大いなるものにゆだねて~私のアルジュナへ

バガヴァッド・ギーターの中の、クリシュナとアルジュナの対話を現代風に紐解く。悩める全人類に贈る究極のメッセージ。

25日のアルジュナの思いを読んで~依存と自立と真実(幸せの定義)

2010-03-26 09:34:34 | 日記
幸せの定義を語るとき、不幸せの定義も語らないといけません。
不幸せとは、心の弱さからくる不安、恐怖というものが心の中で支配的になっている状態です。
この原因と結果は心の中にあるのですが、外側に原因と結果を求める限り、同じレベルでの苦しみがやってくるというサイクルの法則があります。
生命は常に変化していますが、常に変化しない法則があるからこそ、変化するという法則は科学でも明らかにされているとおりです。
変化する一定の重力があるように、生命の様々なレベルの変化にも一定の法則があります。それは自然そのものですが、自然の法則とは、何か一定の基準の下にあるようです。

幸せの定義とは苦しみの反対なのですが、そのバランスをとっている一定の法則が存在しており、常にこの一定の法則の世界で生きることによって、幸せにも苦しみにも心が支配されないように進化することが必要です。
そうすることによって広がり深まるのが人の生命の更なる進化です。

「私」が「在る」という意識には様々な段階があるようです。
動植物の意識も多種多様に分かれ、その種の本能と意識の世界で生きているようにみえます。
人間の場合、善悪の基準(幸不幸の基準)により行動の範囲が大きく、本能を超えた自由を与えられています。そして、様々な変化(進化)を目のあたりにします。
人は自由を与えられていますから、その原因と結果の法則を知ることができます。
生命の誕生と死のサイクルは、永遠の進化の過程の現れです。
そのゴールを見失うと、人は苦しみます。
そのゴールとは、活字ではあらわしにくい世界ですが、あえて表現するならば、至福です。
そのゴールとは、「私」の「実存」そのものです。
全生命の目的は、誕生と死を通して計画されているという真実が在ります。

何度も繰り返しているように、「私」の真実は「神」です。
私は神というとき、勘違いしないでいただきたいのは、それを純粋なる意識によって認めない限り、「私」は「神」だと悟れません。
全生命の目的を、誕生と死を通して支配している「神」が在ると気付かない限り、人は苦しみを感じます。
またまた勘違いしないでいただきたいのは「神」にも様々なレベルが在り、その神々(自然法則)さえも支配する最も崇高な「私」が「実存」していると気付かない限り、どれだけスピリチュアルを極めても、どれだけ神社に参っても、どれだけ天の声を聞いても、それは外側に求めたという苦しみの果実を食べるという結果を自ら招いてしまいます。

ですから、人間の中で神の声を聞いたという人ほど疑わしいものは無いと心しておかなければなりません。このような人は最も不幸な人だと知るべきです。
人間としての自由を放棄した浅はかな生命体です。
人を不幸にする現在のスピリチュアルは、更なる不幸をよび、負の連鎖を繰り返しています。

純粋な意識は神聖です。
「私」は神聖なる「実存」なのですから、「私」の経験が全てであるはずなのに、人はそれを忘れる自由も与えられていますので間違いが起こっています。
苦しみの意味も、恐怖の意味も、不幸の意味もわかっていないようにみえます。
「私」の「存在」はとても幸せで、神聖なる光そのものなのに、それを忘れているようにみえます。
これを思い出したいからこそ苦しんでいるようにみえます。
幸せにも固執しないように気をつけなければなりません。
なぜなら、生命はバランスが必要だからです。

一定の法則は、相対する全てのものの、中間に在る、ギャップの部分です。

アルジュナのブログ
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