發有テ摂州中島ニイタリ玉ヘハ信長ハ天満森ニ陣ス斯ル処ニ根来雑賀ニ輩信長ニ馳
加リテ同ク野田福島ヲ責タリケル爰ニ大坂ノ本願寺門跡光佐顕如三好等ニ語ヒ野田福島ノ後詰トシテ門徒ノ僧ハ申スニ
及ハス・・・・省略・・・・・」

○「信長公記」:太田 牛一 桑田忠親校注 新人物往来社刊
「野田福島御陣の事」:巻三
「御敵、南方諸牢人大将分の事。細川六郎殿、三好日向守、三好山城守、安宅、十河、篠原、岩成、松山
香西、三好為三、龍興、永井隼人、此の如き衆八千ばかり野田、福島に楯籠りこれある由に候。
九月三日、摂州国中嶋、細川典厩城まで、公方様御動座。・・・・省略・・・・」

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

○「中古日本治乱記」:
・「将軍方所々蜂起之事」:巻第55
「将軍義昭卿ニ備後国ニ御下向有テ毛利右馬頭輝元吉川駿河守元春・・・・・・・省略・・・・・・・・・・
淡路岩屋城ヘ丹地太郎兵衛尉神野加賀守小林民部少輔三百余騎ニテ討納紀州「雑賀三緘入道」鱸孫市的場
源七郎ハ 一揆一満人卒シ和泉仙石塚ニ城を築門跡ノ一揆ヲタ輔将軍ノ御上洛ヲ待向フ・・・・・省略・・・・・・・・・」

○「「後太平記」:
・「諸城警禦之事」:地部巻第42
「将軍則已に備後ノ国に下向あって、毛利、小早川を頼ませ給ひ、上洛御座・・・・省略・・・・・・・・・・
淡路岩屋の城へは丹地太郎兵衛ノ尉神野加賀ノ守、小林民部ニ少輔三百余騎にて討入、「紀州雑賀三緘
入道」、鱸孫市的場源七郎は一揆一満余人を卒し、和泉ノ国仙石塚に堀を築き、門跡一揆を輔け、将軍
上洛を待向ふ ・・・・・・省略・・・・・・・・・・・」

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

○「後太平記」
・摂州大坂一向門跡合戦野事」:地部巻第42
「天正四年の四月十四日に、惟任日向ノ守、長岡兵衛ノ大輔、筒井順慶、原田備中ノ守に三萬余騎を属(ツ)け、
摂州に向けられたり、其勢森口、野田、福島に勢揃へて陣をとる。原田備中ノ守は江口、神崎、難波河口を
放火し、茶臼山に附城を築いて、南方より攻寄せける。城内には下間刑部法印、同少進法橋、城の四面に
弓鉄砲の射手を配り・・・・省略・・・・・・・・・・・・・

五月三日の朝陽に和泉・・・・省略・・・・・
原田が手にて先を蒐けたる箕浦無右衛門ノ尉、塙喜三郎、同小七郎、丹羽小四郎、宗徒の勇五十余騎討
たれ、這々茶臼山を打討囲、攻め動か事霹靂に異ならず、已に危く聞え、信長愕き給ひ・・・・省略・・・・・
同月六日に三萬余騎を引率し、京都を発し、天王寺に陣を取り、勢急りに見えければ・・・省略・・・・

織田信長の武威益天下を呑む、・・・・省略・・・・・・・・・
雑賀孫市郎、「同三緘入道」、的場源七郎、渡部藤左衛門ノ尉、岡崎三郎大夫、根来法師岩室清祐、各一手に
成り、紀伊の勢一萬余騎、和泉ノ国に討ち出で、中野、貝塚、仙石堀に楯籠り、門跡一揆に一味して、将
軍御帰洛を待向かへ・・・・省略・・・・・」

○「信長公記」:
・「原田備中、御津寺へ取出討死の事」 巻九(天正四年)
「四月十四日、荒木摂津守、永岡兵部大輔、惟任日向守、原田備中四人に仰せつけられ、上方の御人数相
加へられ、大坂へ推し詰め、荒木摂津守は、尼崎より海上を相働き・・・・省略・・・・

五月三日、早朝、先は三好笑岩・根来・和泉衆。二段は原田備中、大和・山城衆同心致し、彼の木津へ取
寄せ候のところ・・・省略・・・・
既に原田備中、塙喜三郎、塙小七郎、箕浦無右衛門、丹羽小四郎、枕を並べ討死なり。
・・・・省略・・・・・
五月五日、後詰として、御馬を出され、明衣の仕立纔百騎ばかりにて、若江に至りて御参陣、
・・・省略・・・・」

