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言葉は人を生かすことも殺すことも出来る。傷付け合うのではなく、支え合ってお互いを生かしあうページにしたい。

ブログ移転のお知らせ。

2008年01月03日 | 平和・福祉・介護を考える
2004年以来、このブログで書いてまいりましたが、このたび自分のサイトを一つにまとめることとなり、本年より”はてなダイアリー”に移転いたします。

タイトルは「命のこだま」となります。


今まで、ご訪問くださった方々、大変ありがとう御座います。

今後は、移転先でまたお会いできることを楽しみにしております。



怖い、不思議、が入り乱れる現世の錯乱が・・・

2007年12月16日 | 平和・福祉・介護を考える
長崎で、猟銃を乱射して、二人を殺害し、自分も頭をぶち抜いて死んだ37歳の男、まだ不明なことが多いけど、怖いと不思議が混ざり合わさったような事件ですね。

被害にあわれた26歳の女性と、30代の漁師さんご冥福を祈りたい。

何で、あそこまで切れる必要があるのか?もう、死んでしまった当事者に問い質すことが出来ないけど、報道によると、かってカトリックの教会に通う、敬虔な信者の子供だったことが分かっています。

すでに信者としては10年以上活動していないので、キリスト教徒とは言えないけれど、そんな家庭環境にあった男が、なぜ無差別殺人を実行する暴漢に変身してしまったのか?そこが分からない。

例えば、熱烈な宗教信者だとか政治信念を持つ者が、その信念に基づいて行動する…そんなストーリーならまだ理解が可能ですが、今回の事件は、いったい何が引き金になったのか?

大体、猟銃3丁、空気銃1丁を登録所持していたと言われているけど、警察は何故それを認めたのだろう。

理由がはっきりしない、こうした銃砲の所持に対しては、もっと厳しい制限が加えられても良いのじゃない?

普通の社会生活をする中では、こうした銃器を持つ必要はないはずです。
特に日本社会では、自分で自分を守る必要は、銃所有という形では必要ありません。不特定の輩が、銃を持って押し入る可能性があり、それを撃退するため、家族を守る理由で銃を所持する…そんな理由付は、どう考えても日本社会ではおかしい理屈でしょ?


隣のおじさんが、銃を構えて玄関で立っていたら…それは西部劇の撮影か?映画の1シーンとしては現実にありえるストーリーですが、実際の社会生活の中でそれが行われたら、アンビリーバブルな警察の取り締まり事項になる筈です。

一体、日本社会にどれだけの銃が普及しているのでしょうか

登録されている銃砲以外にも、やくざ屋さんや無法に所持されている銃砲、それから改造されて制作されているマニアックな銃器もあるでしょう。

そういった危険銃砲を、今一度見直してどうするのか?国民の中で論議した方がいいと思う。

国民の、支配者に対する抵抗権の保障・担保として、そうした自衛のための武器を所持する権利がある、と認識する人もいる筈です。

国家や警察が、必ずしも市民生活を守り、外的な襲撃から個人の生活を守ってくれるとは限らない限り、こうした自衛武装論は正当性を持つ。

ところが、こうした自衛の為の武器所持が、いつの間にか他人を侵略し隣の人の庭まで荒らす争いの引き金となる・・・こうした歴史的な経験を、私たちは嫌というほど学んできた。
自分を守るための軍事的な武器使用が、いつの間にか隣国の生存権、既得権を侵害する行動に繋がっていた・・・こうした歴史が、何千年、何万年も経験してきていることをしっかり歴史から学ぶ必要があるのです。 近年、原子爆弾を開発した人間社会では、ひとたび国と国とが核戦争をおっぱじめたら、次は地球の終末が訪れるかも知れない
こうした危険性は、もはや漫画の中の話と言うよりも現実の話として日々進化しているのが現実です。

