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tomoniikiruz

言葉は人を生かすことも殺すことも出来る。傷付け合うのではなく、支え合ってお互いを生かしあうページにしたい。

劉さんの逆転敗訴に思う。

2005年06月24日 | 平和・福祉・介護を考える
強制連行で中国から連れてこられ、(これは、拉致ということです)北海道で強制労働させられ、途中で脱走し、13年間終戦を知らずに逃亡生活をして、国に2千万円の損害賠償を求めた裁判です。一審の東京地裁では、劉さんの請求を全額認める判決が出たのですが、23日、東京高裁では、逆転判決となり、劉さん側の請求が棄却された。

何故、今回の高裁で、劉さんの家族の訴えが棄却されたのかについては、劉さんの連行にまつわる経緯の不当性を認めながらも、「国家無答責」の法理を適応した。
これは、47年の国家賠償法施行前の国の権力行使についてその責任を追わない、という考え方を示した。これにより、戦前の国家の罪を問えないとしたのだが、この論法は可笑しい。もし、それが妥当性を持つのなら、例えば、一切の遺族補償すべてを打ち切るべきである。一方では、戦前の国家に対する遺族の功績に慰労金を出し、一方では、戦前の国家の罪状を認めないという論法は片手落ちではないのか?ましては、現在北朝鮮の拉致問題が大きく取り上げられているが、日本は多くの中国人を強制連行という形で、拉致して国内の作業所に連行したことを如何裁くのか?この責任を、誰が取るのか?または、取らないのか?
「国家無答責」という考え方には、到底同意するわけにはいかない。
国家賠償法の6条を引用して、「外国人が被害者の場合は、国同士の相互の保障があるときに限り適用する」として、同法施行から、劉さん発見まで、中国には賠償法がなく、日中両国民が、互いに他方の国に国家賠償を求められる”相互保障”が成立していなかった、と述べて、請求を却下している。また、不法行為から20年で賠償請求権が消滅する「除斥期間」の適用を認めた。
一審では、この「除斥期間」の適用が不当であることを上げていたが、今回の判決では、正義公正に反する、とはいえない、としている。明らかに、この判決は、一審より後退している。
今回の判決は、極めて日本の責任を曖昧にする判決と言えると思う。

一方では、北朝鮮への、拉致非難を浴びせながら、一方の60年前の自国の罪については、まだ白を切る遣り方である。これでは、中国を始め、東南アジアの人たちの怒りを招くのは避けられない、と思う。何故、謙虚に自国の罪を認め、謝罪することが出来ないのか、怒りさえ覚える。

このような判決が続けば、当然、中国や韓国からの反発は避けることが出来ないと思われる。

劉さんは、終戦直前の45年7月30日に脱走した。そのまま終戦を知ることなく、洞窟にて生活し、58年2月に保護された。・・・提訴したのは、96年だが、一審判決前の2000年に87歳で亡くなった。

今回の劉連仁さんのように、中国や、朝鮮より強制労働にて日本に連れてこられた人は、何万人といる。・・・いわば、かっての日本の国家は、拉致にて国家的に人々を連れてきて働かせていた罪があるのです。この事実を伏せて、現在の拉致で、北朝鮮を盛んに攻撃している遣り方には、どこか不自然な気がします。もちろん、何時の時代であっても、強制連行自体が不当な暴力であることはいうまでも無いことです。どの時代であっても、こうした犯罪を防止し、裁いてゆく必要があると思います。

劉さんの遺族は、今回の判決を不当として、上告するとの事です。
歴史の清算を逆回転させず、誤りの無い、判決を次回は行って欲しい、と強く要望したいと思います

命を守る事の大切さを教えてくれている仏女性記者解放。

2005年06月14日 | 平和・福祉・介護を考える
11日、1月からイラクで拉致さていた女性記者と助手の二人が解放された。・・・157日に渡る拉致から、無事に生きながらえた事は、奇跡とも呼べるかもしれない。若し、相手が、アルカイダや、過激なグループの手によるものならば、恐らくこのように解放されることはなかったかも知れないが、幸いにも、彼女達は話の通じるグループであった。