○「石山退去録」 龍谷大学図書館蔵 関西大学中世文学研究会

(補説)天正四年五月六日の合戦の時のこと
「天正四年五月六日ノ合戦ニ、石山ニ要害ハ堅ニモ、サカモギ五重ニフリ並べ、其内ニ幅五間ノカラ堀ヲ深クホリ、其後ニハ水堀
深ヲコシラヘ、城中ノ軍兵凡ソ六万余キ。偖、浮武者ト云テ、一手ガ千キスヅヽ七組(ミ)有コトジャ。
先ヅ一番ニ下間三位、二番ニハ八木駿河、三番ニハ鈴木孫市、四番ニハ同一角、五番ニハ田辺平次、六番ニハ
「根来小蜜茶」、七番ニハ山田新助、此等ハ皆一騎當前(千)ナレバ、敵ヲ討取謀ナリ。又、残ノ五万三千余キハ本陣ニ
コモリ居テ、寄手ノ敵ト戦フ諸兵ナリ。・・・・・省略・・・・」

※この事案にて小蜜茶が登場しますが、奥(野)の小蜜茶及び奥(野)の記載事案はありませんが、雑賀三緘
(小蜜茶)は上記の通り記載されています。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

○安土日記(信長公記):太田 牛一
天正五年 十
「天正五年 丁巳
二月二日紀雑賀ノ内ミカラミノ者并根来寺ノ坊御身ノ色ヲ立可申ノ御請作ニ付テ・・・・省略・・・・

二月十八日佐野郡ニ至テ被移御陣廿二日志立ヘ御陣ヲ被寄浜手山方両手ヲ分テ御人数( )( )山方ヘハ根来寺
ノ坊「ミカラミ衆」為案内者佐久間右衛門羽柴筑前・・・・省略・・・・・」

○原本信長記:太田 牛一
天正五年 丁丑

「二月二日紀伊州雑賀之内ミカラミノ者并根来之坊御身方・・・・省略・・・・

二月十八日佐野之郷・・・省略・・御陣廿二日ニ志立ヘ御陣を寄ら()浜手山方両手を御人数( )山方ヘハ根来寺
之坊・「ミカラミ衆」為案内者・佐久間右衛門羽柴筑前・・・省略・・・・」

○信長記:太田 牛一 池田家文庫本 岡山大学池田家
天正五年 丁丑

「二月二日紀伊州・雑賀之内「ミカラミの者」并根来寺・之坊御身方シ・・・・省略・・・・

二月十八日佐野之郷・・省略・・・御陣廿二日ニ志立ヘ御陣を寄ら( )浜手山方両手を御人数( )山方ヘハ根
来寺之坊・ミカラミ衆案内者・佐久間右衛門羽柴筑前・・・省略・・・・・」

○将軍記(織田信長): 編輯 林 道春(羅山)

「二月二日紀州「雑賀之三緘(カン)」・根来の坊信長の味方に参り上洛す。之を案内者として雑賀を攻め
らるべし・・・・省略・・・・

同廿二日信長志立に陣を移され三緘(カン)坊を先として佐久間羽柴・堀以下・・・省略・・・・・」

○織田眞記:織田 長清

「二月二日紀州「雑賀三緘」根来之坊請來屬於公ニ因令於諸州ニ期十三日親出師ヲ八日将如京洛
・・・・省略・・・・

二十二日進軍于志立徑山沿海分軍ヲ為ニ根来杉之坊三緘ノ輩引導於ヨリ・・・・省略・・・・」


○信長記:小瀬 甫庵
寛永元年 刊

「二月二日「雑賀ノ三緘(カン)」ト云者并根来寺ノ杉坊味方ニ叅シ忠義ヲ致スヘキ(旨)望ミ申シ。同六日上洛ス。
サラハ三緘ヲ案内者トシテ雑賀ノ・・・省略・・・・

同廿二日ニ志立ヘ被御本陣海手山手ヘ勢ヲ分テ推入セラレルニ。先案内者ナレハ杉坊ニ并雑賀ノ「三緘(カン)」
ヲ先トシ佐久間右衛門尉信盛羽柴筑前秀吉・・・省略・・・・・」

