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言葉は人を生かすことも殺すことも出来る。傷付け合うのではなく、支え合ってお互いを生かしあうページにしたい。

オウム岡崎被告の死刑確定に寄せて。

2005年04月08日 | 平和・福祉・介護を考える
 一連のオウム事件で、死刑判決を受けたのは松本被告ら13人ですが、このうち、死刑判決が確定したのは、岡崎被告の判決が初めてとなります

この裁判は、一番早くから犯行を認め、懺悔して、其の罪を今は亡き被害者の供養を続けながら刑務所にて過ごしている岡崎被告の最終判決がどうなるかを見届けるものとして注目を受けていた。
判決は、やはり厳しかった。岡崎被告の犯した犯行を厳しく断罪して、無慈悲にも坂本弁護士一家を惨殺する犯罪に対して積極的に加わった当事者として認定している。
この罪を償うには、極刑を持ってしか償えないとして、死刑を言い渡し、其の控訴を棄却する事とした。此れにより、岡崎被告の死刑が最終的に確定した事になる。

坂本弁護士の殺された妻の親である大山さんは次のように言っている。
 「法治国日本で、このような蛮行がなぜ行われ、さらに、なぜ長期にわたる裁判なのか理解に苦しむ」と。

確かに、被害者の家族にとっては、憎むべき犯行に加わった犯人に対しては、決して許すことの出来ない怒りがある事は判ります。

しかし、敢えて、私は、表明したいです。

死刑の執行は、止めたほうが良い。と彼らを死刑にする事で、犯罪に対する償いが出来るわけではない、と。昔の、ハムラビ法典のように、殺人に対しては、死刑を持って償わしめる・・・こういう形では、幾ら裁判を繰り返しても、憎しみが終わる事は無い。
彼らを死刑に処しても、殺された人たちの命は戻らないのです。


 岡崎被告は今、拘置所の中で被害者の冥福を祈り、ひたすら水墨画を描き続けているといいます。脱会した信者を支援してきた寺の住職の養子に入り、姓も「宮前」と変わりました。判決前に面会した住職は「判決を受け入れる覚悟はできていると思う」と話しています。

このように、一生を被害者の冥福を祈る事にささげている被告を殺すことより、生きながらえて、最後まで冥福を祈る日々を送ってもらい続ける事の方が意味があると思うのです。大事な事は、自らと、教団が行った残虐非道な行為を一生かかって償い続ける事ではないかと思うのです。・・・被害者の華族から見れば、いっそ自分達の手で打ち殺して遣りたい加害者であろうと、其の一つ一つの命は、やはりかけがえの無い命である事を確認したい。だからこそ、犯した罪の計り知れない深い愚かさを、長い年月をかけて償ってもらう事が必要なのです。


今度の判決を受け、恐らく、残りのオウム判決でも、死刑判決が続くと予想されます。
もう一度、死刑判決の持つ意味を、問い直す良い機会であると思います。

オウム裁判、岡崎被告の死刑確定判決に思う。

2005年04月08日 | 平和・福祉・介護を考える
 一連のオウム事件で、死刑判決を受けたのは松本被告ら13人。でも、このうち、岡崎被告の死刑判決が初めて今回、確定することになります

岡崎被告は、現在、一心に監獄にて水墨画を描き、自らと、オウムが犯した犯罪行為を懺悔しているという。叉、寺の住職の養子となり、名前も”岩崎”と改名している。
今回の死刑判決の控訴棄却について、法廷への出廷は許されず、被告不在のままの判決となった。
岡崎被告の場合は、早くからオウムとしての活動の自己批判と、悔悛が確認されていた人物であり、死刑判決がどうなるのか関心が持たれていた。今回の判決は、岡崎被告の犯した犯罪をはっきりと指摘し、(例えば、坂本弁護士一家殺害事件では、犯行に関して積極的な役割を果たしている事など)問われるべき犯行の責任は、死を持ってしか償う事が出来ないものであるとして死刑判決を確定宣言した。
坂本弁護士の妻・都子さんの父、大山友之さんは語られている。「法治国日本で、このような蛮行がなぜ行われ、さらに、なぜ長期にわたる裁判なのか理解に苦しむ」と。
オウムが犯した犯罪行為は、坂本弁護士一家への殺人行為だけに終わらず、地下鉄サリン事件の無差別殺人へとエスカレートして行った。
現在日本の中に、このオウムのような違法な犯罪集団が造られた事への驚きと、現在、未だこの集団が毛色を変えて受け継がれている事を思い、複雑な心境にさせられる。長い裁判を止めて、もっと早い審議と判決が言い渡される事が必要と思う。中心人物の者が極刑を言い渡される事は避けられないと思うが、それでも、私は、死刑判決には反対を表明する。

