今迄、亡き祖母の「家譜」に記載ある雑賀衆「雑賀三緘(サンカン)」についての調査・考察を報告して
きましたが、その家譜には別名も記載されている。一通り「雑賀三緘」については調べ終わったた
めに別名の「小蜜茶」について報告いたします。
歌舞伎の題材にもあるようで、雑賀三緘より和歌山県では「小蜜茶」は有名だそうですが、別人が
いるようで(こちらが別人か?)、そちらが地元の専門家では通っているようです。
今回始めて家譜を調査して知ったわけですが、私の調査出来る範囲で確認しましたので報告した
いと思います。
国会図書館、国立公文書館等に出向き「小蜜茶」関連の史料を調査しましたが入手は殆どありま
せんでした。
「紀州家中系譜並ニ親類書書上」に記載ある雑賀三緘(カン)の正式名は
・元祖 本国紀伊 小蜜茶雑賀三緘
にて、更に
「雑賀三緘、根来寺エ登山之節は杉之坊ニ相詰候付、世人根来之小蜜茶ト申候由」とあり。
以上のことから調査することにしましたが、的確な史料が見つかりません。
今回、第十二回で報告いたしました下記と第十四回に報告致しましたことを基に「小蜜茶」について
検証したことを報告いたします。
・摂州大坂一向門跡合戦野事(後太平記地部 巻第42)
・責大坂本願寺門跡事(中古日本治乱記 巻第56)
・原田備中、御(三)津寺へ取出討死の事(信長公記 巻九)
通説では、「小蜜茶」は「奥(野)こみっちゃ」「奥(野)右京」「根来十三」などと言われているようですが、
確たる史料はないようです。唯言われているのが、和歌山で浅野家につかえ、国替えで一緒にいった
さきで、岡山県史に記載ある「芸藩輯要」「浅野長明来晟公略伝」「元和五年侍帳」「芸藩志拾遺十二」
等に名前が記載あり「奥こみっちゃ」とあるのみで、関連がはっきりしません。
上記の史料は国会図書館より入手したが地元和歌山で「こみっちゃ」といえば、「奥こみっちゃ」と
いわれているようですが、小生といたしましては、納得の出来るものではありません。
上記以外に「小蜜茶」関連史料を国会図書館・国立公文書館に出向き入手した史料(資料)は下記です。
・石山軍記 ・絵本石山軍記 ・石山退去録 ・武徳編年集成 ・本願寺秘史 等々
この中で私が注目したのは、「石山退去禄」である。この「石山退去禄」の信憑性が重要であることは、
重々素人の私でも承知しているがその判断が出来ないため、その記載されていることから今迄調査
した事案を含め考察・検証した。
私の私見は亡き祖母の家譜に「小蜜茶」と記載されていることが大前提であり、「奥(野)こみっちゃ」
なる人物の史料が入手出来ない為に比較検証することが出来ないので、私の独断と偏見にみちて
いることは否めないが、あくまでも私なりに冷静に考察・検証したつもりです。
今回上記3件のほかに数少ない史料の中で検証・考察にしたものは、
・信長公記 :「雑賀御陣の事(巻10) →第十四回にて報告
・石山退去録 :「天正四年五月六日ノ合戦・・・」の行である。
私は、下記事案が同一(天王寺の戦)であり、且、夫々の視点をかえ記載されているために比較検討
するには好材料と考える。
・後太平記:「摂州大坂一向門跡野事(地部巻第42)
「天正四年の四月十四日に惟任日向守、長岡兵衛ノ大輔、筒井順慶、原田備中ノ守・・・・・下間刑部法印、
同少進法橋・・・・
同月(六月)六日に三萬余騎を引率・・・・・・
其頃雑賀孫市郎、同三緘入道、的場源七郎、渡部藤左衛門ノ尉、岡崎三郎大夫、根来法師
岩室清裕、各一手に成り、紀伊の勢一萬余騎、和泉の国に討ち出で、中野、貝塚、仙石堀に楯籠り
門跡一揆に一味して・・・・」と記載がある。
→「同三緘入道」が祖母の先祖である。孫市も「入道」がつく文献もあるようです。
・石山退去録:
「天正四年五月六日ノ合戦に、石山の要害は堅固にて、逆茂木五重にふり並べ、其の内に幅五間の空堀
を深く掘り、其後には水堀をこしらへ、城中の軍兵凡そ六萬余騎、扨浮武者といひて、一手が千騎
づつ七組ある事ヂャ、先ず一番に下間三位、二番には八木駿河守、三番には鈴木孫市、四番には同
一角、五番には田邊平次、六番には根来小蜜茶、七番には山田新助・・・・・」と記載がある。