ノーモアヒロシマ、ノーモアナガサキです。

身近な問題としては、人と人とが憎み合わず、互いに相手を尊重した暮らしを積み上げることがどんなに大切か?を子供たちに伝えていく必要があります。

ひょっとすれば、現在の地球社会は、存続の危機に瀕していて、もし、この重大な曲がり角で人類が自分たちの進路を誤れば、もう地球の未来は保障されないのかも・・・

他人事として考えている人が多すぎる

もう、私たちに残されている時間は、そう多くないかもしれないのに。

環境問題一つとっても、「京都議定書」のことでこんなに議論されてはいるけど、約束事を実行するのにこんなにも時間がかかる。大きな国ほど危機意識が薄い。

専門家の意見では、こんな議論をしていてはもはや手遅れ、10年20年後には大変なことに行き着くかも・・・と危機意識を持っている人達が沢山いる。

戦争の危機も、相変わらず世界のあちこちで種火がくすぶり、一つ間違えば、大国同士の参加する核戦争へつながる可能性が囁かれているのが現実です。

ああ、何だか、こんなこと考えていると、「自分たちの生活のこと、お金のことなど遣り繰りを考えていること」が、とっても小さなことにも思えてくるけど・・・

ただ、あくせく毎日の仕事に明け暮れていると、大切なことをどんどん見落としているような気がする今日この頃です。

身近な家族や友人と、こうした話を、一度ゆっくり焦らずしてみてはいかがでしょう?
(最後まで読んで下さり、御付き合い有難う@^^)/~~~

「原因確率」の見直しは当然。むしろ遅すぎる。

2007年12月15日 | 平和・福祉・介護を考える
先日の報道によると、原爆症の認定基準を新たに見直す与党プロジェクトチーム(座長河村健夫・元文部大臣)が、現在の制度の根幹となっている「原因確率」基準を見直すことを決めたそうです。

この悪評高い制度は、長年被爆者の認定問題に於いて、後遺症に苦しむ人たちの認定の際に、大きな障害となり、現実に後遺症に苦しみ苦痛を追っているにもかかわらず、審査において除外されたり、却下され、必要な治療と補償から外され続けてきたことは明らかです。

原爆投下から62年、未だに日本政府は、全ての原爆被災者の救済を進めるどころか、責任転換や「自己責任論」による国の責任の放棄を続けてきた。

関係者からは、厳しい批判が続出し、被爆者団体からは日夜切々とした抗議が届けられているにも拘らず、現実には現在に至るまで、問題を先延ばしにしてきた責任は重い。

今回、ようやくPTにより、現行制度の廃止を結論付けたことは、一定の評価は出来るが、果たしてこの内容が細部にわたって被爆者保護と救済の観点から見直されているのかどうか?しっかりと見届ける必要がある。

何故これまで再三被爆者から様々な抗議を受けながらも、現行「原因確率」論を振りかざして被災者を切り捨ててきたのか?その責任は厳しく問われなければならない。

日本政府は、被爆者全体の中に占める外国人被爆者に対しても冷たい対応を一貫して取り続けてきたことは承知のことです。
今回の見直しは、「原因確率」を基本とする現行基準の見直しであるならば、被爆者への補償問題全体にかかわる付帯保障に関しても総合的に改善の目を当てる内容とすべきです。

また保障に関しては、原爆投下責任の米国に対しても、人権保護の観点から財政的な補償と救済金拠出の要求が出て当然だと思う。

・・・原爆被災者は、高齢化し、どんどん死亡する人が増え、当時の体験を語れる人が貴重な証言者として今後も積極的な情報発信をしてもらいたい。
こうした体験は、言葉で語られない限り、忘れてしまうものです。
原爆体験、戦争体験を「平和文化」として残していくことこそ、次世代での平和な対外関係確立の礎となるでしょう。

原爆の恐怖と、悲惨さを、後世の世代に確実につなげるためにも、原爆症認定基準を早期に是正すべきであると考えます。

そんなに急ぐだけじゃ息切れするよ?一度一休み!

2007年12月07日 | 平和・福祉・介護を考える
師走です。人は忙しく街を歩いています。子供も、大人も、周りにいる人を眺める余裕がなく、ただひたすらに、追い込まれた目標に向かって走っているようにも思えます。・・・でも、そんな忙しい毎日だからこそ、たまには自分や家族を振り返るひと時を持ちたいな!