仏紙リベラシオンの記者フロランス・オブナさんと、助手のイラク人フセイン・ハヌンさんは、長時間の拉致にも拘らず、無事解放された。手足を縛られ、目隠しされた状態での157日は、筆舌に尽くされない体験であったと思う。でも、その間に、諦めずに粘り強く交渉を継続したフランス政府の外交的交渉も忘れてはならない。表面には出てきていないが、こうした交渉を通じて、人質の開放が成功したといえる。

フランスでは、以前も、拉致された記者が救出されている。
この影には、大金が積まれた、とか色々云われているが、恐らく、お金目当てではなさそうである。
フランス人の場合、他の国の拉致事件と比べて、救出される事が多い。この事も特徴である。アメリカや日本が積極的にイラクに参戦している事と比べ、フランスが、中立的な立場をとっていることも原因としてあげる事が出来るが、こうした成果が、もっと広がってゆく事を期待したい。

イラクでは、まだまだ毎日テロが続発しており、国土は米軍と其の協力諸国の軍隊が長期化した市街戦・テロ・爆弾自爆の攻撃に、日々汲々としている。
力の政策では、何時まで経っても解決する事が出来ない事を教えている。

イラクでは、毎日のように、自爆攻撃が起きており、血なまぐさい事件と争いが何時まで経っても収まらないのは何故か?
この疑問に、米軍を初めとする占領軍は、答える事が出来ない。

恐らく、何時まで経っても、力の政策では、反発をもっと強く招くだけであると思う。
武力による制圧は、武力による反発を招くだけである事を肝に銘じるべきであろう。

此れからのイラクで、必要とされるのは、平和のための国土の建て直しである。

無意味な殺戮を止めて、荒れ果てた国を、以前の平和な国に建て替える事こそが、急がれなければならないと思う。シーア派も、反シーア派も今こそ武器を捨てて手を携えて、平和な国建設を始めるべきであると訴えたい。未来の子供達のために、争い事ではなく協力を、憎しみではなく友愛を掲げるべきであると思います。

経済制裁は、対立を進化させるだけです。

2005年06月10日 | 平和・福祉・介護を考える
横田めぐみさんの父滋さん(72)と、母早紀江さん(69)夫妻が、参院拉致問題特別委員会に参考人として出席したニュースが報道されている。席上、北朝鮮への経済制裁について証言して、北朝鮮にとって、経済制裁を受けることの打撃と、拉致被害者を開放することのメリットについて述べられたという。

横田さん夫婦にとっては、娘を突然拉致して奪い去り、、未だもって解放しようとしない北朝鮮に対しては、強い態度で交渉することがどうしても必要と言われている。本気で怒れば、向こうが折れるはず、という論理には、被害者としての気持ちは理解できても、賛成することが出来ません。

言われているように、今、北朝鮮をすべての話し合いから孤立へと追いやることになり、単なる経済制裁以上の事態を招く危険性があります。文字どうりの国家間対立へと進んでしまう可能性があり、そうなれば、今度は、戦争体制へと突き進んでしまう可能性すら考えられます。とことん、対立を深刻化させることにより、もう引き戻れない対立へと進んでしまうことは、何としても避けなければなりません。

元に返って、拉致被害者の開放を訴えることは正当であり、そのための話し合いを継続し、この間の北朝鮮当局の誤魔化しについてははっきり叱り付ける必要もあると思うのですが、経済制裁にまでいってはいけません。


韓国や、米国の当局も、日本の経済制裁については、慎重に対処して欲しいと、再三述べていることから判るように、経済制裁という、最後の切り札を切らないことを忠告している。
日本が、そうすることにより、韓国、米国も厳しい外交関係を招いてしまうことになることを心配しているわけである。

確かに、北朝鮮は、自らの国家的な犯罪として行った、拉致事件を有耶無耶にしようとしていると思うし、それは、話し合いにより、相手の非と認めさせることが必要であると思います。

大切なことは、金正日の独裁政権を国際的な外交包囲網の中で武装解除してゆくことです。

中国も巻き込んだ形での、平和政策を進めることにより、核武装かも含めた北朝鮮の軍事的脅威を少しずつ取り除くことが先決です。
経済と、文化面での交流をもっと深めることにより、必ずや、北朝鮮の専制君主たちを揺さぶる動きが出来てくるはずだと思います。

拉致被害者の救出を前に進めるために、政府・外交機関は、政治的働きかけをもっと強めていただきたいと思います。諦めず、強かに、被害者が救出されるまで、その努力を継続して頂きたいと願います。

犯罪被害者は、犯人の死刑を望んでいるか?