オウムに限らず、極悪の犯罪人であろうと、彼らの持つ命の重みは、誰もみな同じかけがえの無い重みを持っていると考えます。気持ちとしては、打ち殺して遣りたい被害者家族の思いを理解しつつ、此れからの私達が必要な事は、復讐ではなく愛と友情と、共感であることを確認したいのです。

”殺人鬼”を死刑にしたとしても、そこにどんな積極的な意味もない。
死を持ってして償わしめただけの事で、本人に反省や、懺悔無くして、単なる刑の執行がどう言う意味を持つのかもう一度考えて欲しいのです.形として、法治国家による裁判と言う形式を踏んでいるとしても、死刑判決と言うものが、ハムラビ法典の考え方と同じである事には違いが無い。

死刑判決が無くなれば、社会的な犯罪抑止力が弱体化すると言う考え方があるようです。
しかし、死刑が有るから、犯罪が起こらないと考えるのも、どうかと思う。死刑がある無しに関わらず、犯罪行為は起こりうると考えたい。そうなると、抑止力と言う考え方事態が、根拠の無いものであることが分かる。

今回、岡崎被告の死刑確定判決により、残りのオウム裁判への波及効果は、高い。恐らく、たの裁判でも、死刑判決は当然出てくるものと思われるが、どんな当然の判決に置いても、死刑判決は辞めるべきであると思う。
必要な事は、犯行の事実の確認と、その意味を彼ら犯行を犯した犯人が、一生かけて償うことであると思う。死刑と言う形で、償いを停止させる事の方が可笑しいと考えます。
諸外国では、無期懲役100年とか200年とかの判決があると聞きます。この考え方を、私は支持します。オウムの犯罪者達は、無期懲役300年くらいでどうでしょうか?何処までも、自らの命が終わるまで、亡くなった人たちの霊に対して、家族に対して償いをしてもらうことこそ大切なことであると思います。

1、2審の判決はともに死刑。そして、最高裁の判断も死刑。
最高裁は述べる「犯行に積極的に加わった被告の役割は非常に重い。自首したことや反省を考慮しても刑事責任は極めて重大だ」・・・こうして、岡崎被告の上告は退けられました。恐らく、彼の裁判は、此れで終止符を打つ事となり、後は刑の執行を待つのみとなります。
しかし、悔い改めて懺悔の日々を送る被告への最良の判決は、刑の執行ではなく、残りの人生を二度とこのような犯行が行われる事のないよう祈る日々をおくらせることだと考えるのは、私だけではないと思います。

教育委員会指導に異議あり・卒業式の在り方を考えます。{/fuki_yonde/}

2005年04月01日 | 平和・福祉・介護を考える
先月、全国の学校で、卒業式が執り行われた。

参加する児童・生徒にとっては、学園最後の式典です。趣向の凝らされた内容も良し、伝統ある風格を持つものも良し、自主企画の斬新な形式もまた良し、要するに、いろいろな遣り方を先生・生徒が話し合って計画すれば、良い式典になるはずである。一つの、拘った遣り方を強制するのは如何なものか?