仕事は、ケアマネの仕事ですので、30人近くの方と常に連絡が保てるようにしています。

その中でも、こうした気候の変化や体調の悪化が心配される“要注意”の方が何人かおられます。

そうした方へのアプローチは、当然その他の比較的元気な方に比べれば支援の頻度も多くなります。


「同じ費用、同じ保険料を払っているんだから、もっとこちらに話も聞いてよ!」
とストレートに不満を言われる方はめったにおられませんが、実際問題として支援の割り振りは、その時その時で書く利用者への関わりの頻度は変化せざるを得ません。

医療でも、やはり同じことでしょう。

重症の患者さんへは、それだけスタッフの関わる頻度のウエートが変わらざるを得ない。

・・・それは不公平とかいう問題じゃなく、その方その方の状態に合わせた対応ということでご理解願いたいのですが、自分の体が二つあれば「あれも、これも出来る」とは思うのですが、残念ながら一つの体ですので、正直本当はしてあげたいことが出来ていないことがおおく有ります。

だから、この場を借りて、利用者さんにお詫びをしておきましょう。

「十分話を聞けず、ごめんなさい」

でも、比較的元気な方には、出来るだけ自分の力で生きて行って欲しいということは真実です。
お年寄りの方から考えても、自分で出来ることにあまり口出しして欲しくないでしょう。

出来れば見守り程度でやっていけるお年寄りに関しては、出来るだけおせっかいな支援はやめにして、その方の持っている能力を十分引き出していくことが必要だと考えます。

依存心が強くなってしまうと、ちょっと手伝って貰えないと、自分で出来ることもほっちゃらかして不満だけを貯めこんでしまうことになりかねませんが、それはよくよく考えて関わる必要があります。

*(!?)*手を出し過ぎて、返ってその人をダメにすることがあります。

私たちが気を付けなければならないことは、依存心を受け付ける介護ではなく、自立心を養う介護であるべきでしょう。この意味で、毎日の支援に関わるものが、どうしたらその人の能力がもっと引き出せて支援が出来るのか?を常に観察し、提案し、援助する介護でありたいと思います。

忙しく動き回るだけじゃ介護というものは行き詰ります。

必ず、一定のサイクルで立ち止まり、お互いに足元を見て後ろを振り返る時間が必要だということを痛感するのです。

皆さん、各職場で、家庭で、こうした振り返りを定期的に行っていますか?

難民受け入れ後進国日本。

2007年11月27日 | 平和・福祉・介護を考える
日本は国連難民高等弁務官事務所(UNHCR)への拠出額では世界2位と言われているが、それはそれ。・・・実際に難民自身を受け入れる現実政策では極めて遅れている。・・・つまり、お金は簡単に出すが、生身の人間を受け入れて救済する政策は進んでいないのが現実です。

数字的にみると、06年に於ける日本の難民認定者数は34人と記録されている。
米国(約2万3000人)、フランス(約1万1000人)など他の先進国の実績と比べればその遅れは歴然としている。きわだって少ない受け入れ数の背景には、難民の受け入れに関する総合的な支援体制が遅れていることがあげられる。

日本への入国に際し、第3国を経由した仮滞在を認めなかったり、難民認定に他国と比べて長時間を要したり・・・要するに難民受け入れの態勢が遅れているということでしょう。

世界では、様々な国で政治的、経済的、民族的な難民が溢れており、安住の地を求めて方向している人達がいる現実がある。
本来、こうした人々が、それぞれの国と故郷で家族そろって暮らせることが一番ではあるが、それが当面かなわない場合は難民として受け入れ安心して暮らして行ける場所と環境を提供することが必要です。この事を否定する人はいないでしょう。

そうであるなら、ただ単にお金を出せば良いと考えている現在の日本の外交政策は、どこかずれているのではないか?
・・・ようやく、政府もこうした難民政策の遅れに気が付き改善を検討しているということだが、無駄な軍備や道路・公共事業をすることなく、こうした切実な難民救済事業に力を入れることが、本当の意味での「血が通った政治」と言えよう。

私たちの給料を引き上げ、生活を安定させ、生活を豊かにさせることも賛成するが、世界の悲惨な現実を考えるならば自分たちだけの繁栄を求める生き方には賛成しかねる。

ぜひ、世界の難民受け入れ政策を見直して、資金供与だけでない本当の難民受け入れ大国になるための努力を、今後日本で進めていくべきだと考えます。
こうした考え方に立つ政治家や社会運動家などがもっと協力して運動を進めて欲しいし、そうした運動には多くの国民が賛同すると信じます。

日本への入国に際し、第3国を経由した仮滞在を認めなかったり、難民認定に他国と比べて長時間を要したり・・・要するに難民受け入れの態勢が遅れているということでしょう。今からでも遅くない。本当に安住の地を求めている人たちへ温かい政策を作り、彼らが差別なく暮らしていける衣食住を提供することが、今私たちに求められているのです。