※小瀬 甫庵は太田牛一が「雑賀ノ内ミカラミノ者」と不特定多数にて表現しているのを、雑賀ノ
三緘(カン)ト云者と特定している。


○増補信長記:松平 忠房
寛文写

「二月二日紀州「雑賀ノ三緘」及根来坊味方ニ属スヘキト内通ス則諸国ニ陣觸シテ同八日雨天故不發
九日信長公上洛妙覚寺ニ居ス・・・・省略・・・・・

同二十二日志立ニ陣ス於是諸将ヲ分テ三緘及坊卿導シテ山ノ手ヘ向フ軍士佐久間信盛羽柴秀吉
荒木摂津守別所小三郎同孫右衛門・・・省略・・・・・」

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

○武徳編年集成 (上巻):国会図書館所蔵
巻之16 天正五年
天正五年 丁丑年
二月大
「廿二日泉紀ノ堺信達ヘ信長着陣 根来ノ杉坊以下ノ衆徒「雑賀ノ三緘ノ輩」羣参シテ先陣ニ列ス 小雑賀口
ニ於テ川ヲ前ニシ一揆ノ族悉ク出向テ防戦ス ・・・・省略・・・・ 」

巻之31 天正十三年
天正十三年 乙酉年
八月大
「来寺ノ衆徒愛染院根来大膳同小蜜茶ヲ初トメ福永院ノ和泉房歸一房無玉房鳴神左衛門赤堀等・・・・
省略・・・・・ 」

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

○続々群書類従(第四史伝部)
・土屋知貞私記

「大坂両陣供奉之御人数
新参ニ籠七日ニ城ヲ出ル者
根来 田村輪蔵院
同 こみちや
・・・省略・・・・ 」

○広島県史 近世史料編 Ⅱ
・長野長晟侍帳
「 八嶋出雲守組

三百石
同 奥こみつちや

・・・・・・・・省略・・・・・・・・・・ 」

以上

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

以上が雑賀三緘(カン)・小蜜茶が記載されている事案です。基本は「中古日本治乱記」と「信長公記」が
ベースとなっている。
「中古日本治乱記」及び「後太平記」は記載期間が二百年以上におよび専門家からは仮作・仮託等と云わ
れているようで、信憑性を疑われていりようだが、作者が生きた戦国時代から江戸初期と限定した場合
には、今迄報告して来ました通り信憑性が高いのではないか。

残念乍祖母の雑賀家の史料は他人の手に渡り、公開などされる筈もなく此のまま解明されずに行って
しまうのかも知れないが、昔を知る雑賀家の最後の祖母の孫として素人の出来る範囲で調査してきまし
たが、孫としてはある程度は解明出来たのではないかと自負する次第です。

数百年前の出来事を調査探求して行くのは大変であるが、一歩一歩積み重ねて史料(資料)を集め調査し
解明して行く事の面白さ・楽しさが分かった。
より一層探求出来るように「くずし字」を勉強しはじめた今日この頃ですが、雑賀衆は未知の所がまだ
まだあり「忍者」でもあるよう記載されているのもあり勉強不足につき、ライフワークとして今後も調査探求を
するつもりですが、何か皆様方でご存じの方がいらっしゃいましたら御教示願います。

追記

現在家譜にある婿養子先の家譜も入手し、これから悪戦苦闘し現代訳に挑戦しようと思っています。
しかし、手書きの古文書は人夫々に個性があり、「くずし字」の「伊呂波」から勉強をし始めましたが、
簡単には行きそうにもありませんが頑張るのみです。















先祖雑賀衆・雑賀三緘(カン)=根来の小蜜茶(コミッチャ)について

2013-01-22 22:34:39 | 調査・報告
今迄、亡き祖母の「家譜」に記載ある雑賀衆「雑賀三緘(サンカン)」についての調査・考察を報告して
きましたが、その家譜には別名も記載されている。一通り「雑賀三緘」については調べ終わったた
めに別名の「小蜜茶」について報告いたします。
歌舞伎の題材にもあるようで、雑賀三緘より和歌山県では「小蜜茶」は有名だそうですが、別人が
いるようで(こちらが別人か?)、そちらが地元の専門家では通っているようです。
今回始めて家譜を調査して知ったわけですが、私の調査出来る範囲で確認しましたので報告した
いと思います。
国会図書館、国立公文書館等に出向き「小蜜茶」関連の史料を調査しましたが入手は殆どありま
せんでした。

「紀州家中系譜並ニ親類書書上」に記載ある雑賀三緘(カン)の正式名は
・元祖 本国紀伊 小蜜茶雑賀三緘
にて、更に
「雑賀三緘、根来寺エ登山之節は杉之坊ニ相詰候付、世人根来之小蜜茶ト申候由」とあり。

以上のことから調査することにしましたが、的確な史料が見つかりません。

今回、第十二回で報告いたしました下記と第十四回に報告致しましたことを基に「小蜜茶」について
検証したことを報告いたします。

・摂州大坂一向門跡合戦野事(後太平記地部 巻第42)
・責大坂本願寺門跡事(中古日本治乱記 巻第56)
・原田備中、御(三)津寺へ取出討死の事(信長公記 巻九)