2005年06月04日 | 平和・福祉・介護を考える
原田正治さんが、自らの体験を語りつつ、犯罪被害者としての意見を述べられている。4日付けのA新聞では、犯罪被害者をして一様に犯人の死刑を願っているとする考え方に異論を述べられています。

今から20年以上前に、彼の弟さんは、保険金目的で殺害された。其の犯人たる”長谷川敏彦君”が、死刑を施行されてから、3年が経過している。
何時も犯人の事を原田さんは、”君”呼びしている。人からよく尋ねられるという。「なぜ、自分の肉親を殺した相手を君呼びするのか?」と。
そこには、原田さんの弟を失った苦しみの経験からたどり着いた考え方が在った。事件当初は、普通の被害者と同様に犯人に対する高まる憎しみから、刑の極刑を願っていた。しかし10年ほど経過する中で、死刑制度に対して、自分が殆ど無知な事を知る。犯人に対しても、直接在って問い正したい気持ちが高まった。そして、始めて長谷川氏と面会し、「申し訳ありませんでした」とお詫びの言葉を受ける。
彼は、こう語っている。「謝罪し、償おうとしている本人を眼のあたりにして始めて私は安堵し、癒されるような感覚を覚えた。」と。「許したのではない。だが、面会する事で、自分の心が解放される端緒を漸く掴んだような気がした」とも語っている。


人が殺人の罪を犯し、其の罪の償いをしようとするとき、果たしていかなる償いが可能なのか?
この問いを原田さんは自らに何度も問いかけ、漸く、一つの答えとして、「如何したら良いのか、誰にも判らないが、其の人なりに、償おうとする思いを実践していく姿を見て、被害者の自分達は、癒されてゆくのではないか?」と考えるようになる。
人は、生きてこそ、償いを続ける事が出来る。その意味では、死刑というものは、あまりにも短絡過ぎる、と原田さんは結論付ける。「少なくとも、私は、死刑が執行されたことで、心が楽になるどころか、再生への足がかりを失う事になった」と述べられている。

今後の犯罪被害者に対する救済措置として、「犯罪被害者等基本法」では、未だきちんと位置づけられていない権利として、刑の確定した犯人への面会する権利を持たせるべきであると原田さんは要望されている。
これは、現行法律では、刑の確定後に、犯人との面会が不可能なままになっている事から云われている。結果的には、被害者の意見が、犯罪者に対する刑の重量化が取り沙汰され、こうした決めつけから、被害者の家族は苦しんでいることも述べられている。

必要な措置は、犯罪者が、心から、自ら犯した犯罪を詫びて、死ぬまで其の償いの行為を継続して自らの罪の責任を取ってゆく事にある。
繰り返す事になるが、何が、償いであるのかは、誰にも分からないし、亡くなってしまった被害者が生き返る事もない。しかし、犯行により亡くなった人に対する償いの気持ちというものは、人間である限りもち続ける事が出来る筈である。何がしかの形で、(例えば、償いの文章を書くとか、絵を書くとか色々あるだろう。)罪の償いを一生かけて行うことにより、被害者と其の家族に対するお詫びの気持ちは伝わる筈だと思う。・・・いつか、(雪が解けてゆくように)、憎しみの思いが解けてゆくなら、それは立場の違いを超えた人として、お互いが理解しあってゆく手立てとなってゆくはずである。

最後に、原田さんは云われている。「死刑により、問題が解決するものはない。犯罪被害者として、私は、死刑の代わりに終身刑を導入して欲しい。そして、遺族に面会の道を開くような制度改革をして欲しい」

日本では、年に何件かの死刑執行が行われている。
既に、死刑が確定して、刑が執行されていない受刑者が相当数存在していることも事実です。
死刑の執行により、何が達成され何が失われるのかを、私達ももう一度考えてゆく必要が在ると思います。刑罰を重量化すれば、犯罪が減ると云う幻想をもつべきではないと思います。

世界禁煙デーを契機にあなたの周りの空気を綺麗に!