今年の場合、多くの学校では、上からの強制では無く、自主的に企画された式典が行われたらしいが、東京都や、広島県では、教師に対する、また生徒の”態度”に対する監視が行われ、たとえば、君が代を起立して歌わなかったとか、生徒がきちんと起立するよう指導しなかったとかで減給・戒告などの処分がされている。そもそも国家を歌うことが、なぜ強制されなければならないのか?教育的指導といっても、国家を歌う・起立する等は、個人の裁量の中で行う行為である。教育の中で強制することではない。
特に、東京都の場合は、首長の石原知事の考え方も反映して、何かと高圧的な強制が出てくる。国旗や、国家に対する態度が、ここまで強制されることについては、大いにに異議を持つものである。
そもそも、現在の国旗や、国家に親近感を抱けない人が沢山いることを考慮すべきではないのか。
たとえば、国旗は、戦前から変わらず、同じもの。如何しても、暗い戦争のイメージが伴う。敢えて言えば、自分は、国旗を新しいものに代えてもらっても良いと考える。日の丸で無ければならない根拠はどこにも無い。(日の丸は、お弁当だけで良いんでは?
たとえば、愛知万博でキャラクターの、モリゾウ君などが取り上げられているように、ニホンちゃんなどの名前のキャラクターがメインのシンボルになっても良い、と思います。
言いたいことは、暗いイメージの国旗より、明るい、世界の人々もひたしめる平和のシンボルに変えるべきであると、思うのです。現在の日の丸はあまりにも多くの人の血に彩られすぎていると思うのです。

次に、国歌ですが、これについては、ぜひ変えて頂きたいと思うのです。君が代の旋律は、国家としては珍しく陰気な陰のある曲です。曲が悪いわけではないのですが、こんな曲を国家としていつまでも存続する意義は無いと思います。もっと、明るい、楽しい威厳のある曲を国歌として造って欲しいと願います。・・・音楽には好みがあり、それぞれの思いがあるものです。これを、どう聴くかは、それぞれの個人の問題であり、国家が立ち入ることとは思いません。
この意味で、国家を歌うときに立ち上がるか、座るかはたまた寝転んでいるか・・・それは、個人の領域での問題だと思うのです。もちろん、他の国の国家に敬意を払うことは、道義上必要だと思いますが・・・

一番けしからん! と思うことは、今回の教師への処分です。自分の意思で、国旗掲揚、国歌斉唱をしない先生を、如何して処分する権利が教育委員会にあるのか説明してもらいたい。基本的人権が認められ、個人の自由を認める憲法からかけ離れた罰則です。
人々の同意が、結果として一つとなることには、誰も反対しないでしょう。
しかし、規則として縛り付け、自分の意に反して遣らされる形での式典運営には同意しかねるのです。そんな卒業式を体験して、如何して子供たちが育つのか言ってもらいたいと思う。

もっと、自由に、もっと自主的に子供たちを信じて企画させることのほうが大切だと考えます。大人たちが出来ることは、そうした、自主運営化された式典を、温かく見守ることだと、私は思います。

禁煙指導のガイドラインが出来ています。

2005年03月20日 | 平和・福祉・介護を考える
禁煙指導を行う医師向けの、指導ガイドラインが保健医療系の9組織の合同でつくられた。横浜市で始まった、日本循環器学界学術集会にて19日、其の概要が発表されている。
まず、其の基本的な捉え方として、喫煙を「ニコチン依存症」として診てゆき、其の病気を治療する立場に立って、禁煙の医療指導を行う。タバコのへの依存を無くすためには、ニコチンパッチや、その他色々な治療法が出来ているが、患者が禁煙に失敗しても、患者を「責めない事」多大切な事とされ、一度失敗しても、次に前向きの禁煙方法を患者自身が模索できるような医療指導を求めている。

禁煙指導の専門家として、外来指導で行う禁煙治療の手順、患者の禁煙に対する意思と、実行段階に応じた指導法、禁煙効果が高いニコチンパッチなどを解説している。また、患者の抱える病気に応じて呼吸器系、心臓・血管などの関わりを解説しながら指導方針を説明し、カルテでの喫煙状況の記載方法などを説明している。患者が、禁煙に失敗しても、再び禁煙する気持ちを持てるよう患者の気持ちをしっかり聞くこと、前向きに方向付ける事が意図されている。