通説では、「小蜜茶」は「奥(野)こみっちゃ」「奥(野)右京」「根来十三」などと言われているようですが、
確たる史料はないようです。唯言われているのが、和歌山で浅野家につかえ、国替えで一緒にいった
さきで、岡山県史に記載ある「芸藩輯要」「浅野長明来晟公略伝」「元和五年侍帳」「芸藩志拾遺十二」
等に名前が記載あり「奥こみっちゃ」とあるのみで、関連がはっきりしません。

上記の史料は国会図書館より入手したが地元和歌山で「こみっちゃ」といえば、「奥こみっちゃ」と
いわれているようですが、小生といたしましては、納得の出来るものではありません。

上記以外に「小蜜茶」関連史料を国会図書館・国立公文書館に出向き入手した史料(資料)は下記です。
・石山軍記 ・絵本石山軍記 ・石山退去録 ・武徳編年集成 ・本願寺秘史 等々
この中で私が注目したのは、「石山退去禄」である。この「石山退去禄」の信憑性が重要であることは、
重々素人の私でも承知しているがその判断が出来ないため、その記載されていることから今迄調査
した事案を含め考察・検証した。

私の私見は亡き祖母の家譜に「小蜜茶」と記載されていることが大前提であり、「奥(野)こみっちゃ」
なる人物の史料が入手出来ない為に比較検証することが出来ないので、私の独断と偏見にみちて
いることは否めないが、あくまでも私なりに冷静に考察・検証したつもりです。

今回上記3件のほかに数少ない史料の中で検証・考察にしたものは、
・信長公記 :「雑賀御陣の事(巻10) →第十四回にて報告
・石山退去録 :「天正四年五月六日ノ合戦・・・」の行である。

私は、下記事案が同一(天王寺の戦)であり、且、夫々の視点をかえ記載されているために比較検討
するには好材料と考える。

・後太平記:「摂州大坂一向門跡野事(地部巻第42)
「天正四年の四月十四日に惟任日向守、長岡兵衛ノ大輔、筒井順慶、原田備中ノ守・・・・・下間刑部法印、
同少進法橋・・・・
同月(六月)六日に三萬余騎を引率・・・・・・
其頃雑賀孫市郎、同三緘入道、的場源七郎、渡部藤左衛門ノ尉、岡崎三郎大夫、根来法師
岩室清裕、各一手に成り、紀伊の勢一萬余騎、和泉の国に討ち出で、中野、貝塚、仙石堀に楯籠り
門跡一揆に一味して・・・・」と記載がある。
→「同三緘入道」が祖母の先祖である。孫市も「入道」がつく文献もあるようです。

・石山退去録:
「天正四年五月六日ノ合戦に、石山の要害は堅固にて、逆茂木五重にふり並べ、其の内に幅五間の空堀
を深く掘り、其後には水堀をこしらへ、城中の軍兵凡そ六萬余騎、扨浮武者といひて、一手が千騎
づつ七組ある事ヂャ、先ず一番に下間三位、二番には八木駿河守、三番には鈴木孫市、四番には同
一角、五番には田邊平次、六番には根来小蜜茶、七番には山田新助・・・・・」と記載がある。
→根来小蜜茶が家譜に記載ある「世人根来之小蜜茶ト申候由」である。

上記のことから奥(野)こみっちゃ、雑賀三緘(カン)の小蜜茶を検証する。

○奥(野)こみっちゃ(惣福院)の場合
根来小蜜茶は「石山退去録」には、六番目と記載されていることからして、小蜜茶は根来衆として僧坊の
かなり上位に位置する位にいることが察せられる。
それならば、「後太平記」「中古日本治乱記」等に本来の名前である「奥」が記載されてしかるべきと私は
考える。何故ならば、根来の「岩室坊清祐」が記載されているからには「奥(野)」も同じ地位にいたか
それ以上の地位にいたはずで、記載されて当然と考えるが、記載がなく「奥(野)」ではないと考える。
奥(野)こみっちゃが「後太平記」「中古日本治乱記」に記載がないということは、雑賀三緘=小蜜茶である
からして奥(野)右京(十三)は違う人物で記載する必要がないと考えることが出来る。