2005年05月31日 | 平和・福祉・介護を考える
I love clean air.このメッセージが書かれているバッチが普及し、禁煙の輪を広げている。この運動は、1999年カナダの中学校で始まり、同国で盛んになり、世界に広がった。2003年にフィンランドのヘルシンキの世界禁煙会議で紹介されて、昨年から日本でもブルーリボン運動推進協議会が作られた。

このカードに対する問い合わせは、タバコ問題首都圏協議会 事務局へ。03-3222-6781

5月31日は、世界禁煙デーという事で、日本でも様々な取り組みがされている。
今年2月に、発行した「タバコ規制枠組み条約」では、タバコの有害性を明記し、広告の禁止規定などを盛り込んでいる。
叉、受動喫煙の被害者を支援する診断基準を作り、基準に沿って示された診断書を職場などに提出して禁煙化や分煙化を進めようとしている。
タバコ規制に取り組む医師らで作る「日本禁煙推進医師歯科医師連盟」は、非喫煙者の健康被害が受動喫煙の影響かどうかを判断する診断基準を作成した。

レベル0(正常)からレベル5(重症受動喫煙症)までの分類を標準化して、症状を理解しやすくし、タバコの害を防ぐ運動の診断基準としている。今まで、特に受動喫煙の害が過小評価され、泣き寝入りしていた日本で、禁煙の主張を堂々と述べる事が出来るようにする事が求められている。
大企業では、可也の確率で、禁煙化が進み、タバコを吸えないビルディングも増えているが、一方では、まだまだ喫煙者のマナーは悪い。
特に、若年層の喫煙の割合が増えており、社会的な運動として取り組みが期待される。

健康の維持を考えるとき、若年層の喫煙が及ぼす害悪は歴然としており、肺がんだけではなく様々な合併症を引き起こす要因として蓄積する事を知ってもらう事が大切だと思う。

まだまだ、喫煙を自分と周りの人への空気汚染として認識する考え方が浸透して居らず、タバコを人前で吸うことのルール作りが未熟であるといえよう。この意味では、日本は、まだまだタバコに対しては甘い、国家なのだ。

タバコは、本来は、吸うべきではない。しかし、最低限、人への気遣いが必要である。自分の周りにいる人の健康に害悪を及ぼさない、弁えが出来ない人は、タバコを吸う資格がない。・・・特に、子供達への悪影響を、今後は、罰則規定も含めて規制してゆく事が必要だと思います。

日本の道路の道端に、一番多くゴミとして捨てられているのは、タバコだと思います。此れを無くすためには、タバコを道路に落としたら、罰金とする法律が一番有効です。
叉、山火事などの原因として、一番危険なのは、タバコの投げ捨てです。・・・此れについても、実際に火事になるナラナイを別にして、厳罰に処する法律を作るべきだと思います。

何時の日か、タバコを吸わないのが当たり前となる社会が、この日本で作られて行く事を目指すべきだと思います。

プロ野球に観る、暴力とスポーツの境目。

2005年05月15日 | 平和・福祉・介護を考える
先日、開幕依頼の低迷を続ける巨人軍と、西武ソフトバンクの試合で、10回裏に両軍入り乱れての"掴み合い"になる寸前の場面が観られた。事の起こりは、10回表に巨人小久保の満塁ホームランで、決まりと思われた試合が、其の裏、巨人の抑え、"久保"が叉だらしない投球内容でランナーを貯めだす・・・真ん中に投げて勝負すれば良いのに、わざわざ内角ぎりぎりの球や、足に当たる投球を繰り返し、西部打者の感情を逆立て、険悪な雰囲気に・・・そこで外人選手を中心としてgrandになだれ込む、激しい良い争いも始まりこれは乱闘が始まるかも・・・と懸念されたが、何とか両軍の主だった選手が興奮する選手を抑えてそれぞれのベンチに収まる。清原番町も、厳しい顔をして渦の中に出向いていたが、手を出すところまでにはいかなかった。

まあ、暴力沙汰にはならなかったので良かったが、若し、あの場面で、誰か1人、手を出すものがいたら、きっと、連鎖反応的に、大乱闘に発展した可能性がある。プロ野球では、年に何回かは、こう云う場面に出くわすことがあり、何時も不愉快な気持ちになる。こういう場面を喜ぶ者もいて、騒ぎ出す観衆もいるが、揉め事を喜ぶ事はもっての他、騒ぎを喜ぶものは、まるで野次馬気分である。