基本的な認識として、喫煙をニコチン依存と言う病気として捉える立場により、決して患者を責めない事が重要視される事となる。しかし、喫煙を認めるのではなく、あくまでも治療する立場から、患者に寄り添い、積極的に喫煙の無い健康な生活法を進めて行く事が必要とされる。

ここのところで注文したいことは、医療関係者の喫煙率の高さである。
禁煙指導を行う筈の医療関係者自身が喫煙をしていては、禁煙指導など出来るはずが無いのです。勿論、呼吸器系の医者は、喫煙率が低く、大丈夫と思うが、医療全体では、まだまだ日本の従事者の喫煙率は高く、世界の先進国の中でも飛びぬけて悪い。一体これは、如何した訳なのか?

男性だけではなく、女性の看護師の中でも、喫煙をする人が沢山いる事を知っています。

まず、医療現場の側から、非喫煙の運動を奨めて行くべきと思います。

医療や、介護の現場に立つものが、喫煙をする事が恥ずかしい事と捉えられなければ、可笑しいと思うし、喫煙者のみならず、回りの人間にも悪影響を与えるタバコの害を、もっと真剣に考えて頂きたい。特に、若い、未成年の喫煙率が相変わらず懸念される数に上っている事を考えると、医療現場や、介護の現場での禁煙はもっと厳しく求められるべきであり、曖昧な放置は止めたほうが良いと思います。

今回の医療指導者向けのガイドラインが、少しでも日本の禁煙運動に積極的な役割を果たせれば良いと思いますが、日本のやり方が如何考えても甘いと思うのです。つまり、喫煙者にタバコの害をもっと自覚させることが大切です。自分だけならまだしも、生活線上の近くの人(家族や職場・生活圏の人間等)に煙の害を撒き散らしている事を自覚してもらいたいです。特に、子供に対する害は放置できません。喫煙者と、其の販売者に対する責任をもっと厳しくかせる事に賛成です。

合同委員会提出の"全面禁煙化"を支持します。

2005年03月06日 | 平和・福祉・介護を考える
日本循環器学界・日本公衆衛生学界・など医療系9学会でつくる合同委員会(藤原久義岐阜大大学院教授)が、JR旅客6社に要望書を出した。
各社の回答は、分煙強化を約束するものであるが、全面禁煙化については、今後の検討課題として応じなかったと報道されている。
03年5月に施行された、"健康増進法”は、多数が利用する施設の管理者に受動喫煙防止を義務付け、今年2月には喫煙の健康被害防止を目指す「タバコ規制枠組み条約」が発効している。次第に、JRなどの旅客業を営む企業に対する規制の厳密な対策強化が求められつつある中で、今回、JR各社は、其の一層の促進を求められているにも拘らず、今回の回答に見られるように、まだまだ喫煙に対する対策が甘い。この結果、受動喫煙等の健康被害が等閑にされている。

タバコを吸わない人が、喫煙者による健康被害を受け続けている事について、抜本的な対策を講じることなく、先延ばしを計る今回の経営陣の対応は、きわめて遺憾なものと思う。

吸う者の権利というものは、吸わない人への100パーセント対策がされてから、保障されるものであるはずである事を、判っていない。此れだけの健康被害と、医療費に対する費用の負担責任が課せられる喫煙というものを、未だに放置し、認める事は許されないと思う。

喫煙に関わる社会的な対策費用は、全て喫煙者の負担によりされるべきであり、其の分タバコの値段に上乗せする事が必要である。

私達の回りを見渡せば、ポイ捨てなどによるゴミが放置されており、こういったゴミを誰が清掃するのか?此れに付いても、喫煙者の負担により、清掃の費用が捻出されるべきだと思う。
こういった、喫煙者のマナー向上と、それに対する罰則規定は、もっと厳しくされる必要があるはずであり、一部の市町村に適応される”禁煙法”はどんどん奨めて頂きたい。