武田鏡村著「織田信長 石山本願寺合戦全史」によると、
「石山本願寺の籠城体制は「歴代御前次第」(西本願寺蔵:上原芳太郎編「本願寺秘史」所収によると、下記
のようで
「顕如上人大坂籠城の節」
・川口分 常楽寺(証賢)
・附城 下間少進(仲之) 下間庄進法橋
・同 大将 下間刑部卿(頼廉) 下間刑部法印
・・・・・・・・・以下省略・・・・・・・・
そして「石山合戦配置図」によると、御坊と寺内町には「石山御堂当時門徒四万人余籠城」、渡辺津には
「定專坊三千人と八木駿河守らが船付場を守るように布陣しているとのことである。
更に、生玉村には鈴木孫一、野村一角らが布陣し、梅川が海に流れ出る高津には、紀州の雑賀本陣が
置かれた」とのことである。

籠城者の数の違いはあるが、「後太平記」「石山退去録」の記載に大きく異なる点は見られない。この時、
雑賀衆のみならず根来衆も渡辺藤左衛門、岩室坊清祐等も参加しているが、奥(野)こみっちゃは那珂郡
荒川庄出身にて根来の惣福院の住侍になっていたとのことであるが、「石山退去録」にあるように雑賀衆
・根来衆の首領と同じ千騎を預かり指揮する地位にいたのであろうか。

○雑賀三緘(杉之坊)=こみっちゃの場合
根来小蜜茶は「石山退去録」には、六番目と記載されていることからして、小蜜茶は郷(搦・組)の首領
ではないがそれ相当の陣を任されていることから、「後太平記」「中古日本治乱記」に郷の首領ともども
「雑賀三緘入道」として名前が記載されているのではないか。其れを裏付けるものとして「石山退去録」
がある。
私見として第十四回にて報告した「信長公記:雑賀御陣の事」より「ミカラミの者」を雑賀三緘(カン)」と
断定したが、断定した理由はほかからでも判断出来る。
「ミカラミの者、杉之坊」が織田方に味方する請願の旨に来たとあるが、「ミカラミの者」と何故織田方
武将は判断出来たのであろうか。国人・地侍・農民なのか、それとも三搦(組)の内でそれなりに地位の
ある者なのか、いくら「三搦の者」とはいえども雑賀衆で顔が知れ、三搦の代表としてそれなりの地位の
者が杉之坊(津田太郎左衛門尉)と請願に来なければ織田方の武将は承知しなかったはずである。

味方をするといっても織田信長を誘いだし騙し討ちする作戦だってとれるのである。余程の地位ある
者が杉之坊と同行しなければ織田方武将の承知はえられなかったのではないか。又、杉之坊もそれなり
の人物でなければならない。
小瀬甫庵も私と同様なことを考えたからこそ、「ミカラミの者」とは誰か探求したのではないか
(杉之坊は津田太郎左衛門尉と判明している:信長公記)。
そう考えた時、前年(天正四年)の戦いで郷(搦・組)の首領に混じり雑賀三緘(カン)が六番にいたと
いうことは、小蜜茶=雑賀三緘は首領に近い地位におり織田方の武将にも知れ渡り、請願を織田方に
納得させるだけの力を持っていたことになる。

「 石山退去録」の信憑性が問われることになるが、その真偽は私には分からない。
小蜜茶=雑賀三緘(カン)と関連づけるられると思われる事案(史料・資料)は今のところ記述した
ものしか見つからず、判断材料が乏しい。

逆に奥(野)右京(十三)が「こみっちゃ」であると断定するにも史料(資料)が乏しく、国会図書館・国立
公文書館から残念乍私は入手出来なかったし、突然奥小蜜茶が登場すること事態変であり、登場する
前に何かしらがあってしかるべきである。
奥右京がそれなりの人物であれば何処かにその痕跡は遺しているはずであるが、雑賀三緘以上に見当
あたらない。

以上のことから、「石山退去録」の六番「小蜜茶」は「奥」と私としては特定するに至らず、今迄述べて
きた通りの総合的判断から「後太平記」「中古日本治乱記」に記載ある「雑賀三緘入道」であると特定したが、
二人の「小蜜茶」がいたのか。

亡き祖母の家譜にある「雑賀 三緘(カン)=小蜜茶(雑賀小蜜茶三緘)は、その家譜の信憑性が問題であるが、
和歌山県立文書館収蔵目録十一「紀州家中系譜並ニ親類書書上」(上)によれば、P329~P330に記載ある
『「系譜」の利用で差出された系譜をより正確に保存することに主眼が置かれることは出来ないだろうか
』といわれるが「より正確に」の観点からすると三代に亘雑賀家「家譜」が無修正であることは、その
信憑性があると見てはよいのではないか。

地元和歌山(紀州藩)で「こみっちゃ」が有名であるとすると、いい加減なことは「家譜」には記載出来る
はずもないし、同姓同名であるはずもない。藩に提出した家譜に偽称記載ある場合には証拠関係を求められ
たらその根拠たる証拠説明しなければならない。付箋・修正箇所は家譜には見当たらない。