→根来小蜜茶が家譜に記載ある「世人根来之小蜜茶ト申候由」である。
上記のことから奥(野)こみっちゃ、雑賀三緘(カン)の小蜜茶を検証する。
○奥(野)こみっちゃ(惣福院)の場合
根来小蜜茶は「石山退去録」には、六番目と記載されていることからして、小蜜茶は根来衆として僧坊の
かなり上位に位置する位にいることが察せられる。
それならば、「後太平記」「中古日本治乱記」等に本来の名前である「奥」が記載されてしかるべきと私は
考える。何故ならば、根来の「岩室坊清祐」が記載されているからには「奥(野)」も同じ地位にいたか
それ以上の地位にいたはずで、記載されて当然と考えるが、記載がなく「奥(野)」ではないと考える。
奥(野)こみっちゃが「後太平記」「中古日本治乱記」に記載がないということは、雑賀三緘=小蜜茶である
からして奥(野)右京(十三)は違う人物で記載する必要がないと考えることが出来る。
武田鏡村著「織田信長 石山本願寺合戦全史」によると、
「石山本願寺の籠城体制は「歴代御前次第」(西本願寺蔵:上原芳太郎編「本願寺秘史」所収によると、下記
のようで
「顕如上人大坂籠城の節」
・川口分 常楽寺(証賢)
・附城 下間少進(仲之) 下間庄進法橋
・同 大将 下間刑部卿(頼廉) 下間刑部法印
・・・・・・・・・以下省略・・・・・・・・
そして「石山合戦配置図」によると、御坊と寺内町には「石山御堂当時門徒四万人余籠城」、渡辺津には
「定專坊三千人と八木駿河守らが船付場を守るように布陣しているとのことである。
更に、生玉村には鈴木孫一、野村一角らが布陣し、梅川が海に流れ出る高津には、紀州の雑賀本陣が
置かれた」とのことである。
籠城者の数の違いはあるが、「後太平記」「石山退去録」の記載に大きく異なる点は見られない。この時、
雑賀衆のみならず根来衆も渡辺藤左衛門、岩室坊清祐等も参加しているが、奥(野)こみっちゃは那珂郡
荒川庄出身にて根来の惣福院の住侍になっていたとのことであるが、「石山退去録」にあるように雑賀衆
・根来衆の首領と同じ千騎を預かり指揮する地位にいたのであろうか。
○雑賀三緘(杉之坊)=こみっちゃの場合
根来小蜜茶は「石山退去録」には、六番目と記載されていることからして、小蜜茶は郷(搦・組)の首領
ではないがそれ相当の陣を任されていることから、「後太平記」「中古日本治乱記」に郷の首領ともども
「雑賀三緘入道」として名前が記載されているのではないか。其れを裏付けるものとして「石山退去録」
がある。
私見として第十四回にて報告した「信長公記:雑賀御陣の事」より「ミカラミの者」を雑賀三緘(カン)」と
断定したが、断定した理由はほかからでも判断出来る。
「ミカラミの者、杉之坊」が織田方に味方する請願の旨に来たとあるが、「ミカラミの者」と何故織田方
武将は判断出来たのであろうか。国人・地侍・農民なのか、それとも三搦(組)の内でそれなりに地位の
ある者なのか、いくら「三搦の者」とはいえども雑賀衆で顔が知れ、三搦の代表としてそれなりの地位の
者が杉之坊(津田太郎左衛門尉)と請願に来なければ織田方の武将は承知しなかったはずである。
味方をするといっても織田信長を誘いだし騙し討ちする作戦だってとれるのである。余程の地位ある
者が杉之坊と同行しなければ織田方武将の承知はえられなかったのではないか。又、杉之坊もそれなり
の人物でなければならない。
小瀬甫庵も私と同様なことを考えたからこそ、「ミカラミの者」とは誰か探求したのではないか
(杉之坊は津田太郎左衛門尉と判明している:信長公記)。
そう考えた時、前年(天正四年)の戦いで郷(搦・組)の首領に混じり雑賀三緘(カン)が六番にいたと
いうことは、小蜜茶=雑賀三緘は首領に近い地位におり織田方の武将にも知れ渡り、請願を織田方に
納得させるだけの力を持っていたことになる。
「 石山退去録」の信憑性が問われることになるが、その真偽は私には分からない。
小蜜茶=雑賀三緘(カン)と関連づけるられると思われる事案(史料・資料)は今のところ記述した
ものしか見つからず、判断材料が乏しい。