テレビに中継されているスポーツ番組である事を忘れている。
子供達が沢山この場面を見ている事を考えれば、スポーツ選手として如何するべきかをもう一度考えて欲しいんです。
若し、乱闘場面を子供達が観ていれば、子供達は、この様に問題解決をする事を学んでしまうんです。腹が立ったら、相手を殴り、蹴飛ばして良いんだという考え方が入ってしまうんです。このテレビを通しての教育的配慮が、あるからこそ、プロ野球選手の行動が問われるんです。

私は、プロ野球の1ファンとして、こうした乱闘に対する強い制裁措置を提案するものです。
例えば、相手を暴行した選手に対しては、罰金や出場停止のみならず、選手登録の剥奪も含めた厳罰を含めた罰則を付与すべきだと思います

球団に対しても、単なる注意勧告ではなく、もっと大きな罰金や、監督等への出場停止措置、等、安易な暴力行為が二度と出来ないような措置を取ってこそ、プロ野球での"乱闘"騒動の排除が浸透すると思うのです。
云って見れば、プロの選手の乱闘は、"ヤクザや暴力団の"争いと似たようなものなのです。場合によっては、バットなどを使って殴りかかったり、立派な暴行行為となる傷害事件なのです。このような行為を正当化する雰囲気を無くす必要があると思います。
先日も、中日のウッズが、ヤクルトの藤井投手を殴りつけて、出場停止処分を受けています。(私は、中日ファンなので、心情的には気持ちが判らないわけではないのですが)、こと暴力を働いた事に対しては、弁明の余地は無いと思います。厳罰を受けて当然と思います。今後、復帰に対しては、二度とこのような暴力行為をしないと云う、誓約づきで現場に戻すべきだと考えます。

プロ野球には、暴力の争い入りません。
技による、争いをすべきです。
プロたるもの、幾ら死球を受けても、
心では怒鳴りたくなる気持ちになりつつ、
黙々とファーストベースへ走ってゆくべきだと思います。
松井や、イチローを見て頂きたい、
一流の選手たるもの、簡単には激怒しないですよね!?

湯之上さん(JR事故車両に乗っていて負傷する)の言葉に耳を傾けよう

2005年05月14日 | 平和・福祉・介護を考える
湯之上さんは、事故後20日を経過して、病院を退院し、職場復帰へ向けて心のリハビリ中との事。幸い、怪我は大きな後遺症も無く、早期に治療を終える事が出来た。それは本当に幸運であった。しかし、彼の車両の周りの多数は、亡くなっている。2両目に乗っていた彼の周辺にいた殆どの方は、猛烈なクラッシュにより押しつぶされ即死している。・・・彼は、不幸中の幸いか、生き残った。それは、神の悪戯なのか?・・・一体自分にとってのこの事故体験は何なのか?今湯之上さんは、深い心の痛みに向かい合っている。

彼の痛みは、自分達少数だけが生き残る・・・そうした、本来幸運と認識される筈の出来事が、そうではなくて、逆に心の痛みとなってしまう・・・そうした辛い立場にある事を知る。恐らく、彼や、彼と同じように助かった事故被害者しか判らない心の痛みを、此れから如何向き合い続けてゆくのか、人生における大きな経験を背負って生きてゆく事になる。

彼の経験を、彼1人だけの負担にすることではなく、周りで、共に生きる人たちと思いを共有する行き方が必要となる。1人で悲しむ事ではなく、共に泣いて悲しみを共有する事により、本人の負担が少しでも軽くなる・・・そんな行き方が必要だと思う。

湯之上さんの言葉では、知人から、「生き残れて良かったねと云われると・・・正直其の言葉は嬉しいが、反面、自分だけが生き残れて、死んでいる人に申し訳ないという気持ちになる・・・」と語っている。
どれほど、この事故の体験が、彼の今後の人生に重くのしかかってくるか、それは計り知れない。しかし、だからこそ、周りにいる人たちの、温かい対応、ふれあいが大切になる。
どんな体験を背負っても、そばにいる人々の愛情と支えがあれば、きっと苦難を乗り越えて生きてゆく事が出来ると思う。

湯之上さん、1人では無いんですよ、苦しかったら、何時でも、其の思いを、私達に聞かせてもらえませんか?
共に、心の思いを受け入れる中から、次に来るべき、優しい行き方が見えてくるのではないかと思います。

偽りの謝罪ではなく、本当に安全な輸送を確立せよ!