又、詳細には家譜に記載ないが「武徳編年集成拾遺」の天正十二年巻二十七・二十八等にに記載ある中村
一氏との「岸和田の合戦」、荒木村重、荒木志摩守に加勢した「花隈城の戦い」等の記載内容を史実と照らし
あわせ判断した。

限られた史料・資料(出版されている書籍類)からの検証・考察で独断と偏見に満ちた結論であること
は言うまでもなく、専門家からみた場合支離滅裂と感じられるかもしれないが、素人が入手出来る範囲
での考察・検証であることをご理解願いたい。

私が調査した以外に史料などがあれば、御教願いたい。












先祖雑賀衆・雑賀三緘(サンカン)について(十六回):総括

2013-01-14 21:36:08 | 調査・報告
今迄十五回に亘り家譜に記載ある雑賀衆「雑賀三緘(サンカン)」を「後太平記」「中古日本治乱記」等に記載ある事柄で、信憑性が高い「信長公記」と比較することにより、真実の信憑性の確認をしてきたが同類の記事がなくなたので比較検討は終了し、総括をしたいと考える。
何分ど素人が限られた入手出来る範囲の機関(入手先:国会図書館・国立公文書館)より史料を入手したが、判断出来うる十分な史料を集められたとはおもっていない。専門家からみれば支離滅裂と思われるかも知れないが、これがど素人に出来る限界と思う。
私が未入手など気が付かない資料等があれば、又、間違って解釈しているなど至らぬ所が多々あると思いますので、御指摘、御教示頂ければ幸いと存じます。

◎総括

〇検証方法について:
検証用資料として今までに記載してきた以外に「戦国合戦大事典(六)」「織田信長合戦全集」「戦国合戦50」 「流浪将軍足利義昭」「日本合戦(5)」「織田信長事典」「信長公記を読む」等々を史料として参考にさせて頂いた。

検証の仕方としては間違ってはいないようである。それは谷口克広氏が「織田信長事典」の「信長公記」の 中で「信長公記の信憑性」で触れられておられるが、期日・文書等の正確性考証したとあるが、各事案を検証用資料に基づきフィルターに掛け、スクリーニングした後の期日・文書等を比較することにより考証出来たと考える。
スクリーニングした後の記述が100%正しいとは言えないかもしれないが、漠然と今迄言われて「後太平記」「中古日本治乱記」の「戦国時代」に限定すれば、信憑性が見えてきたのではないか。

大胆にもど素人故に、「後太平記」「中古日本治乱記」「信長公記」で同一案件と思われる事案を足利義昭毛利氏或は石山本願寺側から捉えたと推測出来る「後太平記」(私見)、羽柴秀吉側から捉えた「中古日本治乱記」、そして織田信長側から捉えた「信長公記」として考察してきたが、戦国時代に絞れば間違っていないのではないか。
それぞれの立場から書かれた事案として捉えると、記述の長短・内容等が異なってくるのは当然である。

〇文学的価値について:
「信長公記」は別にして、多々良一龍撰「後太平記」並びに山中長俊著「中古日本治乱記」は、調査してみると歴史的価値よりも文学的価値が高いようで、歴史学者より文学者には興味が湧くみたいである。甲南女子大学教授渡辺真一氏、教授松林靖明氏、西丸佳子氏、県立新潟女子短期大学板垣俊一氏など論文などでで発表されている。

〇歴史的価値について:
歴史的価値大の「信長公記」は、その記載事案の期間が戦国時代から江戸時代初期までのごく限られた範囲、出版されるまでの期間が短いため、又、信長の天下統一を意識し出来事を記録していったことが考えられ、その記述内容の「正確さ」があるといえるのではないか。
一方、「後太平記」「中古日本治乱記」は、それぞれ二百年以上に亘る記述事案があり、撰者作者は当然生きながらえることは出来ない。「後太平記」は「多々良家の什録と諸家の記録を勘合し撰ぶ」とあり、「正確さ」という点では劣ることは確かであり、又、「中古日本治乱記」も同様である。
しかし、今回の検証の仕方のように」信長公記と同じ時代に限定し、比較検証することにより、全体的ではないにしろ、限定的にその「正確さ」という確度は上がるのではないか。
江戸時代にも「正確さ」を確認のために、萩藩の永田政純がした「新裁軍記」のようなものまであるということは、虚偽の軍記物、歴史書などが横行したことは考えられる。