逆に奥(野)右京(十三)が「こみっちゃ」であると断定するにも史料(資料)が乏しく、国会図書館・国立
公文書館から残念乍私は入手出来なかったし、突然奥小蜜茶が登場すること事態変であり、登場する
前に何かしらがあってしかるべきである。
奥右京がそれなりの人物であれば何処かにその痕跡は遺しているはずであるが、雑賀三緘以上に見当
あたらない。
以上のことから、「石山退去録」の六番「小蜜茶」は「奥」と私としては特定するに至らず、今迄述べて
きた通りの総合的判断から「後太平記」「中古日本治乱記」に記載ある「雑賀三緘入道」であると特定したが、
二人の「小蜜茶」がいたのか。
亡き祖母の家譜にある「雑賀 三緘(カン)=小蜜茶(雑賀小蜜茶三緘)は、その家譜の信憑性が問題であるが、
和歌山県立文書館収蔵目録十一「紀州家中系譜並ニ親類書書上」(上)によれば、P329~P330に記載ある
『「系譜」の利用で差出された系譜をより正確に保存することに主眼が置かれることは出来ないだろうか
』といわれるが「より正確に」の観点からすると三代に亘雑賀家「家譜」が無修正であることは、その
信憑性があると見てはよいのではないか。
地元和歌山(紀州藩)で「こみっちゃ」が有名であるとすると、いい加減なことは「家譜」には記載出来る
はずもないし、同姓同名であるはずもない。藩に提出した家譜に偽称記載ある場合には証拠関係を求められ
たらその根拠たる証拠説明しなければならない。付箋・修正箇所は家譜には見当たらない。
又、詳細には家譜に記載ないが「武徳編年集成拾遺」の天正十二年巻二十七・二十八等にに記載ある中村
一氏との「岸和田の合戦」、荒木村重、荒木志摩守に加勢した「花隈城の戦い」等の記載内容を史実と照らし
あわせ判断した。
限られた史料・資料(出版されている書籍類)からの検証・考察で独断と偏見に満ちた結論であること
は言うまでもなく、専門家からみた場合支離滅裂と感じられるかもしれないが、素人が入手出来る範囲
での考察・検証であることをご理解願いたい。
私が調査した以外に史料などがあれば、御教願いたい。
きましたが、その家譜には別名も記載されている。一通り「雑賀三緘」については調べ終わったた
めに別名の「小蜜茶」について報告いたします。
歌舞伎の題材にもあるようで、雑賀三緘より和歌山県では「小蜜茶」は有名だそうですが、別人が
いるようで(こちらが別人か?)、そちらが地元の専門家では通っているようです。
今回始めて家譜を調査して知ったわけですが、私の調査出来る範囲で確認しましたので報告した
いと思います。
国会図書館、国立公文書館等に出向き「小蜜茶」関連の史料を調査しましたが入手は殆どありま
せんでした。
「紀州家中系譜並ニ親類書書上」に記載ある雑賀三緘(カン)の正式名は
・元祖 本国紀伊 小蜜茶雑賀三緘
にて、更に
「雑賀三緘、根来寺エ登山之節は杉之坊ニ相詰候付、世人根来之小蜜茶ト申候由」とあり。
以上のことから調査することにしましたが、的確な史料が見つかりません。
今回、第十二回で報告いたしました下記と第十四回に報告致しましたことを基に「小蜜茶」について
検証したことを報告いたします。
・摂州大坂一向門跡合戦野事(後太平記地部 巻第42)
・責大坂本願寺門跡事(中古日本治乱記 巻第56)
・原田備中、御(三)津寺へ取出討死の事(信長公記 巻九)
通説では、「小蜜茶」は「奥(野)こみっちゃ」「奥(野)右京」「根来十三」などと言われているようですが、
確たる史料はないようです。唯言われているのが、和歌山で浅野家につかえ、国替えで一緒にいった
さきで、岡山県史に記載ある「芸藩輯要」「浅野長明来晟公略伝」「元和五年侍帳」「芸藩志拾遺十二」
等に名前が記載あり「奥こみっちゃ」とあるのみで、関連がはっきりしません。
上記の史料は国会図書館より入手したが地元和歌山で「こみっちゃ」といえば、「奥こみっちゃ」と
いわれているようですが、小生といたしましては、納得の出来るものではありません。
上記以外に「小蜜茶」関連史料を国会図書館・国立公文書館に出向き入手した史料(資料)は下記です。
・石山軍記 ・絵本石山軍記 ・石山退去録 ・武徳編年集成 ・本願寺秘史 等々