あらあら、民主党の小沢続投物語でござーい。

2007年11月07日 | 平和・福祉・介護を考える
こんな浪花節で元の鞘に落ち着いた党代表辞任劇。…いったい何をしているのか?果たして、自民党に代わる政権党として今後のまともな活動が望めるのかどうか…

誰が考えても心配になる。
恐らく自民党は、苦笑いをしていることだろう。

他の野党は、そろって民主党のお家騒動を嘲笑している。

一旦辞めると発表しておきながら、今度は2日間の沈思黙考から裏を返しての留任となる。

今度の騒動で、問題となった「大連合構想」は、果たして今後打ち出されないのか?
「今後は、衆議院選挙に邁進する」と云えども、記者会見する本人はすっきりしたかもしれないが、国民は全くすっきりしない。

一国の次の政権党となるべき政党の党首が、こんなにコロコロ態度を変身させていては、どう考えても意に介せない。

・・・次の選挙で、国民の支持が思うように得られれなければ、そこでまた辞任でもするのかな?
誠に持って頼りがいのない政治家連中たち・・・こんな人たちに明日の日本を任すのも心配になってくる。
勿論、現在の自民公明政権は打倒されねばならないが、その次に託す政党が怪しくなってきている。
せっかく前回の参議院選挙で自民党を追い詰めたものの、次の衆議院選挙が始まる前から民主党のお家騒動がくすぶりだし、ごたついて無様な代表辞任留任劇は、どう考えてもすっきりしない。見苦しい。

何の為の個人情報保護か?

2007年10月25日 | 平和・福祉・介護を考える
今フィリピンには2900人の日系2世が暮らしている。彼らのうち約300人が父親の身元が不明だと言う。・・・この中の40人が、日本で新しく戸籍を得るための申請を申し立てている。この申請がいわゆる「就籍」と呼ばれるもので、親の戸籍をたどることにより書面等の証明が得られればその親の戸籍が取得できるというもの。

こうした日系2世の訴訟を支援している、「フィリピン日系人リーガルサポートセンター」では、今厚生労働省に、父親の戸籍を証明する書類とされている戦前の捕虜名票の開示を求めて争っている。
・・・この捕虜名票は、戦時中に米軍により作成されたもので、捕虜となった者の氏名・年齢・住所・指紋などが記録されているという。
日本政府は、1955年になってこの資料を米側から渡され、2年後には厚生省(当時)に引き渡されている。
・・・現在、約16万人分の名票が、厚生労働省のどこかに保管されているのだが、その公開をかたくなに拒否しているという。
本人などの申請以外は、個人情報の開示を拒否すると言うのが理由であるが、すでに亡くなっている2世などにとって、本人申請をすることが出来ず親族としての開示請求を認めるよう要求している。
すでに、米国のメリーランド州の国立文書館では、現地協力者の手により、名票のファイルから2世の父親たちのデータ356人分を照合したという。

こうした経過を経て、河合弁護士は今年3月に厚生労働省にたいして同省が保管している捕虜名票を開示するよう、情報公開請求手続きをとった。しかし、一貫して厚生労働省は開示を拒否しているが、いったい何を守っているのか?極めて不可解である。

現実に生きている2世の日本への戸籍登録申請を、かたくなに拒否し、証拠として存在している可能性のある捕虜名票を開示しようとしないのはどう考えても不合理であろう。

現実に生きている2世の日本への戸籍登録申請を、かたくなに拒否し、証拠として存在している可能性のある捕虜名票を開示しようとしないのはどう考えても不合理であろう。

個人情報の保護は、国家や権力をもつ社会的な圧力から、個人の権利を守るためにあるのであって、こうしたフィリピン2世の申し立てに対して開示を拒否することは彼らの日本に帰属する権利をはく奪する者に等しい。
アメリカでは、ファイルの開示は許されていると言うが、せっかく日本にある証拠書類が、厚生労働省の倉庫の奥深くに隠されたままであるという事実はどう考えても不合理だと言えよう。

国家は、様々な歴史過程において、次の世の証拠になるような資料を保存しているが、それらは何のために保管されているのかよく考えて頂きたい。
現実に生きている人間の為に、彼らの不遇な境遇から免れるための証拠になるのなら、惜しむことなくそれらを開示して、請求資料が父親の存在と結びつくものかどうかを確かめるために役立てるべきであろう。

