大いなるものにゆだねて~私のアルジュナへ

バガヴァッド・ギーターの中の、クリシュナとアルジュナの対話を現代風に紐解く。悩める全人類に贈る究極のメッセージ。

嘘と決定~28日のアルジュナの日記を読んで

2010-03-29 03:33:01 | 日記
嘘と真実は相対的です。
どちらにも拘るべきではありませんが、人は真実のみを生きることが可能です。
無知な人間の意識にとって、嘘やごまかしは「私」の全レベルにおいて「私」を縛る鎖となっていきます。
そして「私」が苦しい事さえ気付づいていませんから、これは偽善です。
実は、「私」は本質的に苦しみさえも超えています。

「私」、「存在」している「本質」で生きていくことができれば、信じられないかもしれませんが嘘やごまかしが本当に再現される現象を観ることができるようになります。
嘘をついても本当になるのですから、嘘はつけなくなるのです。
実直に正直に生きていると、嘘をついても嘘がつけなくなっていることに気付きます。
もし嘘をついたとしても、目の前に確かな経験として、嘘が真実に変化する現象が現れてきます。

この状態に達しない間は、嘘やごまかしをするべきではありません。
「私」を苦しめるということになってしまいます。
そのような状態で幸せになれるはずがありません。

人は言葉を巧みに利用し生きていますが、巧みに利用すれば利用しようとするほどその言葉に拘りが出てくるのでしょう。
私のアルジュナはまさにその状態だと思いました。本人の意識レベルでは拘っていない(嘘は軽いのりだった)というかもしれませんが少なくとも、負の連鎖をパターン化しているように、まるで拘っているかのように見えたのです。

嘘をつかないように心がけることと、拘りを無くすこと。当面のアルジュナの課題でした。
真実のインスピレーションにより、自分の愚かさに気付いたとき、そこから問題の無い生き方の選択を決意し行動していくことができます。
たとえ1年間でもこの状態を持続することができれば相当変わるでしょうが、それさえも表面的なことに過ぎません。
実は1年もかからずにまさに今、この瞬間に変わることもできます。
それは決意の大きさによります。
信念をもって、行動するとき、決意の固まった人いうことができますがこれも表面的なことです。

実直に正直に生きるということは、その人の質に含まれるべきものです。
それは表面的なことではないので、その人の全てに染み込んでいます。
そのような人にとって正直に生きることは当たり前のことなので、そうでない人の場合、正直に生きようとしてもそれは欺瞞となってしまいます。