〇三者(多々良一龍・山中長俊・太田牛一)の繋がりについて:
戦国時代から江戸時代初期において「信長公記」の作者太田牛一、「中古日本治乱記」の山中長俊、そして「後太平記」の多々良一龍の三者の関係で明らかなのは、山中長俊と太田牛一の関係である。
「中古日本治乱記」の序文に太田牛一のことを朋友と記述している。それもそうであろう、共に大坂石山本願寺との合戦で10年も戦っているのであるから。
同一事案を三者がそれぞれの立場で記述したもの、二者が記述したもの、単独のものもあり、その場に居あわせたり、関心ごとであったりと色々と考えられるが、事案の内容から「中古日本治乱記」の中山長俊を間においてお互いに関連していたことは間違いないのではないか。それは、山中長俊が豊臣秀吉の右筆という立場からも窺えるのではないか(根拠はありません)。

〇記載事案について:
「後太平記」「中古日本治乱記」「信長公記」の記載内容を見ると、織田信長の行動を記述した太田牛一の「信長公記」はハッキリしている。豊臣秀吉の命で記述した山中長俊の「中古日本治乱記」、多々良一龍(撰)の「後太平記」は、「太平記」の後を記述するという主旨から記述期間が200年以上の広範囲に亘るが興味深いのは、「後太平記」は「太平記」以降二百数十年間を網羅しているが毛利氏、尼子氏、大内氏足利氏関連を含め西国中心に記述されている。
「中古日本治乱記」に「後太平記」と同一事案が記載あることは、甲南女子大学教授の渡辺真一氏や西丸佳子氏も指摘していることはすでに述べた通り。

調査していて驚嘆したのは、織田信長の行動のみを記載した「信長公記」に、既に指摘したが太田牛一の今までにない記述方法で、「中古日本治乱記」と同一内容が記載された箇所がでてきたことである(前回第15回)。このことは「中古日本治乱記」の記述が事実を正確に捉えているからこそであり、牛一自ら「曾て私作私語に非ず、直に有ることを除かず、無き事を添へず。もし一点虚を書かんときんば、天道如何」『「信長公記」池田家文庫本巻十三奥書』に記すごとくからすると、内容は正確であり牛一自身も中山長俊に共感し、その箇所を引用したのではないか。

〇発行経過について:
「後太平記」「中古日本治乱記」「信長公記」の内、一番早く発行したのは、序文で慶長七年(1602年)とあり、且、上記記述の通り太田牛一が山中長俊の「中古日本治乱記」より引用した箇所があることからして、「中古日本治乱記」が先に完成して、次いで慶長十五年(1610年)2月頃の「信長公記」、そして草稿1617年(?)の「後太平記」か。どちらにしても江戸時代 初期前後に草稿出版されお互いに関連していると考えられる。


○結論:
「後太平記」の正確さ・信憑性について:
今迄みてきた記述の通り、記述期間が長い範囲での「正確さ」には不確実であるといわざるをえないであろう。しかし、撰者多々良一龍が生きた戦国時代から江戸時代初期と狭い範囲での記述内容は多少の間違い勘違いはあるとしても、「信長公記」「中古日本治乱記」と比較検討することにより、又、
仮作・仮託部分は歴史家諸先輩の著書を用いて篩に掛けスクリーニングしてことの本質を捉えることにより、戦国時代に関する事案の「正確さ」を「中古日本治乱記」ともどもより明確に出来たのではないか。
最後に亡き祖母の家譜に記載ある「雑賀三緘(サンカン)」についてである。

「雑賀三緘(サンカン)」について:
亡き祖母の「後太平記」に記載ある「雑賀三緘」についての私の見解は次の通り。
雑賀孫一・土橋平次・岡崎三郎大夫・栗村三郎大夫・嶋本左衛門大夫等は天正五年(1577年)の雑賀合戦「小雑賀口の戦い」で織田軍に連署して誓紙を提出している。
しかし「雑賀三緘(カン)」の名がないが、これは連署した雑賀衆は夫々の庄(惣)の長・有力者であるが故に著名しているのである。
「雑賀三緘」は彼らとともに戦い城に楯籠ったが、連署するまでの地位にはなっておらず、働き盛りの若武者ではなかったかということである。
和歌山市史」の中世史料などを確認したが「雑賀三緘」の名はない。それは何を意味するかといえば、記述した通り雑賀庄の長・有力者たる地位にいなかったからであると考えるのが正しいのではないか。