この中で私が注目したのは、「石山退去禄」である。この「石山退去禄」の信憑性が重要であることは、
重々素人の私でも承知しているがその判断が出来ないため、その記載されていることから今迄調査
した事案を含め考察・検証した。
私の私見は亡き祖母の家譜に「小蜜茶」と記載されていることが大前提であり、「奥(野)こみっちゃ」
なる人物の史料が入手出来ない為に比較検証することが出来ないので、私の独断と偏見にみちて
いることは否めないが、あくまでも私なりに冷静に考察・検証したつもりです。
今回上記3件のほかに数少ない史料の中で検証・考察にしたものは、
・信長公記 :「雑賀御陣の事(巻10) →第十四回にて報告
・石山退去録 :「天正四年五月六日ノ合戦・・・」の行である。
私は、下記事案が同一(天王寺の戦)であり、且、夫々の視点をかえ記載されているために比較検討
するには好材料と考える。
・後太平記:「摂州大坂一向門跡野事(地部巻第42)
「天正四年の四月十四日に惟任日向守、長岡兵衛ノ大輔、筒井順慶、原田備中ノ守・・・・・下間刑部法印、
同少進法橋・・・・
同月(六月)六日に三萬余騎を引率・・・・・・
其頃雑賀孫市郎、同三緘入道、的場源七郎、渡部藤左衛門ノ尉、岡崎三郎大夫、根来法師
岩室清裕、各一手に成り、紀伊の勢一萬余騎、和泉の国に討ち出で、中野、貝塚、仙石堀に楯籠り
門跡一揆に一味して・・・・」と記載がある。
→「同三緘入道」が祖母の先祖である。孫市も「入道」がつく文献もあるようです。
・石山退去録:
「天正四年五月六日ノ合戦に、石山の要害は堅固にて、逆茂木五重にふり並べ、其の内に幅五間の空堀
を深く掘り、其後には水堀をこしらへ、城中の軍兵凡そ六萬余騎、扨浮武者といひて、一手が千騎
づつ七組ある事ヂャ、先ず一番に下間三位、二番には八木駿河守、三番には鈴木孫市、四番には同
一角、五番には田邊平次、六番には根来小蜜茶、七番には山田新助・・・・・」と記載がある。
→根来小蜜茶が家譜に記載ある「世人根来之小蜜茶ト申候由」である。
上記のことから奥(野)こみっちゃ、雑賀三緘(カン)の小蜜茶を検証する。
○奥(野)こみっちゃ(惣福院)の場合
根来小蜜茶は「石山退去録」には、六番目と記載されていることからして、小蜜茶は根来衆として僧坊の
かなり上位に位置する位にいることが察せられる。
それならば、「後太平記」「中古日本治乱記」等に本来の名前である「奥」が記載されてしかるべきと私は
考える。何故ならば、根来の「岩室坊清祐」が記載されているからには「奥(野)」も同じ地位にいたか
それ以上の地位にいたはずで、記載されて当然と考えるが、記載がなく「奥(野)」ではないと考える。
奥(野)こみっちゃが「後太平記」「中古日本治乱記」に記載がないということは、雑賀三緘=小蜜茶である
からして奥(野)右京(十三)は違う人物で記載する必要がないと考えることが出来る。
武田鏡村著「織田信長 石山本願寺合戦全史」によると、
「石山本願寺の籠城体制は「歴代御前次第」(西本願寺蔵:上原芳太郎編「本願寺秘史」所収によると、下記
のようで
「顕如上人大坂籠城の節」
・川口分 常楽寺(証賢)
・附城 下間少進(仲之) 下間庄進法橋
・同 大将 下間刑部卿(頼廉) 下間刑部法印
・・・・・・・・・以下省略・・・・・・・・
そして「石山合戦配置図」によると、御坊と寺内町には「石山御堂当時門徒四万人余籠城」、渡辺津には
「定專坊三千人と八木駿河守らが船付場を守るように布陣しているとのことである。
更に、生玉村には鈴木孫一、野村一角らが布陣し、梅川が海に流れ出る高津には、紀州の雑賀本陣が
置かれた」とのことである。
籠城者の数の違いはあるが、「後太平記」「石山退去録」の記載に大きく異なる点は見られない。この時、
雑賀衆のみならず根来衆も渡辺藤左衛門、岩室坊清祐等も参加しているが、奥(野)こみっちゃは那珂郡
荒川庄出身にて根来の惣福院の住侍になっていたとのことであるが、「石山退去録」にあるように雑賀衆
・根来衆の首領と同じ千騎を預かり指揮する地位にいたのであろうか。
○雑賀三緘(杉之坊)=こみっちゃの場合