今回、JRなどの旅客機関の対応が、中途半端なのは、まだまだ喫煙に対する認識が甘い、日本のタバコ社会の実情を示していると思われる。
小中学校に於いても、何故、タバコの害が今日叫ばれているのかをしっかり子供達に投げかけ、子供達が自分自身の判断で、喫煙をしない考え方を取り入れられるよう、もっと配慮する必要があると思います。今のままだと、不十分であり、青少年の喫煙率を押し下げる事は出来ないだろうと思われます。
学校でも、家庭でも、もっと、喫煙のことを論議して、何故禁煙を守る事が必要であるかを、正面から論議すべきであると思うのです。

電車内での鼾の事を考えて見ました。

2005年03月05日 | 平和・福祉・介護を考える
毎日の通勤電車で、何時も鼾をグーグー掻いている男が居ます。何度か気が付くと、其の男の近くに自分が居て、可也の大きな騒音を撒き散らしているんです。

初めは、辛抱をしているんですが、何時も、そうした騒音を聞いていると、周りの者は可也の迷惑です。足を"ドン"とこづいて、"うるせい!"と怒鳴ろうかと思いますが、なかなかそこまで言う事が出来ない.・・・こんな、場合如何したら良いんでしょう?

きっと、自分以外のお客さんも、皆えらい迷惑を受けている筈です。
本人が自覚していないことも考えられます。それなら、はっきり、"あなたは、はた迷惑な騒音を出している"と警告する事で、少しは本人の自覚が生まれるかもしれません。

しかし、鼾というものは、たいがいは、本人の無意識の状態で掻かれている為に、それを止めることは本人には出来るものではないと思います。
そうなると、騒音対策として、第一にお願いしたい事は、公衆の前では、眠らないようにして頂く事です。本を読むとか、新聞を読むとか何か遣っていれば、眠たい気持ちも少しは薄れる筈です。

次に考えられる対策として、車内放送にて、鼾を掻かないように放送することです。これに付いては、可也の効果があると思われます。何時も、車内での迷惑行為の防止は呼びかけられているのですが、鼾の防止に付いてまで言及して頂きたいのです。きっと、この放送が流れれば、心当たりのある人は、可也のインパクトを受けること間違いなしです。


次に、意地悪戦法も、考えて見ました。
ずーと前に、さんぺいさんの漫画で、傘を効果的に使って悪さをする、場面があって、隣に座っている中年男が、其の又となりの若い娘さんに、眠って寄りかかる場面があって、さんぺいさんは、傘の取っての方を男性の首根っこに引っ掛けて、娘さんへ寄りかかるのをとめる・・・そんなひとコマが思い出されるんです。そこで、いたずら大作戦として、眠って鼾を掻く"犯人"へ録音機をすぐさま近付ける。そして、次に、録音した鼾を何倍かに増幅して本人の耳元に近付けて再生するのです。
・・・恐らくこれは利く筈です。鼾の犯人は、驚いて、眼を覚まし、何事かと眼をぱちくりする筈です。そしてそれから、柔らかく、"此れは、あなたの、今たてたての鼾です。そう、可也迷惑でしょう?"と語りかける。大事な事は、この柔らかく語りかけるような口ぶりが大切なのです。

鼾というものは、(実は、私もよく掻いているんですが)本人の周りの者が煩くて我慢しなければいけないのでしょうか?本人にも、それを予防し、出来るだけ人に迷惑をかけない方法を講じる必要がある筈です。
重症になれば、無呼吸症候群と呼ばれる立派な病気となり、そうなると、一日中眠たい状態が続き、運転などでも危険が伴います。そこまで行くと、治療が必要なのは云うまでもありません。

まずは、回りの者が、本人に声掛けして、本人自身が鼾の対策を考えて欲しい。1人で解決出来ないときは、家族や周りにいる健康に関して詳しい人に相談することです。

それから、ストレスを貯めない生活パターンを造ってゆく事も大切です。
寝る前に、お風呂にゆっくり浸かって、心身をリラックスする事も良いでしょう。
軽い、ストレッチや体操で体をほぐして、それから眠りに付く事も有効です。
枕などを、色々試して、安眠しやすいものに変える事も大切です。
・・・兎に角、色々自分で試して、出来れば回りの人に、嫌がられない、睡眠方法を身に付けたい、と思います。