2005年04月30日 | 平和・福祉・介護を考える
107人の犠牲者を数え、今なお165人が入院し、そのうち12人が生命の危険を持つ状態に置かれているのです。これだけの痛ましい犠牲に対して、JR西日本は、今だ、輸送体制の全面的見直しをせずに今日まで来ている。マスコミからは、過密ダイヤの私鉄との輸送における競争が、ここまで危険なダイヤを組むに至っている事が指摘され始めているにも拘らず、当事者のJR西日本自身は、”必要ならば、ダイヤの見直しもします・・・”などと、嘯いている。ここまでの大事故が発生しており、すぐにも見直しを断行することは避けられぬ課題であると、誰しも考えているのに・・・

ここまでのJR当局の対応だけでも、如何に、根本的な経営姿勢の問題であるかが判らなければならない筈なのに、一向に、当局の真面目な対応が見えてこない。

被害者の遺族である、藤崎さんは、娘の光子さんの犠牲に怒り、「自分の後の人生を掛けて、JR当局の責任を追及する」と発表されたことが報道されています。彼女は、印刷業を経営する中で、かって、信楽の事故に関する資料を請け負ったことがあり、その際、如何に事故犠牲者の悔しい思いが綴られているかを知っていたそうです。たまたま今回、自分の娘を、こうした列車事故により失い、遺族としての悔しい思いを自ら体験する事となったという。本当ならば、印刷の仕事を娘に引き継ぐことが出来たはずなのに、もうその娘が居ない。なぜ、娘の命が失われたのか、その原因を明らかにし、責任をはっきりさせない限り、娘は浮ばれないと、考えている。この親の思いは、よく判るし、JRよ、心して、裁判に臨んでもらいたい。

ところで、亡くなった方の年齢的な内訳も判ってきており、17歳から19歳の若者が18人犠牲になっていることが判った。内訳によると、106人、(昨日28日調べで)のうち、十代が18人、20代が19人、30代が21人、40代が16人、50代が19人、60代以上が12人となっている。朝の9:30過ぎの電車ということで、通勤に加えて、通学の若い男女が多数乗っていたことがこのような若年層の犠牲を多くした原因となっている。・・・もし、これが、深夜帯などの乗客が少ない時間ならば、これほどの犠牲には至らなかったかも知れないが、事故というものは、そうした人間の思いを超えたところで起こっている。


逆に理由付けるなら、過密した時間帯の殺人的なスケジュールが引き起こした、人災である、ということが出来ると思う。当局の安全性を無視した、速さとスケジュールの正確さだけを追及した結果が、こうした多数の犠牲を起こしてしまう原因となったのではないか?問題は、こうした反省を、JR当局がまだ、きちんと始めておらず、とおり一辺倒な対応、今までの運転管理の反省をしようとしていないことが問題であると思う。
一分、何秒を争うような、そんな綱渡りのような運転ダイヤを、もう一度見直して、規定速度で運行可能なダイヤ作りをして貰わなければ、また悲惨な事故は避けられない。
乗務員からの、もっと積極的な発言も求められている。JRの内部からも、建設的な意見が出来来なければ、こうした体制の見直しは難しいと思う。・・・これこそが、コンプライアンスの精神である筈だが・・・

現在の社会事態、少し急ぎ過ぎだと思う。企業や、学校でも、一分の遅刻や、遅れを責めるような風土が残っている。こうした勤勉さが実は問題であり、逆に人間への異常な管理体制と、変質しているように思える。そこから、今回のJR西の事件が起こる社会的背景を関連させて考えることが出来る。いわば、社会の企業や、教育の要請が、客観的には在ったのだ。

少しぐらい遅れても、その分遅く仕事を遣れば取り戻せる、そういう大らかな社会規範作りが、今求められていると思うのは、私だけだろうか?

生涯収支が平等になるべきなのか?