確かに個人の情報は、厳密に守られる必要はある。
しかし、旧日本軍のフィリピン2世の場合、他に照らし合わせる資料がなく、捕虜名票参照により父親の戸籍などが判明する可能性が高い場合、惜しむことなく情報の開示を図るべきである。
これが本当の個人情報を保護することであって、厚生労働省の倉庫にしまって誰の目にも見せないというやり方は、個人情報の隠滅と同罪であろう。
請求されている「就籍」要求の対象となる資料を、1日も早く開示すべきことを再度要求します。

ベトナムのベトさん死亡について。

2007年10月08日 | 平和・福祉・介護を考える
米軍のベトナム介入戦争により、有害な枯葉剤が大量にまかれ、植物に毒物作用を起こし、死滅させ草木の生えない土地に変えてしまう枯葉剤。この薬剤は、いまだに多くの後遺症を起こしていることを無視出来ない。・・・もちろん、この責任は、危険な薬剤を多量に散在した米軍にあることは否定しようがない。

ベトナムでは、現在も薬剤によるとみられる副作用と後遺症に悩む人たちが沢山いると言う。
先日報道されたベトさんの死亡のニュースは、日本の支援者たちにもおなじみの人物であっただけに悲しい報道となった。
弟のドクさんは、不自由な体ながらも兄よりも健康な体を引き継ぎ、ベトさんの分まで今後も強く生きていこうとしている。

仕事や結婚も経験し、ドクさんは社会活動が出来たが、ベトさんの場合は重い脳症を患い、亡くなるまで病院から出ることは出来なかった。26年間の生活といっても、弟と分離してからは、ほとんど寝たきりの入院生活であった。
ドクさんにしてみれば、兄は自分たちの障害の重い部分を一手にひきとり、自分だけが曲がりなりにも自由に活動できるようになり、常にベトさんのことが心に残っていた。謂わばベトさんはドクさんの分身でもあった。

ベトさんとドクさんは1981年、同国中部で、下半身がつながった状態で生まれ、88年には分離手術を受けて切り離された。手術は成功しドクさんは元気になれたが、ベトさんの方は重い障害が残ったままだった。
彼ら二人の誕生は、ベトナム戦争による枯葉剤の影響であることは広く知られているが、その因果関係はまだ解明されていないようです。
本来ならば、米国が医療費も含めた彼らの治療に対して保証と支援を行うことが求められるはずだと思うが、果たして米国はどれだけの援助をしているのか大いに疑問だ。
日本もベトナム戦争で、米軍機が沖縄にて爆撃発信することに協力した責任がある。
当時の政権は、米軍の軍事活動に対して、間接的な支援を行っていたことは明らかであり、当時反戦運動が高まった根拠となっている。

あれから35年の歳月が過ぎているが、未だにベトナムでは、枯葉剤の後遺症に苦しめられ、多くの癌などの病気に悩まされている人たちがいることを忘れることは出来ない。
戦争は、当時の惨状による被害者だけではなく、戦後何十年とたつ現在も未だにその後遺症の被害に苦しめられている現実がある。こうした、恐ろしい薬害の恐れがある枯葉剤などを散布した米国の責任は、現在も強く指摘されなければならない。また、その被害に対して救済措置を講ずる責任がある。
米軍は、新たにアフガンやイラクにおいて派兵作戦を展開しているが、勝手のベトナム介入における被害に対して、きちんとした被害責任を果たしていないことを忘れてはならない。

今回のベトさん死亡の報道を受けて深く考えさせられたことは、近代の戦争というものがいかに多大な傷跡を相手国家人民に負わせているのかを思う。
・・・その戦争を有利に導くためには、どんな被害が相手国に与えられようともかまわないという考え方こそ、こうした非人道的な兵器が開発される根拠となっている。
核兵器に表現される大量破壊兵器はもちろんのこと、化学兵器なども多量に開発されており、現在の軍事用兵器の恐ろしさは底がない。
戦闘員だけの被害ではなく、国家に生きる人間・生物が存続できないような被害をこうむる兵器開発がなされている。これは行き着くところは地球そのものの破壊に行き着くだろう。

戦争を教訓として、二度と人と人とが殺し合わなくて済むような社会を、私たちは建設していきたい、そういう決意を再度確認していきたいと思う。

歴史を捻じ曲げようとしてはならない。

2007年10月07日 | 平和・福祉・介護を考える
歴史教科書改訂問題で、明らかになっていることは何か?一体、誰が沖縄戦の真実を捻じ曲げようとしているのか?15万人の民間人が巻き込まれて殺戮された歴史の総括を、そこに日本軍の関与があったことを薄めようとするどんな見解も認めることは出来ない。