行動の技術(生きるセンス)とは、まさに、第2章詩節45にある、
「ヴェーダは三つのグナよりなるもの(現象界)を対象とする。三つのグナを離れよ。アルジュナ。相対を離れ、常にサットヴァ(純質)に立脚し、獲得と保全に捉われず、真我を保つのだ。」これは即座にどのレベルの苦しみも取り除くことが出来る最高の英知です。
これを説明するにはまず3つのグナから説明する必要があります。グナとはプラクリティ(物質的原理の根本原質)から展開するもので、それはサットヴァ(純質)、ラジャス(激質)、タマス(鈍質)の3つの要素(質)のことです。全ての行為はこのトリグナ(3つのグナ)の相互作用から成り立っています。心臓を動かす本能的な行為でさえ、この3つのグナの相互関係が必要です。
感情や思考、精神のような内的なものも含め、この相対世界にあるものはトリグナの支配下にあります。私たちはこの世に生を受けた瞬間からこの相対世界のトリグナの戯れと共に成長してきたのだし、進化の過程も、その結果もこのトリグナの戯れによるものです。
この究極の原因を越えよ。と、尊主クリシュナはアルジュナに求めています。
アルジュナは、善悪の狭間で身動きが出来ない状態になっています。善と悪に対しとても敏感になっている状態ですので、クリシュナはその相対する2つのものを超えてほしいと思っています。それにはまず、3つのグナを超えて「真我」そのものになりなさいといっています。
現象界を超越した「真我の存在」そのもののレベルは生命の究極の原因、それは英知です。それは魂です。それは真我です。それは全ての原因であり、完全なる至福の意識です。この状態に入らなければ二元性を超え、純粋なる意識で善悪を判断することなどできないということです。その純粋意識の「私」は、第2章詩節7,8でアルジュナが陥っていた状態から脱する答えも同時に与えるものです。「たとえ、地上において比べることのできない繁栄した王国を得ても、また神々さえ支配する力を得たとしても、」そのような偉大の力を伝授してもそれに巻き込まれることがなくなります。アルジュナはこの戦いが終われば、巨大な富や権力を所有する地位につくことになるでしょう。そのような相対世界の中の巨大と思われる力に対しても不動の状態を伝授するに値する崇高な意識レベルにまで引き上げていくことをクリシュナは願っています。
アルジュナの意識がそのような不動の状態にまで引き上げられなければ、所有した富や権力は逆に人を誤りの状態へと引き下げるものになってしまうのです。
「常にサットヴァ(純質)に立脚し、獲得と保全に捉われず、真我を保つのだ。」
とは、万人の心の中のトリグナを越えた真我のレベルにあると尊主クリシュナは言っています。
それは、誰にも等しく与えられている「真我」、本当の「私」のレベルです。そのレベルで生きていくことはとても自然のことなのですが、外側の現象に拘り、あたかも外側の対象に巻き込まれているようにみえるということは、まさに「真我」を生きていないということになります。
現象に拘るということは、行為の結果に切望することです。
その拘り、切望する気持ちはその大小にかかわらず、むなしい結果を引き起こしてしまいます。
統一意識の状態とは、善悪、成功失敗、相対する全てのものを超えているので、行為の結果に束縛されることはありません。ここに行動の技術(センス)があります。
「私」が行動するとき、何か目的があるようにみえます。
それは想定されていますが、それに拘ると、過程にエネルギーを注ぐことができなくなります。結果に拘ると、無知な人間の有限なエネルギーは、常に結果の想定のためだけにエネルギーを使うことになってしまい、過程に没頭することができない状態となります。これでは何を行っても成功することはありません。成功の秘訣は、結果を想定した後、行為に十分なエネルギーを注ぎ、没頭することです。

28日のブログで、「無知とは恐ろしい、何故なら自分が知らずに罪を犯す。」とアルジュナは言っています。
確かに無知は恐ろしいものです。無知である以上、「私」を惑わします。
しかし、無知であったと言う時、無知ではないとも言えます。
謙虚さはその人の質的なものです。それは真実の「私」に含まれる質です。
その質は、無知であったと気付くということにより、そのインスピレーションを感じることにより、人生で多く謙虚さを経験するということにより、善なる結果を残していくということにより、更なるパターンを作っていくというプラスな連鎖を創っていくことになるでしょう。
しかし、謙虚さに拘ってはいけません。
「私」の「真我」は、3つのグナを超えており、相対する全ての対象から超越しているのです。そもそも何にも縛られ定義付けられるものではありません。

ある人が善いことを行ったからといって、5年後または10年後、あらゆる面において善い結果が出るとは限りません。なぜなら、善い結果とはその人の行動の質にあるかもしれませんが、人間が図れるような表面なものではありません。実は露出される行動の結果は本質的には善悪を超えているからです。
これが、ブラフマンの状態、統一の意識の状態です。

この状態は「真我」ですから、嘘にも決意にも拘りませんが、真実を生きることが出来るレベルです。トリグナを超えることが出来れば、その人はこの瞬間に悟りを開くことが出来るのです。

全てを含有した大きな意識状態にならない限り、人は行為の結果に束縛されなくてはならないのです。解放された自由な状態とは、「私」「真我」の状態に他なりません。

アルジュナのブログ
http://ameblo.jp/kurisyunaarujyuna/day-20100328.html