大いなるものにゆだねて~私のアルジュナへ

バガヴァッド・ギーターの中の、クリシュナとアルジュナの対話を現代風に紐解く。悩める全人類に贈る究極のメッセージ。

24日のアルジュナの日記を読んで~被害者意識(依存)と加害者意識

2010-03-25 11:27:09 | 日記
私は確かにアルジュナに対し、被害者になってはいけない、加害者でなければならないと言ってしまいました。言ってしまいましたというとき、「あなたは被害者でなければならない」というメッセージを含んでいます。
しかし、真実の答えは被害者でもいいし加害者でもいい。
但し、加害者は被害者の心情を理解しているといえるでしょう。
被害者は加害者の状態がわかりません。
クリシュナの名を借りている「私」は、アルジュナを理解しその心を抱きしめ知識を授けたいと願っている加害者意識ですから、クリシュナはアルジュナに対し「私」が授ける知識を十分に流し込んでいけるような依存の状態へと至らせなければなりません。そうして意識の状態を少しずつ変化させ、「私」の状態へと引き上げなければなりません。依存はこの高度な知識を授かる上で必要なものなのです。

アルジュナのブログ
http://ameblo.jp/kurisyunaarujyuna/day-20100324.html

人は知らないということに恥ずかしさを感じたり、進化したい、知りたいという欲があると思います。
もし、自分に被害者意識的な部分があったとしたら、その人の価値は依存対象に委ねられています。
極端に言えば、自分の中に価値を認められない人ということになってしまいますが、雑多な物事にもまれているうちはいつまで経っても自分の内に全ての価値を認められないままでしょう。
真実の「私」は、生かされているという観点からは大いなるものに対し依存状態にありますが、生きていると思っている以上加害者のようです。大いなる神に生かされているという観点では、「私」は完全に依存している状態です。
この崇高な依存は、真実の「私」の価値です。この依存の状態は、外側のあらゆるものをも越えた「神」の価値へと広がっていきます。

もし、バガヴァッド・ギーターのアルジュナのようにダルマの道から逸脱しそうになったり、ここでのアルジュナのように人間関係や金銭的なことで身動きができない状態になったり、また途中で人生をやめてしまいたいという自分の価値を認められない逃げの状態などをながく続けていると、いつまで経っても「私」の価値を知ることはできないでしょう。
外側の現象に自分の価値を認めようとする意識でいるならば、「私」は狭い意識どころか、「神」の光への道とは正反対の道に光を求めている愚かな行動の結果を受け取らなければならなくなるでしょう。
世の中の心の病気といわれるうつ病や逃げの究極である自殺の原因は、自分の価値を外側に求め、外側の対象に自分を認め依存してしまい、どこにも自分の居場所をみつけられず、どこにも幸福を認められない状態になってしまうからです。
幸福は外側にはありません。幸福は内側にあります。
どのようにさまよい歩いても、外側に幸福のみつけられる場所はありません。
逆に内側に幸せを見出している賢者は、外側全てに幸福を見出します。外側の全てに「私」の幸せが満ち溢れています。至福とは内側も外側も全てに「神」の光があまねく照らされている状態です。
実は忘れているだけで、至福はすでに満ち溢れています。無知の暗闇がそれを覆い隠しているようです。
バガヴァッド・ギーターの中でクリシュナは、それはマーヤー(幻力)であるといっています。

第3章では、
「真我(私)は、火が煙に覆われ、鏡が汚れに覆われ、胎児が羊膜に覆われるように、この世はそれに覆われている。」
また、このようなことをいっています。
「それ故アルジュナよ、あなたはまず感官を制御し、理論知と実践知を滅ぼすこの邪悪なもの(無知・欲望)を捨てよ。」
「諸感官は強力であるといわれる。思考器官(マナス)は諸感官より高く、思惟機能(ブッディ)は思考器官より高い。しかし、思惟機能の上にあるもの、それが彼(真我)である。」
「このように、思惟機能よりも高いものを知り、自らアートマン(私)を確固たるものにして、勇士よ、欲望という倒しがたい敵を殺せ。」
また、第4章では、
「信頼を抱き、それに専念し、感官を制御する者は知識を得る。知識を得て、速やかに最高の平安に達する。」
「しかし、知識なく、信頼せず、疑心ある者は滅びる。疑心ある人にはこの世界も、ほかの世界も、またいかなる幸福もない。」
ここで洞察できることは、知識の欠如は信頼の欠如の元であるといっています。信頼の欠如は疑心ある人となります。全ての失敗の根源は、知識の欠如、無知の状態にほかなりません。無知は生命における全ての弱さや苦しみの原因です。
クリシュナは第4章の最後で、
「それ故、知識の剣により、無知から生じた、あなたの心の中にある疑惑を断ち、カルマヨーガ(行動の哲学)を拠りどころとせよ。立ち上がれ、アルジュナ。」
といっています。
人は、知識により生命の本質を知らない限り、無知な状態にとどまります。そしてもがき苦しんだとき、「神」を求めます。苦しみは無知から生じるのですから、知識の光を差しこみ、信頼を持って、「私」の「真我、実存(アートマン)」を認めなければ、無知は破壊されません。幸福とはなれないのです。
いつまでも苦しんでいる人を見ると、まるでアートマン「神」と対立しているかのように見えるのですが、真実は、「真我、実存(アートマン)」は、これまで「私」の中でいつも共に生きてきましたし、切り離すことはできないものだと悟ります。「私」の内に「神」が在ります。それは疑いを持たず、認めるだけでよいのです。難しく考えず、純粋に認めれば誰でも崇高な知識のインスピレーションを得ることがきるのです。
「私」という「実存」を思い出してしまえばこの光の道を生きることは幸福の連続であり、死というゴールに向かいエキサイティングな旅をいかに楽しめるかの有限なるもっとも大切な神に捧げる崇高なる行為(カルマヨーガ)の道となります。
生きるという選択を自ら求めて生れてきたはずなのに、まるでそれを忘れているかのようです。

ですから、「私」という「神」を認めれば、そこからその人に必要なだけの時間で思い出すことができます。

この道を生きることは簡単です。

まず、信頼し(依存)、無知であったことを認め(もう少し依存)、知識の剣で断ち切って、自分の行為を神の行為とし、真我、実存、アートマンを実現しなければならないのです。ここに最高の幸福があります。

実は、バガヴァッド・ギーターは、ここから放棄の哲学の深みに入っていきます。

神との合一は放棄の哲学なのです。

あなたが光だけになるとき、自分の全てを放棄できるほど我を失う時、神と一つとなる時の快感は、生命の究極のゴールなのです。