戦陣訓の中で書かれているように、日本軍の考え方には「敵の捕虜になってはならない、それは恥以外の何物でもない」、と繰り返し教育されてきたのです。
これは、戦争に動員されれば、命を賭して戦争のために死になさいと命令していることです。…生きて、家族のもとに帰ることを戒める考え方は、当然特攻隊に示されているような、現在で言われる自爆攻撃を正当しする考え方です。これは当然、9・11のテロ攻撃の考え方と同じ思考パターンであり、こうした「攻撃型の戦闘行為を美化する思想」は、昔から日本にも存在していた。

沖縄線において、米軍に追いつめられる日本軍が、少しでも本土決戦の時間稼ぎを行うために、沖縄人民を巻き込み非戦闘員を戦争犠牲に多数巻き込んだことによりこれだけの犠牲者を出してしまったことは、根本的に、一点の誤魔化しもない事実である筈です。

ところが、日本政府と文部省、それから好い加減な学者たちは沖縄戦の記述に伴う編集過程で、旧日本軍の責任を回避し薄めてしまい、軍の責任を軽くする記述改悪を狙って教科書改訂をしようとした。

今回、11万人の沖縄の人達が立ち上がって、「教科書記述改悪」に反対し、軍の関与を認めるべきであると主張して立ち上がったことは全く当然のことです。
沖縄の怒りを受けて、ようやく政府も記述改訂に「待った」をかけ、当時の軍関与の表現を復活させる方向に“改訂の改定”が行われようとしている。・・・何たるその場しのぎの失態か?責任を明らかにすべきなのは政府です。

好い加減な政府自民党と教科書改訂を指示する文部省の責任は重いが、この問題は戦争の軍の責任をはっきりさせる上で非常に重大な問題を含んでいると言えよう。

好い加減にしてはならないこと、それはもう2度と戦前の軍部の戦争遂行体制に戻ってはならないことと、かっての誤りを後世語り続けてその責任を明らかにしなければならないことです。
天皇陛下の為に、庶民の命を捧げることが当たり前であり、訳の分からない「国体」維持の為には民間人の命はどれだけ犠牲になってもかまわないという思想・・・こうした天皇制絶対主義を、もう2度と復権させてはならないことを確認する必要がある。

今後の若い世代に、真実の戦争の歴史を伝え、近代の歴史過程においてどういう過ちが繰り返されてのかを学んでゆく意義は大きい。
この意味で、歴史教科書の記述に際しては、真実が語られる必要があり、今回それを捻じ曲げようとした教科書改訂に対して沖縄の人達がそれに反対し立ち上がったのです。

改訂反対の沖縄の運動に賛成する意味でも、今後の教科書改訂問題を、しっかり監視していく必要があると思います。

旧日本軍の戦争責任をあいまいにすることは、あの戦争そのものの実態を変質させることに繋がる。・・・
多くの人は、2度とあのような絶対主義的な軍国主義の復活を望んではいない筈なのに、何故軍の戦争責任を消し去ろうとする流れが頭を擡げてくるのか?
20世紀の戦争妖怪を、復権させてはならない。
教育と文化の中に見え隠れしている怪しき動きを、細心の注意を持って告発すべきです


訪問介護サービス内容に関するQ&Aについて(その1)

2007年09月13日 | 平和・福祉・介護を考える
ここに紹介するA&Aは、きっとご存知の方も居られると思います。しかし、その内容に関する理解という点では、多くの問題があると考えます。・・・そこでこれから何度かに分けて、解説されている内容の問題点を論じていきたいと思います。



手元に、”訪問介護サービス内容に関するQ&A”という裏表A41枚の資料があります。
これは、おそらく厚生労働省もしくはどこかの自治体が作成したものだろうと思われますが、よく分かりません。(別添)と表題にあり、ページ数が11ページから14ページまでです。

ところで、このQ&Aですが1・が身体介護に関するもの、2・が生活援助に関するものです。
この中で解説されている位置づけを読んで、皆さんどう思われますか?
すでに内容を承知している方も多いとは思いますが、少し紹介してみます。
全部ではなく一部の紹介になりますが、皆さんの感想を出し合ったら面白いと思います。