最後の最後で、太田牛一の「信長公記」、小瀬甫庵の「信長記」、林 道春編輯の『将軍記』の「織田信長記」と「後太平記」「中古日本治乱記」に記載の「雑賀三緘」が結びついたことには驚かされたが、ことの事実は事実であろう。(第十四回参照)
では、何故「後太平記」に記載があるかといえば、雑賀衆の長・有力者に近い地位にいた若武者として戦いにてそれなりの軍功を挙げていたのではないか。そのために人知れるところになり敵の秀吉側の山中長俊にも届き「中古日本治乱記」にも記載されたのではないか。一方、太田牛一には「雑賀三緘」など若武者には関心がなくこと細かく書く必要も無かったので、「信長公記」には単に「ミからミノ者」と記述したのではないか。「信長公記」に記載ある「ミからミノ者」が雑賀三緘(カン)である根拠は第十四回参照願います。

雑賀家譜の信憑性について:
家譜の記載内容については、藩に仕官するために偽称することが多々あり、よく確認する必要があると一般的には言われているようだが、藩に仕官するため、出世するが為、或は自分の家の正統性などを主張するために武功を偽ることはあるであろう。
しかし、亡き祖母の家譜は先祖の名前を偽称し藩に提出したであろうか、藩は精査し調べれば分かることであり、その根拠の証拠を提出させれば判明することである。(残念乍雑賀家の古文書類その他諸々は前述したとおり雑賀家困窮の折、父の兄が勤務していた先の社長様に拡散するのをおそれ、一括して購入していただいたとのことである)。

平成二十三年三月に和歌山県立文書館より発行された「紀州家中系譜並に親類書書上げ(上)」の解説に記載(330P)されているが、「一般的に系譜といえば、自身の家の事跡を書上げた文書であるため、その家の者が事跡については一番よく知っているはずのものである。・・・・差出人よりも藩の方が、より正確に、より詳しく記述しているのである。・・・省略・・・・・
これらのように、藩が精査した家の個々の事跡が反映されていない系譜を再度藩が受け取る、ということは正確な情報を藩士に承知させ、より正確な系譜を藩士に出させるということよりも、むしろ差出された系譜をより正確にして保存することに主眼がおかれていると考えることは出来ないだろうか。」とある。

故祖母の先祖の雑賀家の家譜を藩に提出した当時の雑賀佐之右衛門と同じ内容で、子小弥三、孫亀市が藩に新たに提出したということは、最初に提出した親佐之右衛門の「三緘(カン)」について間違いがなく正確であるが為に、再度小弥三・亀市が提出した家譜に記載されたのである。記載修正箇所は付箋・貼紙がつけられるとのことであるが、雑賀家譜には一切付箋・貼紙がないので信憑性はあると見てよいのではないか。

検証考察第十四回にて記述したが、「三緘」を「ミカラミ」と読むか「サンカン」と読むかによりその意味が大きく異なる。
当家の亡き祖母の雑賀家の家譜があるからこそ私は「信長公記」の「三カラミの者」を「雑賀三緘(カン)」と特定出来るのであり、それを裏付ける史料として小瀬甫庵の「信長記」及び将軍家光の命にて編輯した林 道春の『将軍記』(織田信長記)、「織田眞記」などがある。

元はと云えば太田牛一の「信長公記」をベースに小瀬甫庵の「信長記」、編輯者林 道春(羅山)の「将軍記」も同様、且、織田信長家譜等を参考に記述されている可能性は大であろう。雑賀三緘(カン)に対して牛一は「不特定多数」、甫庵は「調査確認」、『将軍記』の「織田信長記」の林 道春も承知していたがため「断定」した記述になっていると私は考える。
又、織田長清が刊行した「織田眞記」でも「雑賀三緘」となっている。これについては、金子 拓氏著「尾田信長という歴史」にて『「織田眞記」とは、信長をたんに「公」とし、主語にそえて「信長記」を漢文体に"直訳〟した書物』と述べられているが。

仮託・仮作といわれる「後太平記」に記載されている「雑賀三緘(カン)」を追跡調査してきたが、上記の通り色々な書物に記載されていることは、裏を返せば事実であるからこそ記載されているのである。

本当のことは人手に渡った(買い取って頂いた)亡き祖母の雑賀家の古文書関連が世に出てこないと正確なことは確認出来ないかも知れないが、検証の結果「雑賀三緘」が記載ある「後太平記」「中古日本治乱記」は、戦国時代と限定すれば信憑性はあり、且、「雑賀三緘(カン)」は存在していたと確信し断言出来るのではないか。


※お詫び:
2011年11月13日投稿にて東京学芸大学准教授湯浅佳子氏が「鎌倉北条九代記」が「中古日本治乱記」の内容とよくにていると指摘されている」との記述をいたしましたが、私の未熟さゆえ間違いであることが判明いたしましたので、深くお詫び申し上げます。

以上