被爆者健康手帳と原爆症認定を考える。

2005年03月01日 | 平和・福祉・介護を考える
2003年現在で、原爆症と認定されている方は、2271人だけです。
他の99パーセントの被爆健康手帳を交付されている人達は、未だ認定されて居ない方です。
認定に関わる多くの訴訟では、被爆者が高齢化して、亡くなってゆく人もどんどん出てきているなか、政府は、裁判での時間稼ぎを果てしなく続けて居ます。

二月三日、被爆者の東数男さんが亡くなりお葬式があったそうです。76歳でしたが、後半の11年間は、裁判での争いに費やされたものでした。
彼の場合は、長崎市の学徒動員として、三菱重工業兵器製作所で被爆しました。倒壊した瓦礫の下に埋まりましたが助け出され、背中一面にガラスの破片が刺さっていたとの事です。激しい下痢と、二週間後には髪の毛がぼろぼろ抜け落ちました。しかし、戦後様々な職業を転々として生き抜き、50代半ばにC型肝炎を発祥しました。94年に厚生省へ原爆症の認定申請を出し、5年かかって出てきた答えは、申請の却下でした。

すぐさま、東さんは国を訴える裁判を起こしました。
・・・20回を数える口頭弁論は背筋を伸ばして自ら廷内に行かれていたそうですが、21回目と判決の日は車椅子にて、弁護士に押されながら出廷された。03年3月31日、東京地裁は、原告の訴えを認めた。直後に、自ら厚生労働省に対して書面を送られ、「体はもうボロボロ。絶対控訴しないで下さい」とお願いした、が、12日後に、国は控訴を行った。
眼に見えて弱ってゆく状態の中、昨年は、肝硬変と肝癌を併発する。・・・とうとう一度も控訴審に出られないまま、1月29日に、亡くなられた。担当の弁護士は語っている。「国は、被爆者が死に絶えるのを待っているとしか思えない」と。

「俺は、勝訴まで、絶対生き抜くんだ。」死の直前まで、東さんは話しておられたと言う。
戦争中に学徒動員され、工場にて被爆して負傷し、身をすり減らして働くも原爆による病魔が偲びより、結局原爆症と認定されること無く、死んでゆかねばならない人達、・・・此れは、過去の原爆による被害を国が放置する遣り方である。
国家的な責任として、原爆の後遺症に悩む人々を救済するのではなく、有耶無耶に澄まそうとする厚生省や、政府のあり方は、間違っていると思う。一体、何処まで、被爆者を苦しみの中に放置し続ければ気が済むのか?
27万人の被爆経験のある人達を、十分に治療し労うことは、当然の保障であると考える。こうした、被爆者の対策を放棄する政府に、此れからの平和政策を託す事は出来ないと思うのです。

私達は、原爆後に生まれた、被爆を知らない世代です。しかし、こうした日本での被爆者の認定を厳しく規制する現在のあり方を、もう一度見直し、全ての犠牲者を無条件に治療し、ケアーする体制が必要且つ求められていることを指摘したいと思います。

10年の節目を噛み締めて。

2005年01月17日 | 平和・福祉・介護を考える
被災した体験を持つ方々にとっては、辛い10年だったことでしょう。愛する家族を、友人を失った人の悲しみは、何処までも深い。6433人の命が失われた、この震災の記念日を、全ての日本人は今日一日、10年に渡る災害の爪後を偲んでいます。
都市型の地震の怖さを想い知らされたこの災害を、思うとき、この体験を無駄にしてはいけないと思います。こんなに辛く、悲しい経験を繰り返してはならないと考えます。
しかし、自然災害は、何時又、人々を襲うのか判らないのです。何処で、大災害が発生するかは予測することが出来ないのです。・・・だから、防災に対する備えを、今後しっかりと準備する必要が在ると思います。


今日一日、テレビの番組は、震災の特集を一日中放送しています。

悲しみを乗り越えて、一日一日、家族と、街の復興のために汗を流してきた、神戸の街。

この街の体験を、語り継ぐ必要があるのです。人々が助け合い、共に苦楽を分かち合いながら前に向かって生きてきた人々、この人々の街のことを、後世に伝えて言って欲しいと思います。