大いなるものにゆだねて~私のアルジュナへ

バガヴァッド・ギーターの中の、クリシュナとアルジュナの対話を現代風に紐解く。悩める全人類に贈る究極のメッセージ。

絶対なる「私」の存在に気付くということ~31日のアルジュナの日記を読んで

2010-03-31 15:48:45 | 日記
無知なレベルでの「私」はまるっきり勘違いされています。快適に生きて生きたいと言葉では言っているのに、本質では不幸になりたいと思っているかのように苦しんでいます。(笑)

しかし、賢者は「私」の「真我」は永遠で、「私」のものなど存在しない。この手も、この足も、この心臓も「私」には属さない。「私」は、あの大いなる絶対的な神(至福)の「存在」と合一されている。というでしょう。

「私」「存在」は、目撃するものです。
「私」は、対象を知っていますし、対象と結び付けているものも知っています。
しかし、「私」は対象に巻き込まれることはありません。

これが真実です。

恐怖、恐れ、不安、は「知らない」状態のようにみえます。
まるで経験される多様な世界は、「知らない」ことを基盤に展開しているようです。
「知らない」という状態が、世界を展開し、経験を可能にしているのです。
そのような人は「私」を知らないのです。

「私」は主体です。「存在」という言葉が用いられています。being。「ある」ということ。
be+ing あり続けています。今も昔も未来も永遠にあり続ける「存在」です。
「ある」は「ない」ではありません。
「ある」は永遠に「あり続けています」。「わたし」は「ある」。「わたし」は不滅です。「わたし」「存在」は永遠にあり続けています。

あなたは「存在」しています。
当然のことのように聞こえるかもしれません。
今日のブログを読む限り、アルジュナは、私は私を知らないといっているようです。
アルジュナは知らないということを知っています。
知っているということを忘れています。
本質的に「私」は、経験するということを超えています。これが答えです。

「私」は、「存在」していますが、経験を「私」だと勘違いしています。
経験は、手と足と心臓と同じ、二次的な世界に属しています。「私」は絶対的な、一なる「存在」です。
この、極微の「存在」に感謝が出来れば、「生かしていただいてありがとうございます」の本当の意味がわかります。
わからないうちは、疑心を消し、純粋に認め、信じることにより、次第に経験により思い出されていきます。これはカルマヨーガのレベルです。

ですから、「私」はまだわかっていない視点で居る疑心ある人にはこう言います。

あなたは全てを持っているのに、どうしてないというのでしょうか?
どうして私に教えて欲しいというのでしょうか?
何が欠けているというのでしょうか?
必要なものは全て在ります。これもそれも全て。
全てが「私」の存在です。
本質的に「私」が経験する全てのものは「私」の表現です。
そこに過程が存在しますし、表現されたものを目撃していますが、「私」はそれらに巻き込まれることはありません。

これが真実の視点です。

この視点は、今のアルジュナの視点とは180度違うのです。
180度ということは、まったく違うレベル(世界)に居るということです。

私は○です。私は円です。
「私」は全てを目撃できますから、360度見渡すことが出来ます。
視点は広さと深さを表現しています。
完全なるものを確認できます。

わからないということは、360度を知らないということです。
なんと不自由な世界を選択しているのでしょうか。(笑)

私は何かと何かの間にあるギャップに存在しています。
何物でもありません。
私は「存在」です。
あなたも「存在」そのものです。
ですから本質的に私たちに境界はありません。

第二章詩節45は、すでにあなたの内にあります。それは感じるものでも理解するものでもありません。
それは、感じるということや理解するということを超えているのです。

知るということが超越されたとき、それを生きることが出来ます!
最後に「知る」を超えるということを覚えておいてください。
クリシュナは、「全ては知識において完結する」といっています。
この、知さえ超えたとき、悟りを開くことが出来ます。
180度視点が変わるということです。

しかし、「私」は経験し表現を続けます。
そのとき「私」の経験、表現は全て神への捧げものとなっています。
ですからその時、あなたは今のあなたの視点(自分に対する視点さえ)を失っています。
全てが180度違う視点から表現されているのを目撃するのです。
その確認が出来るまで「知」と「経験」を繰り返します。
ですからクリシュナは、「遠からず」といって多少時間がかかるといっているのです。

目撃するものは、表現されたものを目撃しています。
目撃するものとされるものの間にあるそれらをつなぐ過程。
目撃するために表現されるものが存在しているのに、私を表現されたものと同一している、ここに無知があります。

180度視点を変えたいのであれば、まず、知る必要があります。
理解できないというのであれば、少なくとも疑心を払い、認めるべきです。

アルジュナのブログ
http://ameblo.jp/kurisyunaarujyuna/day-20100331.html