身体介護。
1・通院の帰りに、道沿いにあるスーパーや商店に立ち寄って買い物をする。
●訪問介護では、居宅もしくは居宅を介して行う必要性があるため、ケアプラン上で買い物同行が位置付けられていたとしても、医療機関からスーパー等への移動の介助は介護保険の対象とならない。

2・病院、診療所、あんま、マッサージ、整復の施術所整骨院、針鍼灸等へ自費で通う。
●医療保険対象か否かのみで判断すべきでなく、①その通院が日常生活上必要かどうか、②要介護者等の身体の状況等から通院の為に介助が必要かどうか、この2点を満たすかどうかで個別的に判断する必要がある。ただし、治療のためではなく、単なる慰安を目的とするものは対象とならない。

4・利用者の趣味趣向品を買いに行く。
●介護保険は適用できない。趣味趣向のものとは、例えば、酒、たばこ、中元、歳暮の品等。

7・警察、裁判所へ出頭する。
●利用者が自立した日常生活を営む上で、必要なものとは考えがたい為、対象とはならない。

9・認知症等の利用者が、精神的に不安定になった時、落ち着くために外出する。
●気分転換の為の外出は、介護保険の対象とはならない。

10・医師からの指示による下肢筋力低下防止や、認知症による徘徊予防のために、近くの公園まで歩く。
●訪問介護で位置付けるべきではなく、他のサービス提供を検討すべきである。

11・入院している知人や親戚の見舞いに行く。
●算定できない。

12・地域の催し(盆踊り、カラオケ大会など)への参加や、気分転換の為の小旅行やドライブに外出する。
●利用者の趣味趣向に関わる行為であり、日常生活上必要とは考えがたい為、算定できない。

13・選挙の投票に行く。
●社会的事由(公民権の行使)に該当する為算定できる。

14・冠婚葬祭、墓参りなどの為に外出する。
●利用者が自立した日常生活を営む上で必要なものではないため認められない。


今日は、このくらいにしておきましょう。・・・全部で40項目のQ&Aなので、一気に全部検討すると大変です。
皆さん、これらの回答を読んでどう思われますか?
勿論納得できるものもあるんですが、おかしい?と思えるものもある。一面的だ、と考えられるものもある。・・・いろいろ意見を出し合ってはいかがでしょう。

実は、私の属する事業所の法人専門職の研修で、これらの内容を検討する時間を持ちました。
・・・実にいろいろ意見が出ましたが、厚生労働省や自治体の判断に合点いかない意見も多数出されたのは事実です。
ただ、だから自治体に個々に異論を申し出ても、おそらくここのサービスがこの解説から逸脱して認められる可能性は低い。
個別的に例外が認められるとしても、この見解が訂正される可能性は低いと言えよう。

だとするならば、ケアマネとしてどう位置付けてサービスを提供するのか?その方法はあるのか?

だめだと言われていることを、どう工夫して可能とすることが出来るのか?…これはある意味、専門職としての錬金術のようなものかも・・・
こうした細工や工夫にたけた人もいれば、不得意な人もいる。
文章面での記述に長けた人もいれば、そうしたことに不得意な人もいる。

これだけは言えることがあります。
それは、介護保険は、保険者がその判断権を有しているということです。
そのケースにおいて、ここのサービスの在り方についても最終判断は保険者の判断にあり、具体的には担当係官の見解が最終判断となる。(ただ、もしこの判断に異存があれば、裁判にて争うことは可能)・・・しかし、そこまで争うことが出来る人は限られてくるから、普通のケアマネと利用者が出来ることは、各自治体の担当係官へ直接交渉をして、文句を表明し、苦情を聞いてもらって、問題の善処を求めることぐらいでしょう。・・・こうなると、いくら粘って交渉しても、どれくらいの苦情が認められるのか?極めて見通しは悪い…

ボランティアや、包括支援センターの生活支援事業を使えと行政は言うかもしれません。
でも、どれだけのこうした社会資源が使えるのか?
はたして、介護保険を補完できるだけの社会資源があるのかないのか?教えて欲しいものです。

・・・先に結論を言えば、そんなものどこにもないのが現実です。・・・もし幸運にも、ここで言われているような支援方法に出会えることが出来たなら大歓迎ですが、おそらく殆どのニーズには答えられないのが現実と思います。

”制度あって、それを運用する人少なく、満足する者おらず…”・・・こんな介護保険に誰がした?