根来小蜜茶は「石山退去録」には、六番目と記載されていることからして、小蜜茶は郷(搦・組)の首領
ではないがそれ相当の陣を任されていることから、「後太平記」「中古日本治乱記」に郷の首領ともども
「雑賀三緘入道」として名前が記載されているのではないか。其れを裏付けるものとして「石山退去録」
がある。
私見として第十四回にて報告した「信長公記:雑賀御陣の事」より「ミカラミの者」を雑賀三緘(カン)」と
断定したが、断定した理由はほかからでも判断出来る。
「ミカラミの者、杉之坊」が織田方に味方する請願の旨に来たとあるが、「ミカラミの者」と何故織田方
武将は判断出来たのであろうか。国人・地侍・農民なのか、それとも三搦(組)の内でそれなりに地位の
ある者なのか、いくら「三搦の者」とはいえども雑賀衆で顔が知れ、三搦の代表としてそれなりの地位の
者が杉之坊(津田太郎左衛門尉)と請願に来なければ織田方の武将は承知しなかったはずである。
味方をするといっても織田信長を誘いだし騙し討ちする作戦だってとれるのである。余程の地位ある
者が杉之坊と同行しなければ織田方武将の承知はえられなかったのではないか。又、杉之坊もそれなり
の人物でなければならない。
小瀬甫庵も私と同様なことを考えたからこそ、「ミカラミの者」とは誰か探求したのではないか
(杉之坊は津田太郎左衛門尉と判明している:信長公記)。
そう考えた時、前年(天正四年)の戦いで郷(搦・組)の首領に混じり雑賀三緘(カン)が六番にいたと
いうことは、小蜜茶=雑賀三緘は首領に近い地位におり織田方の武将にも知れ渡り、請願を織田方に
納得させるだけの力を持っていたことになる。
「 石山退去録」の信憑性が問われることになるが、その真偽は私には分からない。
小蜜茶=雑賀三緘(カン)と関連づけるられると思われる事案(史料・資料)は今のところ記述した
ものしか見つからず、判断材料が乏しい。
逆に奥(野)右京(十三)が「こみっちゃ」であると断定するにも史料(資料)が乏しく、国会図書館・国立
公文書館から残念乍私は入手出来なかったし、突然奥小蜜茶が登場すること事態変であり、登場する
前に何かしらがあってしかるべきである。
奥右京がそれなりの人物であれば何処かにその痕跡は遺しているはずであるが、雑賀三緘以上に見当
あたらない。
以上のことから、「石山退去録」の六番「小蜜茶」は「奥」と私としては特定するに至らず、今迄述べて
きた通りの総合的判断から「後太平記」「中古日本治乱記」に記載ある「雑賀三緘入道」であると特定したが、
二人の「小蜜茶」がいたのか。
亡き祖母の家譜にある「雑賀 三緘(カン)=小蜜茶(雑賀小蜜茶三緘)は、その家譜の信憑性が問題であるが、
和歌山県立文書館収蔵目録十一「紀州家中系譜並ニ親類書書上」(上)によれば、P329~P330に記載ある
『「系譜」の利用で差出された系譜をより正確に保存することに主眼が置かれることは出来ないだろうか
』といわれるが「より正確に」の観点からすると三代に亘雑賀家「家譜」が無修正であることは、その
信憑性があると見てはよいのではないか。
地元和歌山(紀州藩)で「こみっちゃ」が有名であるとすると、いい加減なことは「家譜」には記載出来る
はずもないし、同姓同名であるはずもない。藩に提出した家譜に偽称記載ある場合には証拠関係を求められ
たらその根拠たる証拠説明しなければならない。付箋・修正箇所は家譜には見当たらない。
又、詳細には家譜に記載ないが「武徳編年集成拾遺」の天正十二年巻二十七・二十八等にに記載ある中村
一氏との「岸和田の合戦」、荒木村重、荒木志摩守に加勢した「花隈城の戦い」等の記載内容を史実と照らし
あわせ判断した。
限られた史料・資料(出版されている書籍類)からの検証・考察で独断と偏見に満ちた結論であること
は言うまでもなく、専門家からみた場合支離滅裂と感じられるかもしれないが、素人が入手出来る範囲
での考察・検証であることをご理解願いたい。
私が調査した以外に史料などがあれば、御教願いたい。
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