2005年04月17日 | 平和・福祉・介護を考える
最近、少子高齢化の問題で、世代による格差が盛んに問題にされている。1960年生まれを境にして、今まで黒字になっていた受け取り総額が、赤字に転化すると言われている。この概算は、介護サービスでの給付・医療保険での治療費等・年金生活での受取額・をトータルとして概算し、個人が支払った分との差額を計算して出される。45歳以降の人については、軒並み受取額の減少が加速されることになる。

因みに、1980年生まれの人は、生涯で、¥2080万円の赤字、1990年生まれでは、¥2484万円の赤字となり、どんどん若い世代の負担合計額が増えてしまう。

しかし、これは、毎年積み上げられる、道路や施設、など、個人の支払い金額だけでは計算出来ない世代が受け継ぐ社会的資産に付いては計算がされて居らず、一概に、若い世代だけが”しんどい目”をしていると言う考え方には抜けている側面もある。

今後の問題としては、世代の変遷の中で、「団塊の世代」といわれる人たちが、高齢者の仲間入りをする2025年以降の問題である。実に29%を占める人が、65歳以上の高齢者となってしまい其の人達を、どんどん少なくなる若い世代が支えなければならない形になる。
こうなると、沢山の御年寄りを年金で食べさせていくためには、それだけ多くの負担が若い世代に要求されてくるわけである。
しかし、この高齢化の問題は、何も今に始まった事ではなく、予想されて訪れるものであり、経済的対策がきちんとなされる限り、パニックになる事は無い、と思う。
高齢化する御年寄り達は、自分達の家族や兄弟を支えるために長年働いてきた社会の貢献者達である事を確認したい。其の社会の貢献者を温かくもてなし、安心して暮らせるよう配慮する事は、其の社会の一員として当然のことである。然るに、沢山の御年寄りが、どういう風に生き生きと暮らせて行くのかを今からきちんと計画する事こそ、遣らなければならない課題であると思う。

年を取っても、健康でまだまだ社会のために働ける人は沢山出来来る筈である。
こういう、元気な御年寄りを、有効に編成し、何時までも自立して暮らせる社会構想こそ、此れから始めてゆかねばいけない高齢者事業の筈である。

”臭いものを蓋をする!”的な発想を止めて、高齢者が知恵を出し合い、自分達の能力を十二分に発揮出来る社会体制を造る事が必要となっています。

一つ提案したい事は、健康な高齢者自身による、「高齢者村の建設」です。
資金と、若い人材を提供してもらえば、色々面白い企画が出来ると思います。

100歳以上の御年寄りの事を考えましょう。

2005年04月10日 | 平和・福祉・介護を考える
H16年度の統計によると、100歳を越える高齢者の数が、男女合わせて23000人に上るとの事。其のうち、男性は3500人で女性が19500人を超える相である。はやり、女性の方が、85%近くを占めている。

此れだけの高齢者が、日本に住んでいる事は驚きだが、未だ今後増える。と言うのも、昨年1年で、2500人あまりが100歳以上の御年寄りとして増えている。ということは、このまま、毎年増え続けると、5年で、約1万人が増える事となる。しかし、毎年、亡くなられる方も居られるので、単純にはそれだけの御年寄りが百歳長者とは成らないだろうが、今後益々増加の一途を辿る事だけは間違い無いと思われる。
因みに、100歳から数えて、105歳以上を調べて見ると男女合わせて、1200人を切っている。つまり、100歳からの5年間のうちに、約9割近くは亡くなってしまわれると言う事になる。百歳を超えると、1年1年が、ただ生き続けて居られるだけで表彰者だと言うことになる。108歳を超えると、127人なってしまうから、ここまでいき続けられる事は、普通のものではちょっと難しい。109歳になると、僅か、59人になり、110歳を超える人は、24人となる。今月、最高齢の114歳の御年寄りが亡くなったというから、現在の最高齢は、112歳となっているはず。


確か日本は、世界の長寿国と聞く。
此れだけ長生きできる国は、ある意味では、幸せなことかもしれないが、長生きされる御年寄りが、長生きして良かったと思える福祉国家にして欲しいものだ。

ただ、心臓が動いて、ベットに貼り付けられて生きながらえている・・・そんな長生きならば、何処か可笑しいと思うのです。
高齢になれば、そんなに美味しい物を沢山食べられるわけではないと思うけど、毎日をニコニコ笑ってもらいながら生きてゆけるような、そんな介護のゆとりを持ちたいものです。・・・此れは、我々、介護を担当する世代の責任だと